M. J. van den Hoven, "Privacy and the Varieties of Moral Wrong-doing in an Information Age", in Joroen van den Hoven (ed.) Computer Ethics:Philosopical Enquiry , Department of Philosphy, Erasumus University, 1997.
ファン・デン・ホーフェンは、この論文において、プライバシーの問題を自由主義と共同体主義との間の重要な争点として検討している。基本的な立場としては、共同体主義:プライバシー保護規制、自由主義:プライバシー保護促進、という構図になっている。まず、(1)共同体主義によるプライバシー保護規制論が、自由主義的「自己」理解への批判に基づいている、ということが明らかにされる。続く節では、(2)そうした共同体主義によるプライバシー保護規制論が紹介される。情報技術を用いて個人情報を収集することにより、匿名性ゆえのただ乗りに対して有力な対抗手段が与えられる、と論じられる。さらに続く節では、(3)情報に基づく危害、不平等、不正義から個人を守るために個人情報を保護する、ということは両陣営ともに認めるものの、自由主義がプライバシーの基礎づけに用いる自律の概念に関して見解の相違が生じる、ということが説明される。
プライバシーの問題は、「人間の自由と自律」及び「共同体の必要性」という競合する2つの主張をいかにして調停するか、という問題をめぐって自由主義者(個人主義者)と共同体主義者(集団主義)との間で交わされる論争の核心である。共同体主義者は、個人情報の自由な入手によって共同体にもたらされる利益に訴え、より多くの個人情報が手に入るようにしてプライバシーの過剰な要求を緩和すべきである、と明確に論じる。
共同体主義者は、近代社会には高度の流動性と複雑性、それゆえの匿名性があり、犯罪、ただ乗り、信頼の喪失はこうした状況下で激しくなる、と指摘する。例えば、M.ウォルツァーの見解によれば、自由主義のもとでは、共同体に利益をもたらす活動に参加せず成員であることの利益だけを享受する者の存在を許すことになる、という「ただ乗り」問題 がつきまとうのに対して、共同体主義者は「ただ乗りゼロ」を主張する。
共同体主義者は、さらに、現代の倫理学説や政治哲学の中心にある自由主義的な「自己」理解の有効性を問題とする。M.サンデルによれば、自由主義的自己とは、(イ) 「負荷なき自我(un-encumbered self)」、(ロ) 自身のアイデンティティに関する選択をも含むあらゆる選択を、既にある共同体や世界から離れた申し分のない孤立状態において行う自己、(ハ) 制度に対する愛着(constitutive attachments)もなく自身のアイデンティティの形成に先立つ自己である。こうした自己概念は、「主意主義的(voluntaristic)」(サンデル)、「遊離している(disengaged)」(テイラー)、「根本的に状況づけられていない(radically un-situated)」(ベンハビブ)と言われる。
そこで、共同体主義者は、こうした自由主義的自己理解に疑義を呈し、(1)プライバシーに対する道徳的権利の主体は、啓蒙主義哲学による虚構であり、厳密に言えば実在せず、(2)そうした主体が要求する権利保護は、明確に望ましくないとまではいかずとも欲するに値しない、という理由から、この権利の要求は間違いであると考える。
多くの公的な管理(例えば、法の施行、課税、環境政策の実行)が抱える問題は「ただ乗り問題」である。「ただ乗り問題」とは、公共善の維持に貢献している人々のそれぞれが「公共善を維持するのに必要な貢献をせずに公共善から利益を得たい」という動機を持っている、という問題である。あまりにも多くの人がただ乗りをする(=貢献せずに利益を得る)と、公共善はもはや維持され得ない。例えば、環境保護計画を維持するには、全ての国民が環境保護の予算に貢献しなければならない。しかし、あまりにも多くの人々が、「自分の負担分を引き受けないまま、よりクリーンで健康的な環境から利益を得たい」という誘惑に負ければ、当の環境政策の基礎は結局崩壊する。
このただ乗り問題は「囚人のジレンマ(the Prisoners' Dilemma)」の構造を持つ。囚人のジレンマとは、最適の結果が個別的には得難く、唯一の均衡が次善の策であるような戦略的選択状況である。こうしたただ乗り問題に対しては、個別的には合理的であってもパレート最適の結果をもたらさないような自愛の思慮に基づく動機(prudential motives)を制限する必要がある。ジレンマに対する解決法(最適の結果を保証する方法)としては、例えば、(1)協力それ自体が所属集団によって非常に高く評価されることを心に銘記することで、利得表を正しい方向に導く、という内的解決(internal solution)、及び、(2)各人の自己抑制を過信しすぎないでただ乗りに対処できるように、貢献しない人々を排除する(捕らえて罰する)ことで利得表を導きただ乗りをやめさせようとする外的解決(external solution)などがある。しかし、De Jasayの言うように、最適の結果をもたらす返報を不可能にしている本当の原因は、貢献しない人を排除しないことではなく、「ただ乗り人の匿名性(anonymity of the free-rider)」なのである。
