R.N.プロクター「ゲノム学と優生学 -この比較はどの程度公正か」

R.N.プロクター「ゲノム学と優生学 -この比較はどの程度公正か」

Robert.N.Proctor , Genomics and Eugenics: How Fair Is the Comparison? in G.J.Annas and S.Elias(eds.) Gene Mapping: Using Law and Ethics as Guides, OUP, 1992. pp.57-93.

キーワード

  1. 生物学的決定論(Biological Determinism)
  2. 後天的因子(Nurture)と、先天的特質(Nature)
  3. まがい物の妖怪(Spurious Specters)と、本物の危険(Genuine Dangers)
  4. 神を演ずること(Playing God)と、完璧な赤ん坊(Perfect Babies)
  5. 社会的烙印(Social Stigma)と、遺伝的下層階級(Genetic Underclass)

本論稿においてプロクターは、15年以上の歳月と30億ドルもの資金を必要とす ると言われている、アメリカの「ヒトゲノム解析計画(Human Genome Project)」 が、われわれにいったい何をもたらすことになるのかについて、警鐘的な観点 から議論を組み立てている。この論稿の中で彼は、1920年代のアメリカ、ある いはまた1930年代のドイツにおける優生学運動の不幸な歴史を紐解きながら、 現在のヒトゲノム計画がいったいどこにその誕生の由来をもっているのかを辿 りつつ、この計画をめぐってささやかれている様々な「倫理的懸念(ethical worries)」に対し、鋭いメスを入れている。特にヒトゲノム計画に関連してよ く話題にされる「神を演ずること(Playing God)」と「完璧な赤ん坊(Perfect Babies)」のレトリックが、危惧するに値するだけの「本物の危険(Genuine Dangers)」であるか否かという彼の分析は、これまでの議論の拘泥さを突き破るだけの重要な意義があると思われる。上述した2つのレトリックが「まがい物の妖怪(Spurious Specters)」であるとするならば、プロクターはいったいどこに「真の危険」が潜んでいるとするのか。彼はこの問題を検討するにあたって「生物学的決定論(Biological Determinism)」に着眼する。人間のあらゆる才能や行動様式のすべてを「遺伝子」に帰着させてしまうこの思想は、今日においてもいまだに強い影響力を持っていることに彼は強い懸念を抱いている。とりわけこの思想が、社会的権力が「持てる者」と「持たざる者」との間に不公正な状態で配分されている現在の社会構造の中で支配的なイデオロギーとなる時、遺伝病であるという「烙印(Stigma)」は差別を増長し、新たな「遺伝的下層階級(Genetic Underclass)」を生み出すことになりかねないとプロクターは警告する。「ゲノム学」と「優生学」との比較がなんらかの正当性をもつとすれば、それは両者の根底に「生物学的決定論」が横たわっているためであり、ゲノム計画によってもたらされる新しい遺伝技術が「滑り易い坂道」を転げ落ちることになるか否かということは、そうした技術そのものに内在しているというよりは、むしろその技術が行使される「社会的コンテクスト」に大きく依存していることを強調している。

以下、プロクターの論文構成にできるだけ忠実に従いながら内容紹介を行うことにしたい。彼の論文構成は次のようになっている(ナンバリングは要約者の手による)。 0、[導入部:表題なし]
1、Eugenics (優生学)
2、Department of Energy Interest (エネルギー省の関心)
3、Specters, Spurious and Genuine (妖怪、まがい物と本物)
4、Diagnosis without Therapy (治療なしの診断)
5、Economic Injustice (経済的不公正)
6、Social Stigma (社会的烙印)
7、Discrimination in Jobs and Insurance (就職と保険における差別)
8、Military Applications (軍事利用)
9、Biological Determinism (生物学的決定論)
10、Conclusion (結論)

以下、各節ごとに内容を要約しながら、プロクターの論旨を追いかけて見ることにしたい。

0、[導入部:表題なし]

周知のようにアメリカでのヒトゲノム計画は、1990年10月、アメリカのエネルギー省(the U.S. Department of Energy)、および国立衛生研究所(the National Institutes of Health: NIH)の手によって開始された。「生物学史上でも最も野心的な試み(the most ambitious undertaking in the history of biology)」と言われるこの計画は、アポロ計画や原爆開発のマンハッタン計画とも対比されたりするが、プロジェクトの前リーダーであったワトソンがこの計画の遺伝子の「地図作り(Mapping)」を、かつてのアメリカ西部開拓時代の地図作りに例えたことは、この計画の大規模さを端的に象徴している。しかし、このように遠大なフレーズでもって語られるヒトゲノム解析計画だが、いったい何のために遺伝子地図をつくることに労力を費やす必要があるというのか。例えばその理由を、ジンシャイマー(Robert Sinsheimer)が言うような、かつての有名な登山家の名言のように、ただ「それがそこにあるから(because it is there)」ということのみに求めることは信じ難い。プロクターはその理由を、この計画がもつ「純粋科学(pure science)」的な側面に属するものと、ほとんどの巨大な科学プロジェクトがそうであるように、この計画によってもたらされる「実用的な利益(practical retuens)」に対する期待に属するものの二つに大別する。

