16 情報化時代の倫理的・社会的問題

J. M. キッツァ

出典

Joseph Migga Kizza, Ethical and Social Issues in the Information Age, Springer-Verlag, 1996, "Preface" and "Morality and the Law."

1 序章

ようやく誕生から五十年が過ぎようとしているコンピューター・テクノロジーは、人間社会を大きく変化させた。コンピューター革命は、静かにしかし確実に、われわれ人間に影響を及ぼしている。大小の各団体やあらゆる階層の人々が、以前よりもますます情報というものに頼ってきている。

しかしながら、経験が概ねはっきりとしたものになってくると、倫理的・社会的トラブルが注目されるようになった。たとえば、コンピューターの技術的発達はわれわれの法制度の許容範囲を超えてしまい、またセキュリティー・プライバシー・誠実性・自己責任・匿名性・所有権などの以前からある倫理問題は、今日の高い技術的環境によって大きな影響を受けている。

もし、これらの懸念をタイムリーに診断し処理することが叶わぬならば、それらの問題は処理不能なものとなり、いずれは人々の生活に大混乱を与えることになるだろう。

伝統的な倫理的・社会的問題の上に成り立つコンピューター・テクノロジーの影響を分析する必要が急務なのである。そのためにまず、個人と公共の道徳と法とは何か、道徳と法そしてこの両者の関係の検討と定義づけを行ってみたい。

2 道徳と法

人間はそれぞればらばらに生きているわけではなく、あるスクリプト---ライフ・スクリプト---に従って生きている。そのスクリプトの中には、食べたり寝たりといった生き死にに関することや、特殊な役柄に関することまで無数の内容を持つ。たとえば、見知らぬ人と出会ったときにあなたが従うスクリプトと、久しぶりに友人と出会ったときに従うスクリプトとは異なる。すべてのスクリプトの最も重要な目的は、人間の生存ということである。

われわれは幸せになるために、幸福の創出、つまり生命・自由・財産を保持するという状態を必要とする。そのような状態は、三つの基本的な人間の生き死ににかかわるスクリプト---道徳・倫理・法---によって具体化される。そこでまず道徳と法からみていくことにする。

2.1 <道徳>

道徳(Morality)とは正しい行為の法則のまとまりであり、われわれの行動を規制したり修正したりするひとつのシステムである。道徳は共有されているひとまとまりのルール・原理・義務であり、宗教からも独立しており、ひとつのグループや社会の構成員に認められているものである。われわれが社会の中でふるまうたびに、その社会の過去の人々によって発達させられてきたモラル・スクリプトに従ってわれわれは行動している。道徳とは領域性かつ文化性を基礎にもつものなのであり、その社会の中で生活すればするほど、われわれはその社会のモラル・スクリプトにしたがって生活する義務がある。

道徳がそれぞれの社会の構成員のあいだで分け持たれたものであるとすれば、特定の社会とらわれない普遍性が要求されてくる。それが道徳理論(Moral Theories)である。

MacDonnelによれば、道徳理論とは「道徳への考察に合理性と厳密さを導入しようと努めること」と定義される。道徳理論は道徳への考察に厳正さを導き、それらの価値や矛盾を理解するよりよい手助けとなる。

また、道徳理論とは別に、ある集団のメンバーの適切な行動のためのルールや規範として道徳的規範(Moral Codes)がある。道徳的規範とはある集団内だけに分け持たれるふるまい方である。たとえば、Unixユーザーのルールとして、

というのが、道徳的規範にあたる。

道徳的な罪の意識は、個人や社会の内に確立されている道徳的基準(Moral Standards)に背いた行為をしたという個人的判断や処罰によって成り立つ。もし個人が道徳的基準にしたがって「悪」と判断した場合、罪の意識が活発になり、自分からも他者からもその行為を隠そうとする。この個人的判断のシステムは、独立した基準に基づく行為の善悪を判断する確かな方法がないということから引き起こされている。個人の基準は普通、集団の基準に基づいて判断されている。

2.2 <法>

英語辞書によると、法とは習慣によって認められた行動のルールである。もしくは公的に制定された行動のルールである。黒人国家は、法はわれわれが創造し形成することができるひとつの芸術であるとし、同時代の批評家は、法は権力行使の道具であると定義づけている。Bryan Bournはこのふたつの定義を結びつけ、法とはひとつの芸術でもあり権力行使の道具でもあるとした。

われわれは二種類の法をもっている。すなわち自然法と実定法である。

自然法(Natural Law)は不文律であるが人類に共通の法である。James Donaldによれば、自然法は人類や世界の自然の状態から必然的に発生したもので、自己防御の権利や個人的財産の権利などによって成り立っている。したがって、自然法を越えて支配権のある実定法は皆無であり、自然法は政府のような権限によって制定された実定法よりも価値的に高い位置にある。自然法はプラトンやアリストテレスの時代から知られていたが、明確に概念化され定義づけられたのは、十三世紀の哲学者であり神学者でもあるトマス・アクィナスの功績が大きい。

一方、実定法(Conventional Law)は、国家の立法府において公的な協議を経て、人間のために人間によって作られたシステムである。それは強制力のある一部の道徳的規範から作られ、それぞれの社会やそれぞれの文化によってさまざまに変化する。実定法と自然法は、これらの法によってカバーされる集団の生命・自由・財産を保護するということが目的である。

2.3 <道徳と法の関係>

社会の実定法は、その社会の信念となっている道徳によって決定される。この点に関しては二つの意見がある。自然法の支持者たちは、もしその実定法が道徳の確かな規準に基づいていれば、それは妥当であると述べている。それに対して自然法に反対する者たちは、道徳に基づく実定法の妥当性について信用しない。しかしどちらの立場であっても、道徳と法のシステムは、安定的にそして安全に社会を維持するという目的に奉仕するものであることは間違いない。

誰かが溺れて必死に助けを求めているとして、それを楽しみながら見ているという構図をイメージしてみる。その行動は、忌むべきものでかつ不道徳である。なぜなら、道徳は人間の生命を維持するものだからである。しかしながらこの行動は、法を犯してないために不法行為ではない。溺れるのを見る行為は犯罪であるという法はどこにもないからである。また、ある社会の条例で、未成年の暴力行為の対策として十代の人間に門限を強いるという政策をとったとしよう。そのような社会において、十代の人間が門限時間以降に危険を冒して外出することは違法になるが、道徳的でないというわけではない。

では次に、コピーとインターネットで猥褻画像を交換することを考えてみる。そのような画像は女性と子供の品位を貶めるだけでなく、レイプなどの犯罪を助長することにもなりうる。しかし多くの場合、このような行為は合法なのである。

このような例は、たとえ道徳と実定法が人間にとって必要不可欠なものだとしても、ふたつはまったく同じ領域に跨っているわけではないということを意味している。人々の自由はしっかり守られているのだが、法律上のシステムが曖昧としているという例は無数にあるのである。


(鶴薗健氏)
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