ヒトゲノム解析と「公共性」の理念

ヒトゲノム解析と「公共性」の理念

-ドイツにおける諸動向の概観-

宮 島 光 志

(福井医科大学)

はじめに-「公共性」とその指標

「ヒトゲノム計画」は,欧米先進諸国ではすでに80年代半ばの立案の当初か ら,ときには「アポロ計画」以来の一大プロジェクトとしてもてはやされ,と きにはまた「核エネルギー」の平和利用をめぐる議論にも匹敵するだけの難問 として,ジャーナリズムによって積極的に取り上げられてきた。ところが,ヒ トゲノム解析の推進に相応の貢献をしていると自他ともに認めるわが国の場合, この計画の全体像に対する社会的な関心の低さは,意外というよりもむしろ奇 異にすら感じられる。ようやく最近になって,専門の科学者の側からこの計画 を立ち入って紹介する一般向けの著作が相次いで出版されたことは,大いに歓 迎されてよいであろう(榊佳之『人間の遺伝学-ヒトゲノム計画のめざすもの』 [岩波科学ライブラリー,1995年9月],中込弥男『ヒトの遺伝』[岩波新書, 1996年1月],松原謙一・中村桂子『ゲノムを読む-人間を知るために』[紀 伊國屋書店・科学選書,1996年2月])。逆に,なぜ科学ジャーナリズムが- 数年来の「マルチメディア狂騒曲」の間隙を縫って-「ヒトゲノム」を時代の キーワードに祭り上げるといった戦略を打ち出さないのか,むしろ不思議なく らいである。

ところで,欧米先進諸国の中でドイツはヒトゲノム計画の推進に対して消極 的,もっと言えば懐疑的である,ということがしばしば報じられてきた(1)。 しかし,そのことはこの計画に対する「社会的関心の低さ」や「社会的議論の 立ち後れ」とは別問題である。いや,むしろ「推進力の欠如」と「議論の活況」 とは相関関係にある,というのが正しかろう。つまり,ドイツはすでに過去数 年来,一種の「ヒトゲノム狂騒曲」を経験し,現在では大方そのほとぼりがさ め,むしろ未来へと向けて独自の現実的で地道な取り組みを開始している,と 思われるのである。そうしたドイツにおける「社会的議論の成熟」の軌跡を, 「公共性( ffentlichkeit,publicness)」の重視という観点から浮き彫りにす ることが,本稿の狙いである。

だが,この「公共性」とは何か? 本研究会の看板は「ヒトゲノム解析研究 と社会との接点」であるが,そのときの「社会」がさまざまな社会的な事象や 制度を包括的に含意しているのと同じく,「公共性」という-日本語としては 必ずしも熟していない-概念は,「世間」「世論」「公衆」などの辞書の上で の意味では尽くされない,幅の広さとニュアンスの豊かさをもっている(2)。 だがここでは,「公共性」の概念規定や社会構造の違いによるその多様な形態 という原理的な問題はすべて回避し,いわば「公共性」の理念的な姿として, 利害・関心を共有したり異にしている者どうしが「開かれた議論の場」を確保 する意思と努力という点に注目したい。つまり,そうした議論の「公表(Ver ffentlichung,publication)」の程度-その量と質-によって「公共性」が多 少とも客観的に測られる,と理解するのである。ただし,以下では議論の諸動 向を概観するという表面的な考察に主眼が置かれ,個々の論点の批判的な分析 は疎かにならざるをえない。したがって,本稿は基本的には旧稿(3)に対す る「追加と補遺」の域を出るものではないが,たとえ半歩でも具体的な議論に 踏み込んで紹介してみたい。

I 雑誌『医の倫理』(1995年号)に見る近年の諸動向

ここでは,旧稿の第4節を踏襲して,まず雑誌『医の倫理』の昨年号によっ て発信された(つまり高度に「公共性」を帯びた)情報をジャンル別に整理し, ヒトゲノム解析をめぐるドイツの最近の諸動向をコラージュ風に描出してみた い。

まず第1に,学会報告(4)の中では,ドイツ国内のものではないが,「国 際コロキウム-ヒト遺伝子の解析と人格性の擁護(1994年4月14日,ローザン ヌ)」が注目に値する。この国際学会は当地の比較法学研究所が主催したもの で,ヨーロッパおよび北米各国からの演者が,まずヒトゲノム解析とその医学 的応用とに関する技術的な可能性と問題点とを検討し,その上でとりわけ「労 働法」および「保険法」の分野における諸問題を討論したと報じられている。 その際には「(遺伝)情報に基づく自己決定」が主要な論点となったそうであ るが,詳細については-刊行が予告されている -論集に当たってみるしかな い。

第2に,インフォメーション(5)としては,「人類遺伝学会・広報活動お よび倫理的諸問題検討委員会」から,「胎児細胞の染色体異常に対する母体の 血液による非侵襲性の出生前診断をめぐる議論の現況」と「乳ガン遺伝子BR CA1の発見に対する見解」という2件の情報が寄せられている。高度に専門 性を帯びた情報ではあるが,学術雑誌を通じて粘り強く「広報活動( ffentlichkeitsarbeit)」が行われている点は,わが国でも見習うべきではな かろうか。

