選択的人工的妊娠中絶:その道徳的コスト

選択的人工的妊娠中絶:その道徳的コスト

浜野 研三

1、はじめに

周知のように、羊水診断、絨毛診断等の胎児に関する診断技術の発達と共に 社会は、そしてより直接的に、当事者である親は、今まで出会うことのなかっ た道徳的問題に直面することになっている。いわゆる出生前診断の結果によっ ては、親はその胎児を中絶するべきか否かを決断することを迫られるようになっ ているのである。このような診断技術の発達以前は、親はただただ子供が健康 であることを祈るという選択しかなく、それを言わば人間の運命として受け入 れていたのである。しかし、診断技術の到来と共に、さまざまな意味で望まし くないと考えられる生命の誕生を防ぐために中絶を行うという選択肢が付加さ れ、その意味で自由の範囲、自己決定権の行使の範囲が増えたが、同時に、そ のようにしてえられた自由をどのように行使すべきなのかという困難な道徳的 問題に悩まざるをえなくなったのである。ヒト・ゲノム計画の進展と共に、さ まざまな病気の原因となる遺伝的欠陥が特定されるようになり、中絶の是非に 関する決断を迫る情報の量が増えることが予想される。このような状況を踏ま え本論文においてはなによりも、出生前診断によってえられる胎児の遺伝的欠 陥に関する情報に基づく選択的人工的妊娠中絶〔以下、選択的中絶と呼ぶ] の 道徳的含意について論じることにする。議論の順序は以下のようである。まず、 出生前診断によってえられる遺伝的欠陥に関する情報に基づく選択的中絶を支 持する理由の主なものを三つ説明し、次にそれらのそれぞれについて批判的に 検討する。そして、そのような批判の中核をなす道徳的コストに関する危惧に ついてより詳しく説明する。最後に、選択的中絶等の生命倫理の問題を考える 際に念頭に置かれるべき人間観に関する素描を行う。

2、遺伝的欠陥に関する情報に基づく選択的中絶を支持する主な三つの理由

ここでは、出生前診断によってえられる遺伝的欠陥に関する情報に基づく選 択的中絶を支持するためにしばしば用いられる、三つの主な理由を説明する。

まずなによりも、問題となっている遺伝的欠陥を背負って生きざるをえない 人の生は「耐えがたく生きるに値しない」という生命の質を根拠とする理由が 挙げられる。この理由の特徴は、親や社会ではなくなによりも本人の利益を考 慮するならば中絶もやむをえない、という形で本人の利益に焦点を当てている ところである。これを「本人の生命の質を根拠とする理由」と名付けることに する。

次に、親や兄弟姉妹等家族の負担を考慮するならば、障害をもたない子供を 将来妊娠する可能性もあることを考慮すれば、中絶もよしとせざるをえないと いう理由である。ここでは、焦点は親やその他の家族など直接養育と介護に携 わる人々の負担そして生命の質に焦点が当てられている。理由を「家族の負担 を根拠とする理由」と呼ぶことにする。

最後に、社会全体の負担の増大を根拠とした理由が挙げられる。重大な遺伝 的欠陥の故に様々な障害を持つ人のための治療や世話や介護には多くの人手と 費用がかかるのであり、たとえマス・スクリ-ニングを実施しても、そのよう な人々の数を減らすことができれば、全体として社会の負担は減少するのであ るから、政府の財政が逼迫しているおり、資源の適正利用と適正配分のために 中絶も仕方がない、というわけである。これを「社会の負担の増大を根拠とす る理由」と名付ける。・

以上、選択的中絶を是とする理由の内の主なものを三つ挙げたが、最初の二 つの理由は、往々にして、胎児やその家族など極めて私的で個人的なレベルで 問題をとらえる観点から唱えられる理由であるということができる。他方、3 番目の理由はまさに公的でマクロなレベルの視点から唱えられた理由である。 次に、これらのそれぞれに批判的検討を加える。最初の二つについてはなによ りもそれらが持つ広い社会的視野の欠如の危険性を根拠とする批判であり、三 番目の理由に対しては、マクロなレベルの量的な評価によって見失われるもの を指摘することによる批判である。

