生命・遺伝子操作に適用された「滑り坂論」の意味を捉えるために
-W.ヴァン・デア・バーグ・「滑り坂論」の紹介を兼ねて-
黒崎 剛
(日本医科大学)
「滑り坂論」(slippery slope argument)とは、「もし最初の一歩を踏み 出せば、次々にそれに続く過程に巻き込まれ、徐々に(あるいは一気に)悪し き結果に落ち込んでいくことを避けられない」と主張する議論である。この議 論は論理学上これまで誤謬論理のひとつとして扱われ、重要な論理と見なされ ることはなかった。にもかかわらず今日滑り坂論がしばしば主張されるのは、 体外受精、遺伝子治療、遺伝子操作といった一連の生命操作技術が実用段階に 入ったからである。これらの新しい技術は単に自然・社会にいわばソフト・レ ベルでの大きな変動をもたらし、結果として人間のあり方の変化をもたらすに すぎないのではなく、さまざまな社会体制の変革の中でも人類が一貫して保持 し続けてきた「人間性」を身体というハード・レベルで大きく変化させてしま うのではないかとの恐れを持って捉えられているのである。したがって今日の 滑り坂論は生命操作技術の応用が存在的・倫理的に「取り返しのつかないおそ るべき結果」を生むと予想し、その技術の開発・適用を差し止めるか、適用の 仕方を変更させるか、遅らせるかすることを狙って提起される反対論という意 味あいを持っている。これが多くの人々にアピールするのは、その滑り坂論が 実際一定の正しさを持ち、自分たちの知らないところで自分たちの生活をどん どん変えていってしまう巨大科学のあり方に対する人々の漠然とした不安感を もとにしているからだと考えられる。その説得力の根は広範な人々の心中にあ る政治(家・官僚)不信と科学(者)不信なのである。だから今日の滑り坂論 をそれが誤謬論理であるか否かという論理学上の議論としてしか考えないなら ば、我々はその意味を捉え損なうであろう。またそれが科学技術の発展を理解 しないことから起こる疑似対立であり、啓蒙によって防ぐことができるとしか 考えないならば、原子力発電において大衆と和解しがたい対立に陥ってしまっ た動燃技術者たちの失敗の大愚を繰り返すことになろう。現在でも多くの科学 者達には実のところ、滑り坂論は論理的に誤っている、議論の形を借りた政治 運動にすぎないと思いたがる傾向があるように見える。そのような態度は科学 者と非科学者とのコミュニケーション断絶を促進し、ひいては新たな社会対立 を生む結果にしかなるまい。私は、正しく提起された滑り坂論は先端技術の持 つ危険性をかなり正確に指摘し、その対策を準備させ、早すぎる技術開発のス ピードを社会の受け入れ体制と調和するまで落とし、不毛な社会対立を最小限 にくい止める契機になり得ると考えている。そのために必要なのは滑り坂論は いかなる場面で有効かを正確に捉えておくことである。
以上のような認識に立ち、本稿では次のことを扱う。前半では滑り坂論の論 理的意味を探る手がかりとしてヴィブレン・ヴァン・デア・バーグの論文「滑 り坂論」(1)の紹介をする( )。後半ではこの論文の議論に欠けている滑り 坂論の存在論的構造を考え、特に生命・遺伝子操作の場面で意義ある論理にな るように構成し( .1)、その結論を踏まえて滑り坂にはまらないための条件 を概観し( .2)、滑り坂論の機能を確定する( .3)。
I.滑り坂の論理学-ヴィブレン・ヴァン・デア・バーグの「滑り坂論」の紹介
バーグは滑り坂論の基本構造を「もし我々がAを認めれば、Bが必ず、ある いはほとんど確実に帰結する。Bは倫理的にいって受け入れることはできない。 したがって我々はAも許すべきではない。」(42)と表し、これを「論理(概 念)型」(logical Version)と「経験(心理)型」(empirical version)と に分ける。論理型の定式は「我々がいったんAを許してしまえば、論理的にB を許すという過ちを犯す」と表現され、さらに二つのタイプに区分される。一 つは「AとBとの間には適切な概念的区別はないし、Aを正当化すればBも正 当化される。それ故にAを受け入れることは論理的に言えばBを受け入れるこ とになる」(L1、例:もし重度障害新生児を治療をしないという態度を認め れば、もっと成長した障害児を治療しないというも認めることになる。)。今 一つは「AとBの間に区別はあるにしても、Aとm、mとn、…yとz、zとBと の間にはそのような区別はないから、Aを許すことは結局はBを受け入れるこ とになる」(L2、例:もし三カ月の胎児の中絶を許せば、四ヶ月でも許され、… 新生児殺人も許容されるようになる。)と定式化される。経験(心理)型は 「Aを受け入れることの結果は、心理的また社会的な過程の帰結として、遅か れ早かれ我々はBを受け入れることになる」と表現される(43)。(例:医師 が安楽死を実施するよう態度を変えたならば、社会の中にそれを一般的に許す 風潮が生まれる。)
