D. メイサー「ヒトゲノム計画は誰のものか」
Macer , Darryl., “Whose Genome Project?” Bioethics ,vol.5 No.3, 1991. pp.183-211
キーワード
- HUGO Human Genome Organisation
- データベース database
- 特許、特許法 patenting, patent law
- スクリーニング screening
この論文は、ヒトゲノム計画の経緯、現状をふまえながらそれに付随する諸問題を網羅的に取り上げ、一定の倫理原則から現実的な問題解決の手立てを考察するものである。ダリル・メイサー氏は現在、筑波大学の生物科学系外国人教師である。
1.「誰がゲノム計画を始めたか?」 [計画の沿革]
ヒトゲノム計画はそれが掲げる目標の高さと規模の大きさからしばしばアポロ計画になぞらえられるが、計画の性格として前者がここ数十年の遺伝子研究の成果を集約しそれに明確な方向づけを与えただけだ、という点で両者の間に違いがある。ヒトゲノム計画とは、遺伝子地図及びDNAシークエンス(塩基配列)解読のコンピューター化を目指す合衆国エネルギー省(DOE)の計画に引き続いて、1980年代末に数カ国で始められた複数の計画の総称である。(その後で、アメリカでは生物学研究の中心である国立衛生研究所(NIH)が計画に参加することになる。)我々の遺伝子組成の発見という目標は、実際的な利益をもたらすのみならず人知の一つの頂点を成すものと言え、従ってこれまでも多くの科学者がこの目標に貢献してきたし、今後も多数の科学者の国際的な協働作業がなされてゆくだろう。
2.「誰のDNAがシークエンスされているのか?」 [ゲノムの人類共通性]
異なる個人間ではDNAの塩基配列は0.3-0.5%ほどの違いしかなく、人種間の相違は更に小さい。従って上の問に対しては「誰もが持っているゲノム」がシークエンスされていると言ってよい。この点は、計画が人類全体に直接の関係を持っていることを含意しているという意味で、鍵となる理解である。
ここで次のような倫理的問題が生じる。もしある国家が、自国の国民のDNAがシークエンスされてはならない、と決めたとする。しかしゲノムは人類共通なのだから、計画の進行はその国の「知らない権利」を犯すことになる。この時知る権利と知らない権利とどちらに優先権を認めるべきなのだろうか。こういった問題は、実際上はほとんど無視してもかまわないものだが、しかし倫理的にはそれは許されない。計画を指揮する人間は、塩基配列は知られるべきだ、という想定に単純に立つのではなく、広く人々に対して塩基配列が解読されることを求めるか否かを問わねばならないだろう。
また、塩基配列解読に反対する人々を考慮外に置いて、解読を行なう側が手に入れた情報の使い方を自由に裁量する権利があるかどうか、という別の問題がある。これについては、「国連人権宣言」第27条に示されている原則、即ち(1)誰もが科学的進歩の恩恵を共有する権利を有する、(2)誰もが、自らその著作権者(author)であるところの所産から生じる利益について、それを守られる権利を有する、という二つの原則から、答えが与えられる。全ての人がDNAの情報の著作権者であり、従って解読されたデータの使用法など、ゲノム計画における諸々の決定はその観点からなされねばならない。上の二原則は、哲学的にも「正義と慈恵の原理 the principles of justice and beneficence 」を反映しているのである。
3.「誰がゲノム計画に資金を出すことになるのか?」 [資金の分担]
国家レベルでのゲノム計画への研究資金の供出は幾つかの理由から正当化される。まず倫理的には、「我々は皆、全ての人に恩恵をもたらす共有の知識に対して貢献をなすべきである」という正義の原理から導かれる理由がある。その他、研究への参加が大学教育の質を向上させる、あるいは国家の威信を高める、といった理由が考えられる。さらに重要な理由として、経済的な利益を挙げられる。アメリカの1991年のヒトゲノム計画への政府支出は1億3600万ドルでこの額は年々増加しているが、一つの新薬の開発にかかる費用が5000万ドルから1億ドルかかることなどと比較し、そこから得られる情報の莫大さとバイオテクノロジーの商業的な意味の大きさを考えると、その程度の支出は大きすぎるとは言えない。そして計画が今後直接に医学上の恩恵をもたらす可能性を考えると、「慈恵の原理」から支出は倫理的に正当化されるだろう。
