「遺伝子治療滑り坂論」は誤った批判か?

「遺伝子治療滑り坂論」は誤った批判か?

– ニルス・ホルタッグ 「ヒト遺伝子治療:滑り坂を下るか?」の検討 –

黒崎剛(日本医科大学)

はじめに

先端医療技術が従来「神の領域」とされてきた世界に実際に応用される段階に 来ると、我々は必ずある種の不安を感じる。それはいま目の前で行われる適用 にはさしあたって問題はないとしても、それが将来何らかの思いもかけぬ悪し き結果をもたらし、人間性を破壊するのではないか、という不安である。この 不安を理論的に表現しようとしたとき、それは様々な「滑り坂論」(slippy slope argument)となって現れてきた。特にヒトの遺伝子に手を触れる遺伝子 治療は、今日、遺伝子こそがヒトをヒトたらしめる最奥の神秘であると思われ ているだけに、不安も激しく、議論も先鋭的になる。だから遺伝子治療の正当 性を問う場合、滑り坂論に対して答を出しておくことがどうしても必要となる。 この問題に関してニルス・ホルタッグ(コペンハーゲン大学)が「遺伝子治療に 適用された<滑り坂論>の説得力を評価しようとする」試みを行っている(1)。 我々はまずこの論文の文献紹介を兼ねて、彼の見解を詳しく聞いてみることに しよう。そしてそれが遺伝子治療滑り坂論に対して有効な批判となっているか、 検討してみることにしたい。

ホルタッグの遺伝子治療滑り坂論批判

1.滑り坂論の「論理型」と「経験型」

論理型はいったんAを許せば、論理的にBを許すことになると主張するもので、 二つのタイプがある。便宜上aとbに分けておく。a.AとBの間に有意義な区別が ないと捉える。普遍化すると、「もし或る行為Hが道徳的性質Mを持つと判断さ れるなら、Hと適度に似ている行為もすべてMであると判断されなければならな い」。AとBとが道徳的に同じ性質を持っているのであれば、滑り坂論の支持者 にとっては二つは同等である。だからもし我々がAを許すならば、Bを許さざる を得ない。しかしBを許すことは望ましくないから、Aも許されるべきではない、 というのが彼らの言い分になる。b.AとA1、A1とA2、…AnとBとの間に区別がな いから、AとBの間に有意義な区別がないとする。これは議論に曖昧さの問題を 持ち込むとされる。次に経験型は、もしAを許せば、それが原因となって望ま しくない結果Bを許すことになるか、Bを引き起こすことになる、とする滑り坂 論である。経験型の説得力は、因果のつながりが強ければ強いほど、また我々 がBを避けたいと思えば思うほど強くなり、逆の場合は弱くなる。だから因果 の連鎖が現実的であると考えられなければ、この型は議論としては成立しない。

以上の区分に基づいて、その例を挙げながらホルタッグは議論を展開してい くが、我々はそれを内容にしたがって整理をしながら見ていくことにしよう。

2.論理型a:遺伝子治療の種類を道徳的に区別できるか?

まずホルタッグはジェレミー・リフキンの遺伝子治療滑り坂論を取りあげる。

「我々がヒト遺伝子工学の過程を始めることをいったん決めてしまえば、それ以上は先に行けないという論理的地点は事実上ない。もし糖尿病や鎌型赤血球貧血症やガンが或る人の遺伝子構成を変えることによって癒されるということになれば、近視や、色盲や、左利きといった<異常>に進んではいけないということがあろうか。」(3)。

ホルタッグはリフキンのこの主張を、遺伝子治療を鎌型赤血球貧血症に施すのことと近視などに施すことを同列にみるものとして論理型aの例とする。つまりリフキンの議論は、我々が近視や左利きの「治療」に遺伝子工学を応用することを望まないならば、糖尿病などの遺伝子治療も受け入れるべきではないという主張だというわけである。この議論で問題になるのは、鎌型赤血球貧血症の遺伝子治療と肌の色を変える遺伝子操作とが道徳的に何の区別もないのか、ということである。そこで、この区別をつけるためにホルタッグは二つの治療(therapy)の概念上の区別を指摘する。ひとつは遺伝子の異常から起こる疾患の治療、「矯正的治療」(corrective therapy)であり、いまひとつはすでに健康である人の特質を高めることによってさらに健康にする「増進的治療」(enhancement therapy)である。もしこの二つの治療のうち、矯正的治療は人間に望ましい結果をもたらし、かつ道徳的に問題はなく、増進的治療は望ましくない結果をもたらし、道徳上の問題を引き起こすというように区別がされれば、我々は増進的治療だけを否定すればよく、リフキンの論理は成り立たないということになる。

