18 教育は社会のコンピュータ倫理問題を解決するか?

J. M. キッツァ

出典

J. M. Kizza, "Can Education Solve Society's Computer Ethics Problems?" in Joseph Migga Kizza (ed.), Social and Ethical Effects of the Computer Revolution, Springer-Verlag, 1996.

1 教育は社会のコンピュータ倫理学の問題を解決できるか

始めに、コンピュータの発展によって何らかの問題が生じる可能性があり、それに対する対策が必要であることが論証されている。まず始めに、テレビジョンの導入によって発生した今日の状況を見れば、コンピュータの導入が何らかの問題を生じるということは明らかである。すなわち、テレビジョンは、導入された当時は驚嘆とともに受容され、すぐに合衆国全土に広まった。しかし私たちは、テレビジョンのもたらす危険性を全く予想していなかったので、導入されてから50数年後、テレビジョンはこどもたちに悪影響を与えるという結果を生み出している。そのような問題に対策を求める声は、小さすぎ、また遅すぎるものであった。そうして、テレビジョンと同じく人類にとって魅惑的な魔法であるコンピュータも、テレビジョンと同じ道を歩もうとしているというのである。

しかも、コンピュータは、以下の七点の理由から、テレビジョンと違って一度にたくさんの人に、無限の、しかも破壊的な影響を与える可能性をもっているとされる。その七点を、ほとんど直訳になった部分もあるが列挙しておこう。

さらに、コンピュータとテレビジョンの導入による社会の変革に限らず、どのような社会的変革でも、何らかの問題を生じることが明らかであるということは、これまでの歴史の流れの中から見て取ることができるという。すなわち、コンピュータやテレビジョンに限らず社会的変革というものは、すべて以下のような三段階を経るものであるとされるのである。

  1. 初期の段階……驚嘆の時代
  2. 中期の段階……繁栄の時代
  3. 末期の段階……社会的大変動の時代

このような三段階は、上に述べたテレビジョンの導入や産業革命の際にも見られ、コンピュータによる変革についても、1、2の段階を経て3の段階に入る傾向が見え始めている。

こうしたことから、コンピュータの導入によって何らかの問題が生じるということは明らかということになるので、次のような問題提起がなされ、その問題について若干の考察が加えられることになるわけである。その内容は次のようなものである。

すなわち、私たちは3の段階の大変動を少なくするために、何をしなければならないのか、或いはそのような大変動を快適なものにするために、何をすればよいのか。ただ、このような努力の際には、変革による影響がどのような領域に大きな影響を与えたのかをはっきりさせておかなければならない。(産業革命の場合、この領域とは失業者が集まった貧民街である。)コンピュータによる変革が影響を与えた領域は、他の変革とは違って仮想の領域である。ネットワークによって結ばれた、電子的仮面(electronic persona)をかぶった利用者たちの仮想の社会には、道徳観念はなく、法的な規制は困難である。しかし、そうはいっても、仮想の社会における仮面の源は現実社会における人間であり、その仮面は現実社会の人間と同じ善悪の観念をもっているので、現実の人間によって定められた法にも従うであろう。こうしたことから、コンピュータ犯罪に立ち向かおうという試みは、現実社会の利用者に集中されるべきなのである。

以上のような形でコンピュータの導入によってもたらされる社会の変革が、何らかの問題を生じる可能性があるということ、そのための対策が必要になってくるということが論証され、以下ではより具体的な、コンピュータに焦点を当てた議論が展開される。

筆者は、コンピュータ犯罪のための対策の現状に次のように否定的である。すなわち、コンピュータ犯罪を防止するためには様々な提案がなされており、例えば、Eugene Spaffordは、有名なハッカーを雇っている会社とは契約を結ばないようにしようといい、またある人は、コンピュータ犯罪に関して有罪判決を受けたものは誰でも刑務所に服役させるということにすれば、犯罪を犯そうとしている人への警告にもなるという。しかし、筆者によるとそのような対策はいずれも良い方法ではあるが、一時凌ぎにしかならない。筆者は、コンピュータ犯罪を防止するために長い目で見て有効なのは教育であるという。

コンピュータ犯罪防止のためには、プライバシーや所有権を尊重し、自分の行動決定に責任をとることができるような文化を長い時間をかけて作っていく計画が必要である。そのような文化を創造するためには、法律等による規制よりも、教育が必要である。大災害が起こった後の立法よりも、幼少期からのコンピュータに関する倫理や、一般大衆に対する専門家としての責務などについての教育が重要なのである。筆者はこのような立場から、各教育段階について必要な教育の在り方を示している。それによると、大学段階での教育が特に重要であり、大学段階での教育の在り方が具体的に詳述される。以下にその内容を要約しておこう。