バーグは1.この三つの形式の滑り坂論がそれぞれどういう状況で妥当な (valid)議論となるかを(1)批判道徳(critical morality、現実の社会制 度の批判に使われる普遍的道徳原理)、(2)既成道徳(positive morality、 或る社会的グループあるいは社会によって現に承認され、分かち合われている 道徳性)、(3)法(law)という三つの規範に即して検討する。この問題は原 論文では論理型、経験型という二部構成で検討されているが、ここでは L1、 L2、 経験型と分け、図式的に整理して紹介する。次に2.「もし我々がA を許せば」というのはどういう意味か。「我々」と誰なのか、という問題を考 察する。
1.滑り坂論の三つの型はいかなる規範のもとで妥当な議論となるか
(1)批判道徳の脈絡で
(1)L1は批判道徳のもとでは全く妥当な議論とされる。なぜなら批判道徳に おいては「普遍化できるということ」(universalizability)と「論理的一貫 性」(consistency)とが重要な基準である以上、AとBとの間に適切 (relevant)な区別がなりたたない時、Bが道徳的に悪であるということは、 Aを拒絶する決定的な理由になるからである(45)。
(2) L2は批判道徳においては妥当性はないとされる。L2の議論は、AとBと の間(gray zone)に引かれる防衛線は恣意的な区別でしかないから、結局Aを 許してしまえばBに転落することを防ぐことはできないと主張する。しかしバー グは決定的な理由はないとしても、明確な線引きの基準は立てられなければな らないと主張するのは理にかなったことだといい、L2の議論を退ける。 (45-46)
(3)経験型も批判道徳においては妥当性のない議論であるとされる。まず純粋 な演繹的道徳性にとって不適切である。なぜなら経験すなわち社会的あるいは 心理的な過程は道徳規範の正当性を規定できないし、影響を与えることもでき ないからである。次に直覚は批判道徳を規定する正当な役割をもっているとす る新直覚主義(neo-intuitionism)が取りあげられる。反省的平衡の方法では (ロールズ、ダニエルズ)、批判道徳は慎重な判断(直観)ともっと抽象的な 原理との相互干渉として形成される。誰かの道徳上の見解が変化したならば、 他人の見解にも影響を与え、反省的平衡を変化させる。だから人は今は非難す べきだと思っていることを将来は受け入れることはありうる。しかしバーグに よればこれは滑り坂ではない。滑り坂論はBは悪いということを前提している が、新直観主義者は自分の見解が部分的には歴史的社会的に規定されており、 それ故に或る方向への最初の動きそれ自身が正しいように思われるならば、自 分の将来の見解に関する経験的な影響はそれに反対する議論でありえないとい うことを受け入れるだろうと言う。結局新直観主義の議論においても経験型は Aを許すことに反対する有効な議論ではないとされる。(51-52)
(2)既成道徳の脈絡で
既成道徳においては L1も L2も妥当性を持たないというのがバーグの見 解である。たしかにもし誰かがAは許されるべきだと思い、その考えに誠実な らば、Bを許すことを論理的に強いられたと感じるだろう。しかし既成道徳は 通常多くの矛盾を含んでいる。規正道徳が整合性を欠いていると前提すれば、 Aを許している既成道徳からは、論理的にBを許すという結論も、禁止すると いう結論も演繹可能である。だから「論理的に強いられる」と語るのは意味が ない。既成道徳の中にあるさまざまな見解の内では、他の意見に優越する一つ の特権的見解があるし(例えば「殺すなかれ」)、論理には批判的道徳の場合 とは違って強制力はないから、共同体の考えが論理とは違う方向を示すことは できる。(例えば南北戦争の前には奴隷制が許されていたことなど。)重要な のは経験的要素であって、論理それ自体が一方向を示すわけではない。 (46-47)
経験型は既成道徳では妥当な議論となる。なぜなら社会の道徳的見解とそ れを社会において実践することとの間には相互作用があるから、或る点での道 徳的見解の変化、特に実践面の変化(例えば安楽死の実施)は、別な点での道 徳的見解と実践面での変化(人間の生命に対する尊敬の念が薄れる)を帰結さ せるかもしれないからである。(52)
