プライバシー(秘匿)保護と告知制限

プライバシー(秘匿)保護と告知制限

木田盈四郎(帝京女子短大)

私が、この会で発表させていただく決心をしましたのは、『ヒトゲノム解析計画の生命倫理』という課題に興味があるが、どう考えたらよいか全く想像もつかないので、基礎から勉強したい、と思ったからです。始めてこうした会に出席するわけですから簡単に自己紹介をさせて戴きます。

私は、小児科医で、人類遺伝学を昔、三島の国立遺伝学研究所の松永英先生と、西ドイツのミュンスターの人類遺伝学研究所のレンツ先生のお二人にお習いしました。1960年の始めに染色体の数の異常としてダウン症候群、クラインフェルター症候群、ターナー症候群などが分かり、私が西ドイツに留学した1966年頃は、染色体の小さな変化のために起こる猫鳴き症候群が見付かっています。ゲノム解析の起源となった、ワトソンとクリックがDNA分子の構造に関するモデルを発表したのは、1953年でしたから、この1950,60年代は遺伝子や染色体についての輝かしい発展の始まりの時期でした。1960年代に人類遺伝学を学んだものは、染色体の研究が中心でした。しかし、こうした科学技術が発展する時には、必ずといってよいヒトの生存に関わる被害があるもので、約3年の留学を終えた私を待っていたのは「サリドマイド裁判」という薬による胎児被害でした。別に打ち合わせた訳ではありませんでしたが偶然にも、レンツ教授、松永教授と私の3人はサリドマイド裁判の原告側の証人になっています。また、僣越ですが、私は、W・レンツ「医学からみた遺伝学」の翻訳(講談社,1981年初版)と、「先天異常の医学」(中公新書,1992年8月9版)を書いたことをここでご紹介しておきます。今回の試みは、ヒトゲノム解析というヒトの生存に肉薄するような技術的に躍進している場合、そのヒト被害を防ぐ意味を持つ生命倫理の問題を多面的に検討することは意義深いと考えます。

さて、ゲノムと言うのは、「生物の生存を可能とする最小限の染色体の一組」ですから、ヒトの場合は、精子や卵子の染色体のことで、それを構成するDNA(デオキシ・リボ核酸の塩基配列)、遺伝子、染色体、X,Y性染色質などを含んでいます。そして、倫理とは、「道徳の起源・発達・本質・規範について研究する学問」のことで、道徳とは、「ある社会で、その成員の社会に対するあるいは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体」とされています。

「ヒトゲノムの生命倫理」を考える場合に、現在までの遺伝病や染色体異常の臨床的経験が役立つと考えました。ここで、一つだけ例をあげますと、ヒトの遺伝病に、フエニルケトン尿症と言う、脳の障害が強く、発病すると重い知恵遅れになり治療できない疾患があります。発病する前に、この病気と分かれば、フェニルアラニンというアミノ酸の入っていない特殊ミルクを飲ませることで、この知恵遅れを起こさないことが分かりました。ガスリーさんという人が、血液を濾紙に少量塗って、乾かした小さなかけらがあれば、生まれてすぐのこの病気の発病前に検査ができ、治療のために特殊ミルクを飲ませると知恵遅れにならないことを報告しました。これはガスリー法と呼ばれ遺伝病の治療として画期的なことでした。しかし、遺伝病を直しても「病気の遺伝子」がヒト集団に残り増えるので、やがて人類は破滅するのではないかとの危惧が起こりました。しかし、遺伝学の知識を応用すると、例えば、8万人に一人この疾患の子が生まれるとすると、その子の発生頻度が二倍の二人になるために80代、つまり千六百年以上かかることが計算され、それまでには何等かの対策ができると考えられ、この方法が採用されました。これは、「新生児マススクリーニング」としてわが国を含めた全世界で実施されています。

さて、ここで人類遺伝学の知識と私のささやかな経験が多少とも「ヒトゲノムの生命倫理」を考えるために役立つこともあるのではないかと思い、『プライバシーの保護と告知の制限』と題して私見を述べようと思います。