アメリカでは当初、ゲノム計画の予算が他の小規模な生物学研究の予算を食いつぶすことを恐れて、一般的な遺伝子地図できた時点で計画は終了すべきだ、という意見があった。現在では、効率の良い資金運用という点により注意が払われており、例えば1990年にDOEは、ヒトの全DNAの塩基配列を特定する前に、発現遺伝子の全てについてのシークエンスにまず取り組むと発表している。
資金の国際分担という点については、先の「正義の原理」から、「資金を出す余裕のある国すべてが資金を提供すべき」という結論が導かれる。そして現に先進各国は、経済的な思惑も抱きつつゲノム計画への支出を増やしつつある。
4.「誰が作業をすべきなのか?」 [作業の国際分担、私企業の参加の可能性]
ゲノムの物理地図作成において研究者間で用いるDNAマーカーが違うため、同じ染色体に関しても一つの統一的な地図を作ることができない。また遺伝子クローニングについても、異なったベクターが用いられているためDNA断片の交換ができない。現在は「シークエンス旗印(STS)」をラベルとして用いるPCRという遺伝子増幅を取り入れる潮流があり、これならば異なった手法で得られたデータを一つの物理地図へと統合することができる。こうした地図作成(マッピング)の完成を全塩基配列の決定(シークエンシング)より優先すべき、という報告が複数アメリカでなされている。
上の手法が重要なのは、規模の小さな研究者チームでも計画に貢献できる、という点である。それは即ち、米、欧、日以外の諸国に参加の道を開くことを意味する。熟練した研究者の数が足りないならば、人はいるが資金が足りない、という国へ国連など国際機関が資金提供をするといった形で、計画の国際化を進めることができよう。
国際化という点に関しては、DNA情報の国際データベースの確立がゲノム計画には必要である。現在すでにいくつか存在するが、データを最新、最良のものにするためには各データベースが情報の相互所有という点に関してオープンであるべきである。
私企業が計画に参加すべきか否か、という問題もある。私企業ならばシークエンシングのより安い方法を開発しようとするだろうから、費用面から計画に市場原理を持ち込むべきだと主張する人もいる。全てを政府支出で賄うのではなく、若干を委託研究 (contract research) に委ねるのは差し支えないであろう。
5.「共同のデータ所有 (Data-sharing) が必要」[情報の公開性、研究者倫理]
国際的な作業の協働、とりわけ作業の重複を避けるためにもHUGO (Human Genome Organisation) の役割は重要である。各国に作業を割り当てる、という提案がなされたこともあるが、研究の実際から言ってそれは非現実的である。HUGOは、どの染色体について現在どれだけの研究計画が進んでいるか、という情報を与えることで間接的に作業の調整を図れるだろう。
得られたデータの公開性については、情報が全ての研究者によって共有されてこそ計画の進展が最も早まるのだから、データのフリーシェアということには特別の必要性がある。以前J.ワトソンがHUGOへの日本政府するの資金提供を促すために、資金を出さない国には情報使用を制限するという脅しをかけたことがあったが、これは今日まで広く批判の対象になっている。
業績をめぐって競争する研究者・科学者の観点からのデータシェアの問題、というのはすでに生じている。例えばある新技術についての論文の出版を遅らせた方が、その研究者は研究の次の段階でリードをきれるだろう。こうした問題を軽減するためDOEは6カ月以内にデータを公表するようガイドラインを示しているが、科学者の側でこれを3カ月に縮めるようという動きもある。計画の進展という点から言えば最新のデータは直ちに利用できる状態にあるべきだし、そもそも公共の金を使っている研究者にとってデータの即時の公表は倫理的責務である。また科学不信の時代において、この点で研究者が「科学における利他主義 (scientific altuism) 」を示す良い機会でもある。もし科学者の側で率先してできないというのであれば、なんらかの規制を課す必要があろう。