そこで第一の問題は、どういう治療が矯正的で、どれが増進的なのかを正確に区別できるかということである。鎌型赤血球貧血症のように容易に矯正的だと分かるものもあるが、色盲のように判定し難いものもあり、美容整形といったものまで考えにいれると、両者の間には灰色の領域がある。しかしホルタッグは詳しい検討もせずにこう言うだけですませている。「灰色の領域があるというこの問題は、遺伝子治療の正当な実用の正しい境界付けとしての矯正的-増進的という区別をする上での障害には必ずしもならない。我々は灰色の領域のどこかに一本の線を引く決定を下すことができるだろうし、おそらく決定を迫られる前に、実用上の理由から線引きはできるだろう」(407)。

第二のもっと重要な問題は、この区別を正しい境界付けだと見ることは難しいということである。ホルタッグはティーンエイジャーをエイズに感染しないようにする遺伝子治療が開発された場合を例として挙げる。これは矯正的治療ではないから、増進的治療を認めなければこの遺伝子治療は否定されてしまうことになる。(4)。

ホルタッグはここで増進的治療は行うべきではないという考えを持つ人としてフレンチ・アンダーソンを挙げる。

「我々は現在人間の遺伝子構造を変えようとする試みの影響を理解するに足 りる情報を持っていない。それは人の親にとって、例えば大きなフットボール やバスケットボールの選手にするために成長ホルモンを…自分達の普通の息子 達に与えることは、賢明で、安全で、道徳的なことであろうか。…だが、さら に憂うべきことだが、なぜ普通の子供に成長ホルモン遺伝子を組み込むことを 望むのだろうか。いったん遺伝子が組み込まれてしまえば、それを取り出すす べはない。その子供の反射作用、調整機能やバランスはすべて大きな影響を受 けるかも知れない。要するに、我々は人間の体についてほとんど何も知らない。 だから普通の健康な人に「改良」のために設計された遺伝子を試しに挿入して みることはできない」(4)。

ホルタッグによれば、アンダーソンのこの議論は二つの遺伝子治療の間に重 要な区別があるということを確立するのではなくて、いま現在増進的治療を試 みることは安全ではなく、賢いことではなく、増進的治療の中には対象者にとっ て望ましくないものもあるということをいっているだけである。だからホルタッ グは「もしそうした理由が或る種の遺伝子治療を排除するのに適当な理由であ るのなら、我々は矯正的と増進的という区別よりも、その理由の方に焦点を合 わせるべきである」と反論する。

以上ホルタッグが言及した見解は幸福主義的立場からのものである。その他 に、彼は公平(fairness)という価値に定位するロールズ主義の立場からの反論 を検討する。

「社会をより不公平にするような治療を我々は望まない。例えば親が第一子に男を選ぶことが普通になってしまったら、それは我々の社会のうちにある性差別をなくすことを一層困難にするだろう」(6)。

この議論をホルタッグは性選択の技術の応用を許すことと、性差別というこ とを同列におく滑り坂論と見なしているようである。これに対してホルタッグ は、性差別や男女比の変化は幸福(Well-being)と公平という価値に関わるので あって、それらはどちらも性選択を目的とする遺伝子治療によっては無視され ていたのだと言う。幸福と公平という価値を考慮に入れるならば、患者の福祉 と生存の為になる、鎌型赤血球貧血症などの遺伝子治療などが禁止される論拠 にはならないとする。だからここでも問題なのは遺伝子治療そのものではない。 幸福や公平という価値を無視し、性差別を助長するような遺伝子治療のみが禁 止の対象となるにすぎない。

こうしてホルタッグによれば、遺伝子治療の使用の仕方には有意味な区別がある。しかしそれは最初考えられたような正当な矯正的治療とそうでない増進的治療があるという区別ではなくて、ある種の使用は本来的に価値あるものに貢献するが、他のものはそうではないという区別なのである。ホルタッグによれば、この点でリフキンの議論はやはり失敗していると結論される。一つの遺伝子治療を許したからといって、すべての遺伝子治療が許されるわけではないからである。

3.論理型b:遺伝子治療に道徳的な線引きは可能か?