第1の例としてプロクターは、1991年2月に国立保健医学博物館(National Museum of Health and Medicine)が行った、リンカーン元大統領の遺伝子解析地図の作成と、1991年3月にスタンフォード大学の古生物学の研究者が、フロリダ中央部の泥炭地に埋没していた7500年以上前の人間の脳細胞から遺伝的物質を回収したことを挙げている。われわれの遺伝的変異(genetic variance)についての詳細な知識が、過去の偉人たちの病歴や人類の起源に関する秘密の鍵を開けることはまず疑いないことであるだろう。

第2の例は次の通りである。ここ十数年間で、ハンチントン舞踏病をはじめ、ドウシェンヌ型筋ジストロフィーや結腸ガンなど、その他200種類の遺伝病の原因となる遺伝子が特定されてきている。ヒトゲノム解析計画が正当化される、「実用的な利益」に対する期待に属するものの中で最も主要な理由は、先のような遺伝病に対処しうるための技術と知識を提供するだろうということである。

こうした難病に対して何らかの治療可能性を約束するかもしれないヒトゲノム解析計画に対して、異論を唱えることは難しい。しかし、この計画に関しては様々な倫理的懸念(ethical worries)がささやかれていることも事実である。プロクターはそうした懸念の中でも特に、ヒトゲノム解析計画の結果、そこから得られた知識の「社会的活用」ということがおそらく最も深刻な不安の源泉となるだろうことを指摘し、NIHの下で行われている、ヒトゲノム解析計画の倫理的、法的、社会的含意(the ethical, legal, and social implications of the Project)に関する調査グループの報告から、次の言葉を引いている。「もしも(解析結果が:要約者)誤解されたり、誤用されたりすれば、この新しい道具は」、病的な遺伝子を保有している人々に対して「心理的苦痛や、(遺伝病であるという:要約者)烙印、そして差別をもたらす扉(doors to psychological anguish, stigmatization, and discrimination)を開くことになるだろう」。

プロクターは、先に見たようなヒトゲノム解析計画の2つの積極性を認めながらも、昨今議論になりつつある「生物学的情報の社会的権能(social power of biological information)」と、そうした影響力の濫用の可能性について顧慮しながら、特にそれとの対比において、遺伝的に誤った情報の濫用(the abuse of genetic misinformation)に由来する危険性を指摘する。遺伝学濫用の歴史を紐といてみれば、そのほとんどは、人間の才能や無能さを語る場合に「後天的因子(nurture)」よりも「先天的特質(nature)」の方が重要なのだとする誇張された見解に基づいている。そこでは「遺伝的(genetic)」という言葉が、「不可避的な(inevitable)」という意味に解釈されてしまい、遺伝的発現にとっての政治や社会、あるいはまたその他の環境がもたらす重要な役割が無視されてしまう。遺伝子の力が誇張されるところでは、遺伝情報の社会的な無力さもまた強調される必要がある。市民的自由主義者たちは、遺伝情報の集積にともなって必要とされてくる社会的コントロールの見通しについて憂慮しているが、プロクターはまた、人間の行動が遺伝的なのだとするところまで理論を拡張することのイデオロギー的な危険性も指摘すべきであることを強調する。しかし遺伝情報の社会的コントロールという問題も、あるいはまた人間の社会的行動のすべてが遺伝的に決定されるのだとすることのイデオロギー的な危険性にしても、いずれも歴史的な先例に深い関わりをもっているのだとし、プロクターは次節で優生学の歴史を紐解いている。

1、Eugenics(優生学)

遺伝情報の社会的権能ということは、1980年代になってはじめて発見されたわけではない。優生学という言葉は、1883年にかのチャールズ=ダーウインの従兄弟にあたるフランシス=ゴールトン(Francis Galton)によってつくられた造語である。かつての不幸な歴史が教えているように、優生学は単なる「学門」の枠内におさまらず、政治的活動との強い結び付きを得た。1933年の「遺伝病子孫予防法(Law for the Protection of Genetically Diseased Offspring)によって、ナチス政権の終焉を迎えるまでに35万人が強制的に断種されている。優生学はかつて、遺伝病が広範に伝播してしまう前に、その遺伝子を根絶することを目指す「予防医学(preventive medicine)」として提唱され、ことにドイツにおける「民族衛生学」は、まさに将来の世代に焦点を絞った人間の遺伝的健康の領域を扱うもので、生殖細胞の長期にわたる人為的操作のための手段を提供するものであった。優生学者たちは、劣悪な遺伝子の保有者たち(inferiors)を「潜在的な繁殖者たちのプール(the pool of potential breeders)」から排除し、「適格者(the fit)」だけが子孫をつくることを奨励するための強力な生物学的な基準が必要なのだと信じて疑わなかったのである。

