「優生学」とヒトゲノム解析

「優生学」とヒトゲノム解析

山本 達

(福井医科大学)

はじめに

ヒトゲノム解析は、その臨床応用として、遺伝子診断・遺伝子治療の実用化 をもたらした。このことは、益々豊富となる遺伝的知識に基づいて、人間が自 らの手でヒトの誕生・成長を合理的に操作できる力を獲得したことを意味する。 人類の将来を展望して、過去の優生主義の再来を危ぶむ声が聞かれるが、ヒト 出生に関るこうした技術的可能性から直ちに優生主義の招来を予測することは、 確かに早計である。人類遺伝学や生殖医学上の科学的・技術的な革新・進展が 必然的に、優生主義的な人種差別政策に結び付く訳ではない。しかし、ヒトゲ ノム解析と生殖医学との様々に考えられる結合が、広い意味でやはり、「優生 学」を準備しているように思われる。この「優生学」は、国家的或は人種的レ ベルでの優生学ではない。いわば個人レベルの「優生学」とでも言えそうであ る。

1.優生学の誕生と展開について

望まない出産を回避して、より望ましい子供を産みたいという人間の根源的 願望に適合した、広い意味での優生思想は、有史以来存在していたであろう。 しかし特記されるべきは、ダーウィン進化論に促された優生主義の誕生である。 19世紀後半にeugenics( 優生学) の語を導入したF.ゴールトン以来、優生主義 は、それまでの単なるユートピア的構想から離別し、新しい方向へと歩み始め る。優生学の名の下で、ヒト生殖の営みを合理的にコントロールする方法の体 系的研究としての「科学」の構築が始まる。アメリカの科学史家D.J.ケヴルズ の『優生学の名のもとに』を通覧すると、19世紀後半から現在へと至る優生学 の歴史が実に丹念に記されていることに驚かされる。以下、この著書(1)を参 考に、優生学の誕生と1930年代に向けての優生主義運動の展開の概略を見るこ とから始めたい。

優生学の創始者ゴールトン、かれの最大の後継者K.ピアソン、そしてアメリ カでは、C.B.ダヴェンポートらが、優生学の草分け的存在である。かれらの手 で初めて、人類の進化と遺伝に関する<一般に科学的権威があると思われた>理 論やデータが提供された。ダーウィンの理論を利用することで人類の進化を操 作して一層進んだ生物学的存在としての人間を創り上げることに優生学の課題 を見るゴールトンは、生物学的研究に最初に統計学の手法を導入した。これに よって<祖先の影響は次の世代の性質を祖先集団全体の平均値に近付けるよう に働く>という、後にピアソンによって「祖先遺伝の法則」と命名された遺伝 法則を発見し、遺伝とは、一定特徴の世代間の数量的関連性として特徴づけら れる。統計学と遺伝学との結合を一段と進めたのがピアソンである。生物統計 学の名のもとで収集されたデータには、種々の「遺伝」を示す様々の家系図が あり、種々の疾患や精神薄弱などの「遺伝」を表わす数多くの資料が含まれて いる。アメリカでは、生物測定学と遺伝学に取り組んだダヴェンポートが、メ ンデル遺伝学に基づく動物遺伝の研究を手始めに人類遺伝学の研究に挑戦し、 ヒト形質の遺伝データの獲得のために数多くの家系図を作成した。かれの関心 は、先の両人のように単に、直接に観察可能なヒト形質( 後の遺伝学者が「表 現型」と呼ぶもの) ではなくて、直接観察できない「遺伝子型」にも向けられ た。家系図の分析に基づいて、短指症や多指症などの先天的異常、血友病やハ ンチントン舞踏症といった先天的疾患の原因は、メンデルの言う単一エレメン トにあると主張されるに至った。

草創期の優生学者たちには、優生学を新しい科学として樹立しようとの意図 が強く働いている。しかし、19世紀後半から20世紀にかけて発展する優生主義 の運動が、1つの大きな歴史的潮流となりえたのは、それだけの理由によるの ではない。その主要因を、例えばK.バイエルツは、< 世紀末> の時代状況に見 る(2) 。簡潔に言えば< 退落> である。19世紀の進歩主義の対局をなす< 退落 > は、特に< 文明人を脅かす肉体の退落> を意味する。その< 退落> の実際の 原因は、急激な工業化がもたらした諸々の社会的要因(都市への人口集中、産 業労働者の貧困、非人間的労働条件など)に求められるはずだが、優生学は、 この<退落>の現象を純粋な生物学的な退行現象として解釈する。先の優生学 者たちにも既に、科学的根拠のない種々の先入観と混じりあった優生学的発言 が顕著である。そうした先入観が、かれらの優生学的研究を導く強力な動機付 けとなったのである。