(3)法律の脈絡で
法律の脈絡では、バーグは制定法(statute)と判決例(precedent)を区別している。
a)制定法においては、
L1はだいたいにおいて妥当しない。法を制定する際に主張される一貫性 と普遍化の要求は政治状況に左右されるし、立法は大衆道徳を反映するから、 その正当化も一貫性を欠いたものとなる。さらに制定法は政策と能率を考慮し なければならないし、さらに対立するグループ間の妥協の結果でもある。だか ら批判道徳では無意味な区別も立法においては合法化されることがある。した がってL1は立法の脈絡では、成功することがないわけではないが、ほとんど 見込み無しということになる。(49)
L2は妥当性はない。まず立法(legislation)行為の観点から言えば、法 律はしばしば任意とはいえ明確な限界を設けるから、論理的に坂を滑るという 議論は成り立たない。法が曖昧な場合には、法の意図がAだけを許す点にあっ たとしても、裁判官の裁量次第でBを許すように解釈することはできる。しか しこれは制定法においては曖昧さを避けなければならないという議論であって、 滑り坂論ではない。(48)
b)判決例においては、
L1は妥当であることの方が多い。 L2は完全に正当な議論と見なされる。
それには三つの理由が挙げられている。第一に、裁判は立法より批判道徳に 近いから、普遍化と一貫性という基準が重視される。第二に、裁判は政策や政 治的妥協よりも原理の議論に基づく(べきだ)から、やはり批判道徳に近い。 さらに法を変えるために裁判官がもつ裁量の幅は立法部がもつ幅よりもずっと 狭い。だから裁判官は「現にある法」に対して一貫した態度を取らざるをえな い。この二つの事実にL1は有利な条件を持つ。(49)
第三に、裁判はケース・バイ・ケースで扱われ、判決例はステップ・バイ・ ステップで修正され、この気づかれないようなステップの重なりが法を変化さ せてゆく。Aを受け入れた裁判官にこうした漸進的過程を始める意図がなかっ たとしても、それは新しい判決例として次のmを受け入れる裁判の法的状況の 前提となっている。裁判官の意見も変わって行き、先例が力となり、mを受け 入れ、nを受け入れ、ついにBに至るということになる。かくしてもともとは Aのみを正当化しBを正当化していなかった法の原理は、さまざまな事例に関 するさまざまな裁判を通じてだんだんと修正されてゆき、Bも法的に正当化可 能となる。しかも裁判は多数の裁判官によっておこなわれ、裁判官それぞれの 決定は法の一部と取られる。裁判官XはnとBは同類であり、線はmとnの間に 引かれるべきだと思う。一方裁判官Yは線はnとBの間に引かれるべきだと思 う。もしYがこの前提の上でnを受け入れたならば、Xは、Yの作った先例を 尊重して、一歩進んでBを受け入れるかもしれない。だからL2は判決におい ては強力な議論となるわけである。(49-50)
経験型は法においては妥当でありうる。法の規範と道徳の規範と社会の実 践との間には相互作用があるから、法を変えることは経験型の滑り坂の第一歩 となることがある。a)立法の場合、共同体の道徳的見解は通常終身の裁判官 よりも選挙で選ばれた議会により代表される。だから坂道への第一歩は裁判官 よりも議会によって踏み出されやすい。ただし制定法を作るには新しい判決例 を作るよりも時間、エネルギー、妥協性を要する。b)判決例の場合、判決の 理由づけは批判道徳の理由づけと似ている。世論が原理的でなければ、裁判官 はそう簡単には世論からの圧力に屈しない。けれども裁判官も結局は世論に配 慮するから、これも大きな違いではないとバーグは言う。(52-53)
以上バーグが出した結論は1)批判道徳においてはL1だけが受け入れ可能な 議論である、2)既成道徳においては経験型だけが有効である、3)法は批判道 徳と既成道徳との両方に顔を向けているから、L1とL2との中間に位置し、さ まざまな妥当性を示す、というものである。そしてバーグがとりわけ重視する のは、制定法と判決例でL2が正反対というところである。議員は規則を作り、 白か黒か(all-or-nothing)というかたちでそれらを変える。一方裁判官は三 歩進んで二歩下がるという実験的試みをする。この結論から法の改正する場合 の最善の処置を読みとることができると言う。或る行為を合法化しようとする 場合には、比較的はっきりした新しい試金石や基準についてのある種の合意が 存在している。そのような状況においては、それらの試金石や規範を合わせて 一つの制定法にするのが望ましく、そうすれば滑り坂を避けられる。