2、本人の生命の質を根拠とする理由の批判

本人の生命の質を根拠とする理由はいうまでもなく、ナチの優生学を思い出 させる「生きるに値する質をもたない生命」というその取扱に最大限の配慮を 必要とする極めてデリケ-トな概念を用いている点で、多くの議論を呼んでい るものである。このような概念に正当性を認めることができるのか否かが今再 び問われているのである。生命は生命であるだけ、即ち生きているというだけ で尊敬に値するという、いわゆる「生命の神聖性」を認める立場からはこのよ うな概念は語義矛盾を含むことになる。他方、生命は生命であるだけでで尊重 されるべきでありその存続のために最大限の努力が払われるべきだという立場 は、個人の生命の質を無視する結果個人や社会に多大な危害と損害をもたらす 生命至上主義(vitalism)であるとして、生命の質の概念の正当性を認める人々 から批判されている。・

言うまでもなく、問題はこの「生きるに値する生命の質」なる概念の内容が 確定したものではなく、人々の判断に一致がみられない多くの境界事例が存在 する事実である。そのように判断が分かれる最大の理由はこの概念が単なる客 観的な事実を記述する概念ではなく、生きるに値するか否かという道徳的な価 値判断の要素を含んだ概念であるからである。多くの事例においてそのような 道徳的判断が分かれたとしても、多様な伝統や人々のさまざま人生経験を考慮 すれば、驚くにあたらない。

筆者自身は、極端な生命至上主義をとらないかぎり、たとえば、間断のない 激しい痛みや早期の死が確定していることなど悪条件が重なっている場合等、 「消極的安楽死」を肯定する際に挙げられるものと同種の条件が満たされてい る場合が存在することは認めている。但し、そのような条件の確定と適用はで きうるかぎり厳密でなければならないという強い限定の下でのみそのような判 断は是認できる、という立場である。また、一定の条件がある程度確定したと しても、その後の研究の結果、そのような条件下においてもよりよい対処の仕 方が発見される可能性があることも常に念頭におくべきである。しかし、その ようなことをすべて踏まえたとしても、有限で死すべきものである人間の生に おいて、消極的安楽死や中絶もやむをえないという事態の存在を認めざるをえ ないのでは、と筆者は考えている。このような場合にふさわしい行為は、その 形式はなんであれ、同じ有限性を背負う人間としての連帯の表現である。した がって、以下の選択的中絶に対する批判的な議論は、選択的中絶を全面的に否 定するもではなく、そのような言わば究極の場合ではない場面で、安易に選択 的中絶を選ぶことを防ぐために考慮にすべき事柄を述べようとするものである。 なお、筆者はここでは詳しく述べないが、女性の自己決定権の擁護の観点から、 中絶一般の権利を認める立場をとっている。

さて、選択的中絶の是非を判断するために胎児の誕生後の生命の質を判定し ようとするときに理解しておくべきことは、人間が本質的に歴史的社会的な存 在であることである。個々の遺伝子ではなくゲノム全体、そしてゲノムと環境 との相互作用等々、遺伝学においても様々なコンテキストにおける生命体の個 別的歴史的変遷の理解の必要が強調さているが、生命倫理においても、同様に、 個々の胎児、障害を持つ人、老人、終末期にある患者等々をそれらの人々がお かれている歴史的社会的コンテキストの下で理解したうえで問題についての考 察をすすめるべきなのである。そのような観点から選択的中絶に関わる生命の 質の判断の在り方を考えれば、直ちに、多くの社会に根強く残る遺伝病や障害 者に対する偏見の存在のことを考えざるをえないであろう。そのような偏見の 核をなしているのが、遺伝によるものであれなんであれ、重い障害をもつ人の 生活は例外なく惨めで社会に積極的な貢献ができない価値のないものでしかな い、という偏見である。したがって、生命の質を考察する際には、障害や欠陥 に内在する要素とその社会に広まっている偏見を含めた当の社会の状況に応じ て変化しうる要素とを区別することが必要なのである。

