ヒトゲノム解析における科学者の倫理

ヒトゲノム解析における科学者の倫理

白水士郎

ヒトゲノムの全塩基配列の解読という課題が現場の研究者にとっていかに 抗しがたい魅力をもっていたか、我々分子生物学の素人にも容易に理解するこ とができる。生物の遺伝情報はDNA中のA、T、C、G、という塩基の「暗号」で 書かれている。そして人間の全DNAの塩基の総数は、おおよそ30億個であるこ とがわかっており、そこに解読されるべく存在している。「なぜ山に登るのか? 」「そこに山があるから!」(註)。この暗号の解読は、人間の生命の謎を解き、 ガンやエイズといった難病を克服するための礎石となるであろう(註ホームズ)。 我々の知的欲求は、宇宙の果てを探り物質の究極の粒子を探し求めるように、 人間を人間たらしめる自然の根本的な機構、「創造の神秘」の探求へと進み、 その知識を技術へと活用する道にいずれにせよ赴かざるを得なかったであろう。

「生物学革命」と呼ばれもする探求のこうした新たな展開は、しかし分子生物学という学問分野に特殊な、一元的なパラダイムの延長線上にごく自然に位置づけられるものである。自ら分子生物学の先駆的研究者であったF.ジャコブが、この点に関して極めて率直な告白を、しかもあたかも今日のヒトゲノム計画の到来を予期するようにもとれる言葉で残している。「分子生物学がきわめて急速に発展し得たとすれば、その理由は、たまたま生物学で、情報というものが、蛋白質の鎖を作り上げる核酸やアミノ酸の塩基の積木の、単線的な配列によって決定されていることに負うところが大きいのである。このように、遺伝情報、一次構造間の関係、遺伝の論理など、全てが一次元にあることが分かったのである。万事が単純であった。分子生物学者たちが、この種の仕事から手を引こうとせずに、蛋白質やDNAの配列のような一次元世界の分析を続けていきたいと思うのも、あながち理解できぬことではない。」(p.60)しかしこの一次元の知識だけでは、三次元を成す生物の組織、器官をいかにして生み出されるかは謎のままである。

ヒトゲノム解析計画が射程にいれる研究の内容については後に触れる。とりあえず解剖学上の「最後のフロンティア」(スウェp.49)を克服しようとする熱狂から醒めてみれば、計画のもたらす功罪について、特に一般の公衆の間に疑念と不安が生じてくるのは当然の成行きであった。ヒトゲノム解析の進展は、倫理的、法的、社会的問題(Ethical, Legal, Social Issues, 略してELSI) の研究を必然的にした遺伝情報の管理の問題を生み出すだけではなく、上に述べた一元的な観点に基づいた生命機構の解明の進展が、従来の生命観、価値観に大きく触れるようにもなる可能性もある。また当然、計画の唱いあげる医学やバイオテクノロジーへの応用の潜在性については、生命を操作することに関する、一般に深く根付いた不安感がある。またアポロ計画の実例から、巨大プロジェクトへの財政的援助が実際的な利益をもたらさず、国家財政への圧迫というツケばかりを残した記憶もある。そもそもこの計画が、マンハッタン計画に携わったエネルギー省(DOE)によって当初進められたことも、計画の意図に関して疑念を許す余地がある。

科学者は、こうした我々の不安に答える必要がある。そしてこの資料集もその一環であるところのELSIの研究は、そうした返答の一部であるべきだろう。しかし容易に想像できることだが、こうした研究に対して現場の研究者の側からは、実際にある生物学者の発言に現れる通り、「表面的」であり「科学の本来の仕事とは無関係」と軽視する傾向がある(註スウェイジ)。一方ELSIに携わる側では、研究が単に計画推進の露払いになるだけではないか、という懸念をもつ。科学者に理解してもらわねばならないのは、我々には一般に科学の専門家に不信感を持っていること、しかもその不信感が決して無根拠なものではない、ということである。研究室に閉じこもったマッド・サイエンティスト、という流布された戯画的なイメージはおくとしても、現実に科学研究が大量殺戮兵器の開発に結びつき、体外受精といった技術を生み出すのを目の当たりにして、社会の側が科学的探求に対して何らかの歯止め、規制を求めるのは当然と言えよう。

科学者は専門領域外からの素人の介入を一般に疎ましく思うだろう。しかし科学者は「研究の自由」という防壁に囲まれた聖所に住まう僧侶ではなく、我々と等しく社会に帰属する市民であり、またその営みも科学者集団の内部で自足する高尚な遊戯ではなく、制度的、財政的に社会に支えられその成果の少なくとも一部分は良きにつけ悪しきにつけ社会に還元される、社会的営為なのである。

