DNAマッピングをめぐるゲノム学と優生学

DNAマッピングをめぐるゲノム学と優生学

保木本一郎

東京の小さい私立大学の法学部で憲法と行政法というジャンルで勉強している者です。憲法ですと、学問、研究の自由という憲法で精神的な自由として最も保障される人権があるのですけれども、これは教会によって閉じ込められていた知が解放されて、なにものにもとらわれない無制約な発展と無限の展開を保障されてきたかに見えるのですけれども、どうも最近のことに核の研究とか、さらにはバイオ、今日申し上げるヒト・ゲノムの解明といったようなことに伴ってですね、知そのものに無限定の自由というものがはたして認められるのかどうか、ということを我々憲法の仲間、公法の仲間に若干問題を提起しているわけです。今日、ELSIについて、ヒト・ゲノムの話をいたしますけれども、これはやっぱり知そのものに、ethical legal and social implication というものが考えられるのではないか、というふうなことが我々の出発点になるといえるのではないでしょうか。

そのような形で私は素人ですけれども、レジメにそってヒト・ゲノム解析計画というものを若干おおざっぱですけれども、お話しをさせていただきたいと思います。

最初このヒト・ゲノムの計画が、NIHから提起をされたということは理解が非常につくんですけれども、どういうわけか先ほどの御報告にもありましたように、DOE(Department of Energy)が当初から深く関わってきているという点は一体何なんだろうか、ということをお話しをしなければなりません。エネルギー省は、その前身が原子力委員会(AEC)であったわけですけれども、この原子力委員会は日本に原爆を投下した直後から、その放射能の人間の遺伝に与える影響というものについて深い関心をもったわけであります。1984年 Alta というスキー保養場で、この核兵器関係の科学者たちが会合いたしまして、広島に落とした原爆の生存者による遺伝障害を確認するのには、どのようなデータと被験者がいるのかということを話し合い、一世代あたり、10-8という突然変異の確率があるため、この正確な情報を得るためには、50億の被験者を必要とするというふうに推定をしたわけであります。この時点でこのDOE、エネルギー省が中心になって、NIHとは別の角度から人間の遺伝子の解読、これは当然、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC(原爆傷害調査委員会)という機関が関与することになった。ここで投入される資金は、これはアメリカで計画されておりました超伝導の衝突装置、super conductor とか super corridorという計画があって、これが80億ドルかかるため、資金難で中止になった。一方ゲノム計画はご案内のように30億ドルのコストがかかると予想されているわけです。それでこのDOEがゲノム計画に引き込まれたもう一つの要因は、これはレーガン時代の軍事研究のいわゆる zeal が色あせて、一種の平和的な転用ということにおおきな関心が移ってきたわけです。例えば、ニュー・メキシコ州出身の上院議院議員のドメニケイという人がいますけれども、これはサンディエゴとロスアラモスの核施設が彼の選挙区ニュー・メキシコ州にあって、15000人の従業員を抱えている。それで結局DNAのこのプロジェクトへの支援は、失業した爆弾製造者 unemployed bomb makerへの支援プログラムであるというふうなことさえも言われるような話になってくるわけであります。最初から非常になんかこう耳障りな言葉で話を始めることをお許しいただきたいと思うのですけれども、まあそういうことがあとで申し上げる(8)の軍事利用との関係で若干関係をもってくるのではないかというふうに考えているわけであります。