実際、障害をもった人を介護するためには、多くの人手が必要であり、社会 全体の精神的物質的な支援が必要であり、そのような支援を十分に受け、社会 の一員として認められているとの自覚が持てる社会に住んでいる障害をもつ人 と、そのような支援が与えられず逆に資源を無駄にする無用者、余計者として 扱われような社会に住む障害者とでは、その生命の質に大きな開きができるこ とは明らかである。しかし、そのような開きは、障害に必然的に伴うものでは なく、社会が障害をもつ人に対する意見と態度を改め、資源配分の優先順位を それに応じて変えるならば解消することができる性質のものである。それゆえ、 1.49(1993年)という出生率の背後にある現状、経済成長優先政策の 結果通常の意味で障害をもたない子供を育てることさえ容易ではなく、障害を もつ子供の介護と教育はなおさら困難であるという現在の日本社会の状況を考 慮するならば、重い遺伝的な欠陥をもった胎児に対する処置に関するアンケ- トで出産年齢の女性の多くが選択的中絶の選択肢を選ぶことも驚くにあたらな いのである。

障害を持つ人々の生命の質を十分に確保するための十分の対応ができていな い社会の現状において、胎児の誕生後の生命の質について抽象的非歴史的に語 ることには大きな危険が潜んでいるのである。社会はそれを主要な理由として 中絶を容認する程に胎児の誕生後の生命の質に多大な関心をもち、重要視する のであれば、現実に誕生し障害をもちつつ日々生きている人々の生命の質を高 めるための施策を実施すべきである。事実、遺伝的欠陥による障害の度合いに も様々あり、障害を持つ人々の生命の質を高める余地が様々にあることが具体 的な事例で証明されているにも関わらず、そのような対応が積極的になされて いるとは到底言えない状況である。現実の障害者の生命の質を軽視するような 対応をとりながら、選択的中絶を正当化する場合には、生命の質を全面に押し 出すような態度は首尾一貫したものということができない。個々人の生命の質 を高めることを優先するならば、現に生きている障害をもつ人の生命の質を高 めるための多くの実現可能な施策を実行すべきなのである。

勿論、現に生きている障害をもつ人々も遺伝的欠陥を持つ胎児も貧しい生命 の質しか期待できないので積極的な援助は必要ではないという立場をとってい るとするならば、首尾一貫した立場であるとは言える。けれども、そのような 立場は人間の有限性を受け入れつつも、具体的な事例の存在に励まされながら できうるかぎり人間の生の可能性を追求しようという立場からは到底受け入れ ることができないものである。その意図とは別に、具体的歴史的現実に関する 十分な考慮なしに安易に選択的中絶を勧める人々は、今述べたような批判され るべき立場から障害者は本来存在すべきではないというメッセ-ジを送ってい ると受け取られても仕方がない面があるのである。しかし、このような立場は 明らかに、現に障害をもって生きている人々の生を貶め、それらの人々に対す る既に存在している差別をより強化するものである。しかも、この種の立場が 単に論理的可能性としてだけ存在しているのではないことは、障害者の要求に も関わらず基本的な介護、教育、就職等数多くの場面で障害者の生活をより良 くするための施策が実施されていない現実、ハンセン氏病患者の辿った運命、 エイズ・薬害訴訟の経過と患者が実名を公表できずにテントの中で顔を隠しな がらでなくては座り込みが出来ない事実等、日本社会の現状を考慮すれば明ら かである。大正時代の日本における精神病患者の処遇についての長期の調査の 後に、その調査の指導者である東京帝国大学医学部教授呉秀三をして患者の病 気による不幸と共に「この国に生まれたることの不幸」を嘆かせた日本社会の 悪しき側面、正確な知識と人権の尊重によってではなく無知と偏見と恐怖によっ て、病気を含めたさまざまな障害をもつ人々を差別し劣悪な状態のままに放置 するという傾向は、いまだに厳然として存在していると言わなければならない のである。・因みに、障害者問題について障害をもつ人の視点からの有意義な 議論が展開されている生瀬克己『障害者問題入門』の中には「どこの国にうま れたかということ」や「日本の現実」等の見出しの節があり、北欧と比べて著 しく遅れている日本の障害者支援の在り方が述べられている。・