以上の基本的理解から、この論文ではヒトゲノム計画に携わる科学者の倫理の問題が、主としてその社会的責務の観点から論じられる。そこでは、科学者のもつ利害や偏見、世界観が研究に及ぼす偏向とその社会的影響が扱われることになるが、特に優生学的な傾向を帯びがちな遺伝的研究に関して、歴史からの教訓を学ぶ、という点が基本的なメッセージとなるであろう。

科学者と利害

データの捏造など科学者の不正行為をめぐる「倫理的」問題は、それ自体をとってみれば改めて考察を加えるに値しない課題である。なぜならそういった不正は実験、観察の追試によって発見され、悪質なものは科学者集団内部のルールによって制裁が加えられるだろうからである。

問題となるのは、財政上の援助を国家や企業から得るために、研究報告に意識的、無意識的に偏向を加える場合である。大学の研究者が研究の継続、拡張のために研究費を申請するのは普通のことだが、その獲得のためには自らの研究の有用性を研究報告書で過度にアピールすることがあるだろう。また、研究が着実に進展していることを示すために、不都合なデータ、「失敗した」実験については報告で触れない、という操作が行なわれることは十分考えられよう。こうしたデータの恣意的選択が必ずしも学問の進歩を妨げるものではなく、偉大な学者によるそうした操作がむしろ研究の飛躍をもたらすことがある(註サイ・エシp.30-32)、ということは別としても、例えばその研究がガンの治療といった極めて大きな人道的な利益につながる基礎研究であった場合、あるいは自国の産業発展に大きな貢献をもたらすだろうような場合、研究の重要性から上記のような行為が合理化されることは考えられる(註サイ・エシP28)。少なくとも建前上は科学者個人の利己的な動機によるのではない、このような不正は、果たして倫理的に責められるだろうか。

個人のレベルではないが、ヒトゲノム計画が巨大プロジェクトとして国家からの財政援助を引き出そうとする際に、同様な合理化の論理を用いている可能性はある。そもそも「ヒトゲノム解析計画」という命名自体が、研究の使命の重要性を政策担当者と国民に印象づける効果を持っていた(註報告書P.14)。またアメリカの連邦議会が計画に説得されたのは、計画内容が、バイオテクノロジー産業の国際競争力の増進に関心をよせる議員たちにアピールするものであったことも、大きな一因であったという(註学研p.18-19)。

しかし現実の事態は、こうした計画の「売り込み( oversell )」が逆に、科学者内部からのものも含めて、アメリカ国内で批判を呼び起こすこととなった。主たる批判として、計画が他の生物学の分野の研究予算を食いつぶすのではないか、あるいは大部分が役に立たないシークエンス・データを生み出し続けるだけではないか、といったものが挙げられる。

今まで「スモールサイエンス」の位置づけに甘んじていた生物学が、初めて物理学や天文学と肩を並べて「ビッグサイエンス」となる機会に遭遇して、生物学者たちが、いささかの興奮も交えて研究の意義を過大評価しがちになるのは理解できる。しかし、批判に対抗しようとするあまり、「広告お決まりの誇大宣伝 (a Madison Avenue type of hyperbole) 」に走ることは、そもそも計画の今後の継続のためにもよくないであろう(註スウェイジーp.49)。「米国議会技術評価局(OTA)報告書」が冷静に報告している通り、ヒトゲノムのマップ、シークエンスの目録が完成したところで、それがどのように翻訳されてヒトの姿になるか、どのようにして脳の複雑な構造ができ、あるいは人と人の違いが生まれるか、答えは得られそうない。結局「ゲノム解析計画の直接の目標は、理解に到達することではなくて、21世紀になってからそういう理解を可能にするための手段をつくることにある」(註ニュートンp.14)のである。「空振りに終った期待の危険」(註スウェイジーp.49)を考えると、科学者の安請け合いは計画にとってマイナスに作用するであろう(註シャスター)。

そもそも国民は、ブラックホールやクォークに関する知識が直接何の効用ももたらさなくても、巨大な天体望遠鏡や超伝導加速器(SSC)への国家予算からの支出をかなりの程度まで許容している。しかもヒトゲノム解析計画に計上されている予算はこうした過去の巨大プロジェクトに比べると小規模なものなのであり、潜在的な医学上、産業上の意義の大きさを考量すると、計画への財政支出は倫理的に十分正当化されるだろう。(註メイサー3.)。科学者の責務はむしろ、計画の持つ本来の意図、実際の過程、その技術的応用可能性と倫理的、法的、社会的影響の正確な評価を、一般に公表・報告することにあるだろう。