だが,さらに注目すべきは,そうした情報と並んで,医学界とは立場を異に する「障害者支援4団体による倫理に関する基本声明(1994年11月)」が掲載 されている点である。この声明にはプロテスタント系,カトリック系のほかに 人智学関連の障害者支援団体も名を連ねており,「キリスト者にとって,あら ゆる人は神の子である」(第4項)とされるように,多分に宗教色が強い。い ずれにせよ,「前文」ではまず,「障害を負った生命の価値に関する議論が数 年前から新たに,あるいは再び浮上してきているが,こうした議論はひとり出 生前ないし周産期に重い障害に脅かされたり侵されたりした子供たちの生命の 可能性を危うくするだけでなく,すべての障害者の人生の意味と生存とに疑問 を投げかけることにもなる」,という懸念が表明されている。その上でさらに, 「現代の生物学および医学がもたらした諸々の成果と知見とは,これまで及び もつかなかったような人間に対するテクノロジーの介入を可能にしつつある。 われわれの社会において一般的な拘束力をもっている倫理的な根本確信は,障 害を負った生命の不可侵性とその無条件の保護とを保証してきたが,もはやわ れわれは,こうした根本確信を引き合いに出すことによって新たな成果と知見 とに対抗することはできない。こうした緊張の場において個人的および社会的 な諸々の葛藤が表面化しつつあるにもかかわらず,それらの葛藤は,有用性を めぐる議論やテクノロジーによって実現可能になる事柄に浮かれている多幸症 の陰に隠れて,しばしばその姿が見失われてしまっている。だが,このように して,当事者〔障害者〕たちと彼らの要求とに対する眼差しが-最終的にはそ れが唯一の基本的な視点であるにもかかわらず-遮られるのである」,と厳し い指摘がなされている。それを承けて,各人の「人格」の代替不可能な価値か ら始めて,都合17の具体的な項目が順次掲げられている。たとえば,第12項で は,「極度に障害を負った新生児であっても,殺されたり死に委ねられること があってはならない。障害を負っていることが人工妊娠中絶の理由とされては ならない」,と訴えている。そして,最後の第17項では,「遺伝子工学の新た な知見により,<障害を負った生命は”回避可能な危険”を背負った生命であ り,苦しみのない生命へと移行することがおそらく可能である>とみなされ, そうした知見が結果的に障害を負った生命を低く評価するために用いられる, ということがあってはならない」として,暗にヒトゲノム解析の医療分野への 安易な応用に警告を発している。何とも重い内容の声明文である。

さて,第3に,ヒトゲノム解析に関連する書評(6)に目を移せば,S・エー リッヒ『思考を禁じることが生命の擁護なのか? 出生前診断,胎児への危害 および人工妊娠中絶』(1993年),E・ヒュムメラー『遺伝カウンセリングと 〔人生〕経験-神学的‐倫理学的議論』(1993年),およびN‐M・テレーゼ, T・ルーディ編『人とは違う在り方を求める権利について-出生前診断と遺伝 カウンセリングとに関するアンケート』(1994年)の3著が取り上げられてい る。ここでは逐一立ち入ることはできないが,評者が-女性の遺伝学者・医師 として-それぞれの著作を丹念に論評しているため,個々の論点が明確に浮き 彫りにされていて興味深い。

最後に第4として,本来ならば関連する論文を紹介すべきところであるが, 本誌昨年号には「脳死」をめぐる論文が立て続けに掲載された点が特徴的で, 「ヒトゲノム解析」を主題的に扱った論文は見当らない。ただし,生命倫理制 度化に関するつぎの2編(7)は注目に値する。まずH・ヘルムヒェン「医学 倫理委員会-その目的,勧告の対象および手続のあり方」は,ドイツにおける 医学倫理委員会小史として,今後とも好個の資料となりうると思われる。また, G・ボッケンハイマー‐ルーキウス「”生命倫理条約”-論争の展開と現況」 は,ヨーロッパ評議会「生物学および医学の応用に鑑みて人権と人間の尊厳と を擁護するための条約」(1994年7月)の歴史的背景とドイツ国内における論 争とを真正面から批判的に分析したもので,「トピックス」として位置づけら れている。今後の動向が大いに注目されてよいであろう。