このような現状は障害者の生命の質を語るのに十分な知識と経験が社会の共 有財産になることを妨げ、いよいよ偏見と差別がはびこることを助ける、とい う悪循環を生み出す。更に、実際の障害者の生活が不満に満ちた貧しいものと なり、障害者自身が生まれてこなかった方が良かったと述べるような例が増え れば、それがそのような偏見や差別を正当化するようになる、というような悪 魔的な過程が繰り返されることになるのである。

したがって、誕生後の生命の質を理由とする選択的中絶を議論する際には、 上記のような社会の現状を踏まえた上での、「この国に生まれたることの不幸」 を除去するための出来うるかぎりの努力が前提になるべきである。そのような 前提抜きの、社会の現状を踏まえない抽象的な議論は、現実の社会においては 予想に全く反した恐るべき結果を生み出しうる。そのような事態を避けるため には、障害の程度とその意味についてのより一層の様々な観点からの探究と、 それによってえられる知識の周知徹底のための特段の努力が必要とされるので ある。

さまざまな形で報道されているように、通常の感覚からすれば貧しい生しか 送れないとおもわれている人々が我々の想像を超えた豊かな生の可能性を実現 している例は否定しがたく存在している。・そのような豊かな可能性は往々に して無視ないし軽視しがちであるという歴史的な事実の含意を我々は十分に考 慮に入れるべきなのである。脳死に陥ることが当然視されていた人が低温療法 によって特別な後遺症もなく病院を後にすることが起こるように、人間の生命 について我々はあまりにも多くのことを知らないであり、それゆえ、非常に限 定された場合を除いて、容易に他人の生命の質を判定することなどはできない のである。・したがって、判断がその人の存在の抹殺につながる場合には、な おさらのことその判断は慎重でありすぎることはない。殊に、さまざまな偏見 に支配された結果多くの不幸な事態を引き起こした歴史を持ち、現在も同様の 過ちを繰り返しつつある社会においてはなおさらそうである。生命の質を語り、 生命にたいする真の尊敬を語るならば、人間の有限な在り方、したがって人間 の知識の有限性と人間の道徳的知的な誤りやすさに思いをいたすべきである。 パスカルが捉えた無限大と無限小の間に佇む中間者としての人間、栄光と悲惨 を担った考える葦である人間という、人間のありのままの姿の理解を踏まえた 尊敬こそが、人間の生命にたいする真の尊敬の名に値するのである。このよう な人間観については最後にまた触れることにする。

以上のように、歴史的社会的人間の生命の質はその歴史的社会的現実によっ て大きく左右される事実の理解とそれにどう対処すべきかについての考慮なし に、ただただ、選択的中絶により不幸な生の数を減らすことができる、という 選択的中絶の積極面のみに焦点を当てる議論は、その意図に反して悪しき現状 の維持、更にはその悪化を助長する働きをするものであると言わざるをえない。 正しい情報の周知徹底とさまざまな支援のシステムの組織化等社会の側の受け 入れ態勢の改善による偏見の除去と現に生きている障害をもつ人々の生命の質 の高度化の為の努力が払われてこそ、はじめて生命の質についてより正確な議 論がなされうるようになるのである。

4、家族の負担を根拠とする理由に対する批判

この理由には事実による一定の裏付けがあることは否定できない。即ち、障 害をもつ人の介護の90パ・セント以上が親によっており、過剰な負担で親が 疲労し悩んでいるということは事実である。・そして介護疲れによる心中や殺 人など様々な悲惨な事件がおきていることは周知のとおりである。しかし、言 うまでもなく、そのような悲劇を生み出している原因がすべて障害に内在する 問題から発しているなどと言うことは出来ない。事実、デイケア・センタ-や 専門的な訓練を受けた十分な数のホ-ム・ヘルパ-などからなる公的な介護の システムが十分に組織されており、親を中心とする家族による介護にたいする 多様な支援が存在していれば、親やその他の家族の負担は大幅に軽減され、多 くの悲劇が起こらなくてすんだ可能性が高い。更に、障害をもつ人の介護が障 害によって押しつけられた仕事であり、そこにはなんの喜びも感じられないか のような議論があるが、それは人間の可能性に関する極めて狭い見方であると 言わざるをえない。実際、そのような介護の経験の中で人生や生命についての 考えが変わりその結果自分の人生がより豊かになったと感じている親やその他 の家族が存在している。有限性と共に多様な可能性を秘めた生命にたいする真 の尊敬を保持しようとする者にとって、それらの祝福すべき事例の存在を無視 することは許されないのである。・