したがって、身元を確認できる情報が増えれば、匿名性の問題が多少とも解決されて、返報の機会が増す。情報技術は、理論的には、ただ乗り人の身元割り出しに向いており、ただ乗り人の利得表に影響を及ぼして高い平均効用を持った結果をもたらしうる費用効率の高い技術である。ネットワーク、IDチップカード、住所を収めたCD-ROM入りのノートパソコンなどは、管理手続きの効率を高める。また、情報技術は、市場においても、見知らぬ人との商取引のリスクを軽減するメリットがある。こうして、信用のレベルが、もっと小規模で伝統的で安定した共同体のそれに近づく、と考えられている。実際、情報伝達技術は、市民個人間の私的契約や交流における善(公共善)に寄与する排除及びアクセス管理の技術として構築されてきた。このように、情報技術は、官民両方の領域で、匿名性の問題を解決する普遍的な技術だと考えられている。
便宜上、個人情報に関わる不正行為の形態を4つ(情報に基づく危害、不平等、不正義、道徳的自律の侵害)に分ける。それらは、データ保護を要求するような情報に関わる不正行為の形態をすべて尽くしているが、その全てが厳密な意味でのプライバシーに関わるわけではない。最初の三つに対する保護については、自由主義者も共同体主義者もともに認めうる。しかし、4つ目については、プライバシー論争の文脈において共同体主義者と自由主義者とが大きく立場を異にする。
何らかの個人情報の利用を前提とする不正行為や危害が存在する。ただし、個人に関する情報が危害を加えるために用いられている、という事実だけでは、必ずしもそれがプライバシーの問題であることにはならない。
最近の犯罪者はコンピュータのデータベースを用いているし、インターネットをその犯罪の舞台としている。情報社会には「情報に基づく危害」に対する新たな脆弱さが存在することに気付かねばならない。情報や情報処理装置の遍在性ゆえに、人の腕をつかんでその人を傷つけるのと同様に、誰かの個人情報を得てそれを用いてその人に危害を加えることができる。そこで、そうした「情報に基づく危害」から国民を守るための厳格な安全政策が求められる。
ただし、個人データの集積が安全か否かを問うのは、武器が安全か否かを問う場合と同様に、危害に対する恐怖ゆえである。例えば、ナチスがオランダに対して行った行為は、プライバシーの侵害ではなく、情報に基づく危害である。したがって、「情報に基づく危害」を加えかねない人の自由を制限するには、J. S. ミルの危害原則で十分である。そして、この原則は、個人の自由に介入するための明白な正当化根拠として広く認められている。
個人データにまつわる不正行為の第二の形態は、ある種の不平等に関わるものである。人々は自分の個人データ使用と引き替えに利益を得たいと思っている。そのうちの一つは、個人データ市場の利益である。消費者は、何かを買うためにカウンターに行くときには常に、自分の購買に関する情報を売っているのだと気づいている。こうして、プライバシーへの懸念の多くは、個人データの市場や個人データ使用に同意する私的契約において解消されつつある。
しかし、個人情報と引き替えに消費財を得ているという事実に気づいてきているからといって、消費者が自分が何をしており何に同意しているのかについて知っていたり知ることができたりするとは限らない。その市場の状態が公正であり、扱いが平等だという保証はどこにもないのである。したがって現段階では、データ保護は個人情報の公正な市場を保証するために必要である。
プライバシーの侵害とみなされる事例は、別の社会的「領域」だと直観的に考えられている領域の境界線を越えた情報流通に関わっているように思われる。多くの人々は、個人的な医療データが医療目的で使われることには反対しない。しかし、その医療データゆえに、職場で差別されたりサービスを拒否されたりして社会的経済的な不利益を被ることには反対するだろう。医療データはその人の病気の治療のために作られたものだからである。
ウォルツァーは、ロールズの基本財の構想と単純な平等の抽象的観念とを批判して、固有の財を持ち、公正な分配に関する固有の枠組みを持つ様々な「正義領域(sphere sof justice)」というアイディアを提出する。医療の領域、政治の領域、商業の領域、教育の領域は、それぞれ固有の財を持つ。特定の財が支配的になり個々の正義領域に固有の財を駆逐する事態は避けられるべきである。例えば、お金(商業の領域)で票(政治の領域)を買う、あるいは、省庁(政治の領域)がヘルスケア(医療の領域)について優遇処置をはかる、といったことである。ウォルツァーによれば、我々の正義の感覚に反するのは、このような領域交錯ゆえである。正義領域はきちんと区別されなければならない。
