2 徳倫理の諸相と情報社会におけるその意義

ジャスティン・オークリー (児玉聡、岸田功平、徳田尚之 訳)

(*
この論文の初期のヴァージョンは、モナシュ大学の会議での「帰結主義・カン ト主義・徳倫理」(Consequentialism, Kantianism, and Virtue Ethics) で読 むことができる。その会議の場での有用なコメントに対し、聴衆に感謝したい。 また、ブラッド・フッカー、ジョン・キャンベル、ジョン・コッティンガム、 パー・サンドバーグ、クリスティン・スワントンにも、この論文の初期の形態 に対するきわめて有用なコメントに対し、感謝している。

*)

徳に対する関心が近年復活したことは、現代の倫理学説におけるもっとも注目 すべき展開の一つである。この復活の最初の兆しは、1958年、エリザベス・ア ンスコムが善、性格、徳についてのアリストテレス的な概念を道徳哲学の中心 的な関心事として復活させるべきだと主張したことにおいて見られる (*

G. E. M. Anscombe, `Modern Moral Philosphy', Philosophy 33, (1958). 。

*) アンスコムの主張に対する最初の反応はそこそこのものであったが、1980年代 に入り、徳に対する関心は勢いを増した。その大きな原因となったのは、フィ リッパ・フット、バーナード・ウィリアムズ、アラスデア・マッキンタイアな どの哲学者たちの著作である。今日では徳についての哲学的文献は膨大にあり、 自らを徳倫理の一形態だと公言するさまざまな見解が存在する (*

徳倫理に関する題材の包括的な目録は Robert B. Kruschwitz and Robert C. Roberts, The Virtues: Contemporary Essays on Moral Character, Belmont, Wadsworth, 1987. にある。 徳倫理に関する最近のよい論文のコレクションは、 Roger Crisp (ed.) How Should One Live? Essays on the Virtues (Oxford,Clarendon Press, 1996); Roger Crisp and Michael Slote (eds.) Virtue Ethics (Oxford,OxfordUniversity Press, 1997); Peter A. French, Theodore E. Uehling, Howard K. Wettstein (eds.) Midwest Studies in Philosophy, Volume 13: Ethical Theory: Character and Virtue, (Norte Dame, Notre Dame University Press, 1988); Daniel Statman Virtue Ethics: A Critical Reader (Edinburgh, Edinburgh University Press, 1997) を参照せよ。 また、徳倫理の概論である Gregory E. Pence `Recent Work on the Virtues', American Philosohical Quartely 21 (1984), pp. 281-97; Gregory Trianosky, `What is Virtue Ethics All About?' American Philosophical Quarterly 27 (1990) も参照せよ。 ペンスは、徳倫理の最近の歴史におけるある主要なテキストを要約し、比較し ている。一方、トリアノスキーは、様々な著作家をその分野に結束させる一連 の一般的課題という観点から、徳倫理の様々な形式へのより体系的なガイドを 提供している。

*)。 こうした見解を主張する多くの人々は、徳倫理は包括的な規範的倫理学説であ るという重大な主張を、敵対するカント主義と功利主義に対して行なうことが できると論じる。しかし、いったい徳倫理と何なのか? さまざまな徳倫理が共 有する中心的主張とは何であり、徳倫理は他の、もっとおなじみの倫理学説と どういう風に異なるのだろうか?

哲学者たちが徳倫理の名を用いて行なう主張は、いささか驚くべきほど多様で ある。そうした主張の多くは否定形で述べられており、「原則の倫理」、ある いは「不偏不党の倫理」、あるいは「抽象的な倫理学説」、あるいは端的に 「行為の倫理」に対立するものとして表現される。不幸なことに、この否定的 側面の強調のせいで、徳倫理は、それが何に賛成しているかよりも 何に反対しているかによって、多くの人によりよく知られる結果と なった。もちろん、徳倫理が復活したのは標準的なカント主義や功利主義の倫 理学説に対する不満に起因することを鑑みれば、これらの否定的な主張が目立っ てしまったのも驚くべきことではない。しかしながら、徳倫理とその変種を説 明するときにこれらの主張のみに焦点を合わせるのは不適切である。というの は、このような説明では、正統派の倫理学説の同様の特徴を否定するものとし てしばしば提示される他のアプローチ ---ケアの倫理やさまざまな種類のフェ ミニズム倫理など--- から徳倫理を十分に区別できないからである。たしかに 徳倫理はいくつかの共通の標的をこれらや他の倫理学説と共に有している。し かし、徳倫理はその肯定的特徴によってそれらからもっとはっきりと区別する ことができるのである。

しかしながら、ごくたまに徳倫理の支持者が徳倫理の持つ肯定的な主張を述べ たかと思うと、明晰さと具体性が欠けていることがしばしばで、そのためこの 学説に特有な内容を規定する役には立たないのである。そこで、徳倫理の支持 者がいかにしてこの学説がカント主義と功利主義が持つとされている多くの欠 点を克服しうるかを示唆するときはしばしば、徳倫理を明確に規定していない ために、いかにして、あるいはどうしてこれらのもっとおなじみの倫理学説を より洗練した形態や混合的形態では徳倫理の特徴を持ちえないのか、この点に ついてははっきりしないのである。たとえば、多くの人は、徳倫理では正しい 行為を正当化するさいに行為者の性格が強調されることを、徳倫理を他の倫理 学説から区別する特徴と考えている。しかしながら、徳倫理の隆盛が助けになっ て性格の考慮が現代倫理学の前面に来ることになったとはいえ、徳倫理だけが 正しい行為と行為者の性格との重要な結びつきを強調するわけではない。とい うのは、カント主義や功利主義の最近の影響力のある形態もまた、道徳的に善 い人はある種の性格を持つという考えを支持する方向に向かっているからであ る (*

例えば以下のものを見よ。 Barbara Herman, `The Practice of Moral Judgment', and other essays in her The Practice of Moral Judgment (Cambridge MA: Harvard University Press, 1993); Peter Railton, ``Alienation, Consequentialism, and the Demands of Morality'', in Consequentialism and its Critics, ed. Samuel Scheffer (Oxford: Oxford University Press, 1988), pp. 93-133.

*)。 だから、徳倫理に関する多くの著作家たちは、性格の重要性を説く議論は必然 的に倫理学における徳に基づくアプローチを支持すると仮定しているが、現代 のカント主義と帰結主義が行為の評価において性格の重要性を認める傾向にあ ることは、この広い仮定が正当化されないことを示している。徳倫理の支持者 が示す必要があるのは、性格の重要性に加え、性格に基づく倫理の徳倫理 的形態を他の形態と異なるものにするものであり、そして、そのようなアプロー チがカント主義や帰結主義の性格に基づく形態よりも好まれる理由である。そ こで、徳倫理がカント主義や功利主義の一形態と化すことを拒む理由を示すた めには、これらの学説の一つを支持する人は徳倫理のどの特徴を一貫性をもっ て支持しえないのかをはっきりさせる必要がある。

この論文において、わたしは徳倫理の基本的特徴を示すために、徳倫理の主要 な肯定的主張を体系的に説明し、どのようにしてこれらの主張のおかげで徳倫 理が他のアプローチから区別されるかを示す。わたしはまた、哲学者たちがよ く行なう徳倫理批判のいくつかを考察し、徳倫理がこうした批判からどのよう にして擁護されうるかを論じる。

1 徳倫理の本質的特徴

あらゆる徳倫理の見解の本質的特徴と思われる主張が少なくとも 六つある。一つめの、そしておそらく最もよく知られた主張は、い かなる形式の徳倫理においても中心となるのだが、以下のようなものである。
(a)ある行為が正しいのは、それが、有徳な性格をもつ行為者がその 状況においてなすであろう行為に一致する場合であり、その場合に限る。

*) これは、正しい行為の正当化における性格の優位を主張するもので ある。正しい行為とは、有徳な人物ならばその状況においてなすであろう行為 と一致するものであり、行為を正しいものにするのは、それが有徳 な性格を持つ人ならばその場でするであろう行為であるということである (*

この主張をはっきり著述したものについては、たとえば Rosalind Hursthouse `Virtue Theory and Abortion' Philosophy and Public Affairs 20 (1991), p. 225 を見よ。 Aristotole, Nicomachean Ethics, II, 6, 1107a1-2. を見よ。

*)。 それゆえ、フィリッパ・フットが主張するように、ある人の生命がその人にとっ てまだ善いものである場合、他人の生命を救うことは正しい。なぜなら、これ こそ善意の徳をもつ人がするであろうことだからである。善意の徳をもつ人が、 このように行為するであろう理由は、善意は他人の善を目指す徳であり、また フットによれば、善意の徳をもつこととは、他人を助けることを要求されがち な状況において、そうする[他人を助ける]性向を持つということである (*

Philippa Foot, `Euthanasia', p. 54; and `Virtues and Vices', p. 4, both in her Virtue and Vices (Berkeley: University of California Press, 1978) を見よ。 フットはときどき、この徳を「善意」(benevolence) と呼ぶが、「慈善」 (charity) と示すときもある。

*)。 同様に、ロザリンド・ハーストハウスが主張するように、ある状況においては、 他人に重要な事実を告げることは、たとえそうすることが彼らを傷つけるとし ても、正しい。なぜなら、正直の徳をもつ人ならばこの場合真実を告げるから である。たとえば、もし私の弟が、彼の妻が浮気をしているかどうか私に尋ね たとして、偶然にも私は彼女が浮気していると知っていたとする。その場合、 私は彼に正直に答えるべきである。なぜなら、これこそ正直の徳をもつ人がこ の場合するであろうことだからである (*

Hursthouse, `Virtue Theory and Abortion', pp. 229,231. を見よ。

*)。 同様に、正義に関してフットは以下のように主張する。私はあなたに借りた 金を、たとえあなたがその金をむだづかいするつもりであったとしても返す べきである。なぜなら、金を返すことは正義の徳をもつ人ならばするであろ うことだからである (*

Foot, `Euthanasia', pp. 44-5 and `Virtue and Vices' を見よ。 William Frankena, Ethics, 2nd ed. (Englewood Cliffs: Prentice-Hall, 1973), pp. 63-71 も見よ。 徳倫理が性格の重要性に強調をおいたことの影響は、倫理学説を越えた分野 で感じられつつある。 たとえば、以下を見よ。 Willam Galston, Liberal Purposes: Goods, Virtues, and Duties in the Liberal State (New York: Cambridge University Press, 1991); Will Kymlicka &qmp; Wayne Norman, `Return of the Citizen: A Survey of Recent Work on Citizenship Theory', Ethics 104 (1994), pp. 352-81; Stephen Macedo, Liberal Virtues: Citizenship, Virtue, and Community in Liberal Constitutionalism, (Oxford: Clarendon Press, 1990).