こうした優生学的なイデオロギーを支えている大きな柱のひとつは、人間の才能や無能さのすべての根底には必ず生物学的な因子が横たわっているのだとする「生物学的決定論(biological determinism)」であった。1907年、メンデルの法則が再発見されて以降、優生学者たちは、犯罪や精神障害、社会的異常者たちの原因究明には遺伝学をおいて他にはないのだと固く信じていた。この確信にもとづいて優生学者たちは、人間の行動や病気、そして人間的な慣習までもが生物学的基盤に由来するのだと過大評価するようになったのである。ヘルニアや放浪癖、そして離婚までもが遺伝のせいだとされるにいたった。アメリカの優生学もまた、ドイツの優生学運動と同じく軽視できない。1907年インディアナ州で、遺伝病のひとつにでも罹っている者に対し、強制的に断種を施すことを許容する最初の「断種法(Sterilization Law)」がつくられ、また1924年には、望ましくないとされる種族がアメリカに移民してくるのを阻止するために、多くの優生学者たちの議会での発言をもとに、かの悪名高き「移民制限法(Immigration restriction act)」が制定された。さらに1920年代から40年にかけて各州で次々と異民族間での結婚を禁止する新しい立法が誕生し、これらの法律は第二次世界大戦の後になっても残り続けていたのである。今日の優生学は、多面的な側面をもっているとプロクターは指摘する。一面においては、これまで見てきように遺伝に関する知識(あるいはもちろん無知も!)が、抑圧的な国家政策と結び付いて個人の権利や自由を侵害してきた。しかしまた他面では、科学者というものが、とかく優生学的な政治運動を支え、それを正当化してしまうといった傾向がどうしてもあるのだということも指摘されている。科学は、時として一般的な偏見を運搬し、輸送する乗り物と化してしまう。遺伝学者たちは、優生学に反対する前衛となることはほとんどありえなかったばかりでなく、むしろ優生学の熱烈な支持者であった。ドイツにおいては、遺伝学はナチの科学そのものであった。医学と生物学は、ドイツにおいては最もナチス化された分野であり、ドイツ全土の医師の半数、生物学者の約60%がナチス党員であり、人類学の教授のうち、10人に8人はナチス党員であった。しかもナチ政権が1945年春に崩壊した後、著名な優生学者たちはほとんど罰せられることがなかったばかりか、新しく「人間遺伝学(Human Genetics)」と命名された分野で、高いポストに再任されたのである。戦後ドイツの「人間遺伝学」は、まさにナチス時代の「民族衛生学」の継承者として誕生したのである。

過去の歴史を垣間見た今、プロクターはこれを伏線にしつつ、次節では今日のアメリカでの「ヒトゲノム解析計画」の出自を追うことで、このプロジェクトの素性を探ろうとしている。

2、Department of Energy Interest (エネルギー省の関心)

アメリカ政府は、すでに述べておいたようにヒトゲノムのマッピング作業を、国家保健協会(the National Institutes of Health:NIH)とエネルギー省(the Department of Energy)との共同作業によって推進しはじめた。NIHがこの計画を支援をするのは、アメリカの生物学研究に資金援助を行うという立場から理解できることであるが、なぜエネルギー省がヒトゲノム計画の推進に関心を持つのだろうか。プロクターは、かつて核兵器開発研究所ともなっていたDOEという、およそ生物学研究とは縁もゆかりもないような機関が、このヒトゲノム計画の発端を担い、推進している現状をやや揶揄しながら指摘している。

DOEはその前身を原子力委員会としており、原子爆弾の人間の健康に対する影響を観測し始めた頃から、人間遣伝学に強い関心を持ち続けていたとされる。ヒトゲノム計画は、放射能による被害測定の必要性から生まれてきたという背景をもつ。

さて放射能障害の問題ということが、DOEがヒトゲノム計画に強い関心を持つことになった理由のひとつとなったのだが、もうひとつ別の要素もあった。それは「日本人叩き(beat the Japanese)」に関連している。DOEの「保健環境調査局(Office of Health and Environmental Research) の局長デリシ(Charles Delisi)が、日本ではアメリカよりも5年ほどはやく、同様な計画に着手していると指摘した。この指摘が、アメリカでのこの計画が最初の莫大な資金交付を得ることに確実に大きな役割を果したのである。日本では、筑波学園都市の理化学研究所(理研)でこの遺伝子解析計画が1980年からスタートしたが、理研は第二次大戦中、原子爆弾を作ろうとした機関でもあった。

DOEがゲノム計画に関与することになったさらにもう一つの要因は、レーガン時代の軍事研究の熱狂が後景に退き、軍需兵器開発実験場が非軍事的利用への転換を図ろうと模索しはじめたことにあるとの指摘もある。例えば、ニューメキシコ州選出の上院議員ドメニチ(Pete Domenici)は、1987年5月2日の国立実験機関への資金交付に関する将来会議の席上でこのことを指摘している。彼は、研究所の専門家が核開発から生物学へと転換されることには賛同するが、「もし平和が崩壊したときには」研究所にいったい何がおこるのかということを憂慮している。MITのボートスタイン(David Botstein)は、ゲノム計画へのDOEの関与をいちはやく批判し、次のように述べた。DOEによるこのプロジェクトへの支援は、「失業した爆弾製造者のためのDOEによる再就職プログラム」であるのだと。

3、Specters, Spurious and Genuine (妖怪、まがい物と本物)

さて以上、優生学の歴史の扉を開きつつ、アメリカでの「ヒトゲノム計画」誕生の由来を探ってきたところで、プロクターはここから、このプロジェクトをめぐって現在ささやかれている「怪しげな」倫理的懸念の具体例をいくつかあげながら、いったい何がゲノム学にとっての「まがい物の危険」であって、何が「本物の危険」であるのかという問題に鋭いメスを入れていく。

