生殖系列細胞の遺伝子治療をめぐる倫理問題

生殖系列細胞の遺伝子治療をめぐる倫理問題

森岡正博(国際日本文化研究センター)


キーワード:遺伝子治療gene therapy, 遺伝子操作genetic manipulation


遺伝病を治療するための画期的な技術として、遺伝子治療の研究が進められている。1980年代から基礎研究と動物実験が積み重ねられてきたが、80年代の終わりになって、遺伝病をもったヒトの患者に対して臨床応用を開始する申請が出始めた。アメリカでは、1984~5年にかけて「人間の遺伝子治療に関するワーキンググループ」が、体細胞の遺伝子治療について議論を積み重ね、体細胞の遺伝子治療に関する指針を発表した。
最初の体細胞の遺伝子治療の申請は、1988年にS・A・ローゼンバーグらによってなされた。しかしこれは、当初予見されていたような遺伝病の患者の治療のためではなく、ガン患者の治療を目的としたものであり、またその患者の遺伝子を治療するのではなく、患者の特定の体細胞にマーカーを付けるための手法として遺伝子導入技術を用いるというものであった。
体細胞の遺伝子治療をADA欠損症の患者にはじめて実施したのは、F・アンダーソンらのグループであった。彼らは、1990年と91年に、ADA欠損症の小児二名に、世界ではじめての体細胞の遺伝子治療を行なった。その結果、現在では彼らは通常の学校に登校しているし、目立った感染症にも悩まされていないとのことである(Anderson,662-664)。アンダーソンの遺伝子治療に関する見解については、以前の拙論の中でも紹介した(森岡63-64)。それは、遺伝子治療は体細胞の遺伝子治療に限って許されるのであり、生殖系列細胞の遺伝子治療は問題が多いというものである。そして、この体細胞の遺伝子治療は許されるが生殖系列細胞の遺伝子治療は禁止するというスタンスが、現在の世界のコンセンサスであると言える。
体細胞の遺伝子治療の場合は、その治療対象となった個人に影響を与えるだけであるが、生殖系列細胞すなわち精子・卵・初期受精卵の遺伝子を改造してしまうと、その影響はその個人を超えて、その子孫全体にまで広がってしまう。これは、とほうもないリスクを人類の遺伝子プールにばらまくことになるから、今の段階では禁止した方がいいというわけである。
遺伝子治療に関するやっかいな議論としては、異常な機能や欠損した機能を修復するための「治療的」遺伝子治療ならば問題はないとしても、正常な人間の機能を増進させるような「増進的」遺伝子改造や、社会や国家の成員全体の遺伝子プールに手を加えようとする「優生学的」遺伝子改造についてはどうするのかというものがある。
優生学的遺伝子改造については、ナチの記憶などから、生命倫理学のなかでは無条件に否定されるのが通常である。しかし、欠陥障害児の選択的中絶などに関しては、生命倫理学の中にも賛成派は多いわけで、それが社会規模で自発的行なわれるようになれば結果的には一種の優生学と同じことをしていることになる。だとすると、個々のカップルが、自分たちの子どもに優生学的配慮をして遺伝子改造を行なうという風潮が広まれば、それは結果的には優生学的な影響を社会全体に広めることになる。この点は、もう少し慎重冷静に見定めておく必要があるはずだ。
さらに、増進的遺伝子改造についても、ジレンマが生じる。体力や知性の能力を増進させる遺伝子改造技術が導入されたときの混乱を予想したり、それが特権階級のみに利用されたりする危険性を指摘したりして、増進的遺伝子改造に疑問を投げかける論説が目に付くが、そんなに簡単なわけではなかろう。いまでも親たちは、自分の子どもが有名学校に入れるようにと、あらん限りの努力をしている。子どもに増進的遺伝子治療をするなと言うことは、子どもを有名塾に入れてはならないと言うことに等しい。そういう言説が、いまの社会で受け入れられるであろうか。このあたりの問題点をも、詰めなければならない。
以下、この論文では、生殖系列細胞の遺伝子治療と、能力増進的遺伝子治療の功罪を吟味するための基礎資料として、いくつかの先行論文を検討し、我々が今後考えてゆくべき論点を抽出することにしたい。
L・ウォルターズは論文「人間の遺伝子治療の倫理問題」と題する論文の中で、遺伝子治療を4つのカテゴリーに分類している。それは、体細胞の遺伝子治療、生殖細胞の遺伝子治療という分類に、「治療目的」「能力増強」の分類を掛け合わせたものである(Walters 651)。