定式化さ れるべき正確な試金石や基準についてのはっきりとした合意がまだない場合は、 ケース・バイ・ケースで取り組むのが最善であり、この場合には裁判がうまく 機能する。明確な規則が裁判の実験法という結果として具体化する。裁判官が 新しい必要に対応し、また法律やそれらの決定についての大衆団体からの批判 に対応する。こうした過程から明快なガイドラインという帰結をつくり、その 後にはじめて彼らの決定を制定法にいれるのが有益である。オランダの安楽死 法制定までの紆余曲折はその好例と見なされる。つまりそこにあるのは滑り坂 ではなく、不確実な状況であるにすぎない。彼女は言う。「我々が注意深く振 る舞うという条件をつければ、我々がAを正しいと見なしているならば、Aを 許すことを控える必要はない。この一歩が、我々がとる必要のないその先の道 を通して、将来Bにつながるかもしれないという理論的可能性があるというだ けでは、Aを許さない十分な理由にはならないのである」(54)。
2.「Aを許す」とはどういう意味か
第二の課題は「もし我々がAを許すならば」の「我々」とは誰のことか、そ して「許す」という行為はどういう場合成立するのかである。これも三つの規 範に従ってまとめておく。
(1)批判道徳の場合
批判道徳ではL1が唯一有効な議論であった。この場合「我々」の意味をバー グは「同じ伝統に広範囲で属する倫理学者の党派」(forum、例えば功利主義 者、ロールズ主義者など)と定義することができるとする。或る党派がAを許 すとすれば、三つの理由がありうる。1.幅広い反省と議論から、或る規則や原 理の現行の定式がAを禁止する確固とした理由にならないことが分かる(新し い技術の規正の場合)。2.反省と議論の後、今に至るまでそれにふさわしい扱 いを受けてこなかった原理を党派が重視するようになる(倫理説の発展、主要 概念の変更)。3.党派の諸メンバーがAは受け入れ可能だと強く直観する。同 様のやり方でBを考察した場合、彼らの理論や基礎概念をBを許すように変え るか、BはAと区別されないのだから、Bも受け入れ可能なものとしなければ ならないかどちらかとなるだろう。しかしL1においてはAを問題にした瞬間 にBは悪しきものと前提されているはずだから、これは滑り坂論ではない。結 局L1は或る規範を普遍化できるか否か、首尾一貫した理論になるか否かとい う問題であるにすぎないとバーグは結論するのである。(55-56)
(2)既成道徳の場合
既成道徳で唯一有効な議論は経験型であった。この場合「Aを許す」とは、 規範のレベルでは滑り坂の次なる一歩に導くものとしてAを評価することで あり、 社会的な活動のレベルでは坂道を下らせる結果を引き起こす実践ある いは政策Aの施行のことをいう。
の場合、「Aを許す」ということは社会のグループや社会がだんだんとA を受け入れていく漸進的な過程のこととして解釈できる。だとすると、Aある いはBを受け入れることは通常より複雑な社会的過程の一部分であろうし、多 くの社会的な要因の帰結であろう。だからAの受け入れをBの受け入れの必要 条件として孤立化させることはできないことが多い。第一に、Aの承認はBを 承認することになる広い社会的過程の徴候〔symptom〕にすぎず、それ自身は Bの受け入れにつながる過程への原因的要素ではない。第二に、Aの承認は滑 り坂の過程のシンボルであって、それ自身は道徳的に中立で相対的に害なきも のであるにしても、究極的にはBに導く広い過程の一部だから許されるべきで はないと主張するのも安易である。例えばインフォームド・コンセントの背景 にある自律思想は中絶・胎児殺しを容認することになるからといって、インフォー ムド・コンセントの受容に抗議することはできない。Aを受け入れることがB に導く社会的過程の一部であるという単純な事実だけで、Aを受け入れること に反対する議論になるわけではない。正しい滑り坂論を立てるためにはそれ以 上の証明が必要なのである。(57-58)
の場合、経験型の議論はAの実践に集約される。中絶や安楽死の実践は医 者の殺人に対する強い反対を鈍らせる。つまり、1.Aを行うことは行為者に間 違った(corrupting)影響をもつという議論になる。たしかにはっきりとした 単純な区別がない場合、間違った影響が起こりやすいから、問題は違った役割 あるいは役割の異なった側面の間にはっきりとした区別があるか否かにある。 2.Aを行い、受け入れる社会の中で生きている人に間違った影響を与える、例 えば老人が安楽死を選ぶ際のプレッシャーとなる。この場合の恐れは二次的影 響であり、滑り坂ではない。或る実践Aの厳格な限界を公に議論し、はっきり としたコントロールを可能にした方が、その実践を非合法に任せるより良い。 自発的安楽死を明確な基準で容認すれば、逆に安楽死が強制される恐れは少な くなる。(59-60)