*)。 ところで、私が上で述べたように、(a)において性格に与えられた優位は、最 近、影響力ある形式のカント主義、帰結主義、功利主義のいずれによっても支 持されるように思われる。これらの形式は、3つの理論のいずれかに訴えるこ とにより、「有徳な人物」の概念に内容を与えるのである。たとえば、バーバ ラ・ハーマンは以下のように主張した。すなわち、カントの定言命法は、行為 の正しさの基準を提供するのだが、善い行為者の性格における、ある種の行為 の仕方を許されないものとして排除する規範的な性向として、もっともよく 理解される (*

Herman, op. cit.

*)。 同様に、ピーター・レイルトンは、行為者に中立的な価値を最大化せよという 帰結主義者の要求は、善い行為者の性格における規範的性向として理解されう ると主張した。そして、R・M・ヘアは、功利性を最大化せよという功利主義者 の要求は、同じ仕方で考えられると示唆している (*

Railton, op. cit. および R. M. Hare, Moral Thinking (Oxford: Oxford University Press, 1981)

*)。 いかにして(a)は、徳倫理とこれら他の倫理との区別に役立つであろうか。

徳倫理は、性格に優位を与えているのであるが、それは、性格に言及すること は、正しい行為と不正な行為の正しい説明において、本質的である と主張する意味においてである。しかし、フットとハーストハウスからの例は、 徳倫理は(a) が行為の正しさを決定する基準としていかに作用するものと考え ているのかについて、完全に明らかにはしていない。というのは、(a)は正し い行為の純粋に「外的な」基準を提供するものとして、提案されるかもしれな いからである。その基準は、人がその基準の指示する行為をなす際、どのよう な種類の動機、性向、性格から行為しようとも満たすであろうものである。こ の解釈では、正しく行為するためには、有徳な人あるいは有徳な人の性格の特 定の一側面を手本にすることは必要ではなく、有徳な人がさまざまな状況にお いてなすであろう種類の行為についてよく理解していればいいのである。この ような場合、(a)はいくつかの倫理学説における理想的観察者(Ideal Observer)の役割と類似しているだろう。その観察者の決定は、たとえ行為者 がそのような観察者の性質を欠いていたとしても(そして実際、理想的観察者 のすべての特徴をそなえた「自然な」人物はいないとしても)、行為者を導く ものである (*

Roderick Firth, `Ethical Absolutism and the Ideal Observer', Philosophy and Phenomenological Research 12(1952), pp. 317-45 を見よ。 私は、徳倫理と理想的観察者理論のこの類似性を指摘してくれたことに対し、 ジョン・キャンベルに感謝する。

*)。 別の解釈では、(a)における正しい行為の基準は、ある「内的な」要求をもつ ものとして提案されるかもしれない。その要求とは、ある人が正しく行為でき るのは、有徳な行為者ならば持っていてそれに従って行為するような動機、性 向、性格特徴(character-traits)を持っており、それに従って行為する場合の みである、というものである。

さて、(a)から明らかなように、少なくともその正しさの基準が、仮定的人物 (すなわち有徳な行為者)の性格への本質的な言及を含んでいるという意味にお いて、徳倫理は正しい行為にとって性格を本質的なものとする。そしてこの特 徴によって、徳倫理は、レイルトンの行為帰結主義のような、ある行為を 実際に生じた帰結によって評価する形式の様々な行為功利主義 (act-utilitalianism)や行為帰結主義(act-consequentialism)から十分に区別 されるのである。というのは、徳倫理とは異なり、これら実際主義的 (actualist)なアプローチによれば、仮定的行為者の性格に(さらにいうなら、 行為が評価される現実の行為者の性格に対しても)まったく言及することなく、 どの行為が正しいか言うことが認められるからである。というのは、これら実 際主義的な行為功利主義や行為帰結主義は、単純に、ある行為が正しいのはもっ とも善い帰結を生じるときであり、その場合に限ると主張するからである (*

レイルトンは、多くの人が「実際主義」と称するものを指し示すために、 「客観的帰結主義」(objective consequentialism)という術語を用いる。

*)

しかし、現代の功利主義や帰結主義の多くは、なんらかの形式の予想主義的 (expectabilist)なアプローチに賛成し、実際主義を拒絶するのであるが、そ の予想主義は、行為はその実際の帰結よりはむしろ、生ずるであろう 帰結にしたがって評価されるとする。広く受け入れられている行為帰結主義の 形式は、行為を客観的に生ずるであろうと思われる帰結にしたがっ て評価する。そしてこのアプローチは、仮定的人物の性格に対する本質的言及 を含んだ正しさの基準をもっているとして解釈できる (*

このアプローチの説明と擁護については、 Graham Oddie and Peter Menzies, ``An Objectivist's Guide to Subjective Value'', Ethics 102, no. 3, April 1992, pp. 512-33 を参照せよ。 この形式の予想主義は、主観的に生じるであろうと考えられる帰結 にしたがって行為を評価する形式のものと区別されるべきである。この主観主 義(subjectivist)のアプローチは以下のように主張する。すなわち、行為の評 価に(適切に)関連した帰結は、(行為の客観的に起こりうる帰結では なく)行為者が、その行為の起こりうる帰結だと信じるものである。 この主観主義的なアプローチの説明と擁護については Frank Jackson, ``Decision-theoretic Cosequentialian and the Nearest and Dearest Objecttion'', Ethics 101, no. 3, April 1991, pp. 461-82 を参照せよ。 (Oddie and Menziesが pp. 515-16 で説明しているように、予想主義の客観主 義的な形態は、やはり実際主義とは区別される。というのは、行為は時々、行 為がなされた時には客観的に非常に生じそうにない帰結を実際生じ るからである)
以下のことに注目せよ。私がここで話しているのは本当の予想主義の理論につ いてであって、正しい行為をみわけるのに有益な発見法として合理的に予想さ れるもっとも善い帰結を用いよと我々に命じる理論についてではない。という のは、このことは我々のどの行為が実際にもっとも善い帰結をもた らすかを決定するためにもっとも信頼できる経験則を与えてくれるという根拠 によってであるが、しかし正しさが究極的に基礎をおくのは後者においてであ る。 (これはFeldmanの Doing the Best We Can での考えだろうか? Jackson p. 467 はそうだと示唆している)

*)。 というのは、この形式の予想主義は、ある行為の正しさを、おこりうる帰結の うち合理的な人が行為者の立場にあったならばどれが生じると判断するだろう かと考えることによって、その行為の正しさを評価するものとして表現される からである。そこで、徳倫理の正しさの基準における仮定的人物の性格に対す る本質的な言及は、徳倫理をこの予想主義的な帰結主義から区別するには、不 十分であるように思われる。

しかし仮定的人物の性格に対する本質的な言及に加えて、上述の予想主義者の アプローチとは異なり、徳倫理の正しさの基準は行為を行なうこの特 定の行為者の性格に対する本質的な言及をも含んでいる。すなわち、(a)にお ける「有徳な人ならばするであろうことをすること」は単に特定の行為を要求 することだけでなく、特定の性向や(多くの場合)動機から行為することを要求 するものとして理解されるべきである。したがって、正しく行為することは、 我々が適切な性質や動機から行為することを要求する。あるいは次のように言っ たほうがいいかもしれない。すなわち、我々は自分自身がその状況に適切な有 徳な性質をもっており、それに従って行為するのでなければ、特定のケースで (a)における正しい行為の基準を満たすことはできない (*

この主張をなすに際し、私はアリストテレスに以下の点で同意する。アリスト テレスは以下のように主張する。
徳であるのは、単に正しい規則に従った状態ではなく、正しい規則の存在を含 意する状態である ( Nicomachean Ethics VI, 13, 1144b2l6-9、また II, 4, 1105a26-33 も参照) Cooper, Reason and Human Good in Aristotle, p. 78; Korsgaard, `Aristotle on Function and Virtue', pp. 266-8 を参照せよ。
*)

たとえば、正義の徳を持つ人ならばするように行為するためには、私は借金を 返さねばならないだけでなく適切な正義の感覚からそうしなければならないの である。また、つぎのことにも注意するべきだろう。すなわちこの例からわか るように、徳倫理は適切な動機と性質から行為することが正しい行為には 必要だと主張する一方で、そのような動機や性質から行為すること は、正しい行為には十分だとは主張していないということである。 有徳な行為者は、行為するとき善い動機(well-motivated)や善い性向 (well-disposed)をもっているだけでなく、これらの動機や性向から適切な行 為をするのである。(そして、後に述べるように、徳倫理は、善い性向や動機 が人を不正に行為させる、さまざまな理由があるということを認識している。)

徳倫理のアプローチを実際主義的な行為帰結主義から、あるいは上で述べら れた予想主義的な行為帰結主義から区別するのは次の点である。すなわち徳 倫理の正しさの基準は、行為をなす行為者の性格に対して本質的な言及を持つ のである(しかし他のアプローチの基準はそうではない)。というのは、これら 帰結主義理論は行為者の性格にまったく言及することなしに、どの行為が正 しいかを言うことを許すからである (*