ケヴルズによれば(1)、かれらには第1に、肉体的特徴のみならず諸々の才能 や性格も遺伝によって支配されるということに少しの疑念も払われていない。 ゴールトンは単純にも、才能の尺度を<知識階級の社会的名声>に求め、これに 則って才能遺伝に関する統計学的な仮説を立てた。第2に、知能の遺伝に関す る階級的偏見である。ピアソンによれば、自然選択への適応者とは、肉体的・ 精神的に優れた能力をもつ人間のことであり、不適応者とは、習慣的犯罪者、 職業的売春婦、結核患者、精神病者、精神薄弱者、アルコール中毒者、先天性 の障害者、不節制による病人等に外ならない。こうした不適応者による出産の 比率の異常な高まりを、イギリスの国民的衰退状況の表れだ、と警告する。第 3 は人種的偏見で、アメリカのダヴェンポートに色濃く反映される。精神異常、 てんかん、アルコール中毒、極度の貧窮、犯罪的性向、精神薄弱などに遺伝的 傾向があるのみならず、黒人及び外国からの様々の人種の移民の性格的特徴を も遺伝が支配する。どの人種に属するかによって人の行動様式が決まる。かれ は、優れた資質をもつ人間は中産階級に属するとう見解に与すると共に、プロ テスタント白人層を高く評価する人種差別に基づいて、遺伝的に劣等と見られ る個人や家族の入国を拒否する選択的移民政策や、断種法に賛成する。

20世紀に入りイギリス優生教育協会(1907)、アメリカ優生協会(1923)が設立 され、優生思想の各種啓蒙運動が展開されるが、ケヴルズによると(1)、こう した過程で人種差別の台頭と優生立法の制定・実施とが特筆されるべきことだ、 とされる。

人種差別は、イギリスにもなくはない。ロンドン最下層地区に住む子沢山な 住民は、圧倒的にカトリック系のアイルランド人とユダヤ人で占められ、こう した移民の出生率に比べてイギリス国民の出生率が低いことに優生主義者は強 い関心を払った。アメリカでは早くから、遺伝的理由で黒人が白人より生物学 的に劣っていると主張された。10-20 年代にかけて、知能を数量的に把握する 各種検査方法(IQテスト)が開発されると、テスト結果は、知能の遺伝性への 先入観と結び付いた人種的偏見の波及に大きな影響力を発揮した。陸軍での知 能検査は、黒人が「精神薄弱者」の中で飛びぬけた割合を占めるとの結果を出 す(アメリカの心理学者ブリガムの報告、23 年)。イギリスの心理学者C.バー トも知能テスト(9-11年)の結果、個人に関する限り、知的能力が明らかに遺 伝すると結論づける。イギリスの優生学者の殆どは人種と知能との関係には触 れないが、大戦後のIQテストの普及は、国民の知能低下に対する懸念・恐怖を 増長させる。子沢山の下層階級即ちIQの低い人々、こうした人々が国家衰退と しての国民の知能低下の源泉とされたのである。

優生立法に関してはアメリカで、14年までに精神障害者の結婚を法律的に何 らかの形で制限する州が約30州で、断種法は7年のインディアナ州に始まり、 17年までにこれに追随した州は15州以に上る。多くの場合、施設収容のてんか ん患者、狂人、白痴が対象とされたが、アイオワ州では薬物中毒者や性犯罪者 も含まれた。アメリカでは優生政策と優生研究とは密接に結合した。これに対 しイギリスでは、優生学の科学的研究と優生主義の政治活動とを切り離す傾向 がある。イギリスでも精神障害者対策が優生主義者の最大の関心であったが、 精神障害者対策法(13年)は、精神障害者の障害度や看護の必要度の検査を義務 づけただけで、精神障害者の断種を立法化するには至らなかった。他方、断種 法が合憲とされたアメリカ全土では、41年までに断種手術を受けた人々が約3 万6000人に及ぶ、と言う。

ナチス政権におけるドイツ優生立法については、多くを語るまでもあるまい。 その優生断種法(33年)は、アメリカより遥かに徹底したものである。施設収容 のものか否かに関係なく、遺伝的障害をもつと思われる(精神薄弱者、精神分 裂病患者、てんかん患者、盲人、薬物やアルコール強度依存者、身体障害者な どの)すべての国民が対象とされ、3年間で、約22万5000人が断種された。やが てヒトラーが反ユダヤ主義を鮮明化するとともに、ナチスの人種主義と優生政 策とは一体化する(35年、ニュールンベルク法)。施設収容の特定層の精神病者 や精神障害者の安楽死が開始される。この特定層として選ばれたのがユダヤ人 で、ついには精神状態とは無関係に安楽死の対象とされたのである。