論理型の別型の例として挙げられているのはニューヨーク・タイムズの論説である。

「欠陥を矯正するということは別な話である。しかしいったんそれが当たり前のものになってしまえば、より健康であること、容貌、賢さなどの望ましい性質を授ける遺伝子を加えることに反対するのはずっとむづかしくなるだろう。遺伝子の欠陥を遺伝的に矯正するのと、種を改良することの間に識別可能な線を引くことはできない」(7)。

ここでは正当な遺伝子治療と「種の改良の試み」とを明確に区別できないため、後者に反対することがむづかしくなっていくという滑り坂論が述べられている。ホルタッグも矯正的治療と増進的治療との間に明快な線は引けないことを認める。が、論説者もそう言っていないように、それは線が引けないということではないと言う。つまり、これに対するホルタッグの反論の第一は、中絶可能期間の線引きと同様に、過ちの可能性を確認しつつも線を引くのが最もよい戦略であるという主張である。しかも或る限界線を引くのが望ましいという意味で、任意の線を引きことさえ合理的であるとも述べている。第二の、より基本的な反論は次のようなものである。論説者は識別可能な線は引けないことを前提にしている。しかしホルタッグは「幸福や公平といった価値をよく考えれば、道徳論の他の領域の場合と同じ程度に遺伝子治療の分野でも道徳的区別はできる」(410)と言う。

ここでホルタッグはジョン・ハリスの次のようなシナリオを検討する。-例えば理想的な学校があって、心身ともに鍛えてくれて、しかも子どももそこで楽しく過ごせるのだったら、親は自分の子をそこにいれたいと思う。同じことを遺伝子治療で行うことができるとしたら、我々はそうしたくならないか-(8)。

ホルタッグはここでは議論の焦点を知能向上のことだけにしぼり、こう結論する。「こうした治療に由来する利益は、苦痛があって生命を脅かす危険がある遺伝病が治ることから得られる利益に比べたら、おそらく最小限でしかない。例えば嚢胞性繊維症を直すことは或る人の命を何年も延ばすことにつながる。だからこの二つの種の治療のを施すことの間には明らかに有意義な区別がある」(412)。我々は難病から人を救うことによって健康を増進させる義務を負っているかも知れないが、通常レベル以上に人を高めることによってそうする義務は負っていない。前者は危険を犯すに値するが、後者はそうではない。これらのケースを違ったものと首尾一貫して見なすことができるという可能性があるだけで、遺伝子治療は遺伝子工学的に知能を高めることに向かう論理的な滑り坂だという議論に対して論駁できるというのがホルタッグの見解である。

最後にホルタッグは帰結主義(consequentialism)の理論にもとづいてさえ、遺伝子工学的な知能向上はなされるべきではないということを示そうとする。それは我々の道徳的義務の優先性と社会における公平さの問題である。

遺伝子治療は、国民的基金に基づくヘルスケアであるか、私的な費用によって提供されるかのどちらかである。国民的ヘルスケアは限られた資源を公平に配分すべきだという主張を基礎にしている。だから第一に、資源は鎌型赤血球貧血症やハンチントン舞踏病などの深刻な疾病に使われるべきなのであって、知能向上などのための配分の優先権は低い。ただし優先権が低いというだけではまだ知能向上のための遺伝子治療は正当な使用の限界を越えていると言うわけではない。さらに第二に、平均的な健康児よりも状態の悪い人々に限りある資源を使う優先権を与えるべきなのであって、そうした人から資源を奪って、知能向上のための遺伝子治療のために使うというのは過ちである。これは帰結主義者の言葉でいえば、「次善の策」(sub-optimal)であり、功利主義の見地からいっても正しい。だから「あらゆる面を考え合わせると、国民的ヘルスケアにおいては、知能向上のための遺伝子治療は、私が提起した価値によって指示される限界の外にある」(414)。次に私的な医療における遺伝子治療について考えてみると、帰結主義者は次のような理由で遺伝子治療に反対する。遺伝子治療は裕福な家庭の子でなくては受けることができないから、特定の家庭の子に有利になるし、貧富の家庭の間の差は広がることになる。公平の理論によれば、そういう差はそれ自体が不公平である。もっと強い意味で不公平であるのは、そういう治療を受けられない子は競争能力において劣ることになる。そうすると比較的にも絶対的にも暮らし向きが悪化していくことになる。しかしホルタッグによれば、こうした反対論も滑り坂論を支持するものではない。幸福と公平という価値が重要であるのなら、様々な適用の間の様々な違いを指摘することによって遺伝子治療に反対する論理的な滑り坂論を阻止することができる倫理的な枠組みを我々はもっているというのが彼の論理的な滑り坂論に対する見解である。