有限な歴史的存在である人間である以上、具体的な個別的な歴史的社会的状 況において、中絶もやむをえないと判断をせざるをえない状況もありうるであ ろう。人間の歴史性社会性への考慮をもたない狭い視野しかもたない生命の質 についての議論も批判されるべきであるが、同様に、人間の有限性歴史性を十 分に考慮しない点で、生命の神聖性の思想さをドグマチックに信奉する立場も 批判されるべきである。しかし、最終的には、できるかぎり生命の豊かな可能 性にかける姿勢に重心を置くべきであると筆者は考える。

5、社会全体にたいする負担という理由に対する批判

このような理由に関してまず指摘されるべきことは、財政の逼迫をいう議論 はその他の支出の点で無駄がないかどうかの検討を踏まえていなければ説得力 を持ちえないことである。福祉予算の妥当性の検討は、たとえば、軍事費や公 共投資等の妥当性の検討と切り離すことはできないのである。

更に、別の観点からの批判が可能である。確かに、障害を持つ人の介護には 多くの人手と資源が必要であることに議論の余地はない。障害を持つ人の生活 を支援するために、食事や衣服の着脱等の日常の基本的動作の手伝い、エレベ -タ-の設置、点字による説明の付加、道路の段差の解消等々社会の成員がす べて活力に満ちた健常者であれば、必要のないものに人手と資源を投入しなけ ればならないことは事実である。しかし、そのことが直ちに資源の不適切な配 分であるということにはならない。まず第一に、障害をもつ人やその家族の生 命の質が高められることの価値は、単純に経済的価値によって表現できないも のであり、そのような経済的価値とは非共役的な性質をもつ質的価値に関する 平板な理解によって、低い経済的価値を割り当てられることがあってはならな い。また、障害者を支援する施策によって健常者が利益をうけることもしばし ばある。たとえば、エレベ-タ-の設置が老人やこどもを連れた人の助けとな る等がよい例である。

しかも、このような理由を掲げる社会の圧力は、選択的中絶による選択肢の 増大したがって自由の増大を強調する人々の考えとは逆に、社会の負担を増大 させないために出生前診断は受けるべき、重大な遺伝的欠陥をもつ胎児は中絶 するべき、という形の一連の選択の強制を生み出す可能性が大である。遺伝子 であれ観念であれ技術であれ、それが置かれている具体的社会的歴史的なコン テキストの十分な理解なしには、その実際の機能や機能の変遷を理解すること ができないことのよき例であるということができる。