次に eugenics の思考回路について、これはすでにご案内のことで、私がくどくど申し上げる必要はないのでありますけれども、若干コメントをさせていただきたいと思います。遺伝学の情報をもつ社会的な権力と、その権力の乱用の可能性ということを当然考えなければならない。後で申しあげますように遺伝学の歴史的乱用の大多数は、人間の才能や能力をはかる場合に、発生的な特質 nature の方が、後天的な遺伝の素因の修飾、変えていく因子 nurture よりも重要であるという誤った考え方がかなり色濃く歴史をたどるわけであります。genetic という言葉は、inevitable メ免れ難いモという意味に解釈をされる。そしてやはりこの遺伝情報をもつ権力による劣悪な遺伝子の所有者の社会的な無能力 impotence を強調する傾向が当然歴史のなかで隠然としてある。これはやはり我々が見逃すことのできない点ではないかというふうに私は考えているわけであります。それで遺伝学の問題は、ナチスにおいては、そこへ書きましたように Erbpathologie 遺伝病跡学というかたちで、ナチスの医学を支えるものとして、理論化をされたわけですけれども、実はこれはナチスの医学がメンゲレとかいろんな人によって、あるいは刑法学で言いますと、ビンデング、ホッヘの、生存に値する人間とそうでない人間のふるい分けという大変なホロコーストに結びつく差別が行われる前に、第一次世界大戦後のアメリカで、メ書かれざるアメリカ史メといわれている、優生学が非常に乱用されたケースがあります。1923年のアメリカの移民制限法をめぐって、時の大統領が議会でアメリカの民族が移民によって、民族のるつぼというかたちで劣悪化していく。何とかしてこれを阻止しなければならない、ということでいろいろなかたちでの移民制限が議論をされ、悪名高き移民制限法 immigration restrictive act が制定される。それからご存じのように、オーナイダコロニー( ohneida colony )というまた非常にばかばかしい計画があって、人間の遺伝学の将来に殉職をするということを誓った数十名の男女がオーナイダコロニーで共同の一種の乱交生活を行って、優秀な子孫を作ろうとした。ノイスという人のproject ですけれども、これがみごと失敗に終った、といったようなことをどうしても忘れられない、そういう歴史になって、私たちにはそういうものとして、どうしても eugenics の乱用の歴史を無視することができないということになるわけであります。

ナチスの遺伝学者は戦後ほとんど究明されることなく、石井部隊がそうであったと同様に、ナチス時代の民族衛生学 Rassenhygiene は、今度は別の遺伝学年報とか、社会生物学といったようなかたちで糾弾されないまま、ドイツではそれが遺伝学の主流をなしているとかいわれているわけであります。それで日本はともかくとして、ドイツのアプローチというのは、いろいろな箇所でも書きましたけれども、Embryonenschutzgesetz (胎児保護法)、胚子とか、あるいは受精卵の研究というものが、ナチスの行った人体実験の暗い影をその上に重ね合わせて、Embryonenschutzgesetz では、受精卵を操作しますと、懲役7年とか、そういう非常に強い刑罰的な姿勢で対応されているということも皆さんご案内のとおりであるわけであります。

時間もありませんので、ヒト・ゲノムのELSIについて、若干お話しをする段階で、神を演じることになる(playing God)ということと、perfect baby の論点をお話しをしてみたいと思います。ヒト・ゲノム計画にたいしては、推進をする側ももちろん、遺伝病の診断とか、いろいろな真理がそこで見出されるのではないかというメリットを論ずる人もありますけれども、ある立場の人によりますと、例えばネイチャーにあてた、ワルシュとマークの書簡によりますと、ゲノムの sequencing は、シェークスピア全集を楔形古代文字に翻訳したと同程度の意味をもつにすぎないのではないか。それで、完全にして包括的な遺伝子地図を作成するには、遺伝情報を全くもたない junk も調べあげなければならないのであるから、むしろ生物的な関心があるとして認知されている、全ゲノムの分析ではなくて、部分的な地図作りを先行させるほうがよいのではないか、というふうな指摘をしている学者もなかには少数派ですけれども見られるということであります。

我々が憲法とか、いわゆる学問研究の自由という見地から考えますと、やはり人間の尊厳ということ、これは憲法ですと、日本国憲法ですと13条ですし、ドイツの基本法では1条の2項ですが、Menschenw殲de ということをどうしても抜きにしての研究の独走ということは、非常に抵抗感をもって公法学では感じるわけであります。

どうも、デュカの魔法使いの弟子のように、専門家が真理の究明と称していろんなことを徹底的に推し進めているのではないか、これはmeddling おせっかいな干渉、という言葉がありますし、tinkering いじくりまわし、あるいは禁じられた果実をあえて食べてしまうのではないか、という批判があります。この批判をするのはジャーナリストでありますが有名なリフキンでありまして、ここでは、ひとが遺伝子の解明もふくめていじくり始めると、何人かはまり込むことになる。slippery slope に踏み込むことになる。最初はハンチントン舞踏病や、ミトコンドリア病の解明であったものが、次は平均身長以下であったり、あるいは平均運動能力以下の人間に向けられ、ついには左利きの人にまで及ぶ・・・そのほかに何がでてくるかだれも知り得ない、といったような、これは多少、まあ杞憂にすぎないとも思われるわけですけれども、こういう批判も市民のサイドから当然出てくるはずであります。