2 K-12

幼稚園から高校までの12年間(K-12)では、コンピュータに関する倫理は明確な形式で教育されるべきではない。初等教育においては、ゲームをするようになると、他人のスクリーンのゲームを作り変えたりしてはいけないということを指導したりなどする。高校生には、コンピュータ犯罪などの実情を知らせ、他人のフロッピーに手を加える時に取るべき責任のことなどを教育する。K-12の段階でのコンピュータに関する倫理の教育とは、こどもたちの間で徐々に、ある文化を作り上げることだといえる。このような文化は、コンピュータの無条件な受容を見直したり、コンピュータの専門家による活動に敏感に反応したりする社会を作ることになる。また、そのような社会では、コンピュータが生活にもたらす良い面と悪い面との両方が教えられているのである。こうして生徒たちは、コンピュータの利用者として負うべき義務があるということを、大学に入るまでに気付かされるべきなのである。

3 大学

大学では、倫理学の授業は哲学や宗教学の学科で行われているだけで、コンピュータなどに関連する分野を専攻している学生がそれらの授業を受けることはほとんどない。しかもそれらの倫理学の授業は理論的で、彼等にとっては意味をなさない。彼等には、現実志向の応用的な教育が必要なのである。コンピュータ・サイエンスや、情報システムに関連する学科で倫理学を教育すべきか否かということになると、大学のどの段階において教育するべきかということも問題になるが、それは大学の全段階を通じて行われるべきであろう。また、大学生という成長段階においては、自己の倫理的意識を高めるような現実の状況に出会うことが多い、大学には新しい授業の課程を導入しやすい、などのことからも、大学ではこの種の倫理教育が必要であるということがいえる。

3.1 必要とされる講座

哲学や宗教学以外の学科での倫理学の講座は、入門段階では倫理学のテーマを扱い、それから後はコンピュータや情報に関する、応用的であまり理論的ではない題材を取り扱うべきである。そうして、このような講座が、学生が現実において行動決定をする際の手助けになるようにするのである。

3.2 倫理学の講座に対する懸念

このような倫理学の講座は、個人の信念を学生に押しつけて教化するという形で誤用されるかもしれない。しかし、正しく作られた教科書を与えられれば、その教科書から脇道に逸れていくようなコンピュータや情報システムの専門家はほとんどいないだろう。

3.3 直面する問題

3.4 期待と結果

倫理学を教えても学生の道徳性は変わらないかもしれないが、実際は倫理学の教育の目的はそこにはなく、それが、学生が行動決定をなすときに彼等の判断を正当化したり、非難したりする方法を示すものとして役立つということが目的なのである。

4 専門家の義務

専門家は、長い習練によって得られた知識や技能と、それに関係する自律性をもっている。同時に彼等は、その知識や技術を活用する際に、一般の人々に脅威を与えたりすることがないようにする責任をもっている。そのため、コンピュータを日常的に使う専門職についていえば、それに携わる人にコンピュータに関する倫理を教えるということが、責任をもって行われなければならない。

5 職業

会社でも、研修や定期的な講演会などで、コンピュータに関する倫理を扱う講座が奨励されるべきである。

6 紹介者によるコメント

以上が、"Can Education Solve Society's Computer Ethics Problems?"の内容である。内容についての感想を簡単に示しておこう。

コンピュータの普及による問題が発生して混乱を来すという段階に至る以前の段階を想定し、混乱を防ぐためには法律などの規制よりも教育が有効であるという。そうして、コンピュータにかかわる犯罪を防止するためには教育のみが有効な手段であるという前提の下に、各教育段階においてなされるべき教育のあり方が示される。

すなわち、大学入学までに、コンピュータの利用者としての義務、責任を自覚させるなどという形でコンピュータによる犯罪を防止するための文化をつくりあげる。麻薬の使用を悪と感じるのと同じように、コンピュータを利用した犯罪を悪と感じることができる文化をつくりあげるべきであるというのである。ただし、積極的な教育はなされるべきではない。大学の段階で初めて積極的に、コンピュータに関わる倫理学の教育がなされるべきである。

問題が発生してから法律などの制度を整えるのではなく、問題が発生する前に、教育によって文化をつくりあげて混乱を防止しようという議論は、将来を見越しての対策を提案するものであり、注目すべきものであると思う。

しかし、大学入学までにおいては、教育は文化をつくりあげるのみで、積極的な教育は必要ないが、大学段階ではコンピュータに関わる倫理の教育が重要であると主張することについての根拠がはっきりと述べられていない。根拠がはっきりしない以上、コンピュータに関わる倫理は大学において初めて積極的に教育されるべきであるとはいっても、そのような主張は受入れ難い。


(田頭世光)
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