II「遺伝子工学論争」と「世論の関与」の模索

ここでは,すでに80年代末にヒトゲノム解析に論及した先駆的な研究書とし て,A・ブレンナー『遺伝子工学と実践哲学』(1990年)(8)を取り上げた い。本書はチューリッヒ大学の学位論文で,技術哲学の大御所H・リュッベに 提出されたものである。その特徴は,1975年のアシロマ会議を機にドイツで繰 り広げられた「遺伝子工学論争(Biotechnologie-Dibette)」を,生物学,農 学から医学にまでわたって詳細に跡づけている点にある。そして,そうした論 争の最前線に地位する問題として,ヒトゲノム解析が「遺伝子工学の人間への 応用」(第6章)で立ち入って紹介され,将来の方向性も示唆されている(第 7章)。その第1点として,ブレンナーは「世論の関与(die Beteiligung der ffentlichkeit)」という問題を取り上げている。その際に彼は,「当該の〔科 学的‐技術的〕発展の全体からなる利益社会に世論が関与するというとは,民 主主義の文化においては当然の課題に違いあるまい」(103頁)という基本認 識に立って,80代後半の論争史を通じて提起された関連するさまざまな議論を 順次検討してみせる。しかし,彼の結論は最初から,「だが,いかにして世論 の関与がじ実効あるものとなりうるか,その具体的なコンセプトは今日に至る までいかなる側からも練り上げられていない」(同所),という否定的なもの である。いや,そればかりではない。最終的に彼は,「a)どのような仕方で 少数者の意見が考慮されうるのか? b)どの程度までなら後世の人々の生存 条件が現代の人々によってすでに規定されてもよいのか?」(120頁)の2点 が,今後さらに遺伝子工学を推進していくための根本的な先決問題であるとす る。そして,こうした大問題にじっくりと取り組むためには何よりも時間をか せぐ必要があり,したがって,技術開発の「モラトリアム(凍結ないし自粛)」 という徹底した措置もやむを得まい,と結論づける。そして,ヨーナスなどに 代表される新たな「責任」の倫理への期待感をほのめかしている(122頁)。

こうして本書は,ヒトゲノム解析にまつわる諸問題を遺伝子工学全体の是非 をめぐる広範な議論の一環として歴史的に位置づけ,先駆的な概観と懐疑的で 消極的なものではあれ一定の展望を与えている点で,小編ながら今日でも意義 をもっていると思われる。また,ドイツ語圏における80年代の関連文献が見事 に網羅されている点も,本書の歴史的な価値を高めている。

III 政府および医学界よる議論の推進

以下の諸節では,「開かれた議論の場」を確保する意志と努力の具体的な在 り方を,その主体(運営母体,発信者など)の違いという観点から整理分類し, 主だったものを網羅的に紹介したい。まず本節では公的な性格を帯びたものを 取り上げることにする。

第1に,連邦政府関連(9)の取り組みに関するものとして,「ヒト胚の保 護」に関する法律とその改正(1992-93年)や「ドイツ連邦議会・科学技術が もたらす結果を査定する事務局(TAB)」編の「住民の見地から見た遺伝子 工学とゲノム解析」(1992年)が挙げられる。また,B・シェーネ‐ザイフェ ルト,L・クレーガー編『人類遺伝学-カウンセリング,診断法および研究の 倫理的諸問題』(1933年)は,「ドイツ連邦共和国・医学倫理委員会」研究班 による第9回年次総会(1991年,ケルン)の記録として,非常に充実した内容 を誇っている。

第2に,州政府レベルでの対応(10)としては,州法務大臣P・ツェーザー 編『人類遺伝学-ゲノム解析と遺伝子治療に関する諸テーゼ』(1989年)が先 駆的なものである。同書は「ラインラント‐プファルツ州倫理委員会報告」と して公表されたものであり,第3章が「ゲノム解析」に当てられている。そこ では,緒論に続き,「遺伝カウンセリングと出生前診断」「被雇用者に対する ゲノム解析」「司法手続きにおけるゲノム解析」「保険制度におけるゲノム解 析」という具体的な諸問題に即して,簡潔なテーゼとその明快な理由づけとが 示されている。

第3に,医学界(医学会)(11)の動向として,人類遺伝学会「広報活動 および倫理的諸問題検討委員会」からの遺伝子診断および遺伝子治療に関する 一連の声明および見解(旧稿第4節および本稿第2節を参照)のほかに,ドイ ツ連邦医師会による「初期ヒト胚研究に関するガイドライン」(1985年), 「予測医学-ヒトゲノムの解析」(1988年),「ヒトの遺伝子治療に関するガ イドライン」(1989年),「胎児細胞および胎児胚の使用に関するガイドライ ン」(1991年)などが挙げられる。また,同医師会「生殖医学,ヒト胚研究お よび遺伝子治療における倫理諸原則遵守のための中央委員会」による「研究お よび活動報告」(1989-91年),同中央委員会「覚書-遺伝子スクリーニング」 (1992年)なども公表されている。

最後に,第4として,ヨーロッパ全体としての取り組みに関するもの(12) としては,W・ロスレー他編『遺伝子操作とヒトの人工受精とをめぐる倫理的 および法的諸問題(ヨーロッパ議会・法および市民権委員会)』(ヨーロッパ 連合広報局,1990年)とH・ヒル他編『ヒトゲノム解析の倫理-ヨーロッパか ら見た場合』(1993年)が注目される。

