生命科学のこれからと社会との関わり

生命科学のこれからと社会との関わり

生命誌の提案

–生きものを通して実現する 二つの相補的視点(ミクロとマクロ、学問と日常)の合体–

中村桂子(生命誌研究館)

I. 生命科学と社会の関係を問いなおす–パラダイム変換を基礎に–

生命科学(とくに分子生物学)研究の社会的・倫理的・法的側面を考えるというテーマを与えられた場合、とりあげるべき重要な課題として、遺伝子治療や遺伝子診断、受精卵操作など近年ミクロの生物学が進歩したために可能になった技術と、それが与える社会への影響があげられる。もちろん、その重要性は認めるが、私は今回、直接そのような具体的な課題に入る以前にまず、科学と社会の間に存在する問題を整理し、それらの問題を根本的に解決するには、何をすべきかを探りたいと思う。このようなアプローチをとる理由は、「分子生物学、もう少し広く言うなら生命科学」という学問自体がその性質を変えつつある(つまりパラダイム変換が起きつゝある)こと、一方社会の持つ価値観も変化しようとしていることを感じるからである。一言でいえば、科学が自然の一部を分析・還元という手段で理解する時代は終わり、宇宙・地球・生物などが、どのようにしてできてきたのか、その本質は何かという問いをするようになっている。また社会も、単に効率よく物を大量に生産するのではなく、環境保全につとめることも重要であるという認識を持つようになった。両者の共通点は「生命」への関心であり、そのような社会での科学と社会の関係は、現在より摩擦の少ないものになると予測される。そのような社会にするために科学者が行なうべきことは、現在生命科学が明かにしている生命の姿を社会と共有する努力であると思う。そのような考え方で今私が行なっている「生命誌」の提唱と「生命誌研究館」という活動を紹介する。

このように科学と社会の間の関係が変化する可能性をもっている時に、それに眼を向けずに、科学と社会を従来のパラダイムの中で対立させた形で問題を取り上げるだけでは建設的な答えは得られない。もちろん、医療など現場で起きている問題を解決していくことは重要だが、そのような個別の問題解決以外に社会の流れを考える必要があるというのが私の立場である。

II. 問題点の整理–これまでの実例から–

このように、基本的問題を考えると言っても、これまでにどのような問題が起き、それにどのように対処したかという実例を見て、科学者はどのような考えを持ち、行動をして行かなければならないかを考える材料としたい。例として、次の五つをあげる。

第一は、科学の成果が人類に不幸をもたらし、しかもそこに直接科学者が関与した例である。生物学ではないが、やはり原子爆弾の製造が最もわかりやすいだろう。誰もがよく知っていることなので詳述は避けるが、戦時下という特殊環境であったとはいえ、科学者としては反省すべきことが多い。

第二は、研究成果が、よりよい生活を求めて日常的に利用されていく中で、思わぬマイナスが出てしまう場合である。薬による副作用、さまざまな化学物質による環境破壊などがある。科学の研究そのものは、生きもののふしぎを知るという知的欲求から生まれる行為だが、科学者には、研究成果が役に立つことを願う気持ちも強い。それが本当に役に立つものであるようにするところまで、科学者としても考え責任をとる必要があるということだう。

第三は、現代の高度医療に見られる例である。たとえば臓器移植は、現時点でそれ以外に救う方法のない患者に対して行なうという面から見れば望ましい行為である。しかし、それを支えるための臓器提供のシステム、臓器不足、高額の費用などの問題を考えると問題点は多い。とくに日本では脳死と臓器移植の関連について適確な議論が行なわれていないという基本的問題がある。分子生物学が直接関わり合うであろう遺伝子診断なども、社会の持つ価値観を反映するものとして、その実行には多様な側面からの検討が必要である。

第四は、これまであげた例のように研究成果が技術として実際に利用されたわけではないが、学問の持つ思想や研究成果が社会に利用された結果不幸がおきた場合である。これも有名なドイツナチスによる遺伝学・優生学の悪用がある。ここで悪用と言ったのは、実は現在の私の価値観での判断である。ここで困ることは、当時のドイツでは、強い体と正しい心を持つ国民を育てるには特定の人種を消すということは”科学的”とされていたのである。”科学的”とは、時に”正しい”と同義語のように使われることがあるがそれは誤りであるという例だ。科学という知が、人間の行為全体の中でどう位置づけられるのか。それも考えなければならない課題である。