以下のことに注目せよ。この特徴は、徳倫理の正しさの基準を、どのような行 為の帰結を行為者が生じそうだと信じるかということに依存する形 式の予想主義から区別するには十分でない。というのは、このアプローチも、 行為をなす行為者の性格に対する本質的な言及を含んでいるからだ。それでも なお、徳倫理はいかにして善い行為者の性格を支配する規範的な概念を基礎づ けるかということに関して、この主観主義的な形式の予想主義とは区別されう る。

*)。 というのは、行為帰結主義者は、単純に、ある行為が正しいのはそれがもっと も善い帰結を生じるとき(あるいはそうだと合理的に予想できるとき)であり、 その場合に限ると主張するからである。典型的には彼らは、人間が持ちうるもっ とも善い性格とは、もっとも善い(実際のあるいは予想される)帰結を伴うもの であるとつけくわえる。しかしもしかすると、人間が持ちうるもっ とも善い性格とは、起こりうるすべての状況で、行為者にもっとも善い(実際 のあるいは予想される)帰結を伴う行為をすることを許さないもので あるかもしれない。それゆえ行為帰結主義者は、有徳な性格をもつ人はもっと も善い(実際のあるいは予想される)帰結を伴う行為をかならずしも常にすると はかぎらない、すなわち、行為帰結主義がいうところの正しい行為をするとは かぎらないということを認める (*

この個所についてはブラッド・フッカーに負っている。

*)

それにもかかわらず、正しい行為の正当化において、行為をなす行為者の性格 に本質的な役割を与えるような形式の功利主義、帰結主義、カント 主義も存在する。というのも、彼らの主張によると、正しい行為はある種の性 格によって導かれねばならず、またそのような行為は、必要とされる種類の性 格をもつ行為者から生じたものであるがゆえに正当化されるからである。たと えば、リチャード・ブラントは規則功利主義(rule-utilitarianism)の一形式 を提案する。それによると、

もし問題の種類の行為に皆が自由にふけるならば生じるであろう…損害にし たがって、様々な行為のタイプに対して許容しうる嫌悪のレヴェルをわりふ る…。皆が自由にふける場合の結果が悪くなればなるほど、許容しうる嫌悪 のレヴェルはより高くなる (*
Richard B. Brandt, `Morality and its Critics', American Philosophical Quarterly 26(1989), p. 95. Brad Hooker, `Rule-Consequentialism', Mind 99 (1990), pp. 67-77 も参照せよ。

*)

この見解では、我々は行為者の性格の中にある嫌悪の念に言及することなしに、 正しさとは何かを言うことはできない。実際、これらの理論は、徳倫理の派生 的な形式として作り直すことが実際にできるということを示唆するために、性 格ベース(character-based)の功利主義やカント主義の発想をとりあげる者も いる。たとえば、フィリッパ・フットの提案によると、功利主義は徳倫理のひ とつの形式だと考えられるが、それは、功利主義が善い功利主義的性格をもっ た人ならば行為し動機づけられるように我々も行為し動機づけられるべきだ、 と命じる限りにおいてなのである。フットも考えているように、そのような人 の性向はただひとつの性向、すなわち普遍的善意の徳によって支配 されるであろう。そしてその人の行為の正しさは、そのような性向が命じるこ とにしたがったかどうかによって、判断されるであろう (*
Philippa Foot, `Utilitarianism and the Virtues', in Scheffer (ed.), Consequentialism and its Critics, pp. 224-42

*)。 同様にバーバラ・ハーマンによると、カントは(特に後期の著作では)善いカン ト主義の行為者ならばなすように行為せよと我々に命じるのであり、またその ような行為者は、許されない行為をしないという誓いによって規制されるある 感情的で偏向のある性向をもっており、それに従って行為するのである (*

Barbara Herman, `Agency, Attachment, and Difference', and other essays in her The Practice of Moral Judgment を参照せよ。 以下も参照せよ。 Kurt Baier, `Radical Virtue Ethics', in French et. al. (eds.), Midwest Studies in Philosophy, vol. 13; Robert Louden, `Kant's Virtue Ethics', Philosphy 61 (1986), esp. pp. 478-9, 484-9; Robert Louden, `Can we be too Moral?', Ethics 98 (1988); Onora O'Neil, `Consistency in Action', in N. Potter & M. Timmons (eds.), Morality and Universality (Dordrecht: Reidel, 1985); Nancy Sherman, `The Place of Emotions in Kantian Morality', in Owen Flanagan & Amelie O. Rorty (eds.), Identity, Character, and Morality: Essays is Moral Psychology (Cambridge MA: MIT Press, 1990). フットが功利主義者の徳倫理に対してなした批判に類似する批判は、(義務に 従って行為する性質としての)良心を唯一の徳とするカント主義の徳倫理に対 してもなされるであろう。 N. J. H. Dent, The Moral Psychology of the Virtues (Cambridge: Cambridge University Press, 1984), pp. 27-31; James D. Wallace, Virtues and Vices (Itheca: Cornell University Press), p.130. を参照せよ。

*)

これらの形式の功利主義とカント主義は以下のことを指摘する。すなわち、正 しい行為の決定に際して性格に与える優位のみによって徳倫理は特 徴づけられると語ることは、明らかに不十分である (*

以下は、性格の優位を徳倫理の特徴としてとらえている。 Frankena, Ethics, pp. 63ff; Pence, `Recent Work on the Virtues'; Gregory E. Pence, `Virtue theory' in Peter Singer (ed.), A Companion to Ethics (Oxford: Blackwell, 1991); Gray Watoson, `On the Primacy of Character', in Flanagan and Rorty (eds.), Identity, Character, and Morality.

*)。 性格ベースの倫理の一形式としての徳倫理に関して、何が特徴的かということ を示すためには、さらなる特色に注目する必要がある。

カント主義的、功利主義的形式の性格ベースの倫理から徳倫理を区別するため のひとつの重要な方法は、善い行為者の性格を律する重要な規範的概念を、そ れぞれの理論がどういう仕方で基礎づけしているかということについて、両者 の違いを明らかにするというものである。これらの違いは、我々が議論を進め るにつれより明白になるだろう。しかし、ここでそれらについてすこしだけ述 べておこう。カント主義者は、行為者の性格の善さは自分の格律の普遍化可能 性を試す能力をいかによく内面化したかによって決定されると主張する。他方、 功利主義者は、善い性格をもった人とは功利性を最大化しようとする性向をも つ人であると主張する。しかしながら徳倫理学者は、カント主義の普遍化可能 性も功利性の最大化も、善い性格の適切な基礎ではないとし、かわりに善い行 為者の適切な規範的概念に実質を与えるために他の要素に訴えるのである。 おおまかに言うと、善い行為者の性格の基礎付けに際して徳倫理学者がとる二 つの主要なアプローチがある。これらのアプローチのより著名なほうは、有徳 な性格の内容は我々が人間として何を必要とするのか、あるいは我々 が何であるのかということによって決定されるというアリストテレス的な見解 に訴える。多くの徳倫理学者がこのアプローチの特定の形態を発展させ、徳は 我々が人間らしく開花した生(humanly flourishing lives)を送るために必要 な性格特徴であるという、幸福主義的な見解をとっている。この見解では、善 意、正直、正義といった性格特徴が徳であるのは、それなしには我々はエウダ イモニア(すなわち人間の開花した生)を送ることができないような内在的な善 (勇気、誠実、友情、知識を含む) の結びあわさった網の目の中で、それらの 性格特徴が重要な役目をはたすからである。さらにこれらの特徴と活動は、支 配的な徳であるフロネーシス(実践知)によって調和されるときは、組み合わさっ て部分的にエウダイモニアを構成するものとしてみなされる。すな わち徳は、善い人間的生の内在的に善い構成要素なのである (*

Aristotle, The Nicomachean Ethics を参照せよ。 John M. Cooper, Reason and Human Good in Aristotle (Indianapolis: Hackett, 1975), pp. 79-88; J. L. Ackrill, `Aristotle on Eudaimonia', in Amelie O. Rorty (ed.), Essays on Aristotle's Ethics (Berkeley: University of California Press, 1980) も参照せよ。

*)。 アリストテレスによると、人間が有徳な生を送ることによって開花するのは、 そのような生を送る場合にのみ、我々の生を導く我々の理性的能力が卓越した 仕方で発現されるからである。人間の善が、我々の理性的能力のはたらきであ るのは、ある種において善いとみなされるものはその種に特徴的な活動によっ て決定されるからである。そして我々の理性的能力をはたらかせることは、人 間に特徴的な活動である。 (*

これはアリストテレスの有名なエルゴン(ergon)の議論である。 ( Nicomachean Ethics, I, 7.)