このように素描される19世紀後半から20世紀の30年代にかけての優生主義の 歴史的展開を、1つの科学的・社会的・政治的運動として理解して、その優生 主義運動の諸契機を次のように特徴づけることができる(2)。①優生主義の戦 略。世紀末退落の現象が、人類の生物学的退行過程と見なされる。自然選択に 代わる人為選択の方法が、人類(人種)の血統の改良のために応用される。遺 伝的に劣弱な個体の生殖の排除をねらう消極的優生学と、有益な子孫を積極的 に増やすことをめざす積極的優生学との2つの方法が採られる。優生主義的政 策としては、結婚の制限や断種、さらには安楽死である。その対象とされたの が、社会的不適応者としての遺伝的障害者、精神障害者、薬物中毒者、性犯罪 者などで、ナチ・ドイツではユダヤ人である。②優生主義における合理主義の 精神。優生学者は、ヒトの遺伝と進化についての新しい科学の開拓に挑む。そ の研究は、基本的にダーウィン進化理論の科学的権威に依拠する。そのかぎり で優生主義は、西欧合理主義の1つの特殊的な現れだという見方もある。ヒト 生殖活動は性行動から切り放されて合理化されねばならない。子を産むいとな みは、偶然に委ねられずに科学的原理に従ってコントロールされねばならない。 ③優生主義は伝統的な道徳の改変を帰結させる。ヒト生殖の合理化への要求が 優生主義的戦略に取り込まれるならば、その優生思想は伝統的な倫理原則に基 本的に対立する。例えば、<人間には平等の権利が付与されるべきだ>という権 利平等の原則を、優生主義は認めない。ヒトの生物学的不平等は人間の価値の 不平等である。伝統的道徳にとって<子を生む自由>は、個人の権利の1つに属 する。しかしこの権利は、遺伝的に劣弱な個体の排除という優生主義的目標か らすれば、その障害以外のなにものでもない。ナチの人種主義的政策に極まっ た優生主義の運動は、以上の3 つの契機が1つに統合した運動である。

2.新しい優生学の系譜

近い将来におけるヒトゲノム解析の推進と国家的規模での優生主義的政策と の結託を問うことは、確かに現実性に乏しい。しかし、ヒトゲノム解析は従来 の優生学以上に科学的合理性に支えられている。ヒトゲノム解析は優れて科学 的な遺伝子工学的方法でヒト遺伝子DNAの遺伝情報を分子レベルで、個人の遺 伝的特徴を示す情報もあわせて解明しつつある。ヒトゲノム解析の結果から予 測される、ヒト生殖の合理的コントロールの技術的可能性は、質・量共に伝統 的優生学の比ではない。だとすれば、過去の優生主義に必然的に連動した道徳 の改変という問題は、ヒトゲノム解析の場合、どうなるのであろうか。これに よって一層強化されるヒト生殖の合理化への動きは、新たな道徳の樹立を伴う のであろうか。

翻って今一度優生主義運動を顧みる。過去の優生主義運動一般が階級的・人 種的差別の眼鏡越しでしか見られないとすれば、その見方は狭い。ケヴルズの 記述では、優生主義内部における保守派と急進派・改革派との対立軸が重視さ れる。階級差別・人種差別の合理化の方向を堅持する保守派に対立する改革派 の流れを知ることができる(1)。

早い時期から、保守派とは異なる立場で優生主義を唱道するH.エリスやバー ナード・ショーらに代表される社会的急進派がある。この派の基本的考えは、 環境の改善の重要性を認める点にある。階級差別の緩和・廃止が優生運動の条 件とされる。又、優生問題が優れて女性問題である、と主張される。優生学的 理由から、女性は自分自身の肉体と生活とを自分で決定できることが大切だ。 自立のために職業をもつ必要があり、そうすれば優生学的に望ましくない結婚 をしないで済む。優生計画への国家の強制介入は反対される。このリベラリズ ム的傾向は、第1次大戦を経て大恐慌の時代に至ると弱体化し、国家介入の方 向が優生運動の大勢となる。しかしナチスの人種的優生主義的政策の実施が、 かえって主流派優生主義への批判を強化する。人種による能力の差異を示すい かなる科学的根拠もないと。断種問題についても、イギリスでは自発的な断種 でさえ、その法制化をめざす動きが39年までに完全に途絶えるし、アメリカで もカトリック教会中心の、断種法の成立・実施を阻止する運動が始まる。そう した中で、新しい優生学が登場する。ショ-やエリスの流れを汲む改革派の優 生学者J.ハクスリ-たちが挙げられる。遺伝学の科学的知識の活用で人間の改 善が図れるとの確信は失われない。人間の形成にとって環境に劣らず遺伝が重 要で、知能の生物学的不同性はIQテストの明示するところだ、とハクスリーは 言う。しかし人種・階級の違いによる先天的能力の差異を認める偏見は、放棄 されねばならない。考慮されるべきは、どこまでも個人の生物学的資質なのだ。 ハクスリーには優生運動を社会主義に基づく社会再建と同一視する傾向がみら れるが、アメリカのF.オズボーンは、より緩やかな改革派の信念を表している。 「・・・人間の個性を尊重する優生学は、アメリカ人が理想とする人間像を創 造するものである。民主主義社会における優生学は人間を単一の型に改造する ものではなく、貧しい健康状態、低い知能、反社会的性格を改善して個人の平 均的水準を高め、個人の活動をそれぞれ最高度に発揮させることを目的とする ものである(『優生学の序章』1940)」と。