1.研究対象

まず、ヒトゲノムの告知の対象となるのは、ヒトDNA診断の全領域と考えられます。つまり、「ヒトゲノム」とは、ヒトの個人から採取された材料、つまり、血液および、その他の細胞などについて調べられた「塩基配列データー」のことですが、それは、ヒトの60兆の全ての「細胞の核にある染色体」という構造の中にあります。さらに、個人の「DNAデーター(情報)」は、医療情報の一つであり、その中には、「ヒトに共通するもの」と「疾患あるいは個人差に関するもの」があります。プライバシーに関するのは主として後者の方です。また、このデーターは、この解析計画に参加している全ての研究機関に集積されますが、生命倫理で取り扱うのは、「ヒトDNA情報の管理」と、「材料を提供した個人に対する告知」の問題があると考えられます。

ここで、「DNA情報」とは、塩基配列データ、FISH法(後で説明)などによる特定の遺伝子の有無、染色体の数、および構造、XおよびY染色質などに関連したものを全て含むことにします。

2.現状

ここで、こうした検査が現在どのように行われているか紹介しますと、医師は、検査機関に患者材料を送って、有料で「DNA情報」を得ることが出来ます。具体的に言いますと、患者材料(血液、細胞)は、医師の責任で検査機関(室)に送られ・検査され、その報告は書類として医師に伝えられ、その内容は、医師によって患者に告知されています。

検査機関としては、病院の臨床検査室、医科系大学の研究施設(研究室)、民間の臨床検査機関などですが、今後はヒトゲノム解析計画に参加している研究機関(動物、植物、細菌学などの医学関係以外の施設、研究室)などが増えるでしょう。また、費用の負担は、現在では、疾患に関しては患者、研究に関するものに対しては研究者または研究機関となっています。

ここで、検査材料と検査データーの流れを整理しますと、患者→→(依頼)→→医師→→(患者材料の送付)→→検査機関→→(報告書の送付)→→医師→→(告知)→→患者となりますが、『ヒトゲノム計画』の流れは多岐にわたり、その全ての部署で、患者資料が、外部に漏れないように注意されなければならないわけです。この「全ての部署の全ての資料」が対象となりますが、そこにプライバシーの観点からの重要度の違いがあることを指摘しておきます。つまり、ある資料は、「一般の注意」でよいが、ある資料は、「厳格に保護される」という具合です。この一般の注意とは、患者名と資料との関係を示すデーターの秘匿と保管を厳重に行う事と、資料そのものの保管に注意することでしょう。

次に考えなければならないのは、そうした管理に『責任者』を決める事です。資料の管理と保全は、問題の起こる場所が疾患に関することですから医師の関与が必要です。

そこで大きな問題点として『管理責任者である医師』の「管理能力」と「患者に対する告知能力」という二つの問題が浮上して来ます。一般的にその医師の告知能力に大きな問題があるのです。そして、医師に告知能力がない場合、言い換えれば知識や、説明意欲がない場合には、患者の「プライバシー保護」や、逆に「患者の知る権利」、または、「知りたくない権利」などを十分に守ることができません。検査技術者または検査機関が文書で直接患者に報告する形の告知は、トラブルが多く発生し、ますます、それは解決困難になり危険です。

これは、医師の「人類遺伝学の知識」は医学教育のなかで伝統的に軽視されており、 わが国の現状はお寒い限りです。武部教授は、中学、高校、大学の一般教育について述べていられますが、医師の専門教育の中にも大きな問題があります。一つだけ例を挙げますと最近の厚生省の発行している「医師国家試験出題基準」のなかに、遺伝学を系統的に学ぶ項目が無くなったことに憂慮を感じます。

もう一つ大切な事は、告知を受ける側の国民の「遺伝学についての常識」を向上させる必要があることです。その前に、「疾患の主体は患者である」と言う理解を普及させる必要があります。この現状も同時に、お寒いものであることをここでは述べておくに止めましょう。

3.出生前診断(種類)

ヒトゲノム検査を考えるための例として、胎児診断について説明致します。まず、「羊水穿刺」は妊娠16週頃に行われ、その検査材料の「細胞培養」の結果は2~6週後に分かります。これが「絨毛組織の検査」ということになりますと妊娠8~11週頃検査できますので、少し早い時期にわかります。この検査では、細胞を直接検査して、X,Y染色質を調べて「性別」が分かりますが、最近FISH法(特定の遺伝子に蛍光染色をして染め分け、細胞に作用させて、てそのあるなしを判断する方法)などによって特定の遺伝子の「DNA診断」ができるようになりました。「細胞培養」で染色体異常(数の異常と構造異常)と先天代謝異常が検査できます。