*)。 我々がこの本でとるのは、善い行為者の性格の基礎づけに対するこのアリスト テレス的なアプローチである。この見解では、善は有徳に行為することから生 じる受動的で外的な帰結ではない。それゆえ、有徳に行為することによって、 典型的には我々がよい人生を送ることができると(功利主義者ならそう言うよ うに)言うのは正しくない。むしろ善は能動的であり、有徳に行為することは 善き人生を成り立たせしめている一部分なのである。

徳倫理学者には、善い人間という概念ではなく人間にとって善いも のとはなにか、ということに基礎をおくことによって、この一般的なアプロー チを展開させるものもいる。この見解の最もよく知られた提唱者は、フィリッ パ・フットであろう。初期の著作で彼女は、徳の特色はその所有者に有益であ るという点だと論じた。フットは、このことは勇気や節制が徳とみなされる理 由を説明するのに役立つと考えた。しかしながらのちに彼女は、この根拠では 正義や善意のような常識的な徳についてはうまく説明できないと気づいた。そ こで彼女は解釈を拡げて、徳は個人あるいは共同体としての人間に有益なもの に由来するとした (*

Foot, `Virtues and Vices', and `Moral Beliefs', both in her Virtues and Vices を参照せよ。

*)。 こうすることで、彼女はいくつかの点でアラスデア・マッキンタイアに近づ いた。マッキンタイアによると、正直、勇気、正義といった性質が徳であるの は、それらの性質が伝統および伝統を維持する共同体を強めるような人間独 自の実践に内在する善の達成を可能とするからである (*

Alasdair MacIntyre, After Virtue, 2nd ed. (Nortre Dame: University of Nortre Dame Press, 1984), esp. ch. 14 を参照せよ。

*)

おおまかに言って、アリストテレス的アプローチの別の形態が完成主義者によっ てすすめられるが、彼らは有徳な生は幸福に必要であるという幸福主義的な考 えも、有徳な生はそれを生きる人に全体的に有益でなければならないとする考 えも、どちらも否定する。完成主義によると、徳は我々の人間としての本質的 な特性をもっともよく発展させる特徴に由来する。たとえば、知を愛すること、 友情、偉業の達成は、これらの状態は、理論的および実践的な合理性に対する 我々の本質的な能力をもっともよく実現するため、徳とみなされるのである。 そしてさらに、たとえば膨大な個人の苦難を克服しなければ偉業が達成できな いがゆえに、これらの善を愛さないほうがより幸せな生を送りより利益を得る ことができるという場合であっても、これらの善を愛することは有徳だと見な されるであろう (*

Thomas Hurka, `Virtue as Loving the Good', in Ellen F. Paul, Fred D. Miller & Jeffrey Paul (eds.) The Good Life and the Human Good (Cambridge: Cambridge University Press, 1992), esp. pp. 153-5; Thomas Hurka, Perfectionism (New York: Oxford University Press, 1993); L. W. Sumner, `Two Theories of the Good', in Paul et. al. (eds.) The Good Life and the Human Good, esp. pp. 4-5. を参照せよ。 John McDowell, `The Role of Eudaimonia in Aristotle's Ethics', in Rorty (ed.), Essays on Aristotle's Ethics, esp. pp. 370-1; Christine Korsgaad, `Aristotle on Function and Virtue', History of Philosophy Quarterly 3 (1986), pp. 277-8 も参照せよ。

*)。 アリストテレス的なアプローチのこのような展開とエウダイモン的な展開との 違いはあるが、それでも両方の見解は、徳なしに生をおくることがある意味で は我々の基本的な本性にさからうことになるという点では同意している。

有徳な性格の基礎付けに対する異なる種類のアプローチもまた、徳は人間が開 花するために必要なものによって与えられるという幸福主義的な考えを拒否し、 かわりに徳を我々が典型的にどのような性格特徴を称賛しうるかという常識的 見解から導きだすのである。この非アリストテレス的なアプローチは主にマイ ケル・スロートによって発展させられたのだが、それに従うと、特定の状況に ある人間に関して我々が一般に称賛しうると考える特徴は複数ある。それらが どんなものであるかを決定するひとつの方法は、様々な称賛できる模範的人物 が送った人生に対する、我々の反応を検討することである。さらに、そのよう な模範的人物を見るとき、我々はそのうち幾人かはカント主義者や功利主義者 によって支持されるのとはまったく異なっていると気づく。たとえば、マザー・ テレサのような人々は、彼らが人類に与えた利益によって疑いなく称賛しうる と考えられるのだが、その一方スロートの主張によると、アルバート・アイン シュタインやサミュエル・ジョンソンのような人々も、たとえ彼らは正確には 人類に利益を与えた人ではないにもかかわらず、やはりマザー・テ レサと同じくらい称賛しうるとみなされてもおかしくない (*

Michael Slote, From Morality to Virtue (New York: Oxford Univeristy Press, 1992) および Michael Slote, Goods and Virtues (Oxford: Clarendon Press, 1983) を参照せよ。

*)。 この見解では、善意、正直、正義が徳であるのは、それらが人間性の開花に必 要でないとしても、やはり人間においては深く称賛されるべきだとふつうはわ かる性格特徴だからである。

これらの形式の徳倫理と、性格ベースの形式のカント主義と功利主義との違い は、実践の中で特定の価値が衝突する事例の扱い方によって明らかになるだろ う。そこで、義務や功利性の要求が善いあるいは称賛しうる友人ならばするで あろう行為と衝突する場合を考えてみよう。たとえば、仮に私が取り返しのつ かない結婚の破局を嘆いている親しい友人を慰めており、彼を慰めるために私 は友人としての義務が要求する以上に長く彼と一緒にいるとしよう。徳倫理学 者ならば、たとえ昼食時に会うことを約束していた仕事仲間とのアポイントメ ントをキャンセルすることになり、その結果全体の効用を最大化できなくなっ たとしても、私が彼を慰めるためより長く彼のもとにいることを正しいとみな すであろう。この場合、友人を慰めることが正しいのは、このことが全体的に もっとも善い帰結をもたらすからとか、あるいはそれが友人としての義務だか らというよりはむしろ、これこそが友情についての適切な概念をもつ人ならば そうする[友人を慰める]性向を持っている種類のことだからである。

すべての種類の徳倫理によってなされる二つめの主張は

(b)善さは正しさに先行する。

*)

すなわち、善さの概念は第一のものであり、正しさの概念は、善さと関連づけ ることにおいてのみ定義されうる。何が価値あるもので善いものかということ を決めない限り、なにが行為を正しいとするかについて説明はできない。とく に徳倫理は、所与の状況においてどう行為するのが正しいかを決定できるため には、まず人間の善についての説明(あるいは称賛しうる人間の特性 として一般にみなされるものの説明) が必要であると主張する。規範理論のよ く知られた分類を用いると、主張(b)は徳倫理を義務論的というより は目的論的 な倫理学説にしており、それゆえ徳倫理を功利主義と標 準的な形式の帰結主義と同じ部類に位置づけているように思われる (*

この規範的理論を分類するやりかたは、現代の帰結主義者と非帰結主義者とを 分かつ諸問題に対する十分な配慮をしていないとして、ますます攻撃されてい る。 Herman, The Practice of Moral Judgment, esp. ch. 10 `Leaving Deontology Behind'; Watson, op. cit., p. 450. を参照せよ。 ジョン・ロールズは、 A Theory of Justice (Oxford: Oxford Univeristy Press, 1972), p. 24 で、すべての目的論的な理論は帰結主義であると仮定する。そして実際、ジョ ン・ブルーメは Weighing Goods (Oxford: Blackwell, 1991), ch. 1 で、すべての倫理学説は帰結主義のなんらかの形式だとみなされう ると主張する。一方、ワトソンは帰結主義ではない目的論的理論の可能性をみ ている。 この問題に関するよい議論は、 James Dreier, `Structures of Normative Theories', The Monist 76 (1993) を参照せよ。

*)。 しかし、私が後ほど説明するように、徳倫理による善の説明と、功利主義や帰 結主義のほとんどの形態による説明には重要な差異があり、このことに照らし て考えると、徳倫理を功利主義や帰結主義と同じタイプの学説と分類するのは 誤解をまねきやすい。実際それどころか、徳倫理は非帰結主義や義務論的な倫 理学説と重要な類似点をもっているとわかるだろう。

実際のところ、主張(b)は上述の(a)で暗に示されている。しかしその主張を明 示的にすることによって、徳倫理と、伝統的なカント主義や義務論に由来する あらゆる種類の性格ベースの倫理との重要な違いが明らかになる。というのは、 これら後者の理論によれば、善さや善い行為者の概念は、それに先行する正し さや正しい行為の義務論的な概念に由来するからである。すなわち、善い行為 者とは、特定の道徳規則や要求(これ自身は例えば実践理性の本性に由来する) に従って行為しようと思う人である。それに対して徳倫理は、正しさや正しい 行為の説明を、先行する善さや善い性格の徳論的(aretaic)な概念から導きだ す。これらの概念自体は(アリストテレス的な徳倫理においては)、感情的能力 を理性的能力と同じように評価する、人間性の開花に関する独立した説明に基 づいており、また我々の善さがよかれあしかれ経験的な偶然性によって影響さ れうることを認めるものである。

徳倫理による第三の主張は:

(c)さまざまな徳は、還元できない複数の内在的善である。

*) 徳倫理による正しい行為の正当化の基礎を形づくる善の実質的な説明では、一 連の価値ある特徴や活動は、人間の開花した生にとって本質的なものとして、 あるいは称賛しうる人間について我々がもつ見解の中心として、特定される。 これらのさまざまな徳は還元できない複数の価値を体現している。 すなわち、それらはすべて単一の支配的な価値に還元することができない仕方 で、価値があるのである (*

徳倫理の価値複数主義については、以下のアリストテレスのプラトン批判を参 照せよ。 Nicomachean Ethics, Book I, chapter 6; Wallace, Virtues and Vices, eg. pp. 27-32; Hursthouse, `Virtue Theory and Abortion'; Lawrence Becker, Reciprocity (London: Routledge & Kegan Paul, 1986), eg. ch. 4. アリストテレスのエウダイモニアの概念は、それ自体価値一元的(evaluative monist) なやりかたで解釈されるべきでないということに注目せよ。 W. F. R. Hardie, `The Final Good in Aristotle's Ethics', Philosophy 40 (1965), pp. 277-95; J. L. Ackill, `Aristotle on Eudaimonia'; Cooper, Reason and HUman Good in Aristotle, pp. 96-9 における、エウダイモニアを「包括的」(inclusivist)にみる考え方と「支配 的」(Dominant)にみる考え方の論争をみよ。

*)。 徳そのものは、ここでは手段としてではなく、内在的に価 値あるものとしてとられている。すなわち、徳はなにか他の価値を促進したり 実現したりするための手段としてではなく、それ自体のために価値があるので ある。たとえば、アリストテレスの主張によると、友情とはそれが我々に与え るであろういかなる利益とも別に、「それ自体において選択に値する」 (*

John M. Cooper, `Aristotle on Friendship', in Rorty (ed.) Essays on Aristotle's Ethics, eg. p. 338n18 を見よ。