IV 大学における議論の集約と社会への発信

つぎに,アカデミズム(大学)の諸動向に焦点を絞って概観してみよう。そ もそも,こうした「ヒトゲノム解析」をめぐる広範な議論が活況を呈している ことの背景として,ドイツの医学研究および医療現場における遺伝学の際立っ た位置づけということが指摘できるであろう。わが国の医学教育および医療現 場における「遺伝学の貧困」は専門家もしばしば指摘するとおりであるが(1 3),それはドイツにおける「遺伝学の充実」と見事なコントラストをなして いるように思われる。ちなみに,ある資料によれば(14),ドイツでは,各 大学医学部および医科大学の遺伝学などの講座・研究所・付属病院,さらには 公私立の病院を合わせると,遺伝カウンセリングおよび遺伝子診断を行う施設 がドイツ全国に80箇所ほどあるとされる。

それでは,まず第1に,情報の集約および発信の結節点としての大学および 関連する研究施設とそれらによって運営された討論集会や講演会(具体的には, それに基づく論集)をリストアップしてみたい(15)。すでに80年代の後半 以来,ゲッティンゲン,ボッフム,テュービンゲンなどの有力大学で,医の倫 理に関する研究センターの設立が相次いだ。最近ではチューリッヒ大学が旧来 の関連する諸施設を統合して「倫理学センター」を設立し,応用倫理学の重点 諸領域の1つとして「倫理学と遺伝子工学」を掲げている。また,ボッフム大 学の「医学倫理センター」ではすでに100号を超える雑誌を逐次刊行し,ヒト ゲノム解析も含めて具体的なテーマに地道に取り組んでいる。他方,単発的な ものとしては,「カイザースラウテルン大学・第2回哲学フォーラム:遺伝子 工学-医学倫理-障害」(1992年5月)を記録した,E・ツヴィァライン編 『遺伝倫理学-人類遺伝学のもたらす倫理的な挑戦』(1993年)が挙げられる。 そこには6編の提題がまとめられているが,いずれも「障害」を正面切って論 じている。

そうした中で,ウルム大学における市民に開かれた啓蒙活動は一風変わって いる。その様子は,同大学「医の倫理」研究班のメンバーであるG・シュポー ンホルトらの論文「すべては容易になるどころか,難しくなるばかりですね- 世間と人類遺伝学者たちとが交わしたコミュニケーションの一形態」に詳しく 紹介されおり,近い将来を見据えた地道な実践として示唆に富んでいる。彼女 たちは「初期医学教育における医の倫理」というプロジェクトも推進中である が,ここで取り上げられているのはそれとは別の市民向けの「公開講座」で, 論題の「すべては容易になるどころか,難しくなるばかりですね」という一節 は,その講座に参加したある婦人の口から洩れた感想である。論者たちは,急 速な技術革新にともない,自分たち遺伝学の専門家と一般市民との距離が広が るばかりであることに危惧の念を抱き,グループ学習によって両者の対話の糸 口をつかもうとした。その際に彼女たちは,講義形式ではなく「役割演技」を 取り入れ,遺伝カウンセリングのモデルケースを自ら演じることによって,さ まざまな世代や職業の受講者たち-婦人が多数を占めていたとされているが- と自由に意見を交換し合い,お互いの意識のずれを再確認するとともに理解を 深め合うこともできた,と述べている。

さらに第2に,こうしたヒトゲノム解析ないし遺伝学に関するアクチュアル な議論が十分に学術性を認められていることの証として,改めて学位論文(1 6)に注目してみたい。すでに本稿の第2節ではブレンナーの先駆的な学位論 文を紹介したが,第1節の書評で触れたヒュムメラーの著作も,ミュンヘン大 学のカトリック神学部に提出された学位論文である。また,ライプツィヒ大学 の学位論文として,F・ツューリッケ『人類遺伝学,自然の目的論および倫理 学-生殖医学および人類遺伝学の道徳的‐倫理的諸問題』(1994年)の存在が 知られている。

なお,最後に第3として,学生用の手頃な参考書(あるいは教科書)の存在 も見逃せない。”UTB”〔大学叢書〕というポピュラーなシリーズの1冊に, 先ごろB・イルガンク『医学倫理概論』(1995年)(17)が加えられた。本 書でも「ヒトゲノム研究の計画,遺伝カウンセリングおよび出生前診断」と 「遺伝子治療」という節が設けられ,手際のよい概観が与えられ,さらには理 解度をチェックするために-「ヒトゲノムの完全なシークエンスという計画は どのような目標を追求しているのでしょうか?」といった-細かい設問が配さ れている。

V 言論・出版界における積極的な取り上げ方

最後に本節では,さらに広範な「開かれた議論の場」を開設するだけの具体 的な力をもった言論・出版会の動向に注目し,ごく断片的にではあるが,その 一端を紹介したい。

まず第1に,遺伝子工学全般にわたる先駆的な啓蒙書(18)として,K・ バイエルツ『遺伝倫理〔遺伝子の倫理〕-ヒトの生殖に関する技術革新の諸問 題』(1987年)が異彩を放っている。というのも,著名な新書(叢書)の事典 シリーズとして刊行された本書は,その後アメリカに逆輸入されるまでの評価 を得たからである。内容的には,哲学史との関連づけが随所で行われ,かなり 哲学色の濃いものとなっている。なるほど「ヒトゲノム」という用語はまだ見 られないが,すでに「遺伝子治療」や「出生前診断」には言及されている。ま た,M・トゥーラウ『徹底検証-遺伝子工学?』(1990年)は,アクチュアル な問題を豊富な図解によって分かり易く解説するシリーズの1冊で,諸分野に 及ぶ遺伝子工学全般をカバーしている。