改革派の優生主義者のめざすところも確かに、人の社会的生物学的素質の向 上にある。しかしその優生学的目的は、人種的・階級的差別を拒否して国家政 策的介入を極力排除して、個人の自発性を尊重する仕方で達成されなければな らないのである。優生主義運動には、このように主流派とは別の改革派の流れ がある。このことに留意されてよい。というのは、現在、ヒトゲノム解析の臨 床応用に関連して、いろいろの意味合いでの優生学関連の発言が聞かれるが、 そうした議論のうち、こうした改革派優生主義の系譜に由来すると思われる主 張が見られるからである。

3.遺伝子治療と「優生学」

今日大方は、生殖細胞系の遺伝子治療に対して批判的である。<ヒト生殖細 胞系の遺伝子治療は、疾病・障害の防止や除去に止まらずに、能力の増進を目 指す積極的優生学への道を拓き、これは、クローニングやキメラと同じように 人格の尊厳にもとることである>(3)と。他方でしかし、遺伝子治療を「優生学」 と特徴づけ、しかも生殖細胞系の遺伝子治療をも含めて、これを肯定的に評価 する見解がある(4)(5)。検討すべきはこの立場である。J.ハリスによれば(4)、 <優良な子孫を産み出すことにかかわる科学>としての優生学は、伝統的な優生 学に通じる<人類の血統を改良すること>から区別される。総じて遺伝子治療は、 前者の優生学に属する限り、そこに倫理問題は存しない。単に体細胞系に関る か、生殖細胞系にまで及ぶのかの区別は本質的ではなく、個人の生命と健康を 守る遺伝子治療であれば、生殖細胞系に及んでも許容されるという考え方であ る。こうした楽観主義の標榜にあたってハリスの言及する「優生学」は、明ら かに改革派の系譜に連なる。同じ視点から、しかも更に進んで「優生学」を積 極的に評価する論理を、例えばアメリカのD.レスニックが展開する(5)。「優 生学」の名の下で遺伝子治療正当化の大胆な試論が、展開される。かっての優 生主義が個人の自由・権利の平等を主軸とする倫理原則への挑戦であったとす れば、ここではこの原則に基礎をおくような「優生学」が唱えられる。

レスニックが議論の標的とするのは、「滑りやすい坂(slippery-slope)」論 である。この場合、この論を簡略に言えば、ヒト生殖細胞系遺伝子治療(以下、 HGLGTと略称)は、最初、遺伝性疾患の根絶の試み(消極的優生学、以下NEと略 称)として始まるが、結局は、種々の目的のためのヒト遺伝素質の改造(積極的 優生学、PEと略称)へ導くが、PEは、ナチの優生主義的政策を想起させるから、 HGLGTは容認できない、となろう。この論は、NEとしてのHGLGTからPEとしての それへの進展を必然のプロセスだと見る。この点に同意した上で、かれの反論 は、「滑りやすい坂」論の根本前提である<peが、それ自体として不正・不道 徳的である=””>の1点に絞られる。即ち、PEといえども必ずしも倫理的に正当化 できないわけでない、と。どうしてか。PEを含むHGLGTが倫理的に許容できる 条件とは、なにか。

その条件は次の2つに帰着する。①HGLGTは親の自律に基づいて行使されるこ と。その限り親によるHGLGTの行使は、子に対する親の恩恵の権利として正当 化できる。②その権利行使が、社会正義の原則に一致すること。因みに、その 原則はロールズ流に考えられている。ア.基本的権利・自由の平等の原理。遺 伝的に能力増進された人にも、他の人々と等しい道徳的・政治的権利・自由が 与えられること。イ.経済的・社会的財に与る機会均等の原理。あらゆる人が、 自分の子に遺伝的利益を与える均等の機会をもつこと。ウ.経済的・社会的財 の配分の原理、差異の原理。遺伝的に能力増進された個人が、その増進した能 力によって社会のすべての構成員に利益を与えると十分に見込まれること。以 上の条件が満たされるならば、HGLGTの行使が斥けられなければならない理由 は少しもない。かれは、社会正義の原理に合致したHGLGTのシナリオを提示で きる、と考える。これに対する親の権利は、その行使が社会正義の諸原理に抵 触する十分の理由がある場合に限ってのみ制限される、と。