*)。 すべての善を快のような単一の価値へと還元するような、より古くからある一 元的な形の功利主義から徳倫理が区別されるのは、徳の複数性によってである (*

たとえばベンサムの快楽主義的な功利主義を参照せよ。しかし、マイケル・ス ロートが Plural and Conflicting Values (Oxford: Clarendon Press, 1990), pp. 184-93 で指摘しているように、快楽主義的な功利主義は価値一元主義である必要はな い。というのは、適切に解釈すれば、快そのものを複数のものとして考えるこ とはもっともらしいからである。

*)。 主張(c)によって、徳を手段としてのみ、すなわち徳が快を生みだす限りにお いて善とみなす単純な「徳の功利主義」(Utilitarianism of the Virtues) からも、徳倫理は区別されるであろう (*

たとえば Sidgwick, The Methods of Ethics, 7th ed. (London: Macmillan, 1907) pp. 391-7, 423-57 を参照せよ。

*)。 しかし、(c)における徳の価値複数論(evaluative pluralism)によっては、徳 倫理は現代の選好功利主義から区別はされない。選好功利主義は、少なくとも ひとつの意味では、内在的な価値があるといえる事物が複数あるということを 矛盾なく認めることができると思われる。というのは、選好功利主義は欲求さ れる複数の事物に価値を帰するのであり、そして特定の事物(例えば知識、自 律、偉業の達成)が内在的な価値を持つことを、少なくとも次の意味において、 すなわち我々がそれらの事物を、それらを持つことによってもたらされるであ ろう帰結のためではなく、それら自体のために持ちたいと欲求するという意味 において、認めうるからである (*

James Griffin, Well-Being: Its Meaning, Measurement, and Moral Importance (Oxford: Clarendon Press, 1986) を見よ。たとえば p. 31。
還元できない仕方で異なっている種類のものを我々は評価できる、というこ とは否定できないように私には思われる。…欲求による説明は、価値につい ての複数主義の強い形式と両立できる。…欲求による説明では、なにが伴っ ているかを完全に理解したら、結局私は多くのことを、それらそのものとし て評価することになるということを認めうる。
R. M. Hare, `Comments', in D. Seanor & N. Fotion (eds.), Hare and Critics (Oxford: Clarendon Press, 1988), pp. 239,251 も参照せよ。

*)。 この種の見解では、功利性の概念は実質的な価値ではなく、十分な情報に基 づく選好(informed preference)の充足という観点から形式的な分析を与え られているのである。そこで、ジェームス・グリフィンが述べているように、

功利性は実質的な価値ではまったくないのであるから、さまざまな個々の目 的が価値あるものであるのは、それらが功利性の原因となり、功利性を産み 出し、功利性をもたらし、功利性の源となるからであるという考えを、われ われは捨てねばならない。そうではなく、それら[さまざまな個々の目的]こ そ価値であり、功利性は価値ではないのである (*
Well-Being, p. 32n24。p. 89 も参照せよ。

*)

したがってそのような見解は、行為者が徳を持つことに対しそれ自体として 価値を付与するという意味において、徳は複数の内在的な価値であるというこ とを認めるであろう。

とはいえ、あらゆる選好功利主義的なアプローチから徳倫理を区別するのに役 立つ、徳倫理によるさらなる主張がある。すなわち

(d)徳は客観的に善い。

*)

徳倫理は徳を客観的に善いとみなすが、それは徳が欲求に対して持つであ ろういかなる結び付きにも依存していないという意味においてである (*

「客観的善」のこのような使い方については Hurka, Perfectionism, p. 5 を参照せよ。 Sumner, `Two Theories of the Good' も参照せよ。

*)。 徳の客観的な善さが肯定的に意味するものは、徳に対して与えられる個々の解 釈に依存する。我々がさきに見たように、あるアプローチでは、徳の善さは徳 が本質的な人間特性(たとえば理論理性や実践理性)に対して持っている結び付 きによって基礎づけられる。また別のアプローチでは、徳の善さを称賛すべき 性格特徴から導きだしている。しかし、いずれのアプローチにおいても、徳の 候補となる事物の価値は、行為者がそれを(実際であれ仮定的であれ)欲求する かどうかに依存していない。たとえば、勇敢さは勇敢でありたいと欲求しない 人が持っている場合でさえ、やはり有徳な特性としてみなされるであろう (*

フィリッパ・フットは、彼女のよく知られた主張、すなわち、「我々は、なに かを追及する理由を、それがなんらかの我々の欲求と適切に結びつけられない かぎり、もつことはできない」という主張 (`Morality as a System of Hypothetical Imperatives' in Virtues and Vices を見よ) を仮定すれば、このことを認めるだろうか? おそらくそうであろう。という のは、何ヶ所かでフットは、有徳な人物は人間の善い模範であると提案してい るからである。そうするとフットの考えは、以下のようになるだろう。すなわ ち、ある人はそれがなんらかの欲求に奉仕しないかぎり有徳になるという理性 を持つことができない一方、有徳になることの善さは、その欲求に 依存しない。 「『良いF』『良いG』形式の命題は一般に、選択の理由と直接の関係をもたない」 (`A Reply to Professor Frankena', in Virtues and Vices, p. 178) `Goodness and Choice' in Virtues and Vices, esp. pp. 145-7 も参照せよ。

*)。 さらに徳は、ある人生を送っている人が(実際にあるいは仮定的に)徳を持ち たいと欲求していないとしても、その人の人生に価値を与えうる (*

このことは、徳はある人の善き生を増大させるということではない。徳倫理学 者の間にも、徳が私にとって善いもの、「私の生をより豊かにする」 ものであるかどうかについては、不一致がある。さきに見たように、フィリッ パ・フットは、徳は一般に(すなわち正義や善意をのぞけば)その所有者をより 豊かにすると主張する。しかし、マイケル・スロートはそのような一般的な主 張を拒否する。 From Morality to Virtue, p. 209 を見よ。
私は徳の特徴的な倫理は、称賛すべきものと徳の概念を、個人的な善や善き 生とむすびついた概念へと還元したがるであろうという可能性を除外してい る
pp. 8, 130 も参照せよ。

以下のように質問するものもあるだろう。ある特徴的な人間の卓越性を獲得し た人は、もしそのような卓越性をもつことを(実際であれ仮定的であれ) 欲求 しないとしたら、善い生を送ることができるかどうか、と。と いうのは、善い生をおくることは、除去できない主観的な要素をも つと主張できるからだ。 Gregory W. Trianosky, `Rightly Ordered Appetites: How to Live Morally and Live Well', American Philosophycal Quartey 25 (1988), pp. 1-12 を参照せよ。

*)。 したがって、選好功利主義者は、我々が特定の性格特徴をそれ自体のために持 つことを欲求するという意味において、性格特徴が内在的な価値をもつという ことを認めるかもしれないが、一方で彼らは、徳の価値をこうした仕方で欲 求から独立したものとは認めないであろう。

しかし、(c)と(d)によって徳倫理はさまざまな形式の功利主義から区別される 一方、還元できない複数の内在的客観的な価値という考 えをうけいれる形式の帰結主義と徳倫理が異なっているかどうかは解決されな い。たとえば、帰結主義者のなかには還元できない複数の内在的な客観的な価 値が少なくともふたつ(たとえば普遍的な善意や公正さ)あると信じるものがい る。他方、そのような価値には非常に多くの種類がある(たとえば幸福、知識、 目的ある活動、自律、連帯、尊敬、美)と信じるものがいる (*

たとえば、 T. M. Scanlon, `Rights, Goals and Fairness', in Scheffler, Consequentialism and its Critics, pp. 74-92; Railton, `Ailenation, Consequentialism, and the Demands of Morality', pp. 108-10; Hurka, `Virtue as Loving the Good'; Hurka, Perfectionism (1992), pp. 71-8; `Ideal Utilitarianism' of G. E. Moore, in Principle Ethica (Cambridge: Cambridge Univeristy Press, 1903), ch. 6; Hastings Rashdall, in The Theory of Good and Evil, vol.1 (Oxford: Oxford University Press, 1907), chs. 7 and 8 を参照せよ。 David McNaughton と Piers Rawling は `Agent-relativity and the Doing-happening Distinction', Philosophical Studies 63 (1991), pp. 168-9 で帰結主義者がいかにして複数の内在的価値を認められるかをよく説明している。 Derek Parfit, Reasons and Persons (Oxford: Clarendon Press, 1984), p. 26; David Sosa, `Consequences of Consequentialism', Mind 101 (1993), pp. 101-22. も参照せよ。

*)。 このような形式の帰結主義から徳倫理を区別するものがあるとしたら、いった いどのようなものであろうか。

いかなる形式の徳倫理においても本質的であるふたつのさらなる主張が、ほ とんどの形式の帰結主義と区別するのに役立つ。

(e)内在的善のなかには行為者に相対的なものもある。

*)

徳倫理が人間らしい開花した生を構成するものとしてみなす様々な善のなかに は、(例えば友情や高潔のように)不可避的に行為者に相対的とみなされるもの もあるし、他方で(例えば正義のように)行為者に中立的であると特徴づけた方 がより適切だと考えられるものもある。ある特定の善を行為者に相対的なもの であるとして記述することは、それが私の善であることによって、 その善に対して(私にとっての)付加的な道徳的重要性が与えられる と言うことである。対照的に、行為者中立的な善は私の善であることからその ような付加的な道徳的重要性が生じることはない (*

これは、行為者相対的な価値は集団的なものとして理解されねばならないとい うことを示唆するという意味ではない。ある特定の特徴や活動の価値を「行為 者相対的」として記述する際、その質的な性格に関する主張をすることになる だろう。

*)。 たとえば友情は、行為者中立的な善とも、行為者相対的な善とも考えられるだ ろう。前者の場合、内在的に価値があるのは友情それ自体であるだろう。そし て、友情は行為者中立な価値であると信じる複数論的帰結主義者は ---たとえ ば社交クラブを設立することによって--- 友情それ自体を最大化(少なくとも 促進)せよと命ずるであろう。しかし、友情の価値を行為者相対的とする説明 では、ある関係が私の交友関係であるという事実は、たとえばその 関係とは競合するあなたの交友関係の主張に比べ、私の行為に対してより大き な道徳的重要性を与えるだろう。徳倫理は、友情(または他のいくつかの徳)を、 後者の意味において価値あるものと見る。私の友人に対して友好的な行為をす ることが(たとえば新しい同僚のためにパーティを催すこと)、他の人々との友 情を促進することと衝突するとしても、それでも私は友人のために行為したと いうことに関して正当化されるであろう (*