ヒトゲノム計画に対しては、多くの批判が提起された。そうした中でも最も強力な批判は、ヒトゲノム解析から得られた知識が濫用される危険性の指摘である。ヒトゲノム解析のようにプライバシーに深く関係するプロジェクトでは、倫理的懸念が生じてくることは驚くにあたらない。「まがい物(Spurious)」ということに関してプロクターは、「神を演ずる(playing God)」ということと、「完璧な赤ん坊(perfect babies)」という2つのキーワードを取り上げている。この二つは、これまでの人類にとって「共通する良識の基本的限界(fundamental limits of common decency)」であったものを越えてしまうことになる。リフキン(Jeremy Rifkin)は、こうした批判者の代表格であるが、彼はヒトゲノム計画が「滑り易い坂道」に踏む込むことを懸念している。最初はハンチントン舞踏病などの遺伝病に限られていたはずが、徐々に治療の対象が「平均身長以下」の者や「平均運動能力以下」の人間に向けられるようになり、ついには「左利きの人」にまで及んでしまうのではないかと。しかしながら「神を演ずる」ということに対する警告に関しては、次のような反論が予想される。つまり、医師は病気の治療に対応する際、「常に神を演じている」ではないかという反論である。人間の行使する技術というものは、自然環境の操作ということを常に内包しているのであって、医療技術のほとんどすべては人体操作そのものではないか。「神を演ずる」ということに対する警鐘は、研究を怯やかしその前進を阻むことはできても、それだけではいったい回避されるべき具体的な危険とは何であり、そしてどのような方策によってその危険を回避すべきなのかということについては何も答えることはできない。

さて、もうひとつの「まがい物の妖怪(spurious specter)」は、「完璧な赤ん坊」というキーワードとともに現れてくる。差別や社会的烙印(social stigma)を憂慮する人々は、ヒトゲノム解析が、かつて歯列矯正によって子供の歯を並び変えたように、子供の遺伝子を均質化すること(to homogenize our children’s genes)を我々に義務づけることになる「完壁さの追及(quest for perfection)」をかき立てることになるのではないかと懸念する。こうした「完壁さ」というレトリックは、「滑り易い坂道」というレトリックと溶け合いやすい。例えばリフキンが主張するように、遺伝的欠陥ということに深く陥ると「社会的に望ましくない者(social undesirables)」の撲滅につながり、さらに彼らに対して文化的に「異常な者(abnormal)」という烙印を押す危険性がある。しかしながら社会的烙印を押すという事態は確かに危険なことではあるが、人体に対するどのような種類の干渉であっても、差別的であるとか「神を演ずる」ことだとか言い立てることは正しくないとプロクターは述べている。「新しい優生学」に警鐘を鳴らすリフキンやその支持者たちのように遺伝子操作が「すべて駄目」というだけでは、操作にあたっていったい何が重大な問題であるのかを見い出すことにはたいして役に立たない。プロクターはむしろこの問題に対する建設的な政策は、遺伝子操作が人間の自由を束縛するのではなく、これを促進するためにはどのような危険防止策を確立しなければならないかということにかかっていることを主張する。「全面否定」という滑り易い坂道が存在するのと同様に、「技術への楽天主義」という坂道に滑り込むこともまた、容易なことなのである。

しかし「完壁さへの志向」ということと「神を演ずる」ということが、「まがい物の危険(spurious dangers)」だとするならば、プロクターは「本物の危険(genuine dangers)」はいったいどこにあるというのだろうか。

4、Diagnosis without Therapy (治療なしの診断)

現在、遺伝医学の領域では、効果的な治療方法を提示することよりも、遺伝病の診断をすることのほうがはるかに容易であるという現状がある。何千種類もの遺伝病が確認されてはいるが、効果的な治療が可能であるのは、ほんの数種類に限られている。例えば、鎌型赤血球貧血症(sickle-cell anemia)は、1960年代にその遺伝子が確認されているにもかかわらず、いまだに有効な治療法が発見されていない。こうした遺伝病の効果的な治療治癒方法の発見されるまでの間、例えばハンチントン舞踏病のような「遺伝子障害(genetic lesion)」ありと診断された人は、徐々に身体を衰弱させていく病がこれから先、確実に待ち伏せているのだということを自ら知りながら、生きて行かなければならないのである。

こうした事態をさらに複雑にしているのは、治療の見込みを全く伴わない形で診断がされているという事実である。例えばもしも生命保険会社が「遺伝子障害」ということを「契約前発病」と看倣すようになれば、遺伝子障害ありと診断された人々は、保険金を受け取ることは難しくなってしまうだろう。すでに結腸ガンの保因者であると判明した患者達には、保険契約に際して不利になるからという理由で、本人にもそのことが告知されなかった例があるというホワイト(Ray White)の報告もある。「優れた子供」を産むために、「遺伝子障害」があるかないかという情報を手に入れることを選択することもできる。しかしもしこの情報を手に入れることを選ぶならば、その時は、われわれは確実に病に倒れるだろうということを知りながらも、かつそれに対して医学はほとんど無力なのだという自覚をもって生きていく道を選択することにもなるだろう。

5、Economic Injustice (経済的不公正)