ここで、「培養細胞」と、直接の「細胞」を検査することの違いについて一言補足しておきますと、わたし達のからだは、60兆個の細胞の塊ですが、そのほとんどの細胞は、細胞分裂を静止した状態にあり、その例外は男性の睾丸のなかの精子とか、大腸などの病気でポリープが出来ているときとかなどの、細胞分裂を行っている特殊な場合だけです。細胞は、分裂してその数を増やしているときにだけ染色体の姿を現します。従って、染色体検査は、「培養細胞」で行い、性染色質は「細胞の直接検査」(普通これは、口腔粘膜や毛髪の根元の細胞などで行います。)、DNA(遺伝子)は両方で検査されます。

4.人類遺伝学の生命観

ゲノム(DNA情報、つまり遺伝子)は「ヒトの個人差」を現しています。遺伝子は、「親から子にその性質を残し伝える、遺伝現象」(遺産相続の意味)の対象として研究されていたので、「親から子に伝わるもの」の意味がついていますが、現在では、生物のからだの営みの全てを支配している物質であることが明らかになっています。平たく言えば、親から子に伝えられ「ヒトの体と心を作る設計図」の役割と、同時にに「全ての細胞の作用を支配している」のが遺伝子です。また、遺伝子の作用は常に環境との絡み合いで起こります。これは、最近、癌や遺伝病、先天異常だけでなくアレルギー疾患や、アルツハイマーという老人の痴呆の遺伝子が研究されていることでお分かりでしょう。

また、遺伝子には、ヒトにとって「良い遺伝子」も「悪い遺伝子」もないこと、また、「遺伝子の情報を、患者を差別することに利用してはならない」のが原則です。最近、ハンチントン舞踏病の遺伝子を持っている人の生命予後が悪いことがわかり、生命保険の料金を高くしたり、審査で拒絶したりすることが起こっていると報道されています。これは、憂慮すべき現象です。

本庶佑教授の書かれた「遺伝子が語る生命像」(講談社ブルーバックス)によりますと、遺伝物質(DNA情報)はすべての生物種において同一(共通)であるとしています。つまり、ヒトの成長ホルモンを大腸菌を使って作ることが出来ることが例としてあげられるでしょう。つまり、ヒトの成長ホルモンは、ヒトでしか作られませんでしたので、成長ホルモンの分泌が悪いために起こる下垂体性こびと症の治療には、ヒトの体から取り出したホルモンが必要でした。最近になって、大腸菌のプラスミドという核物質の中にヒトの成長ホルモンを作る遺伝子を組み込ませることが出来、大腸菌を増殖すれば同時に、その中でヒト成長ホルモンを増やす技術が開発され、実用になっています。このことは、細胞レベルではヒトと大腸菌は同じ仲間と考えられることを示しているのです。また、遺伝物質は、ダイナミックに変動していること、そして、従来稀なものとして理解されていた「突然変異」は、ありふれたものである事も分りました。さらに、突然変異から個体(生物種)を守る機構が発達している事もわかりました。生物は、突然変異によって出来た変異遺伝子を自然界から淘汰することと、適者生存の原則によって進化してきたと考えられていますが、その考えは遺伝子レベルで裏付けられたのです。流産は、ヒトの胎児の生命を失う現象なので人類の将来に対してマイナスイメージで受け取られますが、この現象は、異常のある遺伝子を人類から淘汰するプラスの面があると考えられ、「流産型治癒」と呼ばれるようになりました。

こうした突然変異によって、ヒトの遺伝子を破壊する化学物質は、食品、医薬品、農薬などとして広く大量に使われ、さらに今後生活を便利にするためにますます多く使われることが予想されます。これは「環境変異原物質」と呼ばれますが、それを規制すること無く野放しにしていることは、ヒト絶滅の危険をはらむことは確かでしょう。

一方では、生物種の持つ遺伝物質は、個体間で大きな差があり、これが生物を絶滅から救っていると考えられています。つまり、生物の遺伝子には個人差があり、そのため予測できない環境の変化のなかで生物は生き残り、将来も生き残ることができると考えられるのです。これは、ある時代に有利な遺伝子を持つものだけでなく、不利な遺伝子を持つものが同時に生存することが大切であることを示しています。自然界は、適者生存の原則と同時に、遺伝子レベルでも、障害者や、社会的弱者との共存を教えているのです。