第2に,わが国の場合と同じく,ヒトゲノム解析の問題に関してはやはりア メリカの出版物を積極的に翻訳紹介(19)する動きが見られる。その代表例 として,わが国にも紹介されたR・シャピロ『人間の設計図-遺伝子研究が生 命の暗号を解読する』(原著は1991年,独訳の親本は1992年,文庫再録は1995 年,邦訳『ゲノム=人間の設計図をよむ』1993年)が挙げられる。本書はドイ ツで,著名な科学雑誌の主催した「1993年の科学書」に選ばれるほど好評を博 したそうである。また,同じ出版社から同じ訳者によって,D・J・ケヴルス, L・フッド編『極秘暗号-人間の遺伝地図』(原著は1992年,独訳の親本は 1993年,文庫再録は1995年)も翻訳されている。本書では,12人の論客が「歴 史,政策,遺伝学」「遺伝学,工学,医学」「倫理,法律,社会」といった具 体的な観点から多角的にヒトゲノム解析とその諸問題とを論じており,参考文 献表と用語解説も充実している。その「ドイツ語版に寄せる前書き」によれば, 編者たちは,「いかにしてそれ〔ゲノムプロジェクト〕から得られる力をコン トロールし,その倫理的,社会的および法的な諸々の含意に対する正当な危惧 の念を払拭するできるかを熟慮するには,時期尚早ということはない」(9頁), という見方をしている。もしかすると本書の日本語版がすでにどこかで準備さ れているかも知れない。いや,そうあって欲しいものであるが,その場合,一 体どのような「前書き」が編者から日本の読者に寄せられるのであろうか?

最後に第3として,ドイツの新聞や雑誌による取り上げ方が気になるが,残 念ながら筆者自身はそうした方面の資料を持ち合わせていない。だが,本稿の 第4節で言及したG・シュポーンホルトらの論文によると(20),ドイツで は数年来,信頼のおけるもの以外にSFまがいのものも含めて,主だった新聞 や雑誌の科学特集が規則的にヒトゲノム計画を大きく取り上げてきた。とりわ け1992年から94年にかけては,雑誌『ビルト・科学版』(Bild der Wissenschaft)の「解読された人間」や「遺伝学的な葛藤」,『ツァイト』紙 の「鉤と留め環とをもった遺伝質」などの記事が,読者に不安を与える面もあ るが,注目に値するという。また,同じ頃『南ドイツ新聞』に多数の要人の署 名入りで「遺伝子工学に率先して賛成する」という全面広告が掲載されたこと があり,それに名を連ねた全独カトリック司教会議の議長は,後に批判を受け た際に「遺伝子工学は悪魔の業ではない」と答えた,というエピソードが紹介 されている。

おわりに-「開かれた議論」と「草の根の実践」

すでに一昔前のことになるが,手塚治虫は厚生大臣の勉強会「生命と倫理に 関する懇談会」の一委員として,「生命科学と倫理問題について一般大衆や子 弟にどう理解させるか」という問題提起を行った(21)。彼によれば,「大 衆は情報をつねに交換し,新しい情報には強い関心をもつ。ただその報道はセ ンセーショナルな社会的事件に関する報道が主体で,一般知識,ことに学術的 な問題についてはさほど興味を示さない。/また情報交換によってひとつのブー ムを惹起する傾向を持っている。ブームは一過性のファッショナブルなもので あるがその影響力は強い。マスコミ機関を主軸にした情報文化は,ニューメディ ア時代到来とともに,さらに情報の洪水をきたして大衆を激しく動揺させる危 険性を持っている」(244頁)。今日,マルチメディアによる一般的な「情報」 氾濫の時代に,体系的に獲得された特殊な遺伝「情報」をどのように適正に管 理し,さらには医療現場で望ましい形で活用していくべきか? 問題はきわめ て多岐にわたり,複雑なものとなっていると言えよう。だが,たとえば「一般 大衆」の想像力が荒唐無稽な『辣腕ゲノム』という新たな時代のヒーローを歓 迎し,子供たちの興じる「ゲノムゲーム」によってゲームソフト会社が巨万の 富を築き,サラリーマン諸氏はキヨスクでこぞって『週間ゲノム』を買い求め, 若い女性や主婦たちは女性週刊誌の「ゲノム欄」にはまり込む-万が一こうし た表面的なブームが到来したとしても,それは大して罪のないものとして済ま されよう。むしろ,もしも手塚のいう「大衆を激しく動揺させる危険性」があ るとすれば,それは「ヒトゲノム狂騒曲」に浮かれた社会の目立たない陰の部 分に潜伏し,何らかの折に具体的な事件として顕在化してくるように思われる。 「もんじゅ」や「薬害エイズ」などの科学技術がらみの不祥事が次々と暴かれ るにつけ,そう思わずにいられないのが人情であろう。