今日のバイオテクノロジーは、新しいワクチンを製造可能にしたが、研究された病気は第一世界のものであって、本当にそれを必要としている第三世界のアジアの貧しい人々の多くは、経済的理由のためにこれを購入することができない。また商業的利用には、通常、特許権を持つことが必要とされる。1980年、アメリカ特許庁は、初めて人為的に遺伝子を組み換えたバクテリアを作ったチャクラバーティ(Ananda Chakrabarty)に対して、特許権を与えた。さらに1988年には、ハーバード大学のギルバート(Walter Gilbert)が、哺乳類の遺伝子操作に関する最初の特許権を獲得している。こうした流れの中で、遅かれ早かれヒトゲノムも商業化されるだろうとプロクターは述べている。すでにゲノムの一部は販売目的で分配されている。1987年、ハーバード大学のギルバートはゲノム・コーポレーションを設立し、ヒトゲノムの重要な部分の塩基配列を入力したデータベースを市場に出している。1991年の秋に、NIHがゲノムの塩基配列の暗号を解読することなしに、何百という配列に対して特許を受けていたという事実は、科学者たちの気分を大いに害することになった。こうしたことは、政府機関とバイオテクノロジー会社が競って新しい遺伝領土(genetic territory)を獲得としようとすることに駆り立ててしまうのではないかという懸念を呼び起こしている。

したがってゲノム解析によって、いったい誰がどのようにして利益を受けることになるのかということに対しては、特別の留意が必要なのである。遺伝サービス事業の利用には、差別がないといえるのだろうか。カウンセリングの費用は誰が支払うのだろうか。アメリカでは、医療サービスの利用に関してはすでに深刻な不平等が存在している。経済的に裕福な者たちが容易に遺伝サービスを利用している一方で、貧困者たちの遺伝病が放置されてしまっている状況は深刻な問題である。それゆえ、ゲノム計画を医療上のメリットがあるという点から擁護することは難しいことになる。アメリカ政府が国民の健康増進ということを考えているのであれば、むしろ貧困者の医療に対して支出すべきであって、遺伝子研究よりも、食品や薬品の品質管理、そして職場の健康と安全を確保するために努力した方が、はるかに多くの国民の健康維持に役立つはずである。

6、Social Stigma (社会的烙印)

生命倫理学者たちは、遺伝子治療は病気を治療したり予防したりするために活用されても、われわれの遺伝的特質を改良することはできないことを指摘する。古い医学用語にあるように、消極的優生学(Negative Eugenics)のほうが積極的優生学(Positive Eugenics)よりはまだ望ましい。治療のためにホルモンや遺伝子注入がなされるであろうが、これによって人間の平均身長が増大するわけではない。しかし、「個人の治療」対「集団の治療」という問題点に着目すると、治療の動機がいかに個人的なものであったとしても、遺伝子テストや治療の効果は集団的な様相を呈することになる。ひとたび遺伝子補填(genetic supplements)が利用可能となり、例えば、人問の肉体的能力、身長、性、老化率そして病気の発症率に変更を加えることができたならば、子供を生むという場合にどれだけ多くのプレッシャーが加わることになるであろうか。1960年代には、矯正された歯並びがひとつのステータス・シンボルともなり、歪んだ歯並びは貧困の象徴ともなったが、同様なことが、かつては矯正不可能であった人間の特性を別のものに変更することを強いるのではないだろうか。また、深刻なケースでの(遺伝病であるという:要約者)烙印(Stigma)は、法的問題を惹起する。アメリカの裁判所は、周知のように「生む権利」をプライバシー権の一部として認め、この権利は、避妊や中絶の権利そして医療行為や断種を拒否する権利にまで拡張されるべきものとしている。そうなると、子孫の遺伝的健全さ(genetic health)を保護しなかった人間は、法的責任を間われかねないのである。遺伝子カウンセリングを怠った医師は、「誤った出産(wrongful birth)」を行ったとして訴えられ、患者やクライアントには、「遺伝子障害」の可能性やそれを予防するための十分な告知を受ける権利が保障されなければならなくなる。遺伝病に対する烙印はまた、公衆衛生上の強制権能の拡大を招来することにもなる。すでに州法や連邦法のレベルで、銃創や多くの伝染病を含む健康状態を漏れなく申告することを要求しているものも存在する。1989年には、テキサス州の立法者は、テストの結果、エイズ感染が陽性反応を示した妊婦が子供を生むことは、犯罪の構成要件を満たすことになるとする法案を準備した。結局この法案は否決されたが、同様の試みが今後も台頭しないという保証はない。遺伝病に対する憂慮が広範なものになるにつれて、結婚や出産の決断に際しての医学的権限の拡大は避け難いものになるだろう。遺伝テストは今後それを開発した国のみならず、他の国々でも利用されることになるであろうが、そうした社会が遺伝テストという道具をどのように使うかということは予測し難い。

7、Discrimination in Jobs and Insurance (就職と保険における差別)