結局どちらの場面でも経験型は具体的状況に左右されるのだから、実践的な理由付けにおいては経験型滑り坂論は重要な役を演じるべきではないとバーグは結論するのである。
(3)法の場合
法においては「我々がAを許す」ということの意味は比較的明瞭である。法 とは権威的機関が或る規範を受け入れるか否かを左右する制度であるから、最 高裁がある日Aを許したならば、共同体もそれを突然許すということになりか ねない。経験型の主要問題は或る結果を引き起こす原因としてのAを確定する ことである。我々は合法化の影響については道徳規範における漸進的変化のよ うな捉えにくい現象の影響についてよりも確実に予測できるから、経験型の証 明の義務は法においては軽い。L2について言えば、法廷がAを許すという判 決を下したら、そこが法理論の新しい立脚点である。だからいったんAが受け 入れられたら、実際これはほとんど気づかれない小段階を踏んでいって、結局 はBに至るということを意味する。だから、Aを許すことは規範を侵食する原 因となるだろうというこの議論は、(既成道徳においてはAを単純な原因とし て孤立化できなかったので失敗したが、)法においては堅固で正しい議論とな る(62)。法を変えることが必要であるものに関して議論する場合、我々は滑 り坂論に配慮しなければならない。「もし諸規範の体系が規範的決定のできる 規範的権威がいるように制度化されるとすれば、その場合には滑り坂は気をつ けなければならないリスクになりうる」。これがバーグの結論である。 (63-64)
以上のようにバーグは滑り坂論が通用する領域を制度化された規範、特に法 の領域に限定し、道徳の領域については二次的な意味しかないと結論する。安 楽死などの基準を法制化する場合、バーグの言うような慎重な手続きを重ねて いくことが滑り坂にはまらないための有効な手であり、その限りで彼女の結論 を我々はおおむね受け入れることができるだろう。しかしバーグは滑り坂論を 議論の論理学としてしか考察していないために、その議論の有効性はやはり議 論の仕方にしか妥当しない(2)。彼女のように議論の非論理性を明らかにする というやり方では、生命・遺伝子操作に適用された滑り坂論には十分対応でき ない。なぜならそれらは滑り坂を未来の存在論として述べているからである。 そこで次に滑り坂論の存在論的性格を考察し、バーグの議論の補足としておき たい。
II滑り坂の存在論
1.因果型(論理的)滑り坂論と根拠-条件型(存在論的)滑り坂論
生命・遺伝子操作の滑り坂論は一つの未来論であり、滑り坂の開始点と終着 点との間に一定の時間を経過することを前提としている。従って坂を滑るか否 かはその時間の間に何が起こるかという経験的要素に依存するということはバー グの指摘を待つまでもなく明かである。そうなるとそれは論理の問題ではなく、 現実の社会の情勢に大きく左右される。坂を滑ることもあれば、とどまること もあり、そもそも坂があるという認識が誤解であったという場合もあろう。し たがって一般に「論理」型の滑り坂論はとりわけ生命操作の問題を考えるにあ たって不毛だということになる。だからといって生命操作の滑り坂論一般が不 毛なのだと考えるのは早計である。それを伝統的な論理学の文脈での「論理」 の問題として、あるいは議論(argument)の論理として扱うことが的外れなの である。というのも、この滑り坂論は議論の論理というよりも、(主唱者は意 識していないかもしれないが)存在の論理として説かれているからである。生 命操作の第一歩を許すことによって自然・人間・社会という存在世界全体のあ り方が大きく変わることを彼らは恐れているのである。このことをよく考えな ければ我々はこの問題のを本質を捉え損なうことになろう。
滑り坂論を議論の論理の問題として捉える態度を存在論的に翻訳すれば、滑 り坂の構造を「因果性」として捉えるということになる。なぜなら「論理」も 因果性も必然性を要求するからである。バーグは結果を引き起こす原因として のAを確定することは経験的要素に依存するから論理的には確実なことは言え ないという陳腐な主張に陥り、そのような独立した原因を探求することは制度 として確立した法の領域においてしか有効でないと結論した。しかし滑り坂論 におけるAにそのような原因性を帰すことはそもそもできない。例えば「体細 胞遺伝子治療を許せば、生殖細胞遺伝子治療も許されてしまうだろう」という 議論において、「体細胞遺伝子治療」が「生殖細胞遺伝子治療」の原因だとさ れているわけではない。この滑り坂論におけるAにはにはそのような因果的必 然性はもともと帰せられておらず、これを因果論としてみるのは、カテゴリー の適用ミスなのである。