体細胞 生殖系列細胞
───────────────────────────────
病気の治療・予防 1 2
能力の増強 3 4
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この分類は、たいへんクリアーである。タイプ1は、治療目的で体細胞の遺伝子を操作するもの。タイプ2は、治療目的で生殖系列細胞の遺伝子を操作するもの。タイプ3は、ある個人の身体や精神の能力の増強のために、その個人の体細胞を改造するもの。タイプ4は、生まれてくる子孫の能力増強のために、精子や卵や初期受精卵の遺伝子を改造するもの。
ウォルターズは、タイプ1には賛成、タイプ2には含みをもたせながらも否定的、タイプ3と4については言及していない。
ところで、生殖系列細胞の遺伝子治療の妥当性については、アメリカの「責任ある遺伝学のための会議the Council for Responsible Genetics略称CRG」が1992年秋に出した報告書がある(Position Paper on Human Germ Line Manipulation)。
この報告書は、人間の生殖系列細胞の遺伝子治療に強く反対するという結論を出しており、これが事実上、世界のこの問題に対するガイドラインとなっている。
そこで、この報告書の論旨を簡単に紹介し、他の論者たちの意見をも参照しながら、生殖系列細胞の遺伝子治療についての議論を見てゆきたい。
報告書は、生殖系列細胞の遺伝子治療にはたしかにメリットはあるとしながらも、人間の生物学的な性質は通常多くの遺伝子の相互関係によって発現しており、またそれらの遺伝子は生物体の内部と外部環境によって影響を受けているので、科学者が遺伝子改造の完全な影響を予見することは不可能であると述べる。病気を引き起こす遺伝子であっても、他の文脈ではその人の役に立っている可能性がある。そういう複雑な影響関係を、いまの科学は解きあかすにいたっていない。
生殖系列細胞の遺伝子治療をして、子孫の遺伝子を改造するためには、我々は「良い遺伝子good genes」と「悪い遺伝子bad genes」を区別できなければならないが、我々はそのような基準をもっていない。そのような基準を作ろうとしても、必然的に現存の社会的バイアスを反映してしまう。
さらに言えば、そのような基準や技術は、経済的・社会的特権階級によってほとんどが決定されてしまうだろう。生殖系列細胞の遺伝子治療をもし行なえば、これらの特権グループが、人類共通の生物学的遺産に対して、品質保証のできない影響を与えることになる(CRG 668)。
とは言っても、生殖系列細胞の遺伝子治療がもたらすメリットがないわけではない。たとえば、それによって、長い目で見て有害な遺伝子deleterious genesを遺伝子プールから消去するcleanseことが期待できる。その例として、糖尿病の因子を遺伝子治療で生殖系列細胞から取り除いてやれば、人類は糖尿病の苦しみから解放されることになる(CRG 669)。
この点を、ウォルターズの表現で補足しておこう。生殖系列細胞の遺伝子治療に賛成する根拠のひとつは、その効率性efficiencyである。遺伝病の家系のひとりひとりを何世代にもわたって体細胞遺伝子治療をしてゆくよりも、生殖系列細胞の遺伝子治療によって遺伝因子をひと思いに断ち切るほうが、より簡単であるし長い目で見て安くつく。そして、こういう生殖系列細胞の遺伝子治療を繰り返してゆけば、人類集団の中でその遺伝病が発生する率を減少させることにつながる(Walters 657)。
報告書に戻れば、もうひとつのメリットは、子どもの能力を親の望み通りに増強することができる点である。たとえば、コンピュータが上手にでき、音楽の才能があり、肉体的にも優れているように子どもをデザインすることができるようになるかもしれない。こういう考え方は、優生学につながってゆく。優生学は戦後拒否されたが、しかし今日の体外受精や遺伝子操作技術に人々が抱く夢は、かつてのナチの優生学と紙一重まできている(CRG 669)。
このように生殖系列細胞の遺伝子治療のメリットに触れたあと、報告書はそれに対する疑問点を指摘してゆく。まず優生学的メリットについてであるが、有害なharmful遺伝子を遺伝子プールから消去してゆくという夢を実現するためには、数千年以上のタイムスケールと、集団的・強制的な生殖操作プログラムが必要となる。そんなプログラムは実行不可能だし道徳的にも許容できない。こうして報告書は、まず優生学的なメリットを否定する。