このようにHGLGT正当化の条件であるとされる①も②も、単にHGLGTを過去の 優生主義から区別する根拠として主張されているだけのことであれば、これに 異論を差し挟む理由はないであろう。しかし、このようにしてHGLGT許容のシ ナリオが描かれ、新しい「優生学」が過去の優生主義から峻別されることによっ て、その「優生学」の問題が新たに浮かび上がってくる。列挙して見ると、a. 社会正義の原則で権利主体とされるものに関する問題である。ア.やウ.で権利 の主体とされるのは、遺伝子治療の結果首尾よく誕生・成長した人であって、 その直接の対象である生殖細胞や受精卵や胚の存在自身ではない。それらは、 始めから社会正義の問題の埓外におかれる。更に、HGLGTの機会均等の権利も 子ではなくて親に帰属する。その「優生学」の基本的特徴だと言ってよい。b. 親の自律に基づくHGLGTの行使は、親の「恩恵(benefit) 」に属するとして原 則的に容認されるが、果たしてそうか、という問題もあろう。HGLGTによって 子の遺伝的増進を図ることが、親の恩恵による子の利益であることは、子の健 康、福祉、教育、財産などが一般にそうなのと変わりがない、とされる。その 議論にいかがわしさはないか。一般に親が子に恩恵を与えるというのは、親に よる子の存在承認(6)が予め成立していて、可能である。誕生した子が自分の 子であることを認めた親が、その限りにおいて、その子に対し種々の恩恵を与 える権利(義務)をもつ。しかし、HGLGTによって可能的子に付与されるもの まで「恩恵」と呼ぶとしたら、その「恩恵」の意味は通常とは異なる。HGLGT の場合には親は、生殖細胞や受精卵・胚にHGLGTを行使することを、そのこと から自分の子が誕生するための前提条件と見なしているからである。即ち、通 常の恩恵の行為とHGLGTの行使とでは、存在承認と恩恵との依存関係が逆転す る。その意味で、HGLGTを恩恵の原理で基礎付ける議論は、不当だといえる。

新しい「優生学」は、確かに過去の優生主義との本質的相違を示す。そのキ-ポイントは親の自律である。親の自律的決定に基礎をもつ限り、それは過去の優生学の再来を意味しない。しかし、HGLGT正当化の議論に見られるように、新しい「優生学」にも倫理的疑念がないわけではない。社会正義の原則がもちだされるにせよ、その原則は将来の子の生命にまでは及ばない。将来の子の生存自体を、その予見される遺伝的性質のいかんによって決定することは、親の権利の正当な行使として容認される。このような「優生学」と親の自律の結び付きに新しい倫理的危惧がないのか。

 4.遺伝相談、出生前診断の倫理問題

私たちの子孫の生存や生命の質が、現在、私たちのもつ判断・価値基準に依 存して決定されるという原理的な問題は、今日既に出生前の遺伝診断の場面で 露呈している。これまで染色体の分析に限られていた出世前診断は、ヒトゲノ ム解析によって質・量的に拡大するであろう。胚の早い時期からの変異が一層 精確に診断できるようになる。胚や胎児の様々の遺伝的障害が遺伝子レベルで 的確に発見されるとなると、胚や胎児の選択の問題が一段と現実味を帯びる。 出生前の診断方法の飛躍的向上は、医療の進歩を約束するだけではない。人の 出生に関わる私たち自身の決断に一層の重荷を背負わすことになろう。

ドイツの人類遺伝学者シュレーダー・クルトゥは、「出生前診断の可能性が 拡大すればする程、科学者、相談医と妊婦との間の隔離が一層広がり深まる。 合理性と関係者全ての生命との裂け目が一層広がる」として、妊婦が決断の結 果を生涯引き受けざるを得ないものの、遺伝学者として「妊婦と子どもとに眼 差しを向けながら」今日の診断技法にどのように関わるかを、自問しなければ ならない(7)と言う。この表明は、遺伝診断の普及に関して80年代から既に 「優生学」との関連で議論がなされてきたドイツの事情を物語っている。遺伝 相談と遺伝診断とに社会的強制力が伴うと、「遺伝子プ-ルの改良」(8) とか 「遺伝因子の在庫の改良」(9) と言った優生学に導かれはしないか、という問 題である。