ではこの滑り坂論の主張を真面目に受け取るためには我々はこれをいかなる カテゴリーで捉えなければならないのだろうか。存在論的に考えれば、これが 主張する危機の構造は「根拠と条件」の関係に当たると考えるのが適当である。 「根拠」とは或る事柄を発現させる土台となる存在者であるが、それ自体では その事柄を発現させる仕組みを欠いているから、まだ根拠でさえもない。或る 存在者を或る事柄の根拠たらしめるのは「条件」である。根拠に条件が加わる とき、根拠は己が内在させていた可能性を発現させ、或る事柄を出現させる。 こうしてそこに存在するようになった現実的な一存在形態が「現実存在」であ る(3)。一般に科学技術の性格は倫理的に中立であり、その正用、悪用は人間 によるその応用の仕方の問題である、とよく言われるが、それは科学技術はそ れが応用される際にどのような条件がそこに存在しているかによって大きく存 在形態が変わるという「根拠」としての存在性格を持っているからである。例 えば原子力は世界戦争の時代とそれに続く冷戦の時代に発展したために、破壊 兵器として利用されることになった。もし原子力が平和でエネルギー問題のな い社会で開発されたのだったら(そんなことはありえるはずもないが)、それ が日常生活に影響を与えるような存在形態を与えられなかったであろう。
滑り坂論の脈絡では遺伝子操作技術もやはり「原因」ではなくて「根拠」に とどまる。遺伝子操作技術はそれ自体では自分がどのような坂を滑ることにな るかを必然的に決定できるわけではない(4)。したがって我々が坂を滑って行 くのか、踏みとどまるのかは、この現実の条件に依る。前提「もしAを許せば」 はそうした諸条件を媒介項として結論「Bも許されることになる」を現実化さ せるのである。科学技術の道を坂道にする条件は我々が作り出す社会システム の内にある。だから我々が坂を滑らないためには、生命操作技術の本質的性格 が何であるかを規定するだけでなく、道を滑り易い坂道にする条件を規定する ことが欠くことのできない要件となる。そうした条件規定を欠いた滑り坂論な らば、感情論か扇動だと批判されても仕方がないだろう。道を滑り坂にする条 件が実在すること、それこそが真の危機であり、そしてそれは(特に日本には) 実在していると考えられる。だからこそ滑り坂論はいかに議論の論理としては 誤りだと言われても、説得力を持ち、無視できない議論なのである。それらの 条件を排除すること、排除できない場合には技術の全面適用を差し控えること こそが合理的である。そこで次にその条件を、少々乱暴な形でスケッチしてお くことにする。
2.滑るための条件-科学の道を坂道にするもの
(1)社会の民主化の水準-科学の政治利用目的の公共性と差別的イデオロギーの問題
遺伝子工学のような科学は学者の好奇心を満足させるために行われているの ではない。期待されているのはそこから社会的な利益を得ることである。その ために社会政策決定機関、つまり政府がこうした科学プロジェクトに資金を提 供するのであって、その巨大な資金がなければこうした研究は展開されない。 科学の現状を規定するのは政治であり、坂の滑りやすさは巨大科学政策を決定 する政治体制の民主化の水準に依存する。科学技術の開発援助・応用化にあたっ ての政策決定、資金配分が社会の公共性に即して妥当なものであるか、特に軍 事利用される可能性はないかといったことが我々の検討の中心になってくる。
さらに差別を肯定する社会的イデオロギーがあるところでは、遺伝子工学が 危険な形で応用されないとは言いきれない。肌の色や目の大きさを「改良」す ることになるのではないかという懸念がでてくるのは、そうした特徴を持つ人 種を差別する発想が日常的に働いている社会が現にあるからである。この種の 社会的差別イデオロギーは人種差別、南北問題のような大きな問題や、精神障 害者、発達遅滞の人、老人にたいする社会の見方といった見えやすいものばか りでなく、背の高さ、女性の容貌といった通常見のがされている差別まで、人 間社会にはけっこうあるものである。そして社会が一定のイデオロギーを信じ ているとき、そのイデオロギー的性格は意識されにくく、科学技術をそれに合 わせて使うのはたやすく、坂は滑り易くなる。