新興の科学分野の売り込みが、単に期待はずれに終るだけではなく、社会に悪影響をもたらすことさえする、という実例が過去のアメリカにある。今世紀初頭、R.M.ヤーキーズは揺籃期にある心理学を厳密な科学として確立し、「財政的にも制度的にも援助を受けるに値する真の科学として受け入れられる」ようにするため、知能テストという未発達の分野に着目した(p.239)。本来は学習不能児を特定するため、フランスで生みだされた大雑把な規準であったものが、彼によって遺伝的に決定される知能を測定するための一般的規準へと格上げされ、しかも後の歴史を見ると不幸なことに、陸軍で新兵をランク付けするためのテストとして正式に採用されてしまった。(彼は自らの実施したテストが「戦争を勝利に導く助けとなった」と、無垢に自負していたという。)その後、ヤーキーズは175万人ものテストの結果を、環境的、文化的要因を度外視して、黒人よりも白人の知能が、東欧、南欧の白人よりも北方系白人の知能が優れている、と結論づけて報告書にまとめたのだが、結果的にこれが悪名高い移民制限法(1924年)を成立させる上で大きなインパクトを持つことになった。この法律により国籍や人種に基づいて移住を拒否された人数は、第二次大戦勃発までの間、推計で600万人に達するが、その中には、あるいはホロコーストを逃れられたかもしれない多くのユダヤ人が含まれていたのである。一科学者の野心が間接的にせよ惨禍を招いてしまった実例として、一つの教訓になるであろう。

ヒトゲノム解析計画への私企業の参加が現実的になるにつれて(註日本p.9報告書)、研究所の企業への財政上の依存、という事態も想定する必要があろう。計画の資金から請負研究の形で企業が参加する限りでは何の問題もないだろうが、もし計画自体の資金が行きづまって企業からの資金援助を仰ぐようになった時、果たして資金援助を受ける研究所は、企業の利害とは全く無関係に研究を進められるだろうか。以前アメリカで、たばこ会社の援助を受けた研究が、肺ガン発病の原因として、喫煙ではなく遺伝的な要因の大きさを示唆するような報告をしたことがあるが、こうした例を考える時、産学の協同、ということには一定慎重な姿勢を保つ必要があるだろう。

利害の問題に関して、科学者、特に私企業の研究所に所属する研究員が、個人のレベルで研究への圧力を受けて、自分と家族の経済的安定と学問的良心の間に、あるいは会社への忠誠心と社会に対する責任の間でジレンマに直面する場合が当然想定しうるが(註)、差し当りヒトゲノム計画そのものにそれほど関係する問題ではないので、ここでは言及するに止める。

科学者と偏見

ヒトゲノム計画の進展に伴って遺伝学上の知識は間違いなく増大して行くだろうが(註)、危惧されるのは正に遺伝的研究という分野こそ過去に、人種や階級にまつわる科学者個人の偏見が堂々と研究テーマに反映され、その内容を規定してきた領域である、という点である。ヒトゲノム計画の倫理的問題を考える際、偏見に歪められた遺伝的研究から歴史的教訓を学ぶことは、それが優生政策という形で応用される危険が今日もあるだけに、なお一層不可欠な課題となる。

優生思想の主唱者であり支持者であった生物学者、心理学者、遺伝学者の主張を今日改めて読み直すとき、個々の科学者の偏見に満ちた固定観念というものがいかに「科学者」のリサーチプログラムを奇異な方向にねじ曲げ、データの解釈に主観性を混入させるか、という事実に圧倒される。保守的な遺伝決定論に対する批判の旗手とも言えるS.グールドの『人間の測りまちがい』(註)は、そうした過去の記録の一覧表の観を呈している。

こうした過ちを純粋に過去の出来事と片づけることはできない。アメリカで大きな社会的反響を引き起こしたジェンセンの白人と黒人のIQ差の研究が発表されたのは1969年であるし(註)、それ以降も人種的、階級的偏見を追認するような報告は続いている。ヘルンシュタイン。進展して行くDNA解析が遺伝学的決定論と手を取りあって、新たな差別的な偏見を助長して行く可能性は決してないとは言えない。現にNIHがELSIプログラムの一環として1992年に助成を予定していた市民会議「犯罪における遺伝的要素」の広報用のパンフレットには、次のような文面が含まれていたという(註神経難病P105-106)。