次に子どもの能力増強であるが、これについては、わざわざ生殖系列細胞の遺伝子治療よらなくても、遺伝因子を引き継いだ胎児を選択的に中絶すればいいのだとあっさりと述べるのである(CRG 669)。この点は、非常に考えさせられるポイントである。生殖系列細胞の遺伝子治療をなるべく否定し、それがはらむ優生学をなるべく否定しようとしてきた結果が、欠陥胎児の選択的中絶の肯定につなるというこの論理のパラドックスに、私は驚きを隠せない。
この点は、もっと慎重に詰めてみなければならないと思う。この報告書ではあっさりと流しているが、ここには何か大切な欺瞞が隠されているように思われるからである。これは、この報告書だけの言説ではない。たとえば、イギリスで刊行された論文集Principles of Health Care Ethics(1994)の中のウェザロールの論文にも同じ趣旨の記述が見られるのである。ウェザロールは遺伝子操作についての概括的な論文の中で、次のように指摘する。体細胞の遺伝子治療には大きな倫理問題はなにもない。しかし生殖系列細胞の遺伝子治療には、現在のところかなりの問題がある。たとえば、重い遺伝病をもった子どもが生まれる可能性がある場合、いまでは体外受精で得られた受精卵を検査することができるのだから(受精卵診断のこと)、検査して問題のないものだけを産めばよい。だから、将来の人間の遺伝子の構成をいじくる必要はなにもないのだ(Weatherall 978)。この明るさの背後に秘められている問題はなにか。
これに関して、ウォルターズが紹介している例は興味深い。彼はクック=ディーゲンのことばとして、生命の尊厳についての道徳上あるいは信仰上の理由から、たとえ初期の段階であったとしても、中絶を選ぶのではなくて、初期胚の遺伝子治療の方を望むカップルがいるかもしれないという意見を紹介している(Walters 656)。これまた考えさせられる見解である。アメリカでは特にキリスト教の信仰に根ざしたプロライフ(中絶反対)運動が盛んであるが、そういう立場の人は、中絶するくらいなら生殖細胞の遺伝子治療を望むという判断をするかもしれないというわけだ。殺すよりは治療せよというこの考え方は、一般に胎児治療を押し進めるイデオロギーとなる。障害を持った胎児を選択的に中絶するのではなく、なるべく胎内にいるときに治療して出産まで持ってこさせようという考え方である。こうやって考えてみると、生殖系列細胞の遺伝子治療を禁止していたとしても、将来は胎児治療が進展して、胎児治療の一環として「生殖系列細胞の遺伝子治療」が実質的に試みられてゆくようになるかもしれない。この問題と、胎児治療の問題は、意外と近い地点にある。
さて、再び報告書に戻ろう。生殖系列細胞の遺伝子治療の技術的側面はどうだろうか。人間についてはまだ行なわれていないが、動物実験ではすでにいくつかの成功例がでている。有名な例で言えば、成長ホルモンを産出する遺伝子を、マウスの受精卵に余分に入れた実験がある。このケースでは、高いレベルの成長ホルモンが受精卵の中で生産されて、このマウスは通常の二倍の大きさに育った(CRG 670)。このほかにも、マウスのベータ・サラセミアが同じような方法で治療できたケースがある(Walters 656)。
だとすると、マウスで成功したこれらの方法を、ヒトの体外受精-胚移植と合体させて、体外受精で得られた受精卵の遺伝子を治療し、それを母体に戻すだけで、生殖系列細胞の遺伝子治療は実行できることになる。つまり、人間の生殖系列細胞の遺伝子治療を実施するための技術的バリアーは、ないのである(CRG 670)。
しかしながら、そう簡単にはいかない。というのも、外部から注入した遺伝子が、受精卵の染色体の間違った位置にくっついてしまえば、予期できない結果が生じる危険性がある。たとえば、遺伝子を注入されたあるマウスの子孫は、通常の40倍の発ガンを示した(CRG670)。こんなことになるのは、現在の遺伝子導入の方法が、きわめて幼稚な段階にあるからである。いまの遺伝子導入のやり方は、外からランダムに遺伝子を注入し、その外来遺伝子が染色体の中に着地してうまく働きはじめるのを、ただ祈っているという段階だからである。けっして、欠陥部分の遺伝子を取り替えているのではない(森岡64)。これは人間の体細胞の遺伝子治療でも同じレベルである。ここをクリアーするには、おそらくマイクロマシンなどの超先端技術が導入されなければならないだろう。
このように、発生期の受精卵の遺伝子をいまの技術レベルで操作することは、とてつもない危険性がともなう。報告書は、生物学者は、遺伝子とその生産物がお互いにどのように影響しあい、環境と影響しあって生物の表現型を作り出すのかを予見することができないと述べる。
アガールは最近の論文の中で、遺伝子と表現型との関係を、次のように模式化している。すなわち、遺伝子と表現型とのあいだには以下の三つのパターンがありえる(Agar 4-5)。