では企業ということに限ってみればどうだろうか。企業主は、特定の遺伝病疾患の疑いのある従業員を排除するために、遺伝病スクリーニングを行おうとするのではないだろうか。余分なY染色体を持っている男性は犯罪を犯しやすい傾向があると報道された「XYY騒動」以来、スクリーニングに対する危惧がにわかに高まった。スクリーニングに関する憂慮は、かつての鎌型赤血球症の場合の過失を呼び起こす。1970年代には、鎌型赤血球症の因子を持ったアメリカ軍の4人の黒人新兵の死亡が報じられた後で、多くの州では黒人社会に対して鎌型赤血球症のスクリーニングが一斉に開始された。これを受けて、アメリカ空軍は6年間にわたって保因者をパイロット採用の対象から外し、国防省もこの方針を踏襲したのである。いくつかの民間組織でも、鎌型赤血球病の保因者は貧弱な業績しか上げず、むしろ医療資源を浪費するのではないかとされた。しかし1973年、マーフィ(J.R.Murphy)は全米フットボール協会所属の黒人選手のうち、7%がこの病気の保因者でるが、高地にあるデンヴァー・スタジアムでのプレイに際してもなんら他の選手と比べて成績が劣ることはなかったと報告している。こうしてこの問題は、黒人が不当に「病変のある人種(deseased race)」だと選び出されているとの抗議を受けて、全面的な差別や優生学そしてジェノサイドが台頭する前に、広範なスクリーニングは中止されることになった。

保険加入可能性の有無の判定は、別の憂慮を引き起こす。アメリカでも、ほとんどの生命保険会社は営利を追求する企業体であって、決して公益事業や公共サービス機関ではない。保険会社にとっての利益とは、病人や疾病に罹患する危険のある人間を保険加入者にするよりも、健康な人問を契約者にすることにある。そこで、保険会社は、年齢、性別、職業、居住地域、血中コレステロール、血圧その他による差別的取扱いをするのである。そのために、詳細で綿密な疫学的点検表(epidemiological tables)が作られているのである。技術評価局(The Office of Technology Assessment)の試算によると、保険契約を求める志願者のうち、毎年16万4千人の人々が医学上の理由から保険会社によって契約を拒否されている。近い将来遺伝データは、保険料算出のための決定的な情報となるだろう。

職場や保険加入に際しての差別を解消するための一つの手段は、遺伝データの収集とその漏洩を規制する法的措置である。アメリカでは最近、障害者法の成立によって、伝統的であった就職前の健康診断が禁止されるようになった。しかしこの立法が、遺伝的差別の禁圧にどの程度有効であるかどうかは、今のところ明確ではない。将来の理想的社会では、利潤追求型の私的保険会社に代わって、何らかの国家的健康介護(national health care)が必要となるであろう。もしも社会全体が医療介護に要する財政的負担を受け入れることができたならば、就職することも保険に加入することもできないような「遺伝的下層階級(genetic underclass)」の発生を見ることはないだろう。

8、Millitaly Applications(軍事利用)

当初ゲノム計画は、物理学における巨大科学プロジェクトと異なり、軍事的な利用価値をもつ可能性はほとんどないものと思われていた。1986年6月、「ホモサピエンスの分子生物学」に関するコールドスプリングハーバーでのシンポジウムの基調報告で、イギリスの遺伝学者ボドマー(Walter Bodmer)は、このプロジェクトは極めて価値あるものではあるが「軍事防衛には関係がない」と述べていた。

軍事的利用の可能性が全くないとすれば、分子生物学は極めてユニークな分野たりえたであろう。しかし、アメリカ軍首脳部はかなり以前から、遺伝的知識の潜在的軍事利用、ことに「生物防衛(biodefense)」に対して大きな関心をもち続けていたのである。この分野の研究は秘密裏になされたが、漏れ伝わってくる研究目的や成果は、まさに軍事用バイオテクノロジーと呼ぶにふさわしいものであった。バクテリア因子を抗生物質に対する耐久性をもつように補強したり診断方法を分かりにくくして、敵がそれに対する防御措置等を開発することを困難にすることも可能となった。あるいはまた、生命体の抵抗反応を弱らせるヴィールスの開発が可能となるかもしれない。この可能性は、1980年代にアメリカの軍事実験施設から生物兵器の一種が事故で漏洩したためエイズが蔓延しはじめたのだというソ連の疑惑を生んだが、さしあたって根拠のないこととされた。また一定の病気に罹患する率が民族によって異なることに着目して、ある民族にのみ感染するが他の民族には無害な「民族爆弾(ethnic bomb)」の構想が話題になったこともあった。このような構想が、奇抜なものなのかそれとも現実性を帯びたものなのかについては意見のわかれるところであるが、こうした兵器が開発されなかったのは、専門家の多くが、こうした構想が軍事施設で真剣にとりあげられることを恐れて、その可能性を強調することにあまり積極性を示さなかったためとも言われている。

人間の核酸配列に関する知識が、軍事目的にどのように利用されるかを正確に予測することは困難ではある。非公開とされている重要な問題をさしあたって除外しても、こうした活動の倫理的社会的含意に関する(非軍事的な)調査に対して、資金援助を獲得することは難しい。「国立科学財団(National Science Foundation`s program)」の「科学と技術における倫理と価値(Ethics and Values in Science and Technology)」によれば、「軍事技術と国家防衛戦略に関連するような倫理的問題に第一義的に焦点があてられている研究」に対しては、公的な資金助成は厳しく禁止されているのである。しかしながら、もしも生物学が物理学を陵駕して「21世紀の科学」となるとして、しかもこの科学の軍事化をチェックできないとするならば、全米の連邦研究資金の70%が国防省がらみの研究にあてられているという現状と併せて鑑みれば、「生命の科学」が「死の科学」の手助けをすることになることは確実に予想できるとプロクターは指摘している。