「遺伝子研究は、犯罪への環境的アプローチの明らかな失敗にも 触発さ れている—遺伝子研究はある種の犯罪行為の素因を有する個人を同定し、 これらの素因の引き金となる環境的特徴を分離し、いくつかの素因を、 薬物および非侵入的療法で治療する見通しがある。」

この会議は遺伝的決定論の信奉者だけではなく、その批判の先鋒に立つ学者も複数参加することになっていたが、市民からの抗議により中止されたという。

決定論の問題についは節を改めて扱うとして、主観的偏見が研究に与える影響を前にする時、我々は再び認識の価値中立性の問題に引き戻される。ここにおいても問題なのはデータの解釈の場面における主観性だけであり、あくまでデータ自体は価値中立的である、という主張は成立するであろう(註グールド)。しかし以上の事例に見られる遺伝学的研究の持つ社会的意味の大きさを考える限り、こうした冷静な物言いはいささか色あせる。歴史は、この分野の研究成果が学問的に十分な批判に曝される以前に政策に取り入れられ、時として悲劇的な結果を招くことを教えてくれる。双生児の対照研究から知能の決定における環境に対する遺伝の優位性を唱えた著名な心理学者、シリル・バートは、自らの信念を説得させるためにデータを捏造し、あるいは架空の共同研究者を仕立てあげたことが今日知られているが、50年以上たった今でも彼の研究はイギリスの教育制度に影響をもたらし続けているという(註サイ・エシ48-50頁)。また、後に触れるアメリカの心理学者ヤーキーズとその弟子ブリガムによる、人種間の知能指数の先天的な差異に関する研究は、北方系(ゲルマン系!)白人以外を締め出す、悪名高い移民制限法の成立に直接つながった。ここには科学的研究を政策に反映させる際の為政者と政治システムの問題、あるいは一般民衆の差別感情の問題が指し示されているということも一面の真実だが、それでもこうした歴史的事例を前にして、我々は研究プログラム自体に対する何らかの規制が必要なのではないか、という意見に傾く。

科学者は研究そのものに対する制約を、「研究の自由」という大原則に対する脅威とみなしてこれに抵抗するかもしれない。現にジェンセンは、科学に「個人的、社会的、宗教的ないし政治的イデオロギー」を持ち込んではならないとして、「われわれが見出したことが誤解される、悪用される、あるいは悪意と非人道的な目的に使われる恐れがあるという理由だけで、発見、発明および知ることをやめるべきだ、という考えにはまったく反対である」(註354頁)と主張する。しかし、ジェンセンが自らの研究テーマの選択に当って「個人的イデオロギー」を持ち込んでいなかったかどうかということは置くとしても、政治的プロパガンダに利用されることが歴史的実例からも容易に想像できる研究について、研究の自由を建前としてその帰結を度外視することは果たして倫理的に正当化されるだろうか。再び、研究という科学者の営為も不可避に社会的文脈におかれる、というテーゼに返れば、科学者は、少なくとも遺伝的研究に限って言えば、自らの研究の及ぼす社会的影響について最大限の顧慮を払う責任を負わねばならない。それなしで、「言論と出版の自由が認められる社会」における科学者の責任を「科学者は、その研究をできるだけ完全に注意深く行ない、その方法、結果および結論を、できるだけ全部、正確に報告すべきである」(同上、下線は引用者による)ということのみに局限するのは、言葉の真の意味で社会に対する倫理的責任を取ったことにはならないであろう。

科学本来の目的、という観点からもこれに批判を加えることができる。科学は人間、自然、宇宙の根源的な原理、成立ちに対する人類の知的欲求に答えようとするものであり、その技術的応用に関しては人類一般の繁栄を最終的な目的とすべきである、という理解に大部分の人が同意するなら、白人と黒人の間のIQの差が遺伝的であるか否か、といったテーマは枝葉末節のものであり、それが依って立つ偏見を考えると科学本来の目的からの悪しき逸脱とさえ呼ぶことができよう。いずれにせよ今日、人種間の遺伝的組成の差異が、個人間の平均的な差異よりも小さいことが判明しているだけに(註メイサー)、なおのことこうしたテーマへの科学者の議論の集中は労力の無駄であり、社会的にはマイナスと言える。