(1)monogenic遺伝子と表現型が一対一対応している
(2)poligenic多数の遺伝子によって表現型が決定されている
(3) pleiotrophicひとつの遺伝子が、多数の表現型に影響を与える

(1)は、ある表現型を決めているのがたったひとつの遺伝子であるような場合である。たとえばハンチントン舞踏病や筋ジストロフィーの場合、あるひとつの遺伝子の変異と症状とのあいだに、かなり強い一対一対応が見られる。この場合、この変異遺伝子が正常なものに置き換えられれば、症状は改善されるはずである。
(2)は、ある表現型を決めている遺伝子がたくさんある場合。たとえば、顔の形とか知能などは、それの形成に関与している遺伝子が膨大である。だから、どこかの遺伝子を交換したから頭が良くなるというわけにはいかない。アルコール依存症など病気に関与している遺伝子も多数である。この場合の遺伝子治療は、きわめて難しいと予想される。
(3)は、あるひとつの遺伝子が、いろいろな表現型の形成に関与している場合である。このメカニズムについてはまだ解明されていないが、ある遺伝子を操作したときに、その影響が意外なところにまで現われる危険性が予想されている(Agar 4-5)。先ほど述べた遺伝子操作によるガン化についても、これと関係があると思われる。
人間の遺伝子の働きは、その多くが(2)と(3)のカテゴリーに入ると言われている。そして、我々の科学はまだその複雑な相互関係を解明していない。体細胞の遺伝子治療で、遺伝子の欠損機能を補うもの(タイプ2)に限っては(1)の文脈で大丈夫かもしれないが、その他のタイプ2~4については、この(2)(3)の多因子要因に阻まれることになり、現在の技術水準では的確な操作を行なうことが難しい。それでも強行すれば、ガン化などの未知の危険性を引き受けることになってしまう。
報告書が、我々の科学の「予見不可能性」を力説するのは、こういう背景があるからである。報告書は次のように結論する。「生殖系列に新しいDNAの断片を注入することは、その個人と人類の将来に、重大な予見できない結果を及ぼす危険性がある。つまり、人類の遺伝子プールに、ガンや他の病気の危険をもちこむことになるのだ。」(CRG 670)従って、報告書は、「生殖系列細胞の遺伝子改造を禁止する」と宣言するのである。
この予見不可能性を強調する立場は、遺伝子治療を先頭に立って推進してきたアンダーソンの立場をそのまま継承しているとも言える。アンダーソンは、次のように述べていた。
医学は、厳密ではないサイエンスだ。我々は、人間の身体がどのように働いているかについてほんのすこししか知らない。通常の治療法にのっとって注意深く意図された試みであっても、何カ月・何年かのちに、予見できない問題を生み出す可能性がある。患者の細胞の遺伝子情報を改変することは、現在は予見不可能な長期の副作用をもたらす可能性がある。(現状のようにゲノムのなかの任意の位置に遺伝子のノーマルなコピーを導入するのではなく)相同遺伝子組み替えによって欠陥遺伝子そのものを正常化できるような時代が来るまでのあいだ、ノーマルな遺伝子が導入されたときに発生段階で突然変異が起きる危険性はつねに残されているのである。(Anderson 665)