それと同時に、perfect baby の追求ということが、遺伝子の解明を行っていく過程で出てくるのではないか。これはあとで申し上げる social stigma, 社会的烙印という問題ですけれども、それを憂慮する人は、ゲノムの解析が、ちょうど、歯列を矯正することによって子供の歯を並び替えるように、子供の遺伝子を homogenize することを我々に義務づけることになるのではないか、ことに、中国でも一子制度ですし、だんだん子供を産む数が少なくなってきますと、perfect baby syndrome という現象が出てくる。で、quest of perfection をかきたてる、ということになるわけですけれども、やはり、完全な子供を産むまでは胎児を次から次に(fetus after fetus)中絶をする、といった選択を両親に与えることになるのではないかという話も、あながち杞憂とは言えないと思います。完全な遺伝子配列が全部分かりますと、胎児診断でどの染色体に欠陥があるかということが、これは後で申し上げる、ハンチントン舞踏病を始め、ダウン症は、いま木田先生がおっしゃったようにもうそのような危険はないと言いますけれども、ミトコンドリア病とかゴーシス病とか、そういったような病気につながる欠損がある場合の中絶ということになっていくのではないかと思います。それで、建前としては障害がある子供と一緒に生きる幸せ、ということを言いますけれども、本音とすればやはり、どうしても人間は弱いものですから、より完全な子供を産みたいというふうに思うかもしれません。で、完璧さというレトリックは、同時に、slippery slope というレトリックと溶け合うわけでありまして、遺伝的完全主義は、社会的に好ましくないものの撲滅につながり、これに社会的に異常なものとして烙印を押す危険性があるのではないか。

治療法のない病の診断、これは木田先生がおっしゃったことに尽きると思うのですけれども、例えば四十代で発病して治療方法のないハンチントン舞踏病が探知をされる、あるいは新生児で探知をされるとしますと、診断された人は、未来をじわじわとむしばんでいく病が絶えず待ち伏せている、await しているのだという、非常に悲劇的な知覚、これは毎日毎日がラシアン・ルーレットの連続になるわけですけれども、そういうものをいやというほど絶えず持ち合わせながら生きていかなければならないといった問題が出てくる。これが、治療法がないのか、あるいは将来技術が発達しても、不治であったと思われる遺伝病が治るのかどうか(まあ遺伝子治療はともかくとして)はよく分からない程の探知の問題なのです。このような場合、知った知識、知ることの無意味さといったような、あるいは告知の問題と深く死の世界でかかわってくる問題になります。

やや網羅的ですけれども、この場合の社会的な不公正について若干コメントをさせていただきたいと思います。1980年代ごろにマークとシャープがB型ウイルスの肝炎に対する世界最初の遺伝子操作によるワクチン製造を成功した訳ですけれども、この高価なワクチンは、アジアの貧しい人々は購入することができないという批判が強く提起されました。遺伝子治療にしても、それはなるほどすばらしいことかも知れませんし、技術の開発、お金がかかっても、真理のためには何としてもやるべきである、ということはあるのですけれども、限りある資源とお金を効果的に全地球で生きている人々に適正に分配していくということを考えますと、やはり第三世界の問題というのがいかがなものであろうか、というわけであります。

ヒトゲノムの解明に伴う patent の問題も、これも学問の研究を、patentを取った人が結果としてブロックすることになるのではないかという大変な議論があります。これはご存じのようにチャクラバティー事件で、原油を分解するシュードモナスバクテリアを開発したGEの医師に対して初めてアメリカの特許庁は特許権を与えた訳ですけれども、これがどんどん商業化されて、人間のゲノムの sequence 解読に特許権を申請しようといったようなことがある。そこで、お金の問題は、誰が利益を得るのかという疑問を常に引き起こします。ゲノム解析によって誰がどのような利益を受けることになるかに関してはまだ十分に解明されていないのではないかと思います。遺伝サービスのアクセスへの差別がある、カウンセリングの費用は誰が支払う義務があろうか、という差別の問題になってくると思います。遺伝子の研究よりも、食品や薬品の品質管理、環境の汚染防止、職場の安全と健康の規制の方がはるかに大多数の市民にとって肝要なのではないかという指摘もあるわけであります。