更に強調されるべきことは、18才未満の障害者の数が1965年以降減少 しているのに反し、18才以上の障害者の数は1965年の約100万人から 1991年の約270万人へと急激に増加している統計からも窺えるように、 高齢に伴う障害をもつ人の数が増大している事実である。・このような急激な 高齢化に伴う障害をもつ人の数の増大とそれへの対応という問題は、障害者問 題は一部の不運で不幸な人々の問題というこれまでの理解によっては到底対処 できないことを示唆している。障害者問題は万人の問題であり、したがって自 分自身の問題であるという事実が単なる道徳的教説の形だけでなく、避けがた い事実として人々につきつけられつつあるのである。従来からも、交通事故や 公害や重い病気等によって重度の障害をもつ可能性は誰れにでもあったのであ るが、高齢化社会の到来はその現実から目を背けることをより一層困難にして いる。我々は皆一時的な健常者(temporally abled) であるという事実がいよ いよ明確になってきているのである。問題はこの高齢化の時代に、障害を生み 出す遺伝的欠陥をもった胎児を社会への負担を理由として中絶するという仕方 で、障害をもつ人の生命を取り扱うことを容認することができるか否かである。 実際、そのような態度が維持されるならば、高齢者にたいする差別は悪化し、 人々は高齢化にたいする不安と恐れをいよいよ抱くようになる可能性は極めて 高いであろう。老年期が否定的なイメ-ジによってしか捉えらず、老人が自ら を余計者、厄介者として感じ、社会の負担を減らすためにできるかぎり早く死 ぬことが彼らの義務であるように感じる社会になる高い可能性があるのである。 そのような社会では、「有能」で活力に満ちた人だけが一人前の人間として扱 われ、「能力のない」ものや老人や障害をもつ人は言わば二級市民として差別 の対象になり劣悪な環境に甘んじなければならないことになってしまう。この 可能性は、我々の社会の歴史と現状を考慮すればあながちペシミストやマゾキ ストの想像の産物、単なる論理的可能性などとして無視することはできない。 出生前診断と選択的中絶を巡る議論はこのような大きな含意を持った、より一 層真剣な議論が必要な問題なのである。

6、選択的中絶の道徳的コスト

以上のように選択的中絶については危惧すべき多くの点が存在するのであり、 それらに関する指摘は多くの人々によってなされてきた。此の節では上記の批 判的検討の中に既に含まれている危惧の内で最大のものをより明確にし、選択 的中絶を巡る問題が如何に大きな射程を持ったものであるのかを説明すること にする。その危惧とは選択的中絶の安易なル-ティン化によって社会が支払わ ねばならない道徳的コストに関するものである。ここで選択的中絶の道徳的コ ストと呼ばれるものは、端的に、社会の道徳的基盤の崩壊である。このことを 説明するためには個人の自由がある程度保障されている社会の成立のためには、 利己的な動機のみを動機としない、正義や他者の利益や気持ちを考慮する道徳 的感性をもった個人の存在が不可欠であることが思いだされねばならない。そ のような道徳的感性を持たずただただ自己の利益の追求のみに邁進する人々の 集団の場合、ホッブズの言うリヴァイアサンのような絶対的権力による個人の 行動の監視が必要になるであろう。そのような仮定の状況を想像しなくても、 現実のいわゆる自由主義国の現状をみれば、そのような道徳的感性がその社会 の社会としての存立の核として存在していることが了解されるであろう。

経済的効率を重んじ、対等な個人の「公平」な競争を原理とする「自由社会」 の中で自立した個人として競争の中に身をおいている人も、日々の生活の中で 病気や様々な事情のゆえに他人の世話や介護を受けなければならないことがあ る。そのような世話や介護を与えることが家庭の重要な役割であることに異論 はないであろう。また、介護や世話が単なる経済的な動機のみによって行われ るならば、そのような社会に住む人の生命の質は極めて貧しいものとならざる をえないであろう。生命の再生産の場としての家庭におけるくつろぎと回復の ときが個人の社会的公的な活動を支えているのである。家庭とそこでの行動を 支配している道徳は自由な社会の存立を可能としているという意味で自由な社 会の核をなすものといえる。したがって、家庭と家庭を支える道徳的感性が失 われるとき、自由社会はその存立の基盤を失うことになるのである。互いに独 立独歩の個人として相互に干渉せず、また互いの同意に基づく契約にのみによっ て義務が発生するような自由な市場社会の道徳が家庭に侵入し、そのような領 域をも支配するようになれば、それは自由な市場社会の自己破壊をもたらすの である。換言すれば、自由な市場社会は市場での行動を律するような道徳的感 性のみによっては存続できないのである。・家庭は親密な共同性の領域と言う べきものであり、そこではアトム的な個人の自己利益を動機とする行動の調整 のための個人主義的な道徳原理とは異なった道徳原理が支配している。そして、 家庭という親密な共同性の領域を支配している道徳原理の中心をなすものが、 愛情に満ちた受容という原理である。「才能や容姿ではなく、家族の一員であ るので愛する」という原理である。そこではなにか特別の能力や性質等一定の 基準を満たしているので愛情をかけるに値するのではなく、まさに自分の子供 である、自分の家族の一員であるという理由で愛情に満ちた受容の対象、世話 と介護の対象となるのである。