しかし実際ホルタッグの言うように、我々は本当にそうした倫理的枠組みに頼るだけで遺伝子治療の誤った適用形態を阻止することができるのだろうかという疑問がわいてくる。それを顧慮して彼は経験型の滑り坂論へ話を移していく。

4.経験型:遺伝子治療の乱用は必然か?

リフキンとニューヨーク・タイムズの議論はもっと強力な議論に再構成できる。つまり矯正的治療を許すことと例えば人種差別や性差別を許すこととの間に因果の連鎖を認めるという滑り坂論の経験型になる。それは「我々が徐々に坂を滑っていくことになるのは、道徳的区別をすることができないからではなくて、そうした区別は作られないだろうという事実、あるいは我々の選択に適度な影響がない〔から我々はその危険性に気づかない〕だろうという事実があるからだ」という主張にまとめることができよう。こうした経験型の滑り坂論には二つの必要条件がある。ひとつは提起された行動と望ましくない結果との間にある因果的な連鎖が枚挙されること、いまひとつは、因果の連鎖を考えれば我々は最初の行動を控えるのが合理的だと信じるにたる理由が要るということである。この二つの必要条件を満たすことは難しいことに違いない。リフキンこれについて次のように述べている。

「生命工学における画期的成果のどのひとつをとってみても、それは社会の中のある状況下で、どこかで、誰かの為になっていることだろう。どれもが或る個人、或るグループ、あるいは社会全体の将来の安全を何らかの仕方で進歩させているように見える。子供を幼くして死なせないために欠陥ある遺伝子の性質を取り除くこと、増えつつける人間を養う穀物の収穫を図ること、石油が枯渇したときにその隙を満たすことができるエネルギーの生物学的源泉を開発すること。こうした進歩のどれもが将来の予測できない出来事に対してわずかではあるが保証となってくれる。こうした発展の数々を禁止したり、それらの応用を拒否したりすることは倫理的に無責任で許しがたいことだと見なされるだろう」(9)。

ホルタッグがリフキンのこの言葉に特に注目するのは、リフキンが科学はいわゆる「技術的命法」(the technological imperative)に従うということを言っていると解することができるからである。ホルタッグの言う「技術的命法」は、「いかなる科学技術であれ、それが開発されたならば、我々はそれを使う(そして乱用する)ことになる」ということを意味する。以下ホルタッグはこの問題を手短に考察する。 遺伝子治療に反対する滑り坂論の経験型の説得力を考えるにあたって、彼は遺伝子治療の医学的実践を、移植と外科的処置と比べている。遺伝子工学は知能を向上させる唯一の方法ではなく、例えば、脳の機能を解明することによって、外科的処置で知能を高めることもできるようになるだろうし、脳移植や脳の部分移植でそうすることも可能になるだろうことを指摘する。外科手術はすでに「性転換」を可能にしているし、整形外科はすでに「増進的処置」を行っている。望ましくない結果の多くはそうした外科的処置や移植によっても出てくるのだから、主張を一貫させたければ、滑り坂論者はそうした治療も禁止しなければならないことになる。だが外科的処置や移植の経験は技術的命法が現にあることを確証しない。我々は科学的知識とはたいへん苦痛のある外科手術を通じて得られるものだということを知っているし、普通に機能している人間の脳を修正することは興味深いが歪めることであるということも分かっているから、開発された技術が必ず応用されるということはない。ホルタッグは結局、「もっと理にかなった戦略は、有り得る危険は認めてその対策を立てるように試み、その一方でより問題の少ない適用の利益を得ることにある」(418)と結論するのである。彼は科学グループや自由競争市場の私的企業の利害に懸念を持ちつつも、遺伝子治療をあきらめるより、将来の応用に向けて明確な倫理的ガイドラインをとる方がよいというのである。「我々の道徳上の課題は遺伝子治療を正しく使うための保証をすることであって、知識をあきらめることではない」(419)。