ともあれ,ドイツにおける最近の諸動向をごく表面的に追跡してみただけでも,そこで繰り返し出会う「チャンスとリスク」「葛藤」「両面価値」「二者択一」「挑戦」といった決まり文句が,この問題に対するドイツ社会の<期待と不安>を見事に物語っている。その背景にナチスによる忌まわしい過去が厳然と控えていることは言うまでもなく,そうした反省に立って,戦後のドイツ社会は,「ニュルンベルク綱領」を原点として,英仏語圏の国々に比べると遥かに厳格な生命倫理の確立を模索してきた。また,ドイツ基本法第3条の掲げる「男女同権」(第2項)および「障害者の差別禁止」(第3項)によって,社会的な差別に反対する法的な意識が日本社会よりもはるかに強靭である,という点も指摘されてよいであろう。

他方,ヒトゲノム解析にまつわる社会的な諸問題に関しては,わが国では <利害・関心を共有したり異にしている者どうしが「開かれた議論の場」を確 保する意思〔表示〕と努力>を始めたばかりである,というのが現状ではない だろうか(22)。したがって,これから先,政府,医学界,関連諸学会,各 大学,言論・出版界といったあらゆるレベルで,たとえ最終的にはわが国独自 の路線を打ち出すにせよ,アメリカのみならず,フランスやイギリスと併せて, ドイツからも多くのものを積極的に学び,批判的に吸収していく必要があるよ うに思われる。

小論を締め括るに当たって,ここで最後に,私自身のごく身近な所にも目を 向け,医学生たち(4年生)が学園祭で「遺伝子治療」をテーマに取り上げ, 広く一般市民の方々と一緒に考えるささやかな試みが行われたことも記してお きたい(23)。こうして遥か海の彼方の難しい議論に目を凝らしてきたが, 思いは結局,「だが,5年,10年後に実際に医療現場でそうした現実的な問題 に直面し,患者とともにそれを乗り越えていくのは彼らなのだから……」,と いう所に落ち着く。いや,もしかしたら,むしろ正確には「主に彼女たちなの だ」と言うべきかも知れない。実際,ドイツの諸動向を駆け足で見てきた中で, それほどまでに随所で女性の側からの真摯な発言や取り組みが目につき,強く 印象に残るとともに頼もしく思われたものである。

〔註および文献表〕

(1) バートランド・ジョーダン著『ヒトゲノム計画とは何か-全世界を巻き込むDNA解析プロジェクト』(美宅成樹訳,講談社,1995年4月〔原著は1993年〕)を参照。フランスでヒトゲノム解析プロジェクトの推進役を務める著者は,ドイツの事情を「ドイツ-明らかな遠慮」(320頁)および「ドイツの場合-魔女狩り!」(395頁)という見出しによって,印象的に特徴づけている。もっとも,今日ではドイツでも推進の動きが強まっていると伝え聞く。

(2) ちなみに,加藤尚武「ヒトゲノム解析をめぐる倫理問題の哲学的含意」 (加藤尚武編『ヒトゲノム解析と社会との接点・研究報告集』1995年,1-44頁) では,「公共性」の問題は,

①「公共投資」(13頁),「公共的な保険制度」(32頁),「公共選択論, 公共的費用,公  共財,公共支出」(37頁)

②「公共機関〔医療ないし行政〕,公共的な研究機関」(28,39頁)

③「世論を啓発する」(33頁),「公共的な討論,自分の判断を公開する」 (41頁)

という多種多様な形で具体的に関説されている。以下,拙論では③の側面から の考察が中心に据えられ,③との関連で多少とも②が話題にされるものの,き わめて現実的な意味をもつ①の側面は,完全に視圏から欠落している。いずれ また稿を改めて論じてみたいと思う。

なお,すでに和辻哲郎は『倫理学(上)』(初版は1937年)で「公共性」の 構造を分析している。すなわち,和辻はまず,「『事物のあらわになる場所』 としての世間の性格を,我々は公共性として言い現わすことができるであろう」 (全集第10巻,153頁),という抽象的な規定から出発する。その上で彼は, 「公共性の大いさは事実上それに参入する人の数量によってではなく,参与の 可能性の大いさによって計られねばならぬ。世間にあらわにするとは,その世 間に属するあらゆる人に参与の可能性を与えることにほかならない。これが公 共性の主要な規定である」(157頁)として,「世間への公表の仕方」,とり わけ「報道」に定位して,具体的な分析を展開している(以上,強調はすべて 原文に従った)。そうした和辻の視点と小論の「公共性の指標」とはかなりに 通ったものとなっている。ただし,小論の掲げる「公共性」は,「開かれた議 論」の推進という点で,和辻の「参与」よりも理念的な含意が強いと言えよう。

(3) 宮島光志「ドイツにおけるヒトゲノム解析の倫理的諸問題への対応-基本 文献の呈示と若干の予備的考察」(前掲,加藤編『研究報告集』,50-58頁)

(4) 以下,本誌(Ethik in der Medizin [Ethik Med])からの引用は,タイト ル,巻数(Bd.)/号数(Heft),頁(S.) によって指示する。Analyse G n tique Humaine et Protection de la Personalit , Colloque internationale, Lausanne, 14 avril 1994, 7/1, S. 40-41.