以上の考察から、科学者の研究の方向性に、例外的に一定の規制を加えることを正当化する根拠が得られるだろう。言論の自由が民主主義社会でも無際限に受け取られてはならないのと同様に、研究の自由という原則も決して無上のものとされるべきではない。すなわち、マス・コミ等で差別語の使用に自己規制を加えることが一定程度正当化されるのとのと同様に、科学研究についても、もしある研究プログラムが、現存する差別感情に迎合するようなものであるために倫理的に受け入れ難いと一般にみなされるようなものであり、かつ科学本来の目的から見て枝葉なテーマを扱うものと考えられるならば、科学者集団自らがこれに負の動機づけを与えるような自己規制を取ることが望ましいし、そうした自由の制限は正当化されうるであろう(註)。今後DNA解析の進展が、全く新たな「遺伝的下層階級 genetic underclass 」(註)の形成、という逸脱した方向へと進む可能性を考えると、こうした方策はなおのこと必要となる、と論者は考える。

日本では、アメリカのような人種的偏見に基づいたこの種の研究がなされる可能性は少ないと思われる。しかしその一方で、「家系」や「家柄」に関する配慮が大きい土壌–例えば結婚時に相手の家系にガンや精神的疾患を患った者がいないかをとりわけ気にするといった–が存在することを考えると、やはり軽率な研究の発表が大きな社会的影響を与える可能性のあることの自覚が、科学者自身に強く求められるであろう。

科学者と世界観 ~イデオロギーとしての生物学的決定論~

科学者の持つ利害や偏見といった主観的要因が科学研究に偏向や逸脱をもたらす際の問題を以上論じてきたが、こうした研究者が持つバイアスというよりもむしろ、分子生物学の研究プログラムそのものに内在すると思われる固有の事物の観点、あるいは世界観の問題を次に論じる。「ゲノムのマッピングとシークエンシングに関わる者は、—この努力は分子生物学者や他の「生物学革命の創作者」を導き、動機づけてきたある特定の世界観によって形成されてきている、ということを認識すべきである。」(スウェイズィーp.47)その特定の世界観とは、生物学上の決定論、及び還元主義である。

そもそも生物の性質がすべて因果関係によって定められている、という決定論は、学としての生物学に基本的な発想であるし(OTA、p.68)、それを押し進めて生殖現象を物理的な因果関係に究極的にまで還元しようとするのが分子生物学の基本プログラムである。ところで正に、この還元主義的、決定論的な傾向ゆえに、ヒトゲノム解析計画は批判に曝されてきている。ヒトゲノム計画の含み持つ決定論的な世界観は、おそらく今後ヒトゲノム計画に対する批判的な文献に幾度となく引用されるであろうジェームズ・ワトソンの次の言葉に、端的に表明されている。「(ヒトゲノム計画は)分子レベルで我々自身を理解する究極の道具(を与えてくれる)—かつて我々は自らの運命が自らの星の下にあると考えていたが、いまや我々は、運命は大部分自分の遺伝子の中にあることを知っている。」(プロp.46、スウェp.47)

生物学の基本的枠組としての決定論や還元主義を批判することは、あまり意味がないばかりか、的外れでもある。ノーベル賞生物学者であるメダワー夫妻は一般向けの啓蒙書の中で、還元主義者は全体を部分の単なる総和として表す、という全体論者の批判に次のように答える。還元主義とは全体を構成部分の「関数」として表そうとする方法のことであって、生物体においては考えねばならない関数関係が複雑すぎるためその方法に限界があることは生物学者にとって自明のことである。重要な点は、遺伝情報の伝達といった生物の基本的特性に関する知識が、正に還元的扱いにきちんと対応する、という点である。(注p.316-323)少なくとも「還元的分析は今までに考案された中で最も成功した研究戦略である。それは科学と科学技術の成功の原因であった」(注p.316)ということを単純に無視し、分子生物学上の発見の意義を否認する者に対しては、科学者はこれをいささかの軽蔑をもって斥ける正当な理由を持っているだろう。

しかし生物学的決定論が問題となるのは、それが人間の創造性や意志の自由を否定するように一般に受け取られる、という思想的、感情的な反発のためだけでなく、人間の才能や素質は環境よりも遺伝によってより多く規定されている、という発想によって歴史的に優生学を支える基本思想となってきたからである。「優生学のイデオロギーの中心にあったのは、生物学が運命である、という考えである。」(註Procter p.75) この考えに立てば、知能指数が人種観で差があるのは当然であり、この点に関して教育環境や経済環境を改善する政策には実効性があまりない。また犯罪者になる素質は先天的に定められており、そうした人は社会において警戒すべき人物のリストに入れられるべきである。その他、性的嗜好や薬物中毒になる傾向などに関して、端的に言えば、人間は「育ち(nurture)」よりも「生まれ(氏 nature)」である—。前節で述べた科学者の偏見は、こうした決定論によって理論的な裏付けを得て優生学的発想へとつながって行き、今日でも絶えることはない。