このように、技術的命法に基づく因果論的前提に対しては多くの反証例が挙げられるし、またこの結論を受け入れれば、ヘルスケアにおいて望ましくない変化が起きるのだから、滑り坂理論の経験型も成功しないとホルタッグは結論する。だが彼は滑り坂論が常に失敗するといっているのではなく、典型例だと思われるものを議論し、それらが失敗するといっているのである。彼は次のように議論を締めくくっている。

「最後に、滑り坂論を拒否してもそれは遺伝子治療に対する白紙委任ではないということを強調しておきたい。我々が気がつかないとしても、そこには危険が潜んでいる。そうした危険を避けるには、我々にとって望ましい社会のために理にかなった道徳的限界を決定することが必要である」(419)。

滑り坂論は否定されたか?

以上のホルタッグの滑り坂論に対する反論に含まれる結論をまとめてみよう。

1)遺伝子治療滑り坂論は、a)矯正的治療と増進的治療との区別によって反駁できるし、b)その区別ができない場合でも、幸福と公平という道徳的価値に照らして正当な治療とそうでない治療とを区別することによって反駁できる。

2)矯正的治療と増進的治療との間にはどちらともいえない領域があるが、そこに幸福と公平という道徳的価値に照らして正当な治療とそうでない治療とを分ける線を引くことは可能であり、それによって滑り坂論に反駁できる。

3)経験的滑り坂論が主張する科学技術の乱用の必然性は存在しない。

分析哲学を理論的基礎としつつなされた典型的な功利主義的主張であり、その良識ある結論には筆者を含め多くの人が同意するだろう。実際彼の批判の対象となった者でさえ、この結論に関してはさして反対しないかも知れない。だがそこに彼の議論の強さと弱さがある。良識的であるが無内容なのである。その無内容さは滑り坂論の主張の例のいくつかを分析して、その反証可能性を示すというやり方そのものに起因する。それは彼の意図とは逆に、滑り坂論一般が普遍妥当的には成り立たないという批判にはなっても、遺伝子治療という具体的な場面に適用された滑り坂論への反論になるにはいたらない。せいぜい「遺伝子治療においては道徳的に有効な線引きができる、いやできない」とか、「人間は科学技術を乱用する、いやしない」といった水掛け論を誘い出すところまでしかいかないだろう。なぜなら遺伝子治療滑り坂論者の主張の真意は、自分達の主張する命題が普遍的に妥当するということを立証することにあるのではなくて、科学技術がもたらす将来への懸念ということにあるからである。だから彼らとの対決はその現実的な線引き基準や現実における科学技術乱用の可能性を具体的に検討する場面ではじめて有効な議論となるのである。