このような家庭という親密な共同性の領域を支配する愛情に満ちた受容とい う道徳的原理が人類の存続にとって重要であることを理解することは容易であ る。いうまでもなく、人類は子供が自立するために長い時間と親を中心とする 先行世代による養育を必要とする動物であり、そのような子供の養育にたいす る強力なコミットメントが人類という動物の存続にとって極めて重要な機能を 発揮しているということができる。このようなコミットメントは無論子供とい う自分以外の存在の利益と福祉を考慮しその増進のために行動する能力と感性 を必要としており、その意味で道徳の主要な基盤の一つをなすものであるといっ てもよいのである。子供は、狭い自己利益の追求を前提とはしない道徳原理が 支配する親密な共同性の領域において、次第に「人生は完全ではないが、まん ざらでもない」という他者・社会・人生全体にたいする肯定的な態度を獲得す るに至るのである。このような態度が社会の道徳的な基盤をなしているといっ てもよいであろう。道徳的判断や概念の分析ではなく、「世話・介護されたと いう最も古い記憶」・こそが道徳的思考の出発点であるというネル・ノディン グズの言葉は今述べたような思考を明確に表現したものであるということがで きる。以上のように家庭内の道徳の核をなす愛情に満ちた受容という原理は社 会全体の道徳の核の部分をなすものということができるのである。この原理と それを支える道徳的感性を掘り崩す可能性があるという選択的中絶の道徳的含 意の大きさを思うべきである。

選択的中絶に至る道徳的判断が社会的な圧力の中で、十分な考察なしに受け 入れられ安易なものとなり、ル-ティン化するようになれば、上で述べた愛情 に満ちた受容を可能にする道徳的感性とそれに基づくコミットメントは萎縮・ 退化することになるであろう。このことは、まずなによりもその社会で生きる 人間のすべてが生活のすべての面で互いに対等な独立した存在として振る舞う ことを要求されることを意味している。しかし、言うまでもなく自由でくつろ ぎのえられる社会はそのような形では存続しえない。徹底した能力主義が支配 し、強者はその優れた能力により弱者より優越した地位と権力をえ、弱者は劣 等な地位に甘んじることを余儀なくされる優勝劣敗の社会が出現するであろう。 その意味で、強力な道徳的な規制とそれに基づく社会制度の拡充の伴わない選 択的中絶の増大とそれによるル-ティン化は社会の道徳的基盤の破壊をその道 徳的コストとして持つ恐れがあるのである。社会の道徳的なたががいよいよは ずれてしまったことを示すさまざまな社会的政治的問題の出現をみればそのよ うな危惧が単なる杞憂ではないことは明らかである。出生前診断・選択的中絶 という行動パタ-ンを新たな選択肢の出現として積極的にとりあげようとする 人は、以上のような危険性にも注意を払いその意味することを思い戦慄すべき である。それが持つ危険性についての深刻な反省なしに出生前診断・選択的中 絶を推進する医師や科学者は、晩年のロバ-ト・オッペンハイマ-の苦渋に満 ちた顔を思い出すべきである。

なお、選択的中絶に至る判断が苦渋に満ちた真剣なものであり本人の利益の ためというきわめて道徳的なものである場合でも、妊娠は女性にとって、設定 されたある一定の基準を満たしたことが確認されるまで「仮の妊娠」として経 験されるようになっている。妊娠という女性の人生の中で極めて大きな位置を 占める出来事の質は既に変化せしめられているのである。・出生前診断・選択 的中絶という選択肢の増加は、プラスの側面の反面、既に女性の人生をより複 雑より困難なものにしていることは否定できないのである。