確かに人間の行動や才能の多くは、遺伝的要因をもつ。遺伝決定論に強固な反対者であるグールドにしても、知能が遺伝的であることまでを否定しはしない(注)。問題なのは、「遺伝的である」ということと「変えられない」、「避けられない」ということの混同である(注)。ある遺伝型を持つことが、直ちにある表現型を取ることへとつながる訳ではない。60才以前に心臓病にかかる人間の5%が、肝臓が有害コレステロールを除去する作用を阻害するような遺伝子を持っているという統計があるが、同じ遺伝子を持っている人全てが早期に心臓病に襲われるわけではない。食事その他の要因が遺伝的要因を軽減することがあろう(プロクターp.81)。また、ガンの誘発に与る遺伝子の存在は確認されているが、しかしこれだけでは近年の急激なガンの罹患率の上昇は説明できない。むしろそうした上昇は環境汚染の進展によってよりよく説明されるかもしれない。結局、誰もどこまでが遺伝で、どこまでが環境によるか説明することはできないし、ましてやDNAの塩基配列の知識から人間の素質や行動を予測する、といったことは不可能なのである(注OTAp.68)。

こうした取り違えが公衆衛生上大きな意味を持つのは、プロクターの鋭い指摘通り、病気の原因が個人の遺伝的欠陥に全て転嫁されることで、環境改善への努力が軽視される点である。「生物学的決定論の危険の一つは、病気の発言の根本的原因が、環境(有害物質に曝されること)から個人(遺伝的欠陥)に転嫁されるということである。」(p.80)そこから例えば、企業がスクリーニングを利用して病気にかかりやすい従業員を排除することで、労働環境を改善する手間を省こうとしたりするであろう。このことは社会政策一般にも当てはまる。犯罪を犯しやすい遺伝子のキャリアーを特定する努力は、犯罪が起こりにくくなるような社会環境を作ることの重要性から人々の目をそむけさせる効果があるだろう。さらには決定論的なこうした傾向は、現存する社会階層、貧富の差を人間の先天的な能力差を反映したものとしてそのままで正当化し、社会正義の観点から是正されるべきものをむしろ、例えばシンガポールで取られている優生政策のような形で逆に強化する方向へとつながるかもしれない。

以上の方策の根底に、人間のある種の性質に関しては「必ず」遺伝的要因が環境的要因より大きく作用する、という判断が存しているなら、その判断は事実判断として誤りを含んでいる。再びメダワー夫妻を引用すれば、「生まれ」と「育ち」の間の関係は一方が他方の関数であり、「生まれ」すなわち遺伝的要因の寄与するパーセンテージは環境次第で0から100まで変化するだろうし、逆もまた言えるということになる。したがって知能の何%が遺伝により、何%が環境によるかを特定しようとする心理学者の野心的な試みには何の意味もないことになる(p.272-274)。これに加えて、倫理的観点からも上記の決定論的な方策は承認され得ない。仮に人間の能力差が遺伝的要因によって大きく規定されているのが事実としても、(その「能力」というものの定義が、時代、文化によってことなるだろう、ということは今は置くとして)、それを改善する方向に生物学的知識を用いないというなら、何のための知であり、何のための科学、文明であろうか。

この点に関する科学者の責任は、自らの研究が依って立っている方法論の限界を知り、それを普遍的な世界観へと拡張して普及させようとしたりはしない、ということである。先に引用したワトソンの言葉は、彼自身の信仰告白というよりも、ヒトゲノム計画の正当性の擁護という色合いが強い。しかし、こうした科学者の発言が一般公衆の遺伝学の理解に与える影響こそが、社会的には問題となるのだ。専門の遺伝学者や生物学者が「遺伝的であること」と「変えられないこと」の区別をわきまえていたとしても、一般の理解(perception)がそうでないなら、社会政策はより決定論的な、優生学的な方向へ推移するだろう(注シャスター116)。そうした事態を避けるためにも、科学者は正確な知識をもって世間の誤解を解く努力をするべきであるし、ましてや自らの宿業となった決定論的世界観を研究を通して普及させてしまうことには、特に慎重でなくてはならない。

