5 技術社会における市民的徳

ラングドン・ウィナー

出典

Langdon Winner, "Citizen Virtues in a technological order" in Winkler & Coombs, Applied Ethics: A Reader, Blackwell, 1993.

キーワード

  1. 市民性(citizenship)
  2. 公的空間(public space)

1 序文

現代社会における技術に関する意思決定には、決定を根拠付けるための明確な道徳原理が存在しないと同時に、この種の問題を解決する権威を備えた個人や組織もまた存在しない、という問題がある。確かに哲学者は、社会的影響を及ぼすような技術の特性に注目し、そこから理論や原理を導き出すことによってこの問題に答えようとしている。しかし、仮にその問題に答えれたとしても、その理論や原理を実践する場がなければ無意味である。現に、現代においては様々な哲学的・倫理学的理論や原理を採用し、実践できるような道徳共同体は存在しない。

こういった状態をかんがみると、哲学者にとっての急務は技術にまつわる理論を探し出すことではなく、社会に属する市民がいかにして技術に関する意思決定に参加できるかを再検討することだと言えよう。しかし不幸なことに、西洋の伝統的道徳哲学・政治学では、この問題に関してほとんど何も語ることができない。というのも、多くの思想家は技術と政治を別々のカテゴリーに置き、市民の役割を技術の実践と技術変化から完全に分離して定義してきたからである。以下この分離に至った2つの道筋(古代のテクネー及び現代科学技術に関する見解)を見て行こう。

2 技術と市民:古代の見解

古代のテクネー(実用的技芸の領域)についての思索が置かれた政治・哲学的立場は特徴的ではあったが、否定的なものであった。古代ギリシャの哲学者であるソクラテス、プラトン、アリストテレスは技芸に関する事柄は思弁においても実践においても下位の領域を構成しており、高位にある事柄を目指す人に悪影響を与える、という信念を共通して持っていた。

ソクラテスにおいて、哲学的探求とは自然哲学や実用的技芸の問題よりも政治的事柄に向けられるべきものであった。彼は物質的な事物に精通するより、より高度な敬虔さや正義、善に関する知識の探求を第一としたのである。

プラトンはテクネーが下位の領域に属するだけでなく危険なものだと考えた。真の知識は世俗的・可変的・物質的な事物についてのものではなく、不変の観念すなわちイデアの領域に属すると考えたプラトンは、善き社会を定義する際にも、可変的なテクネーに根拠を求めるのではなく、不変のイデアに基礎を求めたのであった。それゆえ、プラトンは3つの社会階級の中でも技芸を最も低い階級とみなし、政治から引き離す。実用的技芸は都市国家での生活に必要ではあるが、社会の統治に際して価値を提供するものではない。政治が、善なる秩序を確立し、渾沌と破滅へと向かう世界の傾向性に逆らって秩序を維持するものであるのに対し、技芸は潜在的に無限な変化の源である。それ故に、技芸は政治にとって有害なものとして批判されるのである。

アリストテレスはポリスを人間の共同体の最高形態と考えた。政治的生活は、法的地位、公職へのアクセス、政治的な事柄に関して発言する権利という点で平等なポリス市民によって営まれる。そして市民の目指すものは公共善であり、市民は公的生活への積極的参加によって自らの潜在能力を最大限に引き出すのである。この市民の役割の定義において、アリストテレスは、市民たる者は支配者と被支配者の両方の役割を備えなければならない、と言う。それに対して、召使いや職工の立場にあった奴隷や外国人労働者は市民の果たすべき役割を担えないとする。このような職に従事する人は物質的必然性にとらわれるがために、市民性に必要な自由を失っており、市民としてのアレテー(卓越さ)を発揮できないと言うのである。アリストテレスは更に、実用的技芸を習慣とすることは市民の品位を落とし、主従の別をなくすものであるから、学ぶのを控えるようにすすめる。このように、テクネーは政治生活を妨げるものとして捉えられていたのである。

古代においては技術的な領域は奴隷や下層労働者たちと密接に関連していたために、支配者階級が避けるべきものであった。物質的な富を追求するようになったローマ時代においてもその傾向は変らず、技術革新は疑いの目をもって見られ、どんなに有用であろうと、利用を拒まれる傾向にあった。

3 技術と市民:近代の見解

現代の代議制民主主義においては、全ての市民に権利は与えられているが、市民としての役割を果たす機会、すなわち政治に参加する機会が奪われている。社会科学者は個人参加型の民主主義について議論を進めているが、市民性と技術の社会的関係とのつながりに言及する人は少ない。意思決定に参加する機会の欠如が著しいのは、技術的事柄が中心となっている職場であり、そこでは個人の自律や創造性、道徳的な責任は生産性と利潤追求の為に消し去られる傾向にある。確かに、専門家の間には公共善を目的とする倫理綱領が存在し、大学では科学や工学を専攻する学生に専門家倫理の授業を設けている。しかし、実際には、技術者の道徳的自律は組織への忠誠心によって強く制限されている。この構造を変革し、工学の技術を倫理的に制御しようという試みはあったものの、それは企業の利益優先という傾向に押しつぶされてしまった。現在でも、技術者に倫理的責任を求める声は存在するが、そのような責任を明言する法的組織は存在しない。従って、倫理的な問題が生じる際に企業の専門家や官僚達がとっている方法は、顧問弁護士や科学、工学の専門家に相談することであり、基本的には組織の利益を中心に考えるにとどまる。