出生前診断について、その診断目標は何か、ヒト遺伝子プールの改良とどう 違うのか。その目標が疾病の同定にあるとしたら、どのような遺伝的変異が疾 病に値するのか。どのような<望まれない>遺伝的素質・疾患について、その ための人工妊娠中絶が許されるのか。フェニルケトン尿症のような遺伝的代謝 疾患が診断されたとしたら、そうした子の出生について誰がどのように決定す べきなのか。しかし、そもそも出生前診断に倫理問題が伴わざるを得ないのは、 それに遺伝子診断が結びつくと、それによって伝統的医療行為からの離反と疾 病概念の拡大・変容が避けられなくなるからである。この診断では、もはや< すでに誕生している人の健康リスク>ではなくて<これから生まれる生命の望ま しい質>に関心が向けられ、又「医療行為」は<疾病の治療>ではなくて<潜在的 疾病の担い手の排除>をめざす(10)ことになるからである。疾病は個々の患者 について治療されねばならない心身の病であるというよりも、将来は、<可能 的な遺伝的正常性からの逸脱>を意味することになろう。それと共に、疾病概 念が拡大され、疾病の境界が曖昧となり、疾病値を欠く性質であっても、社会 的・個人的に受容できない性質であれば疾病概念に組み入れられる、そうした 危険がないとは言えない(11)。

スイスの道徳神学者H.ルーによれば、<ドイツ連邦議会の遺伝子工学に関す るアンケート委員会>の見解(87年)の引用の上、出生前診断と「優生学」との 関係の危険性が、次のように示される(12)。顕著な疾病値がなくとも、望まし くない遺伝的諸性質が初期段階で現代医療の力で知られるようになり、その知 識が妊娠12週以前に、<社会的>事由の隠れ蓑のもとで堕胎のために利用される ととしたら、そのとき「優生学」が始まる。かれにしても、出生前診断と遺伝 相談が、個人及び家族における重篤な病苦の回避を狙ったものである限り、こ れに異議を挟むべき理由はない。しかし潜在的「優生学」の虞の実例として、 兎唇のような先天性顔面変形の発見・診断がある。もしこの種の遺伝情報を親 に知らせることを控えるならば、そのような方策は、診断で得られた全データ を知る親の権利に抵触しないかのジレンマを生む。診断が自発性に基づいて行 われるにしても、一定の診断基準が貫かれると、一定の遺伝的性質を回避する 方向へ大半の住民の意識が暗暗裏にコントロールされ、たとえ直接の国家的介 入がなくても、優生学的効果が結果的に生まれないか。

確かに、出生前診断で遺伝的リスクを予防できるという診断法の可能性と、 そうしたリスクを予防しなければならないという社会的強制とは本質的に区別 される。しかしその差は現実的には紙一重であろう。そうした懸念を整理する ためのキ-ワ-ドは、ここでもさしあたっては、親の自律、自己決定の権利で ある。遺伝相談は、クライアントの自発的な要求に基づいて行なわれ、妊娠の 決定はクライアントの自己決定に任されるべきだ。胎児の出生前診断の利用や 選択的妊娠中絶もクライアントの意志を無視して強制されてはならない。この 原則が守られる限り、過去の優生主義の再興を心配する要はない。しかしその ことによって、①胎児の出生前診断の利用は親の子に対する根本的態度の変容 を招かないか。即ち、健康な子に限って<その子の存在を肯定する>(9)。<遺伝 性疾患をもつ子の誕生は優生学的予防の失敗と見なされる>(8)。②そのことは 同時に、現に今生きる多くの遺伝的障害者に対する社会の態度の変容とならな いか、の懸念はなくなりはしない。

こうした「優生学」への危惧に鋭敏な反応を示すドイツの状況にありながら も注目すべきは、リベラルな立場からバイオエシックスの諸問題に果敢に取り 組んでいる哲学者D.ビルンバッハーの遺伝子診断に対する積極的容認の発言で ある。かれによれば(13)、出生前でのヒトゲノム解析の応用に2つの方法が考 えられる。1つは出生前診断の方法で、一定の遺伝的欠陥が見つかった場合、 選択的人工妊娠中絶が選択肢の1つであり得る。今1つとしては、体外受精中の 初期胚に遺伝子診断がなされ、その後で、問題のない初期胚が母胎に移植され るという新技法である。かれはこの新技法を、安全性の問題さえクリア-され れば、生れる子に対するリスクが軽くて済むから他の方法より優れていると見 る。その理由の1つは、これによって中絶の選択肢が回避され得るからである。 それでは新技法で起こるであろう、不適切・不要とされる胚の破棄の問題はど うなるのか。これについてビルンバッハ-は、全能細胞としてのヒト胚の擁護 義務は、胚が潜在的に人格であるからといって人格の道徳的地位を持つわけで ないから、絶対的義務ではなく、他の義務と比較考量されなくてはならない、 と考え、結論として、胚の擁護よりも、将来の現実の子の幸せ・健康が一層重 きをなすから、そのために結果的に胚が犠牲になっても仕方がない、とされる。 ここには、ヒト胚の擁護義務の絶対性を認めないで、他の価値(例えば、将来 の子の健康)との比較考量を重視する「功利主義的」見方の特徴がよく表われ ている。してみると、この立場では、新技法が中絶回避という利点をもつから といって、従来の出生前診断に続く中絶の選択肢が否定されている訳でもない ことは、明らかである。胚の破棄が将来の子の健康・福祉のために許容される とすれば、胎児の遺伝子診断によって確定される遺伝的リスクは、中絶の十分 の根拠たり得る、という論法である。そうした理由による選択的人工妊娠中絶 の許容に問題がないばかりでない。そうした中絶の選択は、両親の道徳的責務 ではないか、とさえ言われる。もっともリベラリストのかれからすれば、この 場合、道徳的と法的責務とは明確に区別される。両親にこうした道徳的責務が 課せられるからといって、そのことに法的強制力を与えてよい、ということに はならない。生殖の自由は優れて私的領分に属することとして、個人の尊厳に 基づいて守られなくてはならないからである。