(5) Kommission f r ffentlichkeitsarbeit und ethische Fragen der Gesellschaft f r Human- genethik e.V. Stellungnahme zur Entdeckung des Burstkrebsgens BRCA1, 7/3, S. 156-159; Gegenw rtiger Stand der Diskussion zur nicht-invasiven Pr nataldiagnostik von Chromosomen- st rungen fetaler Zellen im m tterlichen Blut, 7/1, S. 47-49. Ethische Grundaussagen der vier Fachverb nde der Behindertenhilfe (Novenber 1994), 7/3, S. 154-155.

(6) Susanne Ehrlich, Denkverbot als Lebensschutz? Pr natale Diagonostik, f tale Sch digung und Schwangerschaftsabbrudch (Beitr ge zur psychologischen Forschung Bd. 29), Opladen 1993. 7/1, S. 53-54; Elke H mmeler, Erfahrungen in der genetischen Beratung. Eine theologisch- ethische Diskussion (Forum Interdizsiprin re Ethik Bd. 6), Frankfurt/M., Berlin 1993. 7/1, S. 54- 55; Neuer-Miebach Therese, Tarneden Rudi (Hrsg.), Vom Recht auf Anderssein. Anfragen an die pr natale Diagnostik und humangenetische Beratung, 1994. 7/3, S. 159-162.(以上,評者はすべて T. Schr der-Kurth)

(7) Hanfried Helmchen, Ziele, Beratungsgegenst nde und Verfahrensweisen medizinischer Ethik-kommisionen, 7/2, S. 58-70; Gisela Bockenheimer-Lucius, Die “Bioethik-Konvention” – Entwicklung und gegenw rtiger Stand der Kontroverse, 7/3, S. 146-153. なお,「生 命倫理条約」の経緯およびヨーロッパ各国の先端医療政策の比較に関する論考 として,椦島次郎「先端医療政策論-現代社会における生と死の価値づけ」井 上他編『病と医療の社会学』〔講座現代社会学14〕岩波書店,1996年,27-47 頁,を参照。

(8) Andreas Brenner, Gentechnologie und Praktische Philosophie (Beitr ge zur gesellschaftlichen Forschung Bd. 8), Pfaffenweiler 1990.

(9) 詳細については,次の2文献(とりわけ,その文献表)を参照。 H.-M. Sass, Bioethics in German-Speaking Western European Countries: Austria, Germany, Switzerland, in: Bioethics Yearbook, Vol. 2 (Regional Developments in Bioethics: 1989-1991), Dordrecht, Boston, London 1992, pp. 211-231; Bioethics in German-Speaking Western European Countries (Austria, Germany, and Switzerland): 1991-1993, in: Bioethics Yearbook, Vol. 4 (Regional Developments in Bioethics: 1991-1993), 1995, pp. 247-268.

Bettina Sch ne-Seifert, Lorenz Kr ger (Hrsg.), Humangenetik – Ethische Probleme der Beratung, Diagnostik und Froschung (Medizin-Ethik Bd. 4), Stuttgart, Jena, New York 1993.

(10) P. Caesar (Hrsg.), Humangenetik. Thesen zur Genomanalyse und Gentherapie, Bd. 47, Heidelberg 1989. なお,書評は,Ethik Med, Bd. 3 (1991), S. 50-52 (T. Schroeder- Kurth).

(11) Cf. A. Bremer, Op. cit; H.-M. Sass, Op. cit.

(12) Willi Rothley et. al. (Hrsg.), Ethische und rechtliche Probleme der Genmanipulation und die humane k nstliche Befruchtung 〔Eurp isches Parlament, Ausschu f r Recht und B rgerrechte〕,Luxemburg (Amt f r Amtliche Ver ffentlichungen der Europaischen Gemeinschaften), 1990; Hille Haker et. al. (eds.), Ethics of human genome analysis – European perspectives (Ethik in den Wissenschaften Bd. 5), T bingen 1993.

(13) 式部 久「遺伝子医学・医療と倫理」(前掲,加藤編『研究報告集』, 46-48頁)を参照。

(14) Werner Buselmaier, Gholamali Tariverdian, Humangenetik, Begleittext zum Gegenstands- katalog, Berlin, Heidelberg, New York, 1991, S.447-454. なお,この資料には,オーストリアの7箇所,スイスの5 箇所も示されている。