5.DNA診断による告知の問題点

DNA診断によって、患者(対象者)の全てのDNA情報を知ることができます。その情報を患者に知らせることを『告知』と呼びます。その原則は、患者(子どもや妊婦の場合は親)の『知る権利』を守ることです。常に問題になるのは、告知の内容とその方法です。つまり、誰が誰にどういう状態で何をどこまで告知するかが問題となります。

このことを考える一つの例として、先天性風疹症候群を挙げます。これは、妊婦の血液を検査して、風疹抗体値が高ければ、胎児にこの病気が「あるかないか」を予見することができます。わが国の、裁判では、最初、重症の脳障害を起こした風疹胎芽病を持った親が、これは医師がこの子が生まれる事を教えてくれなかったこと、また、人工流産をしなかったのは、「医師の過失である」として告訴しました。裁判所は、その親の訴えをほぼ全面的に認め、医師は敗訴しました。その後の判例を見ますと、すこし内容が変化しています。この疾患の胎児を診断するのは、親の血液を採って検査すれば良いという単純なものではなくて、母親からの採血を最初の受診日と3週後にもう一度行い、この二つの血液の値を比較して抗体の値が上がっていれば、胎児に風疹の罹患が確実である、と判断されています。この二回の検査を風疹抗体値のペア血清と呼ぶのですが、最近の判例では、医師がこの検査を十分に行わなかったのは過失である、としています。しかし、抗体値が高くても障害の程度が軽いものや障害の無いものがあります。重症の脳障害が起こるかどうかは、この検査では分からないのです。裁判で告訴の対象となるのは、重症の脳障害を起こした風疹症候群の患者の例だけです。従って、こうした判例は、「予見可能性のないものにまで医師の責任を認める」いることになり医師にとって過酷なものと考えられます。

そこで私見を述べます。最近は、一般に、医師が患者に告知する内容は、「風疹抗体値という検査結果だけでよい」とする意見が合理的とされるようになりました。つまり、全ての責任を医師にもとめるのは、かえって患者の主体性を軽視することになるので良くない。患者もそれなりの方法で、知識と判断を独自に持つことが必要だと考えられます。先天性風疹症候群の告知の経過を見ますと、この場合には、患者は、医師から「風疹抗体の値」が告げられることで第一段階は終了し、次の段階として、患者が医師にその意味を質問し、医師がそれに答えるのが第二段階です。さらに、患者夫婦で話し合って、医師に人工妊娠中絶を依頼し、医師がその依頼を受けて手術をするのが第三段階です。そのように、医師と患者の合意の中で越えなければならない少なくとも三つの大きなハードルがあります。こうした過程を全て無視して判断する裁判所の態度は奇妙な感じがします。(木田、風疹胎芽病の告知義務について、帝京女子短大紀要、15,271-282,1995)

これは、ダウン症候群も同じことが言えます。原則は、「患者の染色体の数が47本で21番の染色体が一本多い」ことを、医師は患者に説明する義務がありますが、その後の段階で、医師は患者の求めに応じて、それに答える形で、この疾患についての知識を親に段階的に教えることになります。最初に、医師が患者に話してはいけないのは、この疾患についての医師の信念です。ダウン症候群のような、知能の遅れについては、時代と共に考え方が変わるので、医師は親の独自の判断を尊重するための助言をすべきです。このように、医師が親に、具体的に、何をどこまで説明するかは、個別に考えられねばならない問題でしょう。

しかし、無脳症や、重症で生命予後の悪い染色体異常の13,18トリソミーなどで生まれた赤ちゃんの治療を積極的に行わないことが認められるようになりました。しかし、この場合でも、患者の状態に合わせて、親と複数の医療関係者の合意のもとでこうした決定を行う必要があります。それを規則のように思い、全ての判断と同意を無視し、自分で納得して自分で行う医師の態度は、現状でも認められていません。(ロバート・ワイヤー、障害新生児の生命倫理、選択的治療停止をめぐって、高木ら訳、学苑社、1991年)

しかしながら、そのような重症の疾患を「人工妊娠中絶を目的として」検査することは、現状では、認めらるべきではないと考えられます。その一方では、正常児を救出する目的の胎児診断は積極的に普及する必要があると考えられます。妊娠16週頃に見付かるダウン症候群などの染色体異常の頻度は5%ですから、95%の正常の胎児がいるわけです。胎児の検査を許さない場合には、親は不安のために中絶をすることが多く、その場合には沢山の正常の子を殺していることになります。因みに、一般の集団の中で、染色体異常の子が生まれる頻度は、0.1%以下であることが分かっており、この差は、染色体異常を持つ胎児には自然淘汰が働いて生存できないためと考えられています。ここで考えておかねばならないのは多くの場合、検査結果が出てその事実が分かり、検査する前に検査結果は分からない事です。この問題は後述。