もう少し詳しくホルタッグの見解を検討してみよう。1)の a に関して言えば、矯正的治療と増進的治療を区別し、矯正的治療を要する患者の一部に遺伝子治療を行うというのは、滑り坂に対する有効な歯止めとなり得る。しかしホルタッグはその区別を詳しく展開しない。明らかに彼の関心はその区別そのものよりも、その区別を支える価値基準の方に向けられている。だがそこに彼の弱点がでてくる。1)の b や 2)ではホルタッグは幸福や公平という伝統的価値を無条件に信頼している。しかし技術とは伝統的価値の意味を変えていくものであって、その技術に合わせて変わっていく価値観でその技術を規制するということになり、技術が進歩する限り、価値観も変わっていく。だから滑り坂論者は、そのような区別を立てる基準や道徳的枠組みが科学技術の発展そのものによって同時に崩されているが故に、我々は滑り坂にはまるのだと言うであろう。結局確固とした歯止めは存在しないのだから、彼の議論は滑り坂論者の議論を反駁しきれない。さらに幸福と公平という価値を重視する限り、ホルタッグの意図と逆の結論を引き出すこともできる。もし遺伝子改造が将来の人間の幸福だということになれば、もはや増進的遺伝子治療を阻む理由はなくなるし、社会の公正員全体に公平に遺伝子治療の機会が与えられるなら、知能向上を目的とした遺伝子治療を行うことはなんら不当なものではないと言うこともできる。幸福と公正も滑り坂の歯止めにはならない。また 3)の結論に関して言えば、ホルタッグは科学技術の乱用という懸念に対しては多くの反証が挙げられるという。しかしこれも遺伝子治療滑り坂論が論理的に成り立たないことの証明にはなるとしても、科学技術の乱用が行われないということの証明にはならない。百年前の倫理学者がこう言ったとする、人間は何万人もの人間を一気に殺すことのできるエネルギーを開発するだろうが、我々はそれを無意味な大虐殺に応用することを阻む道徳的枠組みを持っている、心配することはない、と。百年前の滑り坂論者はそのような道徳的枠組みには現実には期待できないことを主張するだろう。どちらの可能性が実現したか我々は知っている。そのエネルギーは人間の理性によって制御され、かつ虐殺にも応用された。どちらも正しかったかもしれないが、滑り坂論者の方に分があることは確かであろう。

滑り坂論を理論的に分析し、その主張が成り立たないことを証明してみせるのと、滑り坂論が出てくる現実の根拠を批判することとは別なことである。遺伝子治療滑り坂論が対象としている事態は現在進行形の未経験の事柄なのだから、自然を対象とするような論理的命題が成立しないのはあたりまえのことである。だからホルタッグのやり方では滑り坂論は否定されたように見えて実質的には否定されていない。区別基準を曖昧にするような、線引きの枠組みを無力にするような、開発された技術の応用の歯止めを壊すような現実の力が常に遺伝子治療の分野に働いているのではないかという懸念、それこそが遺伝子治療に滑り坂論を適用させる背景である。だから我々が遺伝子治療滑り坂論に対する場合、最も留意すべきなのは、その懸念を実現するような現実の社会の状態である。滑り坂論は常にそうした現実の条件と相関的である。我々の不安を誘い出すのは例えば次のような現実である。

産業の論理:産業の論理の中には人間の未来に対する考察は入っていないから、遺伝子治療が産業と強く結びついている現状では、いかにすれば利益を挙げることができるかという目標の元に一切の道徳的考察は吹き飛んでしまいかねない。ホルタッグはそれを軽視してはいけないといってはいるが、それが滑り坂論者にとって重大な意味を持つことは気づいていないようである。

遺伝子工学の極度な専門性:我々がよく理解できないという子とが「漠然とした不安に基づく滑り坂論」を生む。これは実は「熟知に基づく滑り坂論」よりも広範なものである。我々は一般に専門家は大衆の不安に対して常に「心配ない」というものであり、公的機関は問題が起こってしまわない限り、そうした不安を科学的根拠のあるものとして取りあげてくれないということを経験している。「漠然とした不安に基づく滑り坂論」はそうした楽天主義に対する警告の意味を持っているのであり、それに対する反駁は命題を分析することによってでなく、知識の普及と制度の点検によって行われるべきである。

科学者、医学者の学的関心と功名争い:芸術の世界ならいざ知らず、科学の世界に純粋に個人の名誉に帰されるべき発見はありえない。発見は過去の積み重ねの成果であり、すでに現代科学の研究は共同作業の段階に入っている。にもかかわらず、ある種の発見を個人の功名とする風潮はいまも残っている。人が名誉欲に突き動かされたとき、倫理的問題などは簡単に無視されてしまいかねない(10)。