社会的烙印について若干申し上げますと、これは東欧系のユダヤ人であるアシュケナージに多いテイ=サックス病であるとか、あるいはベータ・サラセミアといったような病気が、一定の人種に発生するが、これがマラリアに対する耐性があるという自然の配慮からそういう疾患があるということもよく知られた問題であります。この stigma の問題は、法的には、産む権利をめぐっていわゆる法的な判断と結び付くわけですが、ここでは告知を十分にしなかったため、不都合な子供が生まれて来たために、wrongful birth として、自分が産まれてこなければよかった、という訴訟を子供自身が医師に提起をするという、とうてい考えられないような新しい、あるいは多少珍奇な訴訟が出てくる。そういう子供を産んでくれた親もけしからんけれども、共犯者である医師にもかなりたくさんの損害賠償をぶつけるわけです。こういうことで、遺伝的スクリーニングの立法というのは、アメリカではニクソンの保健政策が元で、そういうスクリーニングの法律が誕生し、それがまた新しい差別を生むという問題が出て来た。

就職と保険における差別についてお話し致しますと、これは鎌型赤血球症事件といわれている1970年代の事件があります。これは、鎌型赤血球の因子をもったアメリカ軍の4人の黒人のパイロットの死亡が報じられたあとで、超高層に上がって行きますと鎌型赤血球の因子をもっている人はいろんな形で航空機の操縦をうまく行えなくなるということで、そのあと黒人社会に対して、鎌型赤血球のスクリーニングが一斉に開始され、そして、アメリカの国防省では当面の間黒人を、広く一般的に、因子をもっていようといなかろうとパイロットの対象から外す、という方法がとられました。しかしながら、どうもこれは1973年の初頭、マークという人が必死になって黒人の人権のために研究をしたわけですけれども、全米フットボール協会所属の黒人のうち7%がこの因子の保因者であったわけですけれども、高地にあるデンバーのスタジアムで、フットボールの試合をどんどん行ったわけだけれども、決して成績が劣ることはない、ということを調べあげているわけであります。黒人が不当に病変のある人種だとして差別されることを、彼は必死になって研究してその汚名をそそいだということになります。

さらに、保険加入の可能性 insurability については、このアメリカの有料の保険制度の下では、疫学的な点検表 epidemiological table の作成が急がれています。これは、年齢とか、居住地域、血中コレステロールといったようなものの外に、エイズの検査を義務づけ、陽性と分かれば入りたい人を排除し、そしてどうしても入りたい人に対しては制裁的なレートpunitive rates を課す、といったような話になります。遺伝データは、まもなく保険会社が保険料を算定する場合の非常に大きな情報になるだろうと思います。アメリカの会社はまず手初めに、5つぐらいの–ハンチントン舞踏病、テイ=サックス病、鎌型赤血球症、アルツハイマー、嚢胞性繊維症—のテストを行おうとしておりますけれども、検査費用が軽減するとともに、新しく12種類の遺伝病テストの開発を施行しているようであります。こういう問題があって、アメリカで「障害者法」という法律がありますが、これは伝統的であった就職前の健康診断を disabilities act によって禁じるようになりましたけれども、これがどういうことになるのかというのは今後もう少し考えなければならないことであります。

冷戦構造の中で、軍事利用をめぐる問題は色あせましたけれども、先ほどDOEとの関係、AECとの関係で若干コメントするならば、レーガン時代の bio defence program に九千万ドルの支出がなされている。これはいろいろな生物兵器を組み換え遺伝子等々で作って行く。で、非常に問題になったのは、バレーフィーバーという渓谷病がカリフォルニアのサンジョーキン渓谷にありますけれども、これは白人よりも黒人の方がはるかに被患しやすいという事実があって、そこで特定の民族をたたくethnic bomb、民族爆弾といったようなSF的な計画さえペンタゴンでは考えられている。

もし生物学が物理学を凌駕して二十一世紀の核になるという指摘のとおりであるとしても、もしこの軍事転用のチェックができないとするならば、全米の連邦研究資金の70%がペンタゴンから出ているわけですから、science of life が science of death の手助けをするということになってしまいます。