6.「誰が成果を所有すべきなのか?」 [特許権の問題]
人の遺伝子が特許の対象になるかどうかという議論は、一般にバイオテクノロジーの産物や動植物に特許権を認めるかどうか、という問題と結び付いて今日極めて時事的なものとなっている。現状では、アメリカやオーストラリアなど多くの国ではバイオテクノロジー上の発明に通常の特許権を認めているのに対して、ヨーロッパの国々では動植物を特許の対象から除外している。この点をめぐる議論として、遺伝物質の特許に賛成する側の論理は、特許権の認定は技術革新の努力に見返りを与える、認められなければ逆に有益な情報が商業上の秘密にされてしまう、などといったものがある。一方反対の側の論拠としては、特許法は遺伝子という共有の遺産についての情報を管理・利用する仕方として不適切である、特許を認めてしまうと医療費を高め消費者・次世代の人間の負担を大きくする、生命についての物質主義的な考えを強める、といったものが挙げられる。
特許権の容認が私企業のヒトゲノム計画への参加を促し結果として計画の達成を早める、という利点は確かに認められる。しかし倫理的観点からすれば、DNA解析によって得られた知識は人類の共有財産であり、全ての人にオープンなものでなければならず、したがって特許によって一部の国や企業がそこから利益を独占することは認められない。「慈恵 beneficence の原理」によって、恩恵は一般的な医学や農業の発展という広い立場から考えられねばならない。医学を例にとれば、診断や治療に用いられる器具や製品には当然特許が認められてきたが、実際の医療上の術式 (procedure) はこうした慈恵の原理によって特許から除外されて自由に用いられてきた。ゲノム計画についても、シークエンシングやマッピング上の技術のみを特許権の対象とすべきであろう。
ヒトゲノムの知識が人類の文化的財産である、という点について、法的にそれを支持する考え方もある。加えてDNAの塩基配列解読は「発明」ではなく「発見」にすぎず、したがって特許は認められない、という考えもある。もしDNAの塩基配列がランダムなものならば、シークエンサーを一定の配列の発明者、著作権者(author)と呼ぶこともできようが、実際には塩基配列はただ「知られていない」だけのことであり、シークエンサーは「発見者」にすぎない。こうした観点からDNAの所有者である人類を差し置いてその発見から利益を得ようとする者を、先住民の権利を無視して発見した土地の所有権を主張する植民者になぞらえて「ゲノム帝国主義者 genomic imperialist 」と批判する論者さえいる。
法学上の解釈についてはなお難しい問題が残るが、世論が一般的にヒト遺伝子の特許認定に否定的である、という要因も考慮に入れて、上述の倫理的観点を法律に生かしてゆくべきであろう。
7.「誰が成果から恩恵を得るのか?」 [優生学、差別、プライバシーなど]
全ての人がゲノム計画の成果から恩恵を受けるべきである。さしあたり計画の進展に伴って医学、とりわけ遺伝病の治療に関する発展が見込まれるが、優生学に結びつく知識の悪用を防ぐためにも、一般市民が計画のもたらす倫理的、社会的、法的諸問題について理解し、意志決定に参加するようにならねばならない。そのために市民の教育、啓蒙が必要である。教育はまた、人々が遺伝に関する誤った知識から差別感情を抱くことがないためにも必要である。そのためには倫理的、法的側面の研究のための予算が、少なくとも全予算の1%分は確保されておかねばならないだろう。
スクリーニングの技術の進歩に伴う保険、雇用、刑法などにおける遺伝情報の利用については、それが公正なものとなるよう前もって十分議論しておく必要がある。正義の原理から、一定の遺伝的素因のために一部の人間が不当な不利益を被ることのないよう配慮がなされねばならない。医療に関しては国民健康保険制度の確立が一つの解答になるだろうし、雇用上の差別を防ぐためには遺伝情報に関するプライバシー保護が必要である。