(2)資本の論理-生命操作と市場経済
遺伝子工学にははじめから産業化が期待されており、巨大企業がはじめから 関与している。しかし大企業の利益追求と科学技術が結びついたとき、利益追 求のために応用に先走り、安全性が無視され、悲劇的な結末を迎えた例はいく らでもある。食品添加物等の危険性は長年指摘されながら遅々として改善は進 まず、薬害は起こるたびにその背景に薬品会社と厚生省の癒着と安全性無視が あったことが指摘される。またアメリカでは精子銀行が産業化され、「優秀な 子供」を得るためにノーベル賞授賞者の精子で人工受精を行うというまったく の優生学的子作りがとうに実現している。安全性の問題さえ解決されれば、遠 い(近い?)将来、優秀な子を得ようとする親心を遺伝子工学が支える世の中 になるだろうという滑り坂論の主張はかなりの程度あたりはじめている。遺伝 子操作技術を市場経済にまかせるか否かに関しては厳格な検討がなされるべき である(5)。
(3)科学者・技術者の学的関心・名誉欲・非社会性
優れた科学者・技術者であればあるほど知的好奇心に突き動かされ、他者を 犠牲にしてまでもその関心を満たそうとする(七三一部隊を考えよ)。また自 分の研究が応用されるときに生じる「意図しない結果」に鈍感だったり、こと さら軽視しようとする。そして自分の研究の見返りとして権威に裏打ちされた 学的名声を熱望する。すでに現代科学に個人の名誉に帰されるべき発見などは 研究体制上ありえないのに、個人の名において栄誉を与える制度は残っている。 そこで彼らは発見競争に負けないよう必死に争い、加速度的に研究を進展させ る。早すぎる展開の故に何が起こるかなどと反省する余裕は彼らにはない。そ のために先端技術の組織的な発展に社会の体制と意識とが追いつかず、受け入 れ準備の整わないまま、技術を受け入れろという要請が社会に突きつけられる (6)。ここには公共性の意識や倫理・哲学は深刻な形では存在しない。しかも こうした公共性の意識と哲学の欠如は、科学の輸入になれ、自分が関わる科学 の影響、技術の実現の意味を哲学的に考える習慣をもたないと言われる日本の 科学者の特徴であるとさえ言われている。この風潮は日本の理系教育の欠陥と してしばしば指摘されていながら、改善されてこなかったものである(オウム の「科学者」や「動燃」の技術者を生む土壌)。そのため彼らにあっては大衆 から離れた専門エリートの意識が生まれやすく、自分達が行っていることが真 理の探求あるいは社会の要求の実現なのだとして正当化され、反対者は科学に 無知な故に反対するのだという思いこみがあるようである。研究の自由を持つ 人々が社会へ大きな影響を与えることを何の反省もないままにある問題を社会 に突きつけてきたとしたら、社会の側はそれを考察する時間を、場合によって はさしとめる自由を保証される権利があるはずである。
(4)俗流科学的イデオロギーの存在
ダーウィン主義や優生学といったイデオロギーは科学が新しい展開を見せる ときには必ず現れてくる社会現象である。今日の分子生物学の驚異的な発展に より、人の能力、性質、行動の決定的要因を遺伝と見なし、ある人が病気にな るのも、犯罪を犯すのも、不幸になるのも皆遺伝的要因によるのだと考える遺 伝子決定論、あるいは従来対立概念とされてきた有機体と機械論を結合する有 機体的機械論とでも呼ぶべき発想が現れた。これは優生学以来科学者の中にも 大衆の中にも常に存在し続けてきたし、今も厳然と存在している強力なイデオ ロギーである。これのあるところでは、遺伝子操作という「夢の技術」によっ て問題を解決しようとする風潮が生まれてくるのは当然と言える。もしそうし た傾向が一般的になれば、例えばガンをなおすのも第一に遺伝子治療を考える ということになり、ガンを多発させる環境を改善するという根本的な対策は軽 視されることに成りかねない。
3.滑り坂論の機能-その意義の確定
以上のスケッチに基づいて今日の遺伝子操作滑り坂論の存在理由、そこから 提起されているものを三点指摘しておきたい。
1.科学と科学政策に対する批判・警告機能、および社会科学的分析の要請: 現在の科学研究体制、教育制度と、それを利用する社会のシステムの批判が滑 り坂論の第一の機能となる。しかしそれが単なる撲滅的批判に終わらないため には、特に科学政策の社会科学的な分析が不可欠となる。ここでは各個人、市 民団体、社会科学者の役割が重要である。