9、Biological Determinism(生物学的決定論)

ヒトゲノム解析の潜在的な危険性のなかでも最も懸念すべきことは、ことさらに遺伝的素因の役割を強調して、アルコール中毒になるのも、犯罪に走るのもすべて遺伝のせいなのだと誇張するような、生物学的決定論に向かうさまざまなイデオロギー的潮流であることをプロクターは強調する。こうした生物学的決定論にヒトゲノム計画はその理論的根拠をおこうとするのではないかと懸念するグループによって、この計画はすでに強い批判を受けてきた。ヒトゲノム計画の推進者でもあるワトソンは、この懸念に目を向けようともせず、「この計画は、われわれ人間を分子レベルで解明する究極の手段を与えることになる。…かつてわれわれの運命は、この地球という星の中にあると考えることに慣らされていた。今やわれわれの運命は、そのほとんどが、まさに遺伝子の中にあるのである」と公言したとされる。問題は、優生学者が人問の行動における遺伝子の役割をあまりにも誇張し、心臓病あるいは精神障害の遺伝因子ばかりが注目されすぎて、環境因子が軽視されることにある。

したがって生物学的決定論の危険性のひとつは、病の発症の原因が環境から遺伝的欠陥という個人的問題へとシフトすることにある。月刊誌『消費者報告(Consumer Reports)』1990年7月号の遺伝スクリーニングについての記事では、「問題は、企業が従業員にとっての危険を増大させている労働環境を改善することよりも、むしろ病に最も罹りやすい従業員を締め出そう(screen out)とすることにある」という警告を発している。「タバコ研究会議(Council for Tobacco Reseach)」は、1954年の創立以来、生物医学研究に1億5千万ドル以上の資金を投じてきたが、これまでのガン研究の圧倒的部分はまさに遺伝研究に注がれてきたのである。最近になって、肺ガンの発症の引き金となる遺伝子が発見されたため、この発見者は「もし我々がこの遺伝子が容易に活性化される人間を特定することが出来れば、そういう人に対しては喫煙をしないように勧めるだけでなく、一定の環境汚染物質を避けるように勧めることができるようになるだろう」と主張するようになった。このような見解の危険性は、産業による製品や環境の欠陥よりも、個人の中にある遺伝的欠陥の方を強調することにある。こうした危険はいわばイデオロギーとでも言うべきもので、これは一定の病の発症に際して「後天的因子(nurture)」よりも「先天的特質(nature)」の方がより重要なのであるとする思い違いに起因している。確かに「環境」と「素質」を明確に区分することは容易ではない。しかしたとえ明確に遺伝するとされるような病気であっても、遺伝子の発現形態は大きく異なる。ジョンホプキンス大学の小児科教授であるホルツマン(Neil Holtzman)は、遺伝発現が大きく異なっているケースでは、遺伝テストはほとんど予見価値を持たず、「心臓疾患であれガンであれ、その他の疾病に罹患した者の大部分は、その原因が極めて入り組んでいるので素因遺伝子のスクリーニングがなんらかの予見を与えるであろうと考えることは、粗悪な単純化である」と述べている。

10、Conclusion (結論)

ゲノム学(Genomics)の誕生は、新しく発見された技術と道徳的権能との予兆であるとして、華々しく紹介される。例えばコッシュランド(Daniel Koshland)は雑誌『サイエンス』誌上で、ヒトゲノム計画は「病める人そして社会的に恵まれない人を救う偉大な新技術をもたらすに違いない」と述べ、ブルックリン工芸大学のバグリアレロ(George Bugliarello)は、ヒトゲノム研究がわれわれの「暴力と攻撃性に対する生来の性向」を理解する手助けになり、「先祖の危険な素質を変更する道を見いだすことのできる重要な希望をもたらす」ことになるだろうと述べている。このような空想的な希望へと突進してしまう危険性に対しては、多くの病はそんなに単純な遺伝的素因によらないで発病するものだということを強調しておく必要がある。嚢胞性繊維症は、年間500人の割合でアメリカ人に死をもたらし、ハンチントン舞踏病の死者もほぼ同じ程度に過ぎない小数である。これに対して、例えば紙巻きタバコの喫煙だけで、年間40万人のアメリカ人が死亡していると推定されている。この死亡率は、今まで知られている遺伝病がらみの死亡率をはるかに陵駕している。プロクターはもし救いたいのが多くの人命だということであれば、禁煙運動に対して30億ドルを支出するか、あるいは食品添加物などの削減のために10億ドルを支出する努力を払ったらどうだろうかとやや皮肉まじりに提起する。アメリカの子供の死亡率は、先進国といわれる国々の中では最悪であるが、こうした状況の改善に対して遺伝学の知識は全く役に立たない。もし健康の増進ということがわれわれの社会の目標だとしたら、現在の医療資金交付の優先順位には、何らかの欠陥があることは明らかである。