健康状態の相違によって教育の機会が決定される場合、また、社会経済的な業績によって法的取り扱いに差が出る場合などは、ある領域における特徴に関する情報が他の領域に持ち込まれているがゆえに、不正義であるとみなされる。これは、自分のデータが自分の許可なく入手可能なものになることに反対する際に人々が抱く恐怖の重要な側面である。したがって、領域間の「情報の分離」が実行されるべきであり、異なる領域間の「区切られた情報流通」が確立されるべきである。
さて、S. ベンハビブは、共同体主義者をさらに「統合主義者(integrationist)」と 「参加主義者(participationist)」とに分ける。「統合主義者」によれば、個人主義、 アノミー、自己中心主義、疎外といった問題は一貫した価値体系の回復によって解決 されうる。他方、「参加主義者」によれば、近代性の問題は、断片化や帰属意識の喪 失や孤立にあるのではなく、政治的活動とその能力の喪失にある。ベンハビブによれ ば、この喪失は、ある領域における個人の可能性が他の領域における地位に基づいて 減じる(例えば、収入額に応じて投票権の有無が決まる)という領域間の矛盾の結果で ある。
ウォルツァーの見解とベンハビブの見解とに共通して見られるのは、様々な財に関す る情報は、それぞれの領域に内在しており、自由に領域の境界線を越え出ることはで きない、ということである。少なくとも参加主義型の共同体主義者は、情報の不正義 を避けるために個人データの保護を認めねばならない。
上記3つの不正行為を根拠とする個人データ保護は、自由主義者にも共同体主義者に も受け入れ可能である。これから述べられる人格の「道徳的」自律という4つ目の根 拠こそが、厳密な意味でのプライバシーへの関心に関わる。すると、プライバシーは、 「道徳的」人格として考えられる限りでの個人に保護を与えることになる。「道徳的」 人格とは、「社会的に望まれたアイデンティティに従うようにと世間の見解や道徳判 断が課してくる規範的圧力に逆らいつつ、自己の定義や自己改善に関わる人格」を意 味する。
近代的個人は、高度に流動的な社会経済的環境に生きており、彼らが顔を合わせる相 手や環境はあまりにも多様である。こうした人々にとって他人の判断によるアイデン ティティの固定は、「生きる上での実験」(ミル)や「性格に関する実験」(キルケゴー ル)への障害として感じられる。近代的個人は、後から得られる経験や事実情報に基 づいて、道徳的に自己を決定したり、以前の決定を元に戻したりすることを望む。
このように、人格を道徳的に自律しているものと考えることによって、個人データ保 護は正当化されうる。データ保護法は、自分以外の他人による道徳的アイデンティティ の固定という、よりわかりにくい不正を避けるための保護を与えるのである。
さらに、認識論的な次元の話をすると、他の人格に対する実際の知識は、常に記述に よる知識に他ならない。しかし、人格それ自身は、自分の伝記的事実を知っているだ けでなく、ひとまとまりの思考、欲求、志望等に精通している唯一の人格でもある。 いかに詳細なA氏に関するプロフィールがあろうと、我々は彼自身がそうでありうる ようなデータの主体(data-subject)ではあり得ない。我々はせいぜい彼の自己理解に 近づくことができるだけである。
バーナード・ウィリアムズの指摘によれば、人格を尊重することは、非常に特別な意 味での「同定」(筆者の言葉では「道徳的同定(moral identification)」)に関わる。 この同定には静的次元と動的次元がある。職業的関係や仕事の世界では、人は特定の 肩書きの下に扱われる[同定の静的次元]。他方、人間的な接近の場合は、人は望むと 望まざるとに関わらず他の選択肢を捨てて現在の肩書きを持っており、誰もが自己同 定の努力をしているのだと考える[同定の動的次元]。そしてこの場合、各人は、ラベ ルを貼られる表面としてその人を見るのではなく、その人の視点から世界を見るよう に努力されてしかるべきである[人格の尊重]。
n 道徳的同定は、データ主体の視点からの知識を前提する。人格は、欲求等を持ち、自 分の視点で物事を捉える。人格のこの側面での現れは、データベースに蓄積された個 人データや、管理手続きの中で扱われる人格には欠落しているものである。データに 基づく同定はデータ主体によって経験される同定とは決して一致しないので、その同 定は個々の人格を表現しきれない。つまり、我々は他人をその人の視点では捉えられ ない。したがって、プライバシーを尊重することは、他の人格を本当に知りその人の 視点から捉えることの「不可能性」を承認する方法なのである。
こうしたプライバシー擁護論は、自由主義的自己を含意している。したがって、厳密 な意味でのプライバシーへの関心と筆者が呼ぶものこそが、プライバシーの議論にお いて共同体主義者と自由主義者を分かつものである。共同体主義者は、最初の3つの 個人情報保護の理由には賛同しうるが、最後のものには疑義を差し挟むだろう。なぜ なら、彼らはこれとは根本的に異なる自己理解と人生観を持っているからである。し かしながら、人生観や自己理解に関する見解に優劣をつけるのは容易ではなく、どち らに軍配をあげるべきかは定かではない。