生命倫理の原則は、「子の生存権を守る」ことが原則となります。また、わが国では、優性保護法によって、妊娠22週以後の胎児の命は守られています。障害の重い胎児を見付けこれを中絶することを認めることを、法律で決めるかどうか(これを胎児条項と言いますが)について議論があります。

前に、わが国では、親の不安のための人工妊娠中絶が多いことを述べましたが、ここですこし補足します。女性が一生の間に子どもを生む数を「合計特殊出生率」と言いますが、わが国でその値が1.5以下であり、優性保護統計による人工妊娠中絶の届出の数が46万(出生数は年間122万)で、その事由の99.9%「母体の健康」となっています。実際は、その数倍(2,3倍以上)の中絶があると推定されています。これは、生まれる子の数に直接影響を与える事が指摘されています。

6.DNA検査のための留意事項

一般には、検査の後に、その検査結果の内容によって、告知の内容や方法が決まります。その検査結果を待つ間、患者は、最悪の場合を予測しその事実を受け止める決心をしている場合と、そうでない場合があります。また、ヒトのDNA情報の中には、誰も予想しない個人情報を含んでいます。そうした場合に、医師が、検査結果を見てから依頼者(患者)に、どこまでその情報を告知すべきかを悩む事があります。

そこで、検査を依頼された時点で、依頼者の意思を明確に文書に残して、れに基づいて告知をすることが必要となります。

すこし、この問題を詳しく考える事にします。一般に、DNA検査は『遺伝相談』の一環です。つまり、依頼者(患者)と依頼を受け検査するもの(医師)は十分に意見を交換して、依頼者(患者)の納得のもとで検査を実施しなければなりません。これを、具体的に言いますと、医師は、患者から、例えば、「胎児がダウン症候群であるかどうかを調べてほしい」などの『検査依頼の目的』を聞きます。その時に、その検査は、どのような方法で行い、その結果何が分かるか、言い換えれば『検査の精度と限界』を、患者に説明する必要があります。

これを、妊娠した女性が風疹胎芽病を疑って検査する場合を例にして説明しますと、

医師は、「この検査で、風疹抗体値が高いかどうかは分かりますが、胎児の障害の重さは分からない」と説明しなければなりません。これは、DNAや、染色体検査の場合についても同じ事で、「染色体の数が47本で21番目が一本多い場合」は、ダウン症候群であると診断できますが、検査の結果分かってしまったことのなかに、疾患と関係づけられない「染色体の数や構造の異常」があります。こうした「個人差」と考えられるものが多い事実を、患者さんに説明し知ってもらわなければなければなりません。こうした個人的な意味不明の染色体の結果を説明なしで、患者に告げた場合「何か分からない遺伝的な欠陥を持っていると感じ」聞いた人を不安にするだけです。多くの人は、自分の染色体や遺伝子の中に、いろいろの形の『変異』があることを教えられていません。人の遺伝子は10万個くらいと推定されており、その中に誰でも、10個以上の変異遺伝子を隠して持っていると考えられています。

従って、検査を依頼した時に、依頼を受けた医師は、検査結果のうち原則として次のことは教えられないことを患者に告げ納得してもらう必要があります。それには、「性別などの正常形質」、「転座型染色体異常の保因者」、「意味不明の染色体構造異常」、「特別なDNA診断の結果」、その他、「胎児の生存権を侵害する事」などがあります。

また、医師は、患者に、検査結果そのもの、つまり「染色体の数と構造、塩基配列」

などは告知できますが、その場合には、疾患の当事者(患者)の考えを左右しないことに留意する必要があります。

このことを十分に行うためには、患者(一般の人)に「DNAやゲノムや障害についてバランスのとれた十分な知識」を普及しなければなりません。また、同時に、「全てを医師に依存して、それに従う」と考え、「依存しておいて結果によっては権利を主張する」態度を患者さんに止して貰わなければなりません。このような、医師の『パターナリズム』に依存する関係は、長い目でみれば「医師・患者関係」にとって良くないと考えられるからです。