Stocker, Plural and Conflicting Values, pp. 313-14 および Dreier, `Structures of Normative Theories' を参照せよ。

*)

主張(e)によって、徳倫理はほとんどの形式の帰結主義(一元的であろうと多 元的であろうと)と区別される。というのは、ほとんどの帰結主義者はすべて の価値は行為者中立的だと考えるからである (*

実際、Samuel Scheffler ( Consequentialism and its Critics の序文)や The Limits of Morality (Oxford: Clarendon Press, 1989) でのシェリー・ケイガンなど、すべての徳の行為者中立に対する信念を、帰結 主義理論の必須条件とみなす理論家もいる。

*)。 しかし、行為者相対的だとして特徴づけるのが適切な価値もあるということを 帰結主義者は認められないことについての原理的な理由はないように思われる。 実際、帰結主義者のなかにはある特定の価値(たとえば友情や誠実)は不可避的 に行為者相対的だということを認めるものもいる (*

たとえば、 Railton, `Alienation, Consequentialism, and the Demands of Morality' および Sosa, `Consequences of Consequentialism' を見よ。

*)。 しかし、このような帰結主義者のほとんどは、徳倫理によってなされる次の主 張を支持するまではいかないのである。

(f)正しく行為することは、善を最大化することを要求しない

*)

ほとんどの形態の帰結主義の核となるテーゼは、善が一元的であろうと多元的 であろうと、主観的であろうと客観的であろうと、全面的に行為者中立的であ ろうといくつかの事例においては行為者相対的であろうと、正は善を最大化す るということを要求する、という考えである。対照的に、徳倫理は正しさの論 理としての最大化を否定する。そこで、他者の友情を促進することより 私の友情を大事にしてよい場合においては、私の友情を最 大化することを徳倫理は要求しない。また、私が持ちうるもっとも善い友情 をもつことも要求はしない (*

最大化しない者としてのアリストテレスについては、 Stocker, Pliral and Conflicting Values, pp. 338-42; Cooper, Reason and Human Good in Aristotole, pp. 87-8, and ch. 2 を参照せよ。

*)。 むしろ私は、こうした関係を適切に支配するのにふさわしい規範に照らして 優れた友情をもつべきであって、かつ優れた友情は私が持ちうるもっ とも善い友情であるとはかぎらないのである。徳倫理学者は以下のように主張 する。私の友人に対し行為する際、私は友情が含むものの適切な規範的な考え 方(たとえばアリストテレスが Nicomachean Ethics IX, 9 で述べたよう な性格と友情の説明) によって導かれるべきである。

(a)から(f)までの主張は、徳倫理のすべての形式によってなされる。そして [徳倫理の]理論の様々な種類は、それらのうちのどの主張を強調するか、それ らの主張をなす理由はなにかということにしたがって区別されうる。それでも、 自分のことを徳倫理学者とは呼ばない(あるいは少なくとも明示的にはそう言 わない) 哲学者のなかには、カント主義、功利主義、帰結主義の理論に対する 批判の一部として、これらの主張のうちひとつあるいはそれ以上を支持する者 もいる (*

例えば、 Samuel Scheffler, The Reflection of Consequentialism (Oxford: Oxford University Press, 1982); Samuel Scheffler, Human Morality (New York: Oxford University Press, 1992); Michael Stocker, Plural and Conflicting Values; Bernard Williams, `Persons, Character, and Morality', in his Moral Luck (Cambridge: Cambridge University Press, 1981) を参照せよ。

*)。 しかし全体として考えた場合、これらの主張はよく知られている形式のカン ト主義、功利主義、帰結主義とは明らかに異なる代案を徳倫理がいかに形づ くるかを示すのに役立つ。

2 生命倫理学への徳倫理的アプローチ

最近の徳倫理の擁護者たちの著作から明らかになりつつあるように、徳倫理は 生命倫理に対し大いに貢献するところがある。徳倫理は、生命倫理のよく知ら れている問題の多くに関してこれまでと違う新しい見方を与えており、また 標準的な功利主義的および義務論的アプローチでは適切に扱えないことがすで に示されたか、あるいはまったく無視されてきたようないくつかの重要な問題 をあつかっている。徳倫理学者からかなりの注目をあびてきた生命倫理学の諸 分野には、妊娠中絶、安楽死、医療の実践などがある。 生命倫理学に対する徳倫理的アプローチの優れた一例は、ロザリンド・ハース トハウスの妊娠中絶倫理の画期的な本 Beginning Lives (1987) (*

Oxford, Blackwell, 1987

*) である。ハーストハウスは、母親と胎児の競合する権利についての伝統的な議 論は、妊娠中絶の道徳性に対してはそもそも無関係であると主張する。個人は その権利を有徳な仕方でも悪徳な仕方でも行使できるのであるから、ハースト ハウスによれば、ある女性が妊娠中絶を決断することの道徳性は、その女性が 自分のおかれた個々の状況において妊娠中絶を決断する際に示す性格の種類に 大きく依存する。たとえば、外国で休暇をすごすために七ヶ月の胎児を中絶し ようと決めることは冷淡で自己中心的である。また、母親になることを恐れて 胎児を中絶するのは、その他の点では親となるのに適当な状況にあるとしたら 臆病である。しかしながら、未成年の女性が母親になる心づもりがまだでき てないと感じて中絶する場合は、そうすることによって自分の現在の成長段 階に関して適切な謙虚さを示すであろう。ハーストハウスは以下のように主張 する。すなわち、これらの判断が適切であるのは、

一般に親であること、とりわけ母親であることと育児は、内在的に価値ある ものであり、[そして]人間らしく開花した人生を構成するものの一部分だと 正しく考えられるもののひとつ (*
Hursthouse, ``Virtue Theory and Abortion'', op. cit., p. 241; Hursthouse, Beginning Lives, op. cit., pp. 168-9, 307-18 も参照せよ。

*)

だからである。女性の妊娠中絶の決断に対するこれら徳ベースの評価はまた、 以下の事実を反映している。すなわち胎児を中絶することは(たとえば腎臓を 摘出するのとは異なり)、新しい人間の生命を断つことを意味しており、この ことはほとんどの場合道徳的に深刻なこととしてみなされるべきものであ る、という事実である (*
Hursthouse, ``Virtue Theory and Abortion'', op. cit., p. 237; Beginning Lives, op. cit., pp. 16-25, 50-8, 204-17, 331 も参照せよ。

*)

ハーストハウスの妊娠中絶に対する徳倫理的アプローチによって、女性が中絶 を決断することは場合によっては不正に行為していることになりうる理由が大 きく二つあるということが明らかにされる。第一に、その女性は親 であることの内在的な価値と、人間らしく開花した生にとって親になることが いかに重要かを理解していないことを示しているかもしれない。第二に、その 女性は新しい人間の生命を断ち切ることをしかるべき深刻さなしに決断してい るかもしれない。ハーストハウスは、このような不正の可能性[欠陥]はまた、 重度の障害をかかえた幼児を死なせる決断やあるいは人間の胚に関する実験に ついての決断をする個人によっても示されうるだろうと簡潔に主張している。

生命倫理における徳倫理のアプローチのもうひとつの例は、フィリッパ・フッ トの安楽死に関する影響力ある議論である (*

Philippa Foot, ``Euthanasia'', op. cit.

*)。 フットは安楽死の概念を分析し、以下のように論じている。すなわち、死を望 むことによって死が必ずしもその人にとって善になるわけではなく、むしろ死 は、その人の人生が最低限の基本的な人間の善(たとえば自律、友情、精神的 な援助)を欠く場合にのみ、善となりうるのである。フットの主張によると、 正義や慈善の徳は、そのような基本的な人間の善が欠けた状況では判断力ある 個人の「殺されたい」という要求を満たすことを認めるのである。フットはま た、これらの徳の観点から生を終わらせる(end-of-life)決断を分析すること によって、殺すこと(killing)と死なせること(letting die)の重要な道徳的差 異を明らかにすることができる、とも論ずる。通常の状況では、正義も慈善も、 ともに我々に人を殺さないことを要求する。またどちらの徳も、合理的にみて 人々を助けられる場合には、その人々を死なせないことを我々に要求する。さ らに、最低限の基本的な人間の善を欠いた生を送る人が殺されたいという心か らの要求を表明したときには、正義と慈善はともにそのような行為が遂行され ることを許容するであろう。しかし、そのような人が殺されないこ とを要求し、苦痛のうちに死ぬままに放っておいてほしいと望む場合、これら ふたつの徳の要求は異なるものとなる。つまり、慈善は普通はそのような状況 では殺すという行為を許すであろうが、正義はそうすることを禁ずるのである。

徳倫理はまた、専門家の役割に関する倫理的な問題に対して、自然で説得力あ るアプローチを提供する (*

さらなる議論については、 Justin Oakley and Dean Cocking, Virtue Ethics and Professional Roles, Cambridge, Cambridge University Press(近刊) を参照せよ。

*)。 徳倫理は専門家の役割の倫理を研究するのに特に適しているが,それというの も(商売とは異なり)専門職の本質の特徴的な部分が、たとえば人間 らしく開花した生に関する徳倫理の説明において見られるような、重要な人間 の善の役に立つことを目指しているからである。また、ある特定の専門家(た とえば医者)の目的は、人間一般に特徴的な役目よりも明らかで、具体的であ る。そして、このような専門家の目的が、開業者自身によって重要な行為の指 針とみなされているということは、しばしば明白である (*