第五は、われわれの頭の中で描く、人間や他の生きものたちの操作の姿である。それは、時に、各民族の中に古くからある民話の中に見られ、更にサイエンス・フィクションの中には、最も極端な形で表現されている。ギリシャ神話の中のライオン、山羊、ヘビが合体したキメラや人間と馬が一体となったケンタウルスなどは当時の人々の願望や畏れを 反映したものだろう。日本にも、キメラと同じような合成動物としてヌエがある。こちらは、虎とタヌキとヘビであり、日本人になじみのある動物であるのが当然とは言え興味深い。

サイエンス・フィクションには多くの例がある。最も恐ろしいのは、人間の本性の中にある操作願望を表現したものだ。よく知られている例としてオルダス・ハックスレーの「すばらしき新世界」H.G.ウェルズの「モロー博士の島」をあげよう。前者が描くのは、

試験管内で資質の異なる人間を誕生させ、それぞれに社会の中での役割を割り当てる計画管理社会であり、後者には、動物を改造しているうちに人間を越えるものができてそれの逆襲を受ける話だ。いずれも何ともおぞましく、しかも、いかにも”科学”と”科学者”の本質をついている雰囲気を漂わせているところが恐ろしい。本当に科学・科学者はこういう面を持つものなのか。今の私の生物への関心はこのようなところにつながると自分では考えてもいないのだが。検討が必要だと思っている。

原爆の放射能によって誕生したゴジラのように科学の産み出したものが生きものに思いがけぬ変化をもたらすというタイプの話もある。ジュラシックパークも人々を楽しませるために再生した恐竜が思いがけない行動をとる。生物の場合この”思いがけない”ことが起きる危険性があることを認識すると同時に、それを減少させる方策を探すことも科学の役割だ。

サイエンス・フィクションは、フィクションではあるが、人間や科学の本質、その時代の生命観、人間観、技術観などを考えさせるよい材料となり、しかも、一般の人の科学観への影響は非常に大きい。

III. 生命科学者としての対処

先にあげた例と同じ事は、生物科学でも起こり得る。これらを避けるために方策をもたなければならないが、なかでもまず科学者として行なうべきことは、自分達の行為の安全性、倫理性などの面からのアセスメントであると考えるのが普通だろう。

分子生物学者の中でそのような意識が具体的な形で現われた例がある。1970年代初めDNA組換え技術が考え出された時は、P.バーグらが中心になって、この技術の使用の一時停止(モラトリアム)を決めた。安全性・倫理性に問題があるとされたからである。そして研究者だけでなく、倫理や法律の専門家も含めて、会議を開催し、この技術をどのように使うか、または使わないのかを議論した。有名なアシロマ会議である。以後、ガイドラインを作り、その約束の中で研究や技術開発を行なう約束事ができた。

以来、各国で、ガイドラインを作り企業も含めその中で活動をしており、この方法は、太変よく機能していると言える。その点では、組換えDNA技術は科学と社会の関係の中で最も賢明な対処をしたよい例と言える。

しかし、こ干に大きな問題がある。この技術はすでに20年以上利用されており、当初心配された危険はほとんどないこと、また避けることができることがわかってきた。またその使われ方も、種の壁を越えて思いもよらぬ雑種を作るなどということではなく、DNAの構造や機能の研究という日常的作業の中で使われる実験技術としての有効性がはっきりしてきた。

ところが、最初に”潜在的危険性”として不確定の危険を想定した議論が大きく報道されたために、社会の中に「この技術は危険である」という印象が強く刻印されており、20年以上の実績は無視されがちなのだ。今でも、組換えDNA実験を行なう施設(それはとりも直さず、分子生物学の研究をする機関ということになると言ってもよい)を建設するというと必ずと言ってよいほど、住民から反対が出る。それは決して特別危険な実験をするのでなくても(ガイドラインの指定で言えばP2と分類されるレベル)、先に述べたように新しい生物を作り出すのではなくDNA分析のための実験技術として使う場合であってもである。万一の危険を避けるために閉鎖系の中で実験をするという初期に作られたガイドラインがあり、それに従っていること、しかも近年それほどの危険もないことがわかってきたことを説明すると、「危険がないのならなぜそのような特別な設備を作るのか」、必ずこう問われる。では施設なしで研究をしてよいのかと聞けば「とんでもない」と言われる。これでは解決はない終わることのない議論になってしまう。「なぜ、われわれの誠意は通じないのだろう。」研究者のいつわらざる声である。