こうした現実の状態を改善し、我々が遺伝子工学の暴走を押さえ込める信頼できる体制が整わない限り、遺伝子治療滑り坂論はその批判機能を失うことはないだろう。

おわりに

SF映画を見ると、人間に似ているが、やはり現代の我々からみると奇妙な形をした異星人がよくでてくる。あれはもしかしたら遺伝子を改造した我々の子孫なのかもしれない。我々は今日そういう空想上の未来生物を見ても何の疑問も抱かない。未来のことだからそういうこともあるだろうとあっさり承認してしまっている。そうしたところを見ると、人間は将来遺伝子を操作することによって髪の色を変えたり、体の形を変えたりすることをファッションとして行っていても不思議でないような気がしてくる。また実際それが人間の将来の姿だといって何か悪いのだろうか。滑り坂論に反対する人たちが、「人間は良識があるからそんなことはしないだろう」ということが、SFの世界ではすべて現実のものとされている。しかもそうしたアイディアを出しているのは今生きている現代人なのである。滑り坂論者の懸念の方がその反対論者よりもSF的にはあたっている。ただその場合でもどうしてそうなってはいけないのかという別な重大な問題が我々に提起されてくる。しかしそれは本稿で扱う事柄ではない。

(1)Holtug, Nils. Human Gene Therapy: Down the Slippy Slope? In: Bioethics, Vol.7 Nr.5, 1993. pp.402-419. ()内はその頁づけである。

(2)この二つの型はホルタッグによる区分ではなくて、ヴァン・デア・バーグの議論である。 Wibren van der Berg. The Slippy Slope Argument, in: Ethics, vol.102,1991. だからホルタッグの議論はバーグのこの区分の正当性に依存しているわけだが、本稿ではあくまでこの区分もホルタッグによる議論と見なすことにする。なお滑り坂論の文献としては以下のものがある。 Douglas Walton, Slippy Slope Arguments, Oxford: Clarendon Press 1992. Bernard Williams, “Which Slopes Are Slippy?”, in: Michael Lockwood,(Ed.) Moral Dilemmas in Modern Medicine, Oxford: Oxford University Press 1985.後者には邦訳がある。『現代医療の道徳的ディレンマ』、加茂直樹訳、晃洋書房、1990年。

(3)Jeremy Rifkin, Algeny, New York:Viking Press, 1983, p.232.

(4)ここで多くの人は、はたして例とされたような治療が「増進的治療」の範疇に入るのかという疑問をホルタッグに対して抱くだろう。遺伝子治療の分野を離れれば、我々はすでに「予防接種」のようにな非矯正的-非増進的治療の形態をもっている。実際ホルタッグもエイズ予防も疾患の治療であり、矯正的治療とほとんど同じだから、「予防的治療」という概念を設けることができるという見解も念頭においてはいる。しかしおそらくホルタッグは遺伝子治療における「予防的治療」というのは、矯正を必要としない遺伝子に人の手を加えるということは増進的治療と事実上変わらないと考えているのかもしれない。実際滑り坂論者の懸念が遺伝子に手を加えることそのものにあることを考えると、やむを得ずに行われる矯正的治療に対して、他の手段で予防できる疾病に対してあらかじめ遺伝子を操作してそれにかからないようにするということは、増進的治療と大した区別はないといっていいかもしれない。

(5)French Anderson, Human Gene Therapy, in: The Journal of Medicine and Philosophy, vol.10,1985, p.288.

(6)British Medical Association, Our Genetic Future, Oxford: Oxford University Press 1992, p.209.

(7)”Whether To Make Perfect Human Beings”, in New York Times, July 22, 1982.(8)John Harris, Wonderwoman and Superman, in: The Ethics of Human Biotechnologie, pp.140-142.

(9)Algeny, pp.233-234.

(10)ここでは問題にしないが、こうした制度上の問題の他に、哲学的倫理的問題がある。重い遺伝病を治療することには問題がないとしても、軽度ものや、発病しない可能性のあるものもある。しかしそうした者まで皆「欠陥」として意識されれば、我々は遺伝子的に完全な者だけが真なる人間だという発想に陥りかねない。これも滑り坂論者が懸念している事柄である。欠陥の治療は一つの善であろうが、欠陥を抱えていることが悪なのではない。「人間」とは何か、「人間」はいかに生きるべきか、技術が思考停止させたこの課題は人間が遺伝子に還元され、遺伝情報によって右往左往させられる中で見失われようとしている。滑り坂論者のあせりは、こうした全体性の概念が消滅していくことへのあせりであるだろう。新興宗教に走ってしまう若者のいらだちと似ているかもしれない。


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Last modified: Tue Sep 22 03:09:56 JST 1998