出産時におけるスクリーニングの利用についても、制限が必要である。特定の遺伝病を「重病」と認定して堕胎を認める胎児保護法は、その病気を持つ障害者に対する差別を増大させる危険がある。法律には病名は特定せず、重病のリストは規制委員会だけが使用する、といった繊細な扱いが必要だろう。いずれにせよ今後、多くの規制と法律が必要となる事態は避けられない。哲学的な考察だけではなく、スクリーニング利用の影響に関するリサーチ、とりわけ両親の判断についての調査研究の蓄積が必要である。
8.「われわれの世代のためか、それとも未来の世代のためか?」 [世代間倫理]
ヒトゲノム計画が引き起こす多くの問題に共通するのは、将来の世代に対する影響を考える必要がある点である。われわれの伝統的な道徳観では、責任を取るべき行為の結果は短い時間の範囲で考えればよかったが、遺伝子操作の技術はそうした道徳性の地平を変えてしまった。われわれはロールズの言う正義の原理に基づいて、未来に対して責務を負っている。したがって、予測できる結果についての知識を得ることは道徳的な命令であり、医者、研究者は単に目の前の患者や研究成果だけではなく、新しい研究成果の引き起こす二次的な影響をできる限り予測する責任を負う。
9.「共有知識の国際的な運用について」
遺伝子操作などの情報利用の影響は一国には留まらないので、その決定に当っては世界的な世論を考慮にいれなければならない。それには各国の委員会代表が集まる国際的なフォーラムが適当であろう。そこでは特に、発展途上国の代表や多様な意見を持つグループの代表が発言権を確保することが、倫理的見地から必要となる。人間の遺伝情報は全人類に所属し、結局ゲノム計画は全ての人のもの、だからである。
紹介者による論点の整理
ヒトゲノム計画推進への流れはもはや止めることはできない、という現状認識に立った上で(1)、ゲノムは全ての人の共有財産なのだからその知識の活用は全人類の利益という観点から遂行されなければならない、と主張するメイサーの視点はきわめて明解である。その基本的思想から、情報所有の制限によって一部の国、企業、研究者が利益をあげることがあってはならないし(5、6)、逆に恩恵をこうむる国々はできる限りの資金と作業の分担に応じるべきである(3、4)、また情報、技術の運用に関する意志決定には国内的には教育をうけた全市民が、そして国際的には発展途上国が加わらなければならない(7、9)、といった一般的な結論が導かれることになる。
しかし極めて当然のことながら、子供が障害を持って生まれる確率が高いと判明した場合両親や医者はどういう決定を下したらよいか、といったゲノム計画以前からある倫理的問題についは、以上の考察から明確な答えが導き出されるわけではない。「全人類の利益」に次世代の人間を含めるのは当然としても(8)、堕胎されようとする胎児はその中に含まれるのか否か。また優生学的な政策に反対する部分の考察では、結婚し家族を作る男女の「自律性への尊重」というまた別の倫理原則が導入されているが(7)、はたして優生政策の導入も同じく全人類の繁栄ということを口実になされはしないか。この概括的な論文はそこまで立ち入った議論にコミットしないが、ただ倫理的問題の解決に対して哲学的、倫理学的考察の継続の必要性と並んで、政策決定に先立つ社会的なリサーチの蓄積と市民の教育の必要性を強調しているのは(7)、正当な指摘と言えよう。全人類の利益という一般概念からの演繹ではなく、公共的議論の継続による妥当な合意の形成によってのみ、われわれは現実的な問題の解決へと近づきうるであろう。
(白水士郎)
本紹介は千葉大学編『生命・環境・科学技術倫理研究資料集』1995に掲載したものを加筆の上、転載したものである。なお本稿の作成に当って、医学・法学上の記述に関しては鶴山龍昭氏に貴重な助言を頂いた。
Dept. of EThics <ethics@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Sep 24 00:54:37 JST 1998 >