もちろん、たとえば健康(医学の目的)が何に帰するかということについては、 かなりの不一致がある。しかし、医者は、そのような不一致があるからという だけで、その職業の目的によって行為を導くという考えを見当違いだとか不適 当だとかみなしたりはしない。結局、多くの医者が、医療資源の割り当てに比 例して、会計士としての役割もひきうけることを促進するという先進国の動向 に抵抗する理由は、おおくは患者の健康という目的に役立とうとする関心に導 かれてのことなのである。

*)。 エドモンド・ペレグリノとデヴィッド・トマスマは、医療活動における徳の説 明が必然的に医の哲学に基礎をおくということを示したが、それは重要な人 間的活動としての医学にはどのような目的が適切で特徴的であるかを論証す るという仕方によってである (*

Edmund D. Pellegrino and David C. Thomasma, D. C., The virtues in medical practice, New York, Oxford University Press, 1993

*)。 医療活動に対する徳倫理的アプローチによって、患者の介護における問題を検 討する際、通常は医者と患者の関係や、その関係において医者にとって重要 な性格特徴の種類(たとえば正直、同情、高潔、正義)を見るのである。そこで このアプローチによれば、医者は真実を告げるべきなのはインフォームド・ コンセントや患者の自律に対する尊重が重要だからというよりはむしろ、それ が正直の徳を持つことに含まれるからなのである (*

James F. Drane, Becoming a good doctor: the place of virtue and Character in medical ethics, Kansas City, Sheed & Ward, 1988, pp. 43-62; Stanley Hauerwas, ``Virtue and character'', in W. Reich (ed.), Encyclopedia of Bioethics, 2nd ed. (Vol 5), New York, Macmillan, 1995, pp. 2525-2532; Gregory Pence, Ethical options in medicine, Oradell, Medical Economics Company, 1980; Earl Shelp (ed.), Virtue and medicine, Dordrecht, Reidel, 1985 を参照せよ。

*)。 しかし、よい医療活動において有徳な性格の特徴の重要性を認める者のなかに は、徳ベースのアプローチをとらず、むしろそのような説明を、基 本的に義務論的、功利主義的な道徳に必要な実践的補足を提供するものとして 考える者もいるのである (*

例として、 Pellegrino and Thomasma, op. cit.; Tom L. Beauchamp and James F. Childress (eds.), Principles of bioethical ethics, 4th ed. New York, Oxford University Press, 1994; R. M. Hare, `Methods of bioethics: some defective proposals', in L. W. Sumner and Joseph Boyle (eds.), Philosophical Perspectives on Bioethics, Toronto, University of Toronto Press, 1996 を参照せよ。

*)

3 徳倫理に対しよくなされる二つの批判

多くの批判が倫理に対する徳ベースのアプローチについてなされてきた。私は とりわけ重要と思われるふたつの批判を記述し、徳理論家がどのようにそれに 答えるかを概説しようと思う。これらの反論のどちらも、徳倫理が((a)で述べ られたように) 「有徳な行為者ならばするであろう行為」を正しい行為の決定 要因とする主張を問題としている。

ひとつめの批判は、徳の概念は正しさの基準の基礎として役立つほど十分に明 らかで詳細であるかどうかという疑問を提起する。多くの著作家が、この正し さの基準はあまりにあいまいなので、倫理学における容認しうる正 当化の根拠にはなりえないと主張する。我々はどうやって基本的な徳がなんで あるかを決定し、そしてそれゆえ有徳な行為者とはどのような人であるかとい うことを決定するのだろうか? そして、たとえもし我々が有徳な行為者の性 格を確立できたとしても、そのような模範を実際へと適用する仕方は不明瞭で ある。人々が置かれている非常にさまざまな状況において、有徳な行為者なら ばどのように行為するか? さらに、有徳な性格特徴は複数あるので必ずしも すべての有徳な人々がこれらの特徴を同じだけ持っているとは限らないであろ う。したがって有徳な人々はある特定の状況において必ずしも同じように反応 するとはかぎらないであろう。たとえばある一連の状況における正しい行為は、 正直な人ならばなすだろう行為であろうか、あるいは親切な人、あるいは正義 の人ならばなすだろう行為であろうか? そして、有徳でありうる性格の幅が たとえこの例で示唆されているよりも小さかったとしても、有徳な人ならばあ る特定の状況でどのように行為するか、我々はどうやってること ができるだろうか。ロバート・ローデンが述べているように、

道徳的徳のまさにその本性のゆえに、徳志向(virtue-oriented)のアプローチ から合理的に期待しうる道徳的困難に対する助言の量は…非常に限られたも のである。我々はもちろん、有徳な人ならばなすであろう行為をなすべきで あるが、仮定的な道徳的模範的人物がもし我々の立場にあったとしたらどの ように行為するかを推測するのは、必ずしも容易なことではない (*
Robert B. Louden, ``On Some Vices of Virtue Ethics'', American Philosophical Quarterly 21, 1984, p. 229. アリストテレス自身は、徳は行為の指針とならないという反論 (non-action-guidingness-of-the-virtues objection) に対しある程度は責 任があると考えられるかもしれない。なぜなら、彼は徳や有徳な行為の有用 な例を提示する一方で、倫理的徳は「実践的な知を持つ人物がするような仕 方で」決定される、とも述べるからである。 (NE 1107a。Korsgaard, AOF&V, p. 277 に引用されている)

*)

さらに悪いことに、どのような行為が正しいかを知ることなしに有徳な行為 者がどのような人であるかを決めることはできるのだろうか? もし正しい行 為が有徳な人ならばするであろうことによって与えられ、しかし行為の正し さを見ることによって誰が有徳な人物かを決定せねばならないとしたら、(a) での徳倫理の要求は循環してしまう。

さて、その批判がここで「ある特定の人ならばするであろう行為」に訴えるこ とについての一般的な懸念を表明しているかぎりでは、そのような訴えは様々 な分野での正当化においてごくあたりまえに、しかも首尾よく用いられている ということを思いだす価値がある。たとえば職についたばかりの新米の医者や 弁護士は、自分がある仕方で行為したことを、これは自分の職業の指導者なら ばこの場合になしたであろう行為だと指摘することによって正当化することも ある。そして実際、そのような正当化は何がなされるべきか通常の手続きでは 十分に決められない状況では非常に重要である。また、裁判所もしばしばある 人の過失行為に対する法的な責任を決定する際には、合理的な人物ならば予見 しただろう帰結についての主張にかなり頼っている。さらに、そのような訴え に対する一般的な懸念は、ある行為の正しさは部分的には合理的な人物が行為 者の立場にあったならば予見したであろう帰結に訴えることによって決定され ると主張する、多くの現代の帰結主義理論にもあてはまる。

しかし、他の分野においてはそのような訴えに頼ることを認める者でも、その ような基準に対して徳倫理が行う特定の訴えに関しては、不安をもつことが十 分にありえる。というのは、行為の帰結に対して合理的な予見を持つとはどう いうことかを決めることは、有徳な性格を持っているとはどういうことかを決 めるよりもはるかに簡単でありうるからだ。そして、有徳な人ならば所与の状 況においてどの種類の有徳な性格特徴に基づいて行為するかを決定するのは、 合理的な人物ならば所与の行為のどのような帰結を予見するかを決定すること より、はるかに困難でありうる (*

James Rachels, The elements of moral philosophy, 2nd ed. Englewood Cliffs, Prentice-Hall, 1993 を参照せよ。

*)

さて、有徳な行為者の性格の本性を確立するのは、実際複雑なことである。し かし、徳倫理はこのことを正しい行為に関するなんらかの先行する説明から導 き出すのではないということは忘れられるべきではない。むしろ上で説明され たように、どのような性格特徴が有徳としてみなされるかはそれらが人間的な 開花と関わっているのかどうか、あるいはそれらが称賛すべきものであるのか どうかによって決定されるのである。確かに、徳倫理は(アリストテレスが述 べたように)正しい行為の「アルゴリズム」をもたらしはしないし、また徳倫 理の正しい行為の基準はおそらく、帰結主義理論が与える基準に比べて精密に 特定しづらく、また適用が困難であると言える(もっとも、おそらくカント主 義理論が与える基準に比べるとそうは言えないかもしれないが)。しかし、こ のことによって徳倫理は倫理的な正当化に対して容認しうるアプローチを提供 するという主張が損なわれると論じるのは、おそらく過剰反応であろう。とい うのは、徳倫理学者はしばしば、特定の状況で有徳な行為者がどう行為したか、 またどう行為するであろうかということについてかなり詳しく述べるし、その 述べる内容は、我々が特定の状況でどう行為するのが正しいかを決定するのに 役立つからである。(善いカント主義者や帰結主義の行為者がするのと同じよ うに行為せよ、と助言する現代のカント主義や帰結主義理論の命令であっても、 徳倫理以上に精密であるとは限らない) またさらに徳倫理は、有徳な人物はど んな人でなにをするかについて正しい説明はただひとつしかないと主張する必 要はない。というのは、時にはふたつの行為の仕方のどちらを選んでも、正し く行為したことになることを徳倫理は認めることができるからだ。すなわちい くつかの状況では親切な人ならばしたであろう行為をしても、あるいは正直な 人ならばしたであろう行為をしても、やはり正しく行為したことになる (*

Rosalind Hursthouse, ``Normative virtue ethics'', in Roger Clisp (ed.), How should one live? Essays on the virtues, Oxford, Clarendon Press, 1996, p. 34 を参照せよ。

*)