(15) 宮島,前掲論文の第4節および下記の文献を参照。 Jojann S. Ach, Andreas Gaidt (Hrsg.), Herausforderung der Bioethik, Stuttrt-Bad Cannstatt, 1993, S. 262-264. 本書はミュンスター大学における一連の特別 講演(1992年)の記録であり,Ludwig Siep, Ethische Probleme der Gentechnologie, S. 137-156, が含まれている。なお,本書に言及した論文と して,河村克俊「生命倫理をめぐるドイツの現状-シンガー事件とドイツの哲 学界」土山秀夫他編『カントと生命倫理』晃洋書房,1996年,197-228頁,を 参照(ドイツ語圏の文献を多数掲載)。また,本書と類似の企画として,ハノー ファー医科大学の Udo Benzenh fer (Hrsg.), Herausforderung Ethik in der Medizin, Frankfurt a.M., Berlin, New York, 1994, がある。さらに,ボッ フム大学のZentrum f r Medizinische Ethik (ZME) からは Ruth Faden, Die Genomnanlyse – eine Heraus-forderung f r die Gesundheitspolitik. Anhang: Dokumentation der Leits tze zur Genomanalyse bundesarbeitskreis christlich-demokratischer Juristen), 1988 (Heft 9); D. M. Goldstein, H.-M. Sass, Genomanaluse und Gentherapie. Eine Zusammenstellung der Literatur aus BIOETHIK- LINE, 1987-1989, 1989 (Heft 45), など多数の文献が出ている。チューリッヒ大学 については,vgl. Das Ethik-Zentrum an der Universit t Z rich, Ethik Med, 7/2, S. 107-108.

Eduard Zwierlein (Hrsg.), Gen-Ethik – Zur ethischen Herausforderung durch die Human- genetik (Philosophisches Forum Universit t Kaiserslautern Bd. 2), Idstein 1993.

Gerlinde Sponholz, Gebhard Allert, Hermut Baitsch, Es wird alles nicht einfacher, sondern immer schwieriger. Ein Modell der Kommunikation zwischen ffentlichkeit und Humangenetiker in:Elisabeth Beck-Gernsheim (Hrsg.), Welche Gesundheit wollen wir? Dilemmata des medizi- nischen Fortschritts, Frankfurt a. M. 1995, S. 75-89.

(16) Feddy Z licke, Human-Genetik, Naturteleologie und Ethik – Moralisch-ethische Probleme von Reproduktionsmedizin und Human-Genetik, Frankfurt a. M. 1994.

(17) Bernhard Irrgang, Grundri der medizinischen Ethik, M ncgen, Basel 1996 [UTB 1821].

(18) Kurt Bayerz, GenEthik [Rowohlts Enzyklop die 450], Hamburg 1987 (GenEthics, Cambridge 1994); Martin Thurau, Gute Argumente: Gentechinologie? [Beck’sche Reihe 409], M nchen 1990.

(19) Robert Shapiro, Der Bauplan des Menschen. Die Genforschung entr tselt den Code des Lebens [Insel Taschenbuch 1709], Frankfurt a. M., Leipzig 1995 [Bern, M nchen, Wien 1992], (The Human Blueprint, New York 1991); Daniel J. Kevles, Leroy Hood (Hrsg.), Der Supercode. Die genetische Karte des Menschen [ITB 1721], Frankfurt a.M., Leipzig 1995 [M nchen 1993], (The Code of Codes. Scientific and Social Issues in the Human Genome Project, Cambridge 1992).

(20) E. Beck-Gernsheim (Hrsg.), Op cit. S. 75f. u. 86f.

(21) 厚生省健康政策局医事課編『生命と倫理について考える-生命と倫理に 関する懇談報告』医学書院,1985年,243-249頁。手塚はそこで諸々のメディ アの役割を具体的に吟味している。

(22) ただし,岡本直正他編『医療・医学研究における倫理の諸問題』東京医 学社,1988年,に含まれる「遺伝子工学」「遺伝子診断・遺伝子治療」および 「遺伝相談」とそれらの倫理的問題に関する諸論考(第19-22章,執筆者は小 川圭治,米本昌平および高橋勝の各氏)は,わが国における先駆的な業績とし て忘れられてはならない。

(23) そのときの資料として『’96医学展報告集』(第15会福井医科大学暁祭・ 医学展実行委員会編,1995年,3-28頁)が残されている。それは,「産声を上 げたばかりの遺伝子治療に対しても,過度に期待したり,必要以上に過敏になっ たりせず,冷静に向き合っていきたいものです」,と結ばれている。なお,他 に取り上げられたテーマは,「ストレスと疾患」「アレルギー」「寄生虫学入 門」など,いずれもごく身近なものばかりである。

[付記]本稿の作成に際して,今回もまた同僚の山本達教授(倫理学教室)か ら文献に関する多くの有益なご教示をいただき,併せて多数の文献を借用させ ていただきました。記して感謝申し上げます。なお,本稿は第6回「ヒトゲノ ム研究と社会との接点」研究会(平成8年2月7日)における口頭発表「ヒト ゲノム解析と公共性の理念-ドイツにおける動向」を原型とし,当日の質疑応 答を踏まえて大幅に加筆してまとめたものです。不勉強を顧みず敢えて「概観」 にこだわった関係上,相変わらず中途半端で不分明な点が数多く残されてしま いました。有益なご質問を寄せていただいた皆様に,この場を借りて改めて御 礼申し上げます。