そうしたことを考慮して、検査を依頼する時に、検査検査の目的について本人や親との『合意書』を作ことが必要となります。

その内容は、この検査で親や本人が知りたいことを、具体的に書くこと。例えば、ダウン症候群の場合は、「染色体の数と構造の異常」、風疹胎芽病の場合は「ペア血清の抗体値」、ゲノム検査では、「目的とする疾患」などがこれに該当します。

また、同時に「本人や親の知りたくないこと」についても記載する必要があります。 そうした内容を想定したり、そこで起こるトラブルを解決するために、従来のような、 密室で医師と患者などの当事者だけで話し合い、その結果をカルテのみに記載する方法は、問題が多いと考えられます。その対策として『倫理委員会』を設置し、医師単独でなく、また、医療関係者だけでなく、法律や生命倫理を専門とする委員を含む複数の委員の合意に従い、「依頼者のプライバシーの保護」に配慮しつつ行うことが必要となります。

現状では、医師は信念に基づいて、告知をしようとする傾向がありますが、「どの個人の医師の信念が正しいか、間違っているか」を判断する客観的基準がありません。また、倫理の問題を個人の責任に転嫁してはいけないのも当然のことです。

7.告知の制限

最後に今回の主題である「プライバシーの保護と告知の制限」について述べたいと思います。ヒトDNA情報は、「医療情報」であり、その資料を管理する医師には「守秘義務」があり、資料を提供した患者には、プライバシー(秘匿)の権利があることは言うまでもありません。つまり、医師法によって、患者の許可がなければ、医師は自分の知り得た情報を第三者に告げることが禁止されています。例えば、現行では、ハンチントン舞踏病を健康保険組合に告げることはできません。

また、従来から患者の知る権利が制限されているものには、次のようなものがあります。つまり、「患者の生存権を侵害するなど社会の混乱を招くもの」、「胎児診断の場合の胎児の性別」などですが、例外的に、X連鎖遺伝病(伴性遺伝病)の保因者には、希望により告知しています。さらに、「検査の結果分かった意味不明のDNA情報」などについては、既にのべたように患者の不安を招くだけの効果しかないので教えないほうがよいと考えられています。

また、患者には「知りたくない権利」があります。それは、知ることによって患者や親の家族の中や、社会的立場が不利になるものです。それには「正常人の染色体構造異常(相互転座など)など」がありますが、「疾患の遺伝子情報」についても、希望しない場合は教えないのが常識でしょう。さらに、医師が自分の個人的判断でおこなうのは危険なので、「複数の医師の合議」が必要なのですが、医師の説明の中には、患者に理解できない事が多くあります。しかし、患者に分かる範囲で知らせなければなりませんので、「何をどこまて告知すれば良いか」そのためには、どうしたら良いか検討しなければ問題でしょう。

つまり、患者が、理解できないものを無理に教える事は出来ません。その場合には、 医師は、その状況をカルテに記載するなどして、保存しておく必要があります。この患者に対する告知に関する情報は、疾患に関するものと同じ位重要な医療情報だからです。また、医師は自分の知らない事を患者に説明出来ません。そして、ゲノムや遺伝子(DNA)は、現在の医学では極めて特殊な専門的分野に属しており、一般の医師は正しい知識を十分持っていないのが現状です。こうした、医学教育の現状に踏まえて、ゲノム(DNA)についての『人類遺伝学の医学教育』、『一般人の啓蒙』など始めなければなりません。こうしたことは『ゲノム解析の研究』と平行して行わなければなりませんが、もう一つここで提案したいのは、一般の人(患者や医師を含めて)の相談を受ける『相談機関』を設置することです。これは、これから常に起こってくる問題に対応するために必要でしょう。

『ゲノム情報の保全』と同時に、『ヒトの障害に対する個人情報の保全』が大切と考えます。個人的なことで恐縮ですが、私は、サリドマイド胎芽病、先天性四肢障害時父母の会、その他の関係で数千人の患者の写真や個人記録を数万枚持っています。これは、大切な人類の遺産です。後世の研究者のための重要な資料になると考えられますが、私が死ねば破棄される運命にあります。ヒトゲノムプロジェクと同時に『ヒト奇形資料の保全』を計画する事を提案します。ゲノム解析の目的は、ヒト生存のための方法を模索することにあり、その方向を教えてくれるのが、先天異常の患者さんだからです。