かれも、出生前診断の2面性に留意する(14)。ヒトゲノム解析は、胎児初期 段階での遺伝子診断の開発によって、診断範囲を拡大し診断技術の精度を向上 させる。このことは一面で明らかに、妊娠と出産に当たって親が従来まで運命 として受容する他なかった疾患・障害の過程を意識的にコントロ-ルできる選 択の幅を親に与える。他面でしかし、出生前診断が胎児の治療不可能な疾病の 発見と結び付くと、選択的妊娠中絶の利用が強化されないか。そのことは、現 に生存する障害者の差別化を招かないかの懸念もある。しかし、胚・胎児の道 徳的地位がそれ自体として論議される余地はない。胚・胎児の生命の擁護を、 親の意志に逆らってまで貫くべき根拠はないとされるからである。障害者の社 会的差別の問題も看過されてはいないが、重く受け止められてもいない。出生 前診断と選択的妊娠中絶の利用によって社会が実際に障害者を差別するのでは なくて、この方法で胎児が選択されることによって、障害者が社会的に差別さ れていると感じることに問題がある、と。出生前診断の2面性の問題は基本的 に、前者のもたらす積極的チャンスが後者の懸念されるリスクを上回ると見る 功利主義的見方から、その決着が図られる。

このような功利主義的見方の底には、リベラリズムがあることは言うまでも ない。妊娠・出産に関する女性の自己決定権の尊重と遺伝子診断・出生前診断 に対するクライアントのアクセス権の原則的承認が前提とされる。従ってこの アクセス権を原則的に制限するために出生前診断の適応事由(indication)を設 けるようなことは認められない。それは、妊娠中絶の許容の問題と不可分であ る。妊娠中絶の原則自由化を主張するリベラリストの立場からすれば、出生前 診断の利用にあたっても、その実施を限定するために適応事由を設けることに 根拠がなくなる。種々の適応事由のある場合に限って妊娠中絶が法的に罰せら れない、とする中絶の<事由モデル>の規定は、その判断が一方的に医師に委ね られている限り、妊娠・出産に関する女性の自律の原理にそぐわない。従って、 この立場では、出生前診断の利用のための適応事由を設けるべき根拠も成り立 たない。例えば、クライアントが胎児の性別についての情報提供を求める場合、 そうした情報の提供を禁止し、それゆえの選択的妊娠中絶を法的に禁止するこ とは、自律の原理からすれば正当化できない。

女性の自律の原理は、出生前診断に先立つ遺伝相談の局面で確保されていな くてはならない(14)。自律の原理に基づく遺伝相談では、相談への強制、道徳 的圧力・パタ-ナリズム的配慮が排除されねばならない。クライアントの自律 は、自分の、或は生れる子の遺伝的性質について<知らないことへの権利>も含 む、とされる。<何人も自分について知りたいと思うこと以上のことを知るよ うに強制されるべきでなく、又、知りたいと思う以下のことを知るように強制 されるべきでもない>。これには、<そもそも私が自己決定の権利を行使するに は、私が私の肝心な事について知っているということでなければ、その権利の 行使は無責任ではないか>の反論が予想されようが、自律の尊重は、その権利 行使の(動機や結果に関わる)内容によって制限されてはならない、という原 則が貫かれる。

さて、こうしたリベラリスト立場での遺伝相談や出生前診断の実行は、優生 学的効果という観点からみれば、「両刃の剣」という結果にならないか。遺伝 相談の課題は、クライアントの妊娠・出産についての自律的な意志決定に直接 関わらず、クライアント本人及び胎児の遺伝的情報を正しく、しかも求められ る範囲内において提供することにある。胎児診断から中絶への意志決定は、親 の自己決定権に属する。重度の遺伝性疾患に限らず軽度の遺伝性疾患や、更に は疾病に直接関係しない種々の遺伝的性質までも、選択的人工妊娠中絶の理由 とされる事態を自律の原理は容認する。そうなると、胚・胎児の生存自体が、 ヒトゲノム解析によって与えられる遺伝学的知識に基づく親の自律的決定に委 ねられることによって、胎児の生存の選択が、「優生学的」根拠に基づかない という保証はどこにもないことになろう。