私は今、こんな危険を感じる。このような状況では、今後新しい技術が開発された時、組換えDNA技術について考えたように、その安全性や倫理的な問題を率直に社会の中で開かれた形で議論するのは止めようという判断を研究者はしたくなるだろう。その誠意が適確に受け入れられずに研究が正しく評価されないのなら、科学を閉じた中に置いておいた方がよいと考えても、決して科学者を非難できない。それは、社会にとってよいことだろうか。

どこかが違っている。ボタンが正しくかけられていない。そんな思いが強い。

現在のような形で科学と社会が異なる価値観を持ち相互にコミュニケーションできない状況のまま科学の一部を社会に対して開き、アセスメントの手続きをとっても、科学にとっても社会にとっても益にはならないと言わざるを得ないからだ。まず行なわなければならないのは、生命科学研究者自身が広い視野を持ち、現在この分野でパラダイムに転換が起きていることを認識することである。そのうえで科学の役割を考えそれを社会に向って伝えることである。一方、社会は、科学は生物を物質として扱う危険な作業であるとい思い込みを捨て、今、科学の世界で何が起きているかという事実に眼を向けることである。

IV. 分子生物学の変遷と現状

そこで、現在起きつつあるパラダイムの転換とは何かについて述べよう。

20世紀の終わりにあたって、今世紀の科学を概括するなら、前半は、物理学に、そして後半は生物学に大きな展開があったと言ってよいだろう。

物理学では、従来のニュートン力学の中での決定論的世界観に対して、相対性論的で時間、量子論・統計力学によって、不確定性・多義牲など、相対的、非決定論的世界観が登場した。ここで重要なことは、この新しい世界観はミクロの世界を対象にした時に見えてくるものであり、日常のマクロの世界観は、ニュートン力学で充分であるということである。ここでミクロとマクロ、別の言葉を使うなら学問と日常における世界観が乖離してしまった。21世紀の科学と社会の関係を考えるうえでの一つの問題点がここに現われている。ところで、ミクロの世界で新しい世界観をつくり上げた物理学者が当然のように関心を持ったのが「生物」という存在である。N.ボーア、E.シュレディンガー、W.ハイゼンベルグなど、当時の物理学のリーダー連が揃って「生命」に眼を向けた様子は次のような記録からよく分かる。ボーアが1932年に行なった「光と生命」と題する講演、1940年にシュレディンガーが著した「生命とは何か」そして1960年代になってハイゼンベルグが書いた「部分と全体」である。とくに、最後の本には、彼らが1930年代初めに「生命」について議論していた様子が描かれていて興味深い。

ここでボーアは、生きものを見る時の二つの相補的な視点を強調している。つまり、

「人間の歴史を通じて生きものとの関わりから形成されてきた概念と物理や化学の言葉を使って説明される因果関係の解明」である。これはまさに先に述べたマクロとミクロ、日常と学問ということであり、すでにボーアが生きものを両者を結びつける存在として見ていることは興味深い。

さて、すでによく知られているように、彼らの考え方を受け継いだM.デルブリュックらによって産みだされたのが分子生物学である。実際に、ボーアの言う生命現象を物理や化学の言葉で語るミクロの世界を追求することによって、新しい生命の科学を作り上げるという作業の開始である。1953年、J.ワトソンとF.クリックによるDNAの二重らせん構造の解明を基礎にみごとな展開をしたことは衆知の通りである。20世紀後半を分子生物学の時代と名づけ、21世紀に入っても科学の中で重要な役割を期待することは、多くの人が認めるところだろう。

ただここで気になることがあるある。DNA研究を中心にした分子生物学が今後も学問として興味深い展開をしていくであろうことは、私も認めるし、個人的な感覚を述べることを許されるなら、何が分かるだろうという期待に満ちている。しかし、現在のような分子生物学がそのままの姿で進んで行き得るか、また進んで行ってよいかと考えると、そこには疑問が生じる。というのは、現在の分子生物学は、ボーアの言った二つの相補的な視点の中で、一つの視点、「物理や化学の言葉を使って説明される因果関係の解明」が取り入れられているだけだという点である。現代科学は、基本的にはすべての現象を物理的世界、つまり物質の因果関係の世界に還元することを目的にしてきたのだから、生命現象をDNA、とくに遺伝子という単位に還元できれば、科学としての勝利といえる。しかし、それが正しい方向だろうか。これが私の問であり、答えは否としたいのである。