合意形成における科学者の役割~優生学を超えて~

以上では科学研究につきまとう主観的要因に触れながら、ヒトゲノム解析に携わる科学者が注意すべき事項を論じてきた。しかし計画の社会的影響が拡大してくるにつれて、生物学研究者に対してはむしろ積極的な役割の方が社会から求められてくるだろう。スクリーニングとカウンセリングの発達、普及に伴って想定される、就職や保険加入上の差別の拡大にどこで 歯止めをかけるのか、あるいは選択的妊娠中絶や出産制限の増加に対して医学上、政策上どこまで介入が許されるのか。こういった問題に判断を下すうえで、我々は具体的提言と共にますます多くの事実に関する知識を必要とするようになるだろう。そこで最後に、遺伝情報の利用に関する社会的な合意形成過程に、科学者はいかに参加すべきかについて、特に「新しい優生学」という問題に即して、論じておくことにする。

前節までで見た通り、優生学の思想は科学者特有の、時には偏見も交えた世界観が反映されたものであった。これを実地に応用しようとする科学者の夢想を戒めた由縁である。しかし一方でヒトゲノム解析の進展は、個々人に遺伝病の保持者の烙印を押すばかりか、それ以前なら意識もせず選択を迫られることもなかった、新しく生まれてくる子供の障害の可能性を教えてくれることになる。我々は治癒されない病気について心的苦痛と社会的差別に苦しむかもしれない、というだけでなく、個人のレベルで重病のランク付けと線引きを行なって、生まれてくる子供を選別して行くという作業を課せられることになるだろう。分子遺伝学上の知見に基づいて、個人の次元で達成可能なこの「新しい優生学」(優生学p.455-456)に伴う「おぞましい選択と責任」を想定するだけで、ヒトゲノム解析計画そのものからの撤退して、むしろ遺伝学上の知識を封印すべきだと考える十分な理由になるのではないのだろうか。そうして我々は、今までの枠を超える進化(淘汰)への一切の介入を控えるべきではないのだろうか。

ここで忘れられてはならないのは、ヒトの全ゲノム解析の大きな目標として、少なくとも当初は、ガンの発病機構の解明が掲げられていたことである。ガンをはじめとする遺伝的難病の克服という課題は、研究者以外の一般の人々にとっても切実なものだったはずである。ダリル・メイサーの端的な言葉を借りれば、「人生は複雑なものとなってくるだろうが、それはこのような(ヒトゲノム解析の)強力な情報とテクノロジーの代価なのだ。」(p.205)しかももっと重要なことは、医学の進歩によってそれまでは長く生命を保証されなかったような障害を持つ新生児が増え、それに対応して羊水穿刺検査に基づく中絶がすでに広く行なわれつつある、ということである。生まれてくる子供の選択の責任、という問題それ自体は、質的に新しいものではない。ただヒトゲノム解析によって、問題の範囲が拡大しただけと言えるである(註)。

今後われわれが淘汰への介入を余儀なくし続けるとして、その形態が歴史上の優生政策に類似した形をとることだけは、もはや容認できない。従って政府による強制的な断種や中絶ではなく、これから結婚をし子供をもつ男女の、インフォームド・コンセントに基づいた上での自律的な判断に任せる、という一般原則が重視されることになろう(註)。しかし知識の増大は必然的に、下すべき判断を医者にとっても両親にとっても複雑で困難なものにして行く。そこで社会的に合意されうるルールなり規準なりが求められることになろう。加えて、遺伝的にある障害を持つと判定された人に対する差別を軽減する法律の制定についても、話し合われて行かねばならないだろう。

我々が生物学研究者の社会的参加を求めるのは、正にこの点においてである。ルール作りに当っては、実際に障害を持つ子供を育てた両親の追跡調査や、世論のリサーチなどがきわめて重要な要素となるべきだろうが、当然ながらそこで医学上、遺伝学上の専門家の正確な知識の裏付けがなければならない。しかしその際我々が科学者に望むのは、この領域に関する絶対的な権威者、「分子の言葉を伝える僧侶にして教父」(注Swazey p.53)としての役割ではない。すでに見たとおり、遺伝的要因と環境的要因の関係については多くが未知のまま残されるであろうし、またやはり多くが我々自身の手に委ねられている。しかも我々の目指すのは、理念に基づく新しい理想郷の創出ではなく、合意に基づく漸進的な社会の変化なのである。そうした合意形成の場にあって我々が生物学研究者に求めるのは、有力な情報の提供者であり、かつ一般市民の代表や法律家、倫理学者といった他の参加者と資格的に同等の提言者として、それも積極的に我々の取るべき選択について議論の場に出て発言をしてもらうことである。