「優生学」の危惧への対処という観点からすれば、出生前診断の利用のため の適応事由にこだわるべき必要がある、と考えられる。確かに、その適応事由 を具体的にだれがどのように設定できるのかということになると、多くの議論 があろう。しかし、遺伝相談に関して、その基本的なあり方を規定するという 意味で、例えば次のような基準を立てることは、その精神において尊重されて よい。

①<遺伝相談の枠組みでのヒトゲノム解析の利用は、これによってクライア ントの遺伝的リスクを発見・査定する方法が改良される限りで、倫理的に正当 化できる>。クライアントの遺伝的リスクという範囲を越えるような遺伝的諸 性質についての知識は、遺伝相談の対象から外されること。②<遺伝相談の結 果、子に遺伝的障害の現れるリスクが明らかになっても、子を産むかどうかは 夫婦の責任ある自由な決定に拠る>。要点は更に加えて、③<出生前診断は、母 と子との健康保持に役立つ限りでのみ、倫理的に許容される>にある。母子の 健康保持・疾病予防以外のことを目的とする、例えば、単に性別のような遺伝 的性質を確認するためだけの出生前診断は正当化できない。母だけではなくて 子(胎児)の健康の保持が、出生前診断が倫理的に許容されるための条件であ る。又、出生前診断の結果として胎児に一定の疾患や障害が発見された場合で も、そのことが自動的に妊娠中絶へと帰結するような前提で出生前診断が行わ れてはならない、等(15)。

遺伝性疾患ゆえの人工妊娠中絶の決定は究極的には、女性自身の決断に委ね られる他ないかもしれない。それにしてもそうした個人の決断を支援すべき遺 伝相談は、クライアント、医師、そしてカウンセラ-(医学的知識の単なる提 供者でない)の間に成り立つべき対話に基づくような「意志決定システム」 (6)として構築されることが求められている。この条件は、ある意味で確かに、 出生前診断と選択的妊娠中絶に対する親の自己決定権の制限を意味する。そう した制限条件なしに、出生前診断が利用され、それが選択的人工妊娠中絶と組 み合わされるとなると、そのことは結果的に、子の誕生の「優生学的」根拠に 基づく社会的コントロールへの道を拓きはしないか、と思われるのである。

参考文献

(1)ダニエル・J.ケヴルズ著、西俣総平(訳):『優生学の名のもとに下に』1993, 朝日新聞 社.(Daniel J.Kevles: In the Name of Eugenics, 1985.)

(2)K.Bayertz, tr.by S.L.Kirkby: GenEthics, 1994. [orginal. GenEthik, 1987.]

(3)R.L w: Gentechnik; in: Lexikon Medizin Ethik Recht, 1989.

(4)J.Harris: Is Gene Therapy a Form of Eugenics?; in: Bioethics, Vol.7, No.2-3, 1993.(『ヒトゲノ ム解析研究と社会との接点-研究報告集』1995, pp.188-91, [今井道夫])

(5)D.Resnik: Debunking the slippery slope argument against human germ-line gen therapy, in: The Journal of Medicine and Philosophy 19: pp.23-40, 1994.

(6)加藤尚武:『ヒトゲノム解析をめぐる倫理問題の哲学的含意』(『ヒトゲノム解析研 究と社会との接点-研究報告集』1995, 所収.)

(7)T.M.Schroeder-Kurth: Indikationen zur pr natalen Diagnostik; in: Zeitschrift f r Evangerische

Ethik, 1985.

(8)T.M.Schroeder-Kurth: Genetische Beratung; in: Lexikon Medizin Ethik Recht, 1989.

(9)J.Gr ndel: Genetische Beratung; in: a.a.O..

(10)H-P.Schreiber: Die Erprobung des Humanen, 1987.

(11)J.Heisterkamp: Der biotechnische Mensch, 1994.

(12)H.Ruh: Argument Ethik, 1993.

(13)D.Birnbacher: Genomanalyse und Gentherapie; in: Medizin und Ethik, 1994.

(14)D.Birnbacher: Ethische Probleme der Pr nataldiagnostik aus der Sicht eines Philosophen; in:

Humangenetik – Ethische Probleme der Beratung, Diagnostik, und Forschung, 1993.

(15)P.Caesar(hrsg.): Humangenetik. Thesen zur Genomanlyse und Gentherapie, 1989.