またヒトゲノム計画に関連する「社会的コントロール」については、強い疑念がある。確かに今日、すでに見てきたようなかつての1920年代のアメリカや、1930年代のドイツでのような、遺伝学の濫用が生じるといった危険性は少ないといえるだろう。かつての民族レベルでの健康増進ではなく、今日の遺伝学の力点は遺伝病の治療と予防にある。それは自発的治療に向けられ、強制的断種や婚姻禁圧を行うような性質のものではない。カウンセリングは、できるだけ自発的で「非指示的(nondirective)」であるべきだとされ、どのような治療を受けるべきかという問題は、個々の患者の自己決定に委ねられている。ゲノム学の擁護者たちも、こうした流れの中でヒトゲノム計画の持つ社会的倫理的係わりに関する研究の必要性を認めてきている。実際NIHは、ヒトゲノムの地図作りと配列解析に関するELSI(Ethical, Legal, and Social Issues Related to Mapping and Sequencing the Human Genome)を監視する作業部会を作り、この点に関しての研究に対する資金援助を行いはじめ、エネルギー省も倫理研究への援助を行うことにしぶしぶにではあるが(begrudgingly)賛同の意を表明している。こうした状況を生み出したもっとも重要なことは、アメリカ社会が全体として変化を成し遂げてきたということであるだろう。市民権の代弁者は、小数者の身分を保護する立法を推し進めてきたし、障害者運動は、身体障害者の社会参加を保障することに成功した。女性と小数者たちの力強い声はますます高まり、これが1920年代や1930年代のようなやり方で、ある集団を烙印化することを困難にしてきたのである。

しかし、かの1930年代の優生学運動の根底にあった生物学的決定論は、決して今日でも消え去ってはいないのである。遺伝学は、依然として「人間の不平等の科学(science of human inequality)」としての性格を色濃く残しているのである。個々人が持っている能力の不平等さに直面した際に、人間の行動が遺伝子に起源を持つということを強調し過ぎることはきわめて危険である。生物学は時折、手に負えないような社会問題が生じた際、それに対する便利な説明を与えてしまう。国際的テロへの不安が高まる中、1979年雑誌『サイエンス』は「ほとんどのテロリストは、中耳の前庭作用の不全症に罹っている」と報じ、1989年にはコナー医師(Melvin Konner)が『ニューヨークタイムス』誌上で、他人に対して暴力をふるう傾向は「内因的で本源的かつ生得的なものである」とさえ述べていた。こうした単純化に反対する批判者たちは、テロリズムや性的偏愛そして「内気さ」や「いじめ」といったパーソナリティが、遺伝的なものに根を持っているという証拠はほとんどなく、攻撃性や強姦といったような人間的文化的特質に反するような行為が生物学的に決定されているかのように妥協することは、誰もが犯しやすい誤りであることを主張している。

もし「ゲノム学(Genomics)」と「優生学(Eugenics)」との間に、何らかの連続性があるとすれば、それは多くの人々が人間の才能の大部分が遺伝するものだと信じているというところにある。ヒトゲノムの塩基配列を解明することは、技術的には驚嘆すべきことかもしれないが、それはわれわれに生きるための鍵を与えたりはしない。「われわれの運命はわれわれの遺伝子の中にある(our fate is in our genes)」という発言は、議会から予算を引き出すためには良い宣伝文句であるかもしれないが、われわれの核酸に関する知識から得られるであろう利益を誇張するものであるだろう。ゲノムとは、ちょうどコンサートの演奏における楽譜のようなものであって、それだけで人間のあらゆる側面を決定してしまうような「本質的要素そのもの(the very essence)」ではないのである。

しかしながら批判というものは抽象的であってはならず、具体的なものでなければならない。ヒトゲノム計画を批判する者たちは、しばしば技術の進歩がもたらすことになる「滑り易い坂道」について警告する。しかし技術に対する批判というものは、社会の中の特定グループに対していったいどのような利害がもたらされることになるのかという理解に立脚したものでなければならない。あらゆる人間による操作を「神を演じる」ものとして非難し、「批判の滑り易い坂道(slippery slope of criticism)」に陥ることは、新しい技術のフロンティアに向かって思慮のない突進をするのと同様に、安直なやり方である。楽天主義者たちはしかし、古い形態での遺伝学の濫用はもはや過去の出来事であると思い込みがちであるが、現状はそれほど楽観視できるものではない。シンガポールでは、1930年代のものに匹敵するような優生計画を開始し、1989年中国では、精神障害者に対する系統的中絶を開始したとされている。この他にも、インドやラテンアメリカでも同様の動きがあるという。われわれが銘記すべきことは、いかなる技術の濫用の潜在的可能性も、まさにその技術が行使される社会的コンテクストに大きく依存しているということである。このことこそ、ヒトゲノム計画をめぐって生じてくる新しい倫理問題の数々の背後に隠された「真の核心」に他ならない。「本物の危険」は、子孫の遺伝的健康を改善しようと努めることでも、集団や個人の健康が公衆衛生を計画する者たちのターゲットになることでもない。遺伝をめぐる知識や技術の濫用というものは、不平等に分配された権力から生じてくるのである。プロクターは、いまだ権力が「持てる者」と「持たざる者」との間に不平等に配分された社会の中で、新しい遺伝技術の応用がなされるならば、それが社会的侮蔑と経済的不公正を強化することになりかねないという可能性の内に「真の危険(genuine dangers) 」を見ているといえる。

(板井孝一郎)


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Last modified: Tue Sep 22 22:36:15 JST 1998