最後に、選択的中絶の問題を考えるときに念頭に置かれるべき人間像を素描 することにする。いまなおしばしば現れる、遺伝子の欠陥・遺伝病・貧しい生 命の質という遺伝的決定論に対抗する必要があること、そして、固定したもの ではない複雑な人間の可能性を踏まえた考察のみが選択的中絶という複雑で困 難かつ重大な問題の複雑さと重大さに見合う考察になりうるからである。本質 的な有限性をもちつつ、遺伝的な素質と環境、そして感情と理性的な思考とが 複雑な形で相互作用を繰り返し変化する過程の中で、それぞれの人生の物語を 紡いでゆく人間という像である。そのような物語の紡ぎ手には本人と他人の二 つの可能性がある。したがって、少なくとも、一人称の物語と三人称の物語が 一人の人生について語られうるということができる。勿論、両者が同一のパタ -ンを共有することもありうるし、両者の間に大きなギャップが存在すること もありうる。我々は一人称の語り手の具体性個別性を考慮しつつ、同時に変化 の可能性を含んだ自然・社会・歴史というさまざまな要素の絡まりのなかに紡 がれてゆく物語の全体論的構造に注意を向けつつ、個人の生と社会の存立に関 わる重大な道徳的問題について考察を勧めるべきなのである。そのような観点 からは、悲劇的な具体的個別的状況のゆえに中絶を選ばざるをえない女性に対 しても、中絶がその人の人生の物語の中の悲劇的な出来事として織り込まれて ゆくことにたいする、同情と謙遜にみちた眼差しを獲得できるのではないだろ うか。またこのような眼差しの下でこそ、人間の有限性の理解を踏まえた、人 間の可能性にたいする謙遜に満ちたコミットメントを保持することができるの ではないのだろうか。複雑な生の過程において思わぬ可能性が開かれ豊かな生 が実現されることもありうるし、個人や社会の努力を超えた悲劇が生じること もありうるのである。複雑な可能性を含んだ生を営む人間の生はまさに棺蔽い て事定まるという不確実さを含んでいるのである。

選択的中絶等困難な生命倫理や環境倫理の問題は、このような有限性と可能 性の複雑な絡まりの中で紡がれている人間と社会の物語の理解と共に考察され るべきなのである。そしてそのような理解と共に成立する新たな社会の状況や 新たな道徳的感性の出現と共に、新たな生命環境倫理が展開されるであろう。 その意味で、生命倫理はアンソニ-・ウエストンが「環境倫理以前」と呼んだ 段階、体系的な分析以前に様々な理論的実践的試みをなしつつ新たな倫理の成 立を期すべき段階にあるのである。・

・「本人の生命の質を根拠とする理由」を中心にする立場から、ここに挙げ た三つの理由を含めたさまざまな議論に検討を加えている最近の書物としてP. Kitcher Simon & Schuster 1996 がある。

・「生命の神聖性」の立場にたいする批判の例としてP. Singer Oxford University Press 1995がある。

・大熊一夫『精神病院の話』晩聲社1987を参照。

・生瀬克己『障害者問題入門』解放出版社1991。

・毛利子来、山田真、野辺明子編『障害をもつ子のいる暮らし』筑摩書房1995。

・柳田邦男『犠牲・わが息子・脳死の11日』文藝春秋1995、pp.232-34 。

・湯沢擁彦『図説家族問題の現在第3版』日本放送協会1995、pp.200-1。

・石川准「障害児の親と新しい「親性」の誕生」井上真理子、大村英昭編『ファミリズムの再発見』世界思想社1995参照。

・湯沢、前掲、pp.200。

・このような議論についてはL.M. Purdy Cornell University Press1992 pp.59-66 を参照。

N. Noddings University of California Press 1984. p.5 。

R. K. Rothman 2nd edition Norton 1993。

このような自然的歴史的社会的コンテキストの下でそれぞれの物語を紡ぐものとして生命そして人間を捉える立場をとる生命倫理・環境倫理学者の議論として、たとえば、H. Rolston, III Temple University Press 1988 やA. Weston Temple University Press 1992がある。

A. Weston “Before Environmental Ethics” 14.1992を参照。 なお、出生前診断に関するその他の関連する議論については拙稿「個人を強化する制度と 生命倫理・コミュニタリアン的リベラリズムと出生前診断・」『人文学報』76、1995 を参照。