科学者は一般に社会的、倫理的な問題を話しあう場に出てくるのに消極的であり、そうした問題の解決を科学者以外の人間に委ねる傾向があるだろう(サイエシp.24)。しかし自ら携わる研究の社会的影響に関して、判断と責任を一切回避することは、倫理的には決して正当化されえない。

また科学者は、専門領域に関する自負から素人の判断を見下す傾向があるだろう。しかし科学上のプロジェクトに関して素人の参加が単に倫理的に要請されるばかりではなく、実際に問題の本質の理解において科学の門外漢が優れていたことを示す報告がある(註)。またたとえ素人の意見が科学者の目から見てそれほど的を得たものではなくても、それが意志決定する市民に支配的なものであれば、ことこの問題に関する限りでは科学者の側が譲るべきであろう。繰り返せば、いかなる遺伝学者も、ある遺伝子が本質的に異常であり、「悪い」遺伝子であると権威をもって決定するはできないのである。あるアメリカの遺伝学者は、社会を遺伝的に規制しようとする方向に警告して、次のような反語的な問いかけを行なっている。「一体だれがこの規制を実施するのだろうか?遺伝子のどれが欠陥を持ち、どの行動が異常だとだれが決めるのだろうか?だれが未来の人類にとって価値のある遺伝子だと決定するのか?」(註優生学p.471-472)

以上の議論では、ヒトゲノム解析計画を今後も巨大プロジェクトとして推進すべきか否か、についての判断は差し当り留保してある。しかしヒトゲノム解析という研究プログラムが従来の研究の延長という性格を持つ以上、いずれにせよ遺伝学上の知識は増えて行き、上述の問題が生じてくるのは避けられないであろう。こうした現状認識に立って社会的変化に対応する合意のあり方の一面に不十分ながら論及したのだが、当然この種の議論は具体的な事態の進行に応じて今後さらに進められて行く必要がある。

いずれにせよ、今後求められる社会的変化の進展が、「優生学」という進化論隆盛のオーラを背負った輝かしい理念、しかし今となっては忌まわしい名の下に語られるものと同じ形を取ることがあってはならない。我々は、偏見と認識の制限に基づいた優生学の政策的な応用が、しかも性急であればあるほど、人類の進化という題目では到底正当化できない悲劇を生み出してきたことを知っている。今後何らかの政策が取られるとしても、それはまず科学者も含めた「われわれ」の意志と合意によるものであるという点で、そして政策が促す社会的変化の速度が穏やかなものである(自然の進化そのものほど穏やかではないとはいえ)という点で、過去の優生政策と根本的に異なったものであるべきであろう。

まず、社会的合意の形成ためのプロセスが確立されねばならない。後は一つ一つの問題が、正確な知識に基づきつつ、利害を調整し将来への影響を勘案しながら、ただ地道に議論され決定されて行くことになるであろう。そしてこの平凡な結論こそが、おそらく我々が歴史から学びうる、そして学ぶべき最大の教訓であろう。

なお伊勢田氏には論文の執筆中、この論文の他の点についても、適切な文献の紹介と、時間と労力を厭わぬ論者とのディスカッションによって、論点を明確にする助けとなってくれた。ここに特に記して謝辞とさせて頂く。

(註)ヒトゲノム解析計画に関して議論されるとき、人間の全DNAの塩基配列決定(シークエンシング)と物理地図作成(マッピング)に主として焦点が当てられるが、遺伝子地図の作成という課題もその目標に含まれている。これは主としてガン遺伝子などの病因となる遺伝子の染色体上の位置と、遺伝子間の相対的な距離を特定する作業だが、すでにゲノム計画以前から進められており、ハンチントン病を始めとしてすでに20以上の病因遺伝子の位置が確認されている。

(註)自己規制という形ではないが、ジェンセン論文がきっかけとなって巻き起こった論争に対するアメリカ遺伝学会の対応は、学会の社会的責任のあり方を考える上で一つの参考になるだろう。同学会は1973年に遺伝と人種と知能に関する声明を出すことを決定し、学会員の討議を経た上でそれを1976年に発表した。そこでは「われわれの見解では、人種で

「われわれは人種主義も差別も遺憾なことと考える。—なぜならそれらは人間個人の尊厳に反するからである」という宣言が盛られている。(p.478)

(註)シンガーとウェルズの指摘を借用すれば、進化の過程への介入ということは遺伝子をめぐる知識と技術の問題が現実的となる以前からなされてきている


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Last modified: Tue Sep 22 14:10:28 JST 1998