8.最後にまとめとして

これは、実際にこの会場でお話した内容と、趣旨は同じなのですがかなり異なっています。加藤先生から許可を求められ、京都大学文学部の蔵田信雄氏にテープをおこして戴いた原稿を読んで、その内容が難解なのに驚き、同時に恥ずかしさを感じ、一般の人にも分かるように書き直しました。

今回私の講演は、ゲノム解析の倫理的問題というよりは、私の経験したことに基ずくことにとどまっています。つまり、染色体検査、更に、胎児診断を中心に、現状と問題点を述べたものです。しかし、読み返して見て、ゲノム解析によってこれから起こる多面的な問題を伺う片鱗だけはあると思っています。

私たち、医学部と理学部などの理科系の学部に属するものに自明の概念は、文学部、 法学部、哲学部などの文化系の方には、全く理解できないものが多いと思います。それは、知識の内容よりは、知識を組み立てる方法論の違いと考えられます。そうしたことを、共通の地盤で議論する場合、一般の人(高校生や家庭の主婦)に分かる言葉で説明しなければ話は噛み合わないことを痛感しています。しかし、この文章の中にも、まだ一部でも難解なところがあることを恐れています。

これから、生命倫理という未知の世界で、共通の土俵を作る事に期待しています。私にも分かるように理論を説明してください。

参考資料

ヒトゲノム解析計画Human Genome Project(現代用語の基礎知識、1993,生物技術用語)生物が生きるために必要な最小限度の遺伝子群をもっている染色体の一組をゲノムというが、この計画は、人間を人間たらしめている遺伝情報の総体であるヒトゲノム(30億塩基対のDNA=デオキシリボ核酸からなり、二三本の染色体に分配されている)をすべて解析しょうという壮大なプロジェクトで、アメリカを中心として国際的に推進されつつある。日本でも一九九一(平成三)年度から本格化した。この計画は八六年春にアメリカ・エネルギー省(DOE)が最初に提唱したもの。ヒトゲノムの解析はがんや老化、遺伝子病の研究や診断・治療、人体の高度な機能の解明などに貴重な情報をもたらすと同時に新たな産業を生むものと期待されている。アメリカではDOEの計画発表後約二年間にわたる激しい議論の後、八八年二月全米研究会議(NR)から、次いで同年四月米連邦議会・技術評価局(OTA)からそれぞれヒトゲノム解析計画推進を支持する報告書が公表され、同計画は事実上この年からスタートした。アメリカでは国立衛生研究所(NIH)とDOEが推進母体となり、NIHは国立ヒトゲノム研究センターを中心として全国六大学にヒトゲノム研究センターを設けている。またDOEは傘下のローレンスリバモア研究所、ロスアラモス研究所を中心に事業を進めている。ここ数年間は全染色体の遺伝子地図作成に重点を置き、その間に高速DNA塩基配列決定技術などの開発を行って一五年以内に全ゲノムの解析を完了することを目標としている。九一年度予算はNIH一億八〇〇万ドル,DOE四七九〇万ドル、計一億五五九〇万ドルに達している(九二年度はNIH一億一〇〇〇万ドル、DOE五九〇〇万ドルの予定)。イギリスは医学研究会議(MRC)を中心に年間四六〇万ポンドの予算でヒトゲのモデル計として線虫ゲノムの全解析というユニークなプロジェクトが平行して進められている。またフランスでは九〇年一〇月に政府によるヒトゲノムプログラムが設定された。予算は九一年度五〇〇〇万フラン、九二年度一億フラン。日本では八九(平成一)年から文部省の「ヒトゲノム推進に関する研究)(代表松原謙一大阪大学教授)という準備研究が行われていたが、九一年度に同省の「ヒトゲノム解析研究」(研究リーダー松原謙一教授、九一~九五年度、九一年度予算一億九〇〇〇万円、九二年度予算五億円)がスタートした。また東京大学医科学研究所にヒトゲノム解析センターを新設することが決まった。このほか厚生省が長寿科学総合事業の一環として老化・痴呆症に関連する遺伝子の解析、科学技術庁がDNA塩基配列決定用自動化システムの開発・改良、3番・1番・21番染色体の遺伝子地図の作成を進めるなど、わが国でもヒトゲノム解析計画が本格化した。


Dept. of EThics <ethics@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>

Last modified: Tue Sep 22 05:35:25 JST 1998