2.専門家と非専門家のコミュニケーションの要請:科学(者)不信の中で先 端科学はますます極度に専門化していき、専門家どうしも含めて専門家と非専 門家のコミュニケーション断絶は日常的なものになっている。それが不断に 「漠然とした不安」を生みだしており、しかもそれらを媒介するものが現在組 織的に存在しない。滑り坂論が生み出す対立が根底において要請しているのは そうしたコミュニケーションである。ここではジャーナリズム、サイエンス・ ライターといった人たちがはっきりした役割を持つべきである。
3.科学知を哲学知へと媒介する機能:滑り坂論が促したのは技術の発展方向 に沿って人間社会を作り上げていくことに対する反省である。この場合滑り坂 論は科学知を哲学的問題へと橋渡しする媒介者として機能している。人間の将 来、文明のあり方、社会の公共性、なぜ人は生きているのかといった問題が、 人生論的、宗教的課題を含め、改めて提起されたわけである。従来こうした哲 学知は形而上学に陥ることを警戒する余り、科学知と分離されてきた。だが哲 学の潮流におけるこうした分離を終わりにする時が来たようである。これは哲 学者に限らず、我々のすべてが真剣に検討すべき共通のテーマであろう。
おわりに:問題の真相-自然と人間的自由
滑り坂論を成り立たせる前提は坂の下にあるものが「悪しきもの」であるこ とだった。しかし優生学はともかく、遺伝子操作技術を人間改造に適用するの は濫用・悪用だというのは実は共通の前提ではない。改造された人類が切り開 く可能性を肯定的に語っている人は科学者に限らずいくらでもいる。だから人 間改造に関しては、生命・遺伝子操作の滑り坂論の背後にある真の問題は坂を 滑ることそれ自体ではなく、人類の将来を何に託すかという未来選択の争いな のである。それは結局「自然」と人間の「自由」との対立という哲学の古典的 問題でもある。自然を天然自然のままに終わらせず、ひたすら「第二の自然」 として構成し直す自由を求めて絶えず歴史を動かしてきた人類が(少なくとも 先進国では)自由が提起する問題の深刻さに辟易としているようにも見える。 だから遺伝子操作の滑り坂論の中心にあるこの問題意識はガイドラインや規正 法が成立したら解決というものではなく、当分の間哲学の中心に座りつづける だろう。次の機会には実際の滑り坂論の主張とこの人間の自由の行く末につい て論じてみたい。
〔注〕
(1) Wibren van der Burg, “The Slippery Slope Argument”, in Ethics, vol.1,102,1991. ()内はこの論文の頁を表す。著者は名前から推して女性と しておく。
(2)こうした立場故に彼女は、滑り坂論が倫理的討論でしばしば使われる理 由を四つしか挙げることができない。それは、1.この議論がレトリックの力 (言葉の魔力)、デマゴーグ的な力をもっている、2.人々の関心を強く引くテー マを論じている。3.この論文の前提とは違って、実際には批判道徳と既成道徳 は互いに影響し合い、法はこの二つに依存している、4.滑り坂論、特に経験型 は自分の立場にかなう事実だけを取り出して議論できる(63-65)。彼女が特 に3をもう少し展開すれば、滑り坂論の力をさらに大きくみただろう。
(3)これはドイツの哲学者ヘーゲルの議論である。『大論理学』・「本質論」・ 「根拠」の項に詳しい。武市健人訳、岩波書店、84-136頁。
(4)そうした必然性を持って自己をさまざまな形で発現させていく主体をヘー ゲルは「概念」(Begriff)という。これはもちろん普通言われる「観念」の ことではない。「概念」は己の目的に従って自然を制御していく「自由」を持っ ている。遺伝子操作技術はそうした概念の自由の人間的なあり方であるから、 滑り坂論の脈絡に限定されなければ、「概念」としての性格を持っている。
(5)市場経済の論理はむしろ滑り坂の歯止めとなるという意見もある。企業 は経営を一気に悪化させるような危険性のあるものには手を出さないから、健 全な市場経済社会では人間に害のある産業は淘汰されるであろうというのであ る。ただし、この見解は現実に有害産業が淘汰されるまでにその害を成し終え ているということと、生命操作の影響が企業家たちの営利計算よりも長い期間 を経て後現れるという事実を無視していると思われる。
(6)もし技術と社会の発展速度が極端にズレることになれば、そのズレを解 決する鍵はその技術を熟知している者が握ることになる。そうした少数者が権 力者に利用されれば、「賢人会議」によって社会の針路を左右させていこうと いう少数支配が成立しかねない。中曽根内閣時代に首相がしきりに「私的諮問 機関」をつくり、何の権限ももたないそこでの決定を受けて政策を遂行していっ た例がこれによく似ている。