このような状況では倫理的な問題を提起する人間は孤立する傾向にある。倫理的問題を喚起する方法として、個人的なレベルでは「内部告発」がある。これは社会的・技術的な仕事に関わる人が、自らの業務の中でそのシステムの危険さに気付いた時、上司やニュースメディアにその情報を流し、注意を促すものである。この方法には確かに道徳的関心を促す効果があるが、結果的に内部告発者は孤立し、会社を解雇され、専門家の中から閉め出される、という悲惨な状況が待っている。集団のレベルでは公益団体が技術に関する政策決定に圧力をかけている。しかし、公益団体は意思決定を行なう権力の外側に存する事を特徴とするため、直接政策決定に加わっているとは言いがたい。また、安易に「公衆の利益」を代表する、と言ってしまうことにより、実際には人々の意見を代表していないという非難を受ける傾向がある。

「公衆」という言葉の曖昧さと公的政策決定に参加する法的手段の欠如は、現代の技術政策決定に存する2つの明確な特徴を生み出す。一つは(1)専門家の助言が無駄な儀式的行為になっている、ということであり、もう一つは(2)どの選択肢が道徳的に正当化されるかについて意見の一致が見られない、ということである。現代の技術は応用科学とみなされ、複雑な科学的測量とデータ解釈を必要とする。そのため専門家の意見に従うのが妥当なように思われるが、実際は専門家によって明確な助言が得られる事はめったにない。専門家は各々が客観性を口にするが、「事実」の確認でさえ意見が一致することが少なく、事実で意見が一致したとしても、その解釈をめぐって議論が生じる。さらに、専門家の意見には社会的なバイアスがかかることもあるので、いっそう意見が一致する可能性は低くなる。専門家によっては単一の客観的指針は得られない。(2)の特徴は技術に関する道徳的議論が行なわれる場合に、ともに同じくらい良く基礎付けされているが、共通の土台を持たない哲学的理論を用いて議論することから生じている。共通の土台がないために優劣の基準が存在しないことが原因なのだが、さらに実際の討論では、哲学的議論にもほとんど同意が得られておらず、不確実な経験的主張と組み合わされて議論されるために、余計に決着がつかなくなるのである。

結局、現在、政策は「なんとかしてこなす」というプロセスで決定されている。利害団体の活動や裁判、テレビ広告、世論調査、選挙運動を経て、最終的に政策が決定されるが、それはまったく偶然的で場当たり的であり、将来の類似事例に適用できるようなものではない。

4 技術と現代市民性の特質

民主主義的な方法で市民性と技術的秩序を形成する試みの一つはスカンジナビア半島に見られる。具体例としては、1980年代に始まったUTOPIA計画を例にとろう。これは新聞印刷工場の労働者と経営者が大学のコンピュータの専門家と協力して新しいグラフィックシステムを設計するというものである。ここでは従来の伝統的な技術の多くを維持したままシステムがコンピュータ化され、逆に従来の技術を無視するようなプログラムは積極的に排除された。ここで重要なのは、設計に参加したメンバー全員が互いに様々な職業や社会背景を持ちつつも平等に会話に参加できた点であった。

こうした公的空間の創造によって先に挙げた現代技術政策の問題点も解消される。まず専門家に儀礼的に意見を求めることはなくなる。というのも、公的空間に参加するためにあらかじめ複雑な専門知識を要求されることはなく、むしろ知識は問題解決の過程で学習されるものだからである。逆に専門知識を持つ人は、専門家が問題を解決する権威をもつという見解を放棄し、自らの知識が議論の解決に貢献しうるという申し出をするに留まる。

もう一つの特徴、つまり道徳的議論のはてしなさも漸次解消して行くように思われる。というのも、参加者が様々な観点と葛藤する社会的利害をもっていたとしても、解決されるべき共通の問題が提示される状況で平等な者として議論を解決しようとすれば、次第になんらかの一致が引き出されて行くと思われるからである。解決策は、哲学的理論を用いて相手を打負かすことから得られるのではなく、交渉の末の政治的同意から生じるのである。ここでの哲学の役割は話し合いの強い支えとなるような基礎的な条件を明確化することである。すなわち具体的な問題を抽象化し、一般的なレベルで考察することによって、議論を明確にすることが哲学の仕事となる。

このモデルに対しては、技術の中でも表面的なレベルでしかモデルが働かないという批判がある。確かに、今日の技術発展の多くの分野には「専門化」と「平凡化」の間のギャップが存する。技術の深層は結局のところ一部の専門家にしか理解されず、ユーザーが使用する際に困難が生じた場合は、技術の複雑さそのものを軽減するのではなく、インターフェイスをより使いやすいように仕組み直すと言うのが一般的だと言うのである。

こうした批判に対して、この論文でははっきりとした回答を与えることはできないし、UTOPIA計画の例から技術政策に参加する際の市民的徳目を特徴付けるのも尚早である。しかし、計画への参加者が伝統的な技能の特質を保存しつつコンピュータの力を利用できるような効率的な設計を見出だそうと意識し、新しいシステムが今後の自分達の生活に強い影響を及ぼすことを自覚していた点をかんがみれば、アリストテレスの定義どおり、様々な技術形成への参加方法と、それらの技術によって最終的に及ぼされるであろう影響の受容方法の両方を知ることが、現代の市民の徳目の一定義とはなりそうである。

技術選択のための公的空間を作り出すことは、技術変化の途中に起こる問題を解決する以上のことであり、現在の経済で支配的ではあるが徐々に不合理になってきている効率性や生産性、制御といった論理に代わるものを見つける以上のことである。とはいえ、このような公的空間の創造が、現代市民性の失われた特質、すなわち物を作ること(技術)と行為すること(政策)が一つであるような共同体に存する自由を確立するのである。


(佐々木拓)

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