そのような判断をするのに、二つの理由がある。

第一は、学問的な理由だ。すでに述べたように分子生物学の現状を見ると、明かにそれは転換期にあるという認識である。詳細は後述するがボーアの言う第二の視点つまり、人間の歴史の中で培われた視点が登場しているのだ。

第二は、社会的な理由である。分子生物学の成果は今や技術と結びつき、薬品、農業、食品などの産業や医療に影響を与えている。その有用性は重要なことだがそれと同時に安全面、倫理面などの問題も出ている。

分子生物学と社会との結びつきは、技術に止らない。生命観・人間観・自然観などに大きな影響を与えている。もし、分子生物学が単にDNAという物質による生命現象の解明のみを目的とするものであれば、そこからは還元論的で決定論的な生命観しか生まれない。今変化しつつある分子生物学からは違う生命観が生まれるはずであり恐らくその方がわれわれの知的世界とは日常世界とをより豊かな、大らかなものにしてくれるに違いないのだ。

そこで私は、まず何よりも、分子生物学と社会との間の問題を語るならその前提として、今転換しつつある分子生物学の姿を明かにし、その方向へ学問も社会も動いていく努力をするという認識を共有したいと思うのである。

1970年代の組換えDNA技術、ヌクレオチド分析技術、そゐ後の逆転写酵素の利用やPCR法の開発など、次々に生まれたDNA操作技術により人間を含む真核多細胞生物のDNAの研究は急速に進展した。発生・分化、免疫、脳神経系など多細胞生物に特有の高次機能も、DNAのはたらきから解明されつゝある。また数々の遺伝病やがんなどの内因性成

人病に関する遺伝子が次々と単離、同定されその機能も明かにされつゝある。

その間、大腸菌を用いた分子生物学の時代には予想もできなかったDNAの姿、細胞の様子がわかり、新しいことが分かるたびにまた次の問が生まれるという状態が続いている。学問としては最も活気ある状態と言ってよい。

しかし、そのような中で明かに一つの転機が来ている。それは、個別の遺伝子を分析する時代ではないという事態である。1986年、ダルベコが「サイエンス」に発表したゲノムへの挑戦の時代を予測する論文が多くの人の共感を呼んだことは、それを現している。そして、実際に世界的な規模で「ヒトゲノム解析計画」が動いていることは衆知の通りである。

ところで、一般には、ゲノム計画は、遺伝子一つ一つの分析を効率よく進め、遺伝子を大量に解析してしまうこと。その過程で得られる有用な遺伝子を産業や医療に活用していくことと受けとめられている節がある。つまり、じゅうたん爆撃的な遺伝子解析というわけだ。研究者にもそのような考えてこの計画に参加している人もいる。

しかし、ゲノムは単なる遺伝子の総体ではない。「ゲノム」という単位が研究の対象になったために、分子生物学の性格そのものが変化したと言ってもよいのである。遺伝子からゲノムへの移行の持つ意味をていねいに追いかけよう。

遺伝子ではなくゲノムを単位とするということは、どのような意味を持つかを考えてみよう。ゲノムとは、個体を構成する細胞の核内に存在するDNAの総体をさすわけで、ここにある情報があれば、生物としての個体を作りあげることができる。ゲノムが働くとは、その中にある多数の遺伝子が相互に関係し合いながら一つのシステムとして機能することである。遺伝子は一つのタンパク質を合成するものだが、ゲノムは一つの「個体」をつくりあげるものだ。

日常生活の中でわれわれが生物を見る時、何を単位とするか。タンパク質ではない。やはり個体だろう。ここで、最初に問題にしたミクロとマクロ、学問と日常の乖離が解消する可能性が見えてきた。DNAというミクロの世界そのものからでき上っているゲノム。しかし個体を表現するものであるゲノム。ここには新しい生物学を産み出す可能性があると直観せざるを得ない。

ゲノムを基礎にするとどのような生物学になっていくか。それが生命科学と社会との関係をどのように変えていくか。それを述べよう。

V. 生命誌の提唱

ゲノムは、すでに述べたようにDNAという分子であり、1個の細胞を作る生命の単位であり、個体をつくりあげるものであり、種を決めるものである。つまり、生きものの階層を貫くものである。では、これはどのようにしてできたか。今ある生きものの中にあるゲノムは、その親から伝えられたものであり、その親のゲノムは…とさかのぼると生命の起源に行きつく。つまり、ゲノムは歴史の産物であり、その中に地球上の生命の歴史がかきこまれているのだ。