生物発生の遺伝子要因に関する現在の科学の無知を理由にして、生殖系列細胞の遺伝子治療に歯止めをかけようという提案が、ほかならぬ遺伝子治療の最先端の研究者から提案されるところに、この技術の底知れぬ可能性がほの見えるのである。
ただし、この提案には、別の意味が含まれているであろうことにも注意しておきたい。アンダーソンは、体細胞の遺伝子治療一番乗りを果たしたこの領域のトップランナーである。彼にしてみれば、現実的に可能な「体細胞の遺伝子治療」をなんとしてでもやり遂げたいわけだ。だから、もし将来の課題である生殖系列の遺伝子治療にまで枠を広げて遺伝子治療のゴーサインを出してしまうと、受精卵を操作することに対する世論の反撃にあって、体細胞の遺伝子治療にまで火の粉がふりかかってくるかもしれない。そうなると、いま自分たちが進めている体細胞の遺伝子治療にとって大きな障害となる。だから、当面は、生殖系列細胞の遺伝子治療と、体細胞の遺伝子治療を切り離しておいて、生殖系列細胞にかんしては謙虚に科学の無知を認めるというスタンスを世間には見せておいて、そのかわりに問題の少ない体細胞にかんしては推進させてもらおうという戦略があったという推察もできるのである。
だとすると、体細胞の遺伝子治療が軌道に乗るであろう21世紀のいつかの時点で、科学者たちの興味が一気に生殖系列細胞に移り、今度は科学の進歩を理由にした生殖系列細胞の遺伝子治療の必要性が、声高に叫ばれるようになる可能性も高いと私は思う。というのも、微生物の遺伝子操作にかんしては、ちょうどそれと同じことが起きたからである。コーエンとボイヤーによる遺伝子操作技術の確立が1973年にあったが、それがどのような危険性をはらむのかわからないという危機感が生じ、1975年のアシロマ会議において、遺伝子操作の安全性が確認されるまでそれを自粛しようという提案がなされた。その後、遺伝子操作の安全性に応じて、施設内部空間の隔離など(P1~P4)を徹底するという方向で、遺伝操作は再開された。その時点では、遺伝子改造生物は隔離施設内で扱うということであったが、それもなし崩しとなり、遺伝子改造生物の野外放出実験も1980年代なかばから続々と行なわれるようになっている。
このように、危険性がある先端技術の自粛にかんしても、いわゆる「滑り坂理論」は経験的に当てはまるのであり、ヒトの生殖系列細胞の遺伝子治療についてもいずれ21世紀のどこかの時点で、解禁される可能性が高いと思うのである。
ウォルターズは、ヒトの生殖系列細胞の治療目的の遺伝治療に対して、むしろ積極的な観測を述べている。彼は言う。もしタイプ2の遺伝子改造が遺伝病を治療したり予防する通常の方法になったとしたら、それは医学に新たな一時代を切り開くことになるだろう。それは、もっとも感染力の強い病気の治療と予防に新たな一頁を開いた20世紀の諸医療技術に匹敵するくらいのものになるだろう。そうなったあかつきには、すべての市民が受益の資格を持つヘルスケアーの重要な部門として、生殖系列細胞の遺伝子治療が用いられる日が来ることになるのである(Walters 658)。
このように、生殖系列細胞の遺伝子治療にかんしては、いまのところ現実問題としては業界内自粛が続いているが、それがいつまで守られるのかはさだかではない。それに加えて、研究者や倫理学者の議論レベルでは、それへの期待や将来の展望が語られることも少なくないのである。このテーマをめぐっては、本論文で検討した議論の他にも、たくさんの議論が積み重ねられている。それに加えて、能力増進的遺伝子治療の妥当性を探るためには、「正常とは何か」「異常とは何か」という医療倫理学・科学論の古典的な難問に正面からふたたび立ち向かわなければならなくなる。それらの課題については、また他の機会にくわしく論じることにしたい。

文献

Agar, Nicholas “Designing Babies: Morally Permissible ways to Modify the Human Genome,” Bioethics 9-1(1995):1-15.
Anderson, W.French “Human Gene Therapy,” (1992) in Beauchamp and Walters (eds.) Contemparary Issues in Bioethics. Fourth edition. Wadsworth Publishing Company, 1994:659-667.
CRG “Position Paper on Human Germ Line Manipulation,” (1992) in Beaucamp and Walters (eds.), 1994:668-671.
Walters, Leroy “Ethical Issues in Human Gene Therapy,” (1991) in Beauchamp and Walters (eds.), 1994:651-659.
Weatherrall, David “Human Genetic Manipulation,” in Raanan Gillon (ed.), Princiles of Health Care Ethics. John Wiley & Sons, 1994:971-983.

森岡正博「遺伝子治療の倫理問題」千葉大学教養部『生命と環境の倫理研究資料集』1990:63-67.
*本論文は、千葉大学編『生命・環境・科学技術の倫理資料集(仮題)』1995に掲載の拙論を、千葉大学の許可を得て転載したものである。本論文は、千葉大学総合講座および当「ヒトゲノム解析と倫理問題」共同研究での発表をもとに、その成果として執筆されたものである。

Dept. of EThics <ethics@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Sep 22 05:26:18 JST 1998