最後に、determinism の話をしたいと思います。ワトソンはヒトゲノムの計画について、「かつて我々の運命はこの地球という星のなかにあると考えられることに慣らされていた。今や、我々の運命はそのほとんどがまさに我々の遺伝子のなかにあるのである Our fate is in our genes」というふうにはっきり述べている。そうすると、 nature の方が nurture より優先するという考え方が優生学の歴史で濫用されたということが言われるわけですけれども、多くのガンの研究がすすむと、先ほどお話しのあったようなガンの遺伝子、乳癌と肺ガン等については、さらにはいろいろな、回腸ガンとかも、かなり遺伝子の欠陥ということが—欠陥なのかどうか先ほど議論になった所ですけれども、まあでてくる。もし発ガンの、肺ガンの原因が遺伝子に起因するのだとすると、結局この1930年に10万人に5名であった肺ガンの発祥率が1985年には15倍の10万人中75名に高まっていることは、やはり環境の影響、mutagen というものがどうしても深く発病には関わってくるということを否定することができない。で、黒人が白人に比べてガンが多いというようなことが一時期遺伝学的にまことしやかに言われたわけですが、どうもこれは貧困が大きな原因になっているのではないかという指摘も出てまいりました。そうすると、この、nature の方が nurtureより優先をするという決定論は、やはり、この、我々が得た、欠陥をもった遺伝子があったとしてもこれを必死になって教育とかいろんなことで生き抜いて行くという人間の真摯な努力というものを決定論はどうも踏みにじってしまうのではないだろうか。危険なことは、企業がすべての従業員の危険を増大させる就労環境を浄化しないで、病に最もかかりやすい因子をもった従業員をスクリーニングし、これを排除するということに企業のメンタリティーが向かうとするならば、大変不幸なことになってくると思います。わたしは自然科学のことは余りよく分かりませんけれども、素人としてやはりこういう感想をもつわけであります。

最初に申し上げました、教会によって、あるいは国家によってとらわれの身となっていた学問が、その幽囚の理性が解放されて無限の展開をはかってきた、それが人間を本当に幸せに、今まで導いてきたかに見えるんです。科学技術の展開、肥大化とともに、知の水平線のかなたに、 知ってもどうにもならない、悲劇につながる、そういう知がぼつぼつ登場しかけているのではないかというような強い不安を、我々、法学の一部の者は最近もつようになってまいりました。学問研究の自由、という憲法上の精神的な自由が、どういう形で統制できるのか、わたしはこれを「知りすぎる知の統制」ということで本の副題で論じてみたわけですけれども、憲法学がようやくにしてそういう領域について作業を始めたのだ、と。しかし、ここではですね、最後に書きました、先程の先生方もおっしゃいましたけれども、どうしても、知らない知、知らされない知、調べ尽くされない知といったようなものがあるのではないか。トマス・アクィナスという中世の神学者が、prudentia と prudentia falsa という二つのものを峻別しております。アリストテレスのニコマコス倫理学をうけたトマス・アクィナスは、この、功名心、貪欲、欲望にかられた一番のりを目指す知恵というのを、一見本当の知のように見えて、そしてそれは人間をいいところに導こうとしているように見えるのだけれども、それは偽の知だ、prudentia falsa だ–慎みのある、 節度のある、 そして徳を持った知、徳の星座のなかにある知でないと本当の知ではない、ということを言っていることを最近ようやく知って、いま私はトマス・アクィナスを少し勉強しているところなのですけれども。まあ、そういうことで私は『遺伝子操作と法』という本を書きましたら、ある高名な医学の教授から、「お前の言っていることはわからんでもないが、人権を主張し過ぎると科学の進歩が止まる。それは困る。過剰な人権は科学を損なうことになるから、そこを考えてほしい」という手紙をいただきました。我々憲法学でいうと、過剰な人権という考え方は、これは、全く問題にならないわけです。あるいは、今日を含めて、私の言っていることが第一線にあって、バイオを推し進めようとなさっている専門家の方に非常にこう不協和音に響くかも知れませんけれども、それは私も十分考えさせていただきますので、忌憚なく御指摘下さい。・・・失礼ながら、時間となりました。


Dept. of EThics <ethics@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>

Last modified: Tue Sep 22 05:23:56 JST 1998