これを解読する作業一具体的にはゲノム解析、発生や進化の解明など一を行なうことにより、生きものの本質その中での人間の位置が見えてくる。これが21世紀の生命観・人間観・自然観の基本になるだろう。

ゲノムを単位として、その歴史を読み解き、それを生命の歴史物語として描き出す学問(具体的研究作業の多くは分子生物学になる)を”生命誌”と名づけて提案し、活動を始めている。幸い、生物学だけでなく哲学・芸術・歴史・文学など多くの分野から関心が寄せられ、一つの新しいパラダイムを形成しつゝあると思う。

生命誌では、明かに生命について、「人間の歴史を通じて生きものとの関わりから形成されてきた概念(日常でマクロ)と物理や化学の言葉を使って説明される因果関係の解明とが融合している。これはミクロとマクロ、学問と日常をつなぐだけでなく、従来の二元論を越えて、分析還元と総合、などの視点を統合する。

ここに20世紀初頭に見えて来ながら、現実的に新しいパラダイムとなり得なかった分野が姿を見せたと考えてよいのではないだろうか。

VI ボタンをかけ直そう–生命誌研究館の活動

科学と社会、学問と日常を対立するもの、お互いに違う価値観を持つものとして捉え、その間の摩擦をなんとか少なくしていこうという努力が、”科学と社会の間の問題の解決法”とされてきた。ここで、視点を変えてみたらどうか。それが今回の私の提案である。

事実分子生物学に起こりつつある変化と、社会の要求の変化を踏まえて、新しい方向が探せそうになっていると思う。

ここで行なうべきことをまとめてみよう。

一つは、社会の価値観を見直すこと。効率重視で生命軽視の状態から生命を重視する社会に移行することである。2つめはそのような価値観を共有したうえで、科学者と専門外の人々との話し合いで、新しい技術を使う時の手続きを決め、それに従って、行動する。つまり、価値観の見直し、価値観の共有、わかりやすい手続きの三つが不可欠なのだ。

今回私はとくに価値観の変換と科学者と専門外の人の間の価値観について、分子生物学者は、今次のような提案ができる。

(1)分子生物学が明かにしつつある新しい生命観・人間観を社会と共有する。たとえば、DNA研究は、地球上の全生物は皆共通のメカニズムで動いており、一つの祖から生まれた仲間であることを示した。これは人間を多様な生物中の一種と位置づける重要な視点である。人間の行動がこの認識のうえにおこなわれれば、環境保護と開発とのバランスをとることも可能になるはずである。

(2)科学だけが自然や生命を知る唯一に方法ではないという認識をもつ。科学は、 真実という絶対を明かにする方法のように受けとめられているが、生命について考える時に、哲学・文学・宗教など、さまゞな知があり、生命科学はそれら多くの知の中の一つで あり、しかも他の知とお互いに融合して総合的な生命観を作りあげていくものだという位置づけが必要である。科学は人間の外にあり、知として一人歩きするもののように扱われているのは間違いだという感覚は、生命研究をしていると実感として生まれてくる。

(3)生命科学で現在行なわれている研究の内容を伝え、生きもののふしぎへの興味を 共有する。

このような価値の共有があって初めて科学と社会の間で納得のいく話合いが可能になり、意味のあるアセスメントができるだろう。

ここで強調したいのは、生命科学ではこれら三つのことが、今できるようになっている、というよりそれが非常に重要になっているという認識である。先の5つの例で示した科学と社会の間に横たわる問題点も、このような状況の中での解決を探れば、よい解答が得られると信じる。

このようなことを具体的に行なう場として、1993年4月、「生命誌研究館」を大阪府に設立した。

ここでは、生命誌の研究を行なうと同時に専門外の人に公開して、価値を共有する活動をしている。研究館は科学のコンサートホールをめざす。科学を音楽のように演奏し、知識としてだけでなく感覚として生命の理解を共有する場である。 研究成果の解説・展示、科学者や科学研究を紹介するビデオ、コンピュータ・インタラクティブ・ソフトを用いた画面上での実験、実験講座のレクチャーなどさまざまな活動を行なっている。政治・経済・学問などさまざまな分野の人々、21世紀をになう若者、子供たちが生命の本質を知って欲しいと思うからである。 このような活動を通して、生命を尊重し、人間の人間らしさを生かしながら、なお多くの生物と共に生きていく社会づくりの基本を構築していきたいと願っている。


Dept. of EThics <ethics@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>

Last modified: Tue Sep 22 04:57:34 JST 1998