徳倫理のふたつめの主要な批判はひとつめよりも根本的であるが、それという のもこの批判は、たとえば上述の(a)で徳倫理により与えられたような純粋に 性格ベースの正しさの基準が説得力を持つかどうかを問題にしているからであ る。すなわち多くの人が主張したところによると、有徳な性格をもつ行為者な らばしたであろうことに言及することは、(有徳な性格特徴がどれだけ精密に 特定可能で、統一されたものであろうとも) 行為を正当化するには十分ではな いのである。この批判を支持するため多くの著作家は、きわめて有徳な性格を もつ人々であってもときに有徳な性格特徴のせいで不正に行為してしまうこと があると主張する。たとえば善意ある医者ならば、末期ガンという診断を患者 に知らせずに患者の家族にだけその診断を知らせ、患者をだますことに加わっ てくれるよう求めるかもしれない。あるいはあわれみ深い父親ならば、彼の行 為が長期的には彼の家族を深刻な窮乏に導いてしまう結果になりうるというこ とを十分に考えることなく、家族のたくわえのほとんどを価値ある慈善に寄付 するかもしれない。同様に、監獄の病院で有罪の殺人犯を看護しているあわれ み深い看護婦ならば、患者の貧しい生い立ちの話に心を動かされたあまり、患 者が脱獄しようとしたとき故意に警報を鳴らさずにいるかもしれない。ロバー ト・ビーチが以下のように危惧している。

私はお人好しで不器用な慈善家たちが心配である。彼らは、医療、法律、そ の他エリート主義の傾向でもって善意の徳を強調する強力な歴史をもつ職業 において、異常なほど高い頻度で存在するように思われる (*
Robert Veatch, ``The Danger of Virtue'', Journal of Medicine and Philosphy, 13, 1988, p. 445

*)

もし我々が、完全に有徳な人々でさえときに有徳な性格特徴のせいで不正に行 為してしまうことがあるということに同意するならば、このことは上の(a)に おける徳倫理の正しさの基準のもっともらしさに、強い疑いをなげかけるよう に思われる。多くの批判者がこうした道徳的に的外れな行為の例に導かれて、 徳倫理は不完全であり、それゆえ義務論や功利主義の正しさの基準によって援 助されねばならないと主張するに至ったのである (*

Frankena, op. cit., pp. 63-71; Pellegrino and Thomasma, op. cit.; Rachels, op. cit.; Julia Driver, ``Monkeying with motives: agent-basing virtue ethics'', Utilitas, 7, 1995, pp. 282-8; Hare `Methods of Bioethics', op. cit.; Beauchamp & Childress, op. cit., pp. 62-9. を参照せよ。

*)

さて、徳理論家のなかには、有徳な行為者がそのような場合にほんとうに不正 に行為するかどうかを問題にするものもいる(例えば Slote 1995 を見よ)。し かし、心配されている行為者がそのような場合にほんとうに不正に行為してい るのだと仮定しよう。徳倫理がそのような道徳的不適当を大目にみることに同 意すると考えることはできない。というのは、ほとんどの徳は単に善い動機や 善い性向をもつという話ではなく、自分の行為が徳の命じることを実現できる ようにするという実践的な面をもっているからである。それゆえ、行為者は有 徳な性格を持つとここでは仮定しているものの、本当には彼は有徳な性質をど の程度持っているのだろうか、ということが問題になってくるかもしれない。 末期ガンという診断を患者に知らせず、自分の本当の容体を知ることないまま 死なせるのは本当に善意の行為であろうか? あるいは、問題の有徳な性格特 徴を行為者がどの程度持っているか、ということについては疑問がない行為の 場合でも、その状況で適切な何か別の徳を行為者が欠いているかもしれない。 かくして、父親は彼自身の家族に対する忠誠の感覚は不十分だと思われるし、 また看護婦の正義感も不完全であるように思われる。

徳がものごとを規制する理想であると考えると、徳倫理がこの批判に対処しや すくなる。なぜなら、善い動機や善い意図からなされた行為であっても、その 人が性向によって規範的に支持している卓越性の適切な基準に達しないかもし れない、という可能性が認められるからだ。たとえば、ふさわしい仕事をみつ けるのに絶望している友人を助けようとして、私は彼のチャンスを妨げている と考えられるある弱点を彼に注意するかもしれない。しかし、私はのちに、私 は友人の絶望の本性と深さを十分に理解していなかったためあの時注意したこ とは失敗であり、またあのようなコメントはあのような状況で善い友人に合理 的に予期されることとは反対だったと気づくかもしれない。有徳な人物が特定 の状況で規制的な理想が命じるとおり行為するのに失敗するさまざまな理由 (たとえば誤った信念、不十分な注意や配慮や行動力、あるいは単なる不運) がある。それでもなお徳倫理の規制的な理想は行為の評価に対する基準を提供 し、我々はその基準によって善い動機や善い意図から行為することは正しい行 為には必要である一方 (*

善い動機から行為することは、友情や勇気など、動機依存(motive-dependent) の徳に必要である。しかし、正義のような、ある種の徳はそのような動機の必 要をもたない。すなわち、正義に適った行為をすることは、正義の 性向 (disposition) から行為することを要求する一方、(正義の) 動機 (motives) から行為するということは要求しないかもしれ ない。

*)、 行為が正しくあるためには十分ではないと理解できるのである。したがって徳 倫理はヘアが我々に教えるように、「きわめて有徳な人がひどいことをするこ とは可能である」 (*

Hare, `Methods of bioethics', op. cit., p. 27

*) と認める。

しかし、批判者は以下のように主張することで反論するだろう。すなわち、き わめて有徳な人でもしてしまうと彼が示唆している種類のひどいこととは、行 為者がある特定の有徳な性格特徴を不十分にしか発達させていなかったことに より生じた行為ではなく、またその状況に適切ななにか他の有徳な性格特徴を 欠いているせいで生じた行為でもない。むしろこの反論は、必要な徳を卓越性 のある段階にまで修得した行為者が、それでもなお悪または不正と思われる仕 方で行為するという例に基づくのである。しかし、批判者が心にいだいている と思われる種類の例をより詳細に検討すると、この反論が実はいかに極端であ るかがわかる。この検討によって、そのような事例で徳倫理のアプローチが出 す答が誤りであって信頼できない、ということはおよそ明白でないとわかるだ ろう。 十分に発達した徳をもつ人がなにかひどいことをすると言われうる事例の一つ は、行為功利主義を攻撃するためにH・J・マクロスキーが使った有名な例によっ て説明できる。その例は、米国西部地方の町の保安官が、町の人による破壊的 な暴動を防ぐためにはひとりの無辜の人にぬれぎぬを着せるほかないと知って いる、というものである (*

H. J. McCloskey, ``A Note on Utilitarian Punishment'', Mind 72, 1963 を参照せよ。 マクロスキーの例は、正義の徳とのつながりで、Crisp, op. cit., pp. 156-7 で議論されている。

*)。 この保安官は適切に正義の徳を修得しており、この徳から行為して無辜の人 にぬれぎぬを着せまいと決断し、それによって破壊的な暴動がおきることを助 けたとしよう。徳倫理の批判者によると、保安官はこの場合、正義の徳から 行為したにもかかわらず不正に行為したことになるのである。しかし、これ が批判者が心にいだいている種類の例であるとしても、徳倫理の正しさの基準 を否定するそれほど強い論拠であるかどうかは明らかでない。というのは、こ のような例を提示された多くの人は、保安官がその発生を助けた破壊的な暴動 が、この場合の保安官の決断を不正なものとするということはおよそ明白では ないと思うだろうからだ。実際、保安官のここでの決定が不正であるかどうか に関しては、功利主義者達自身の間でさえ不一致がある。行為功利主義者な らば、保安官は不正に行為したと言うであろう。一方、規則功利主義者は、こ の場合保安官が発生を助けた悪い帰結にもかかわらず、もし万人が持てば全体 の効用を最大化する性向(正義の感覚) から行為したがゆえに、彼は正しく行 為したと言う傾向がある (*

クリスプやレイルトンのような「最善の見込み」(best-bet)行為功利主義者あ るいは行為帰結主義者ならばその行為を不正と判断するだろうが、たまたま不 正な行為を生じたからといって、その保安官は、正義であろうとする自分の性 向を変えるべきだ、とは必ずしも主張しないだろう。
しかし、いかなる性質をもつべきかに注目する(そして、それに対し「最善の 見込み」のあるアプローチをとる) 功利主義者は、以下のように言うであろう。 (Crisp U&TLOV, p.156-7 で実際このケースが述べられているように) すなわ ち、保安官のこの場合の行為は不正だと言うことができる(ヘアならきっとそ う言うだろう) 一方、この場合の保安官の行為の結果は、正義に適った行為を する彼の性向を変える十分な理由とはならない。それどころか、なされた行為 の正しさを、それをなすもととなった性向の最適さに照らして決定するような 功利主義者(あるいはバドワーが呼ぶところの「間接的帰結主義者」(indirect consequentialist)) ならば、保安官の行為をそもそも不正とさえ言 わないであろう。(ただし、もちろん、破壊的な暴動を阻止できなかった点に おいて、保安官の行為は「不幸」なものだったとは認めるであろう)

*)

さらに、行為者が尊敬すべき性格特徴から行為したことによるひどい帰結が、 そのような状況での行為者の行為の適切な評価にいかに関係するかについて、 徳ベースのアプローチを用いない倫理学者の間でも多くの議論がある。行為者 が尊敬しうる性格特徴から行為したことによって生じたひどい帰結が行為者に よっても予見されず、あるいは合理的な人が行為者の立場にあったとしても予 見されえなかったような事例においては、多くの倫理学者は実際主義者の主張、 すなわち(予想外ではあるが実際に)生じたひどい帰結によってこの場合行為者 の行為は悪いものとなる、という主張を拒絶する (*

(実際主義については、Smart, Jackson, Pettit (TMOE,p.128), Sosa と比較 せよ。加えて Driver in Crisp とも?) `moral luck' の題材も参照せよ。多くの者は、不幸な悪い結果はある人物の 不名誉とは主張したがらない(それでも不名誉と数えられるものもあるが)。ス ロートの純粋に行為者に基づく徳倫理は、この `moral luck' の問題をうまく 避けている。 (Slote, FMTV およびこれを批判した Driverの Utilitasも比較せよ) Roger Crisp `Utilitarianism of the Virtues'( op. cit., p. 155)では、 有徳に生きることは(もし大部分でそうしたら、それは「客観的に正しい生き 方」になるであろう。というのはそれは行為者の生涯すべてにわたって効用を 最大化する最高のチャンスを与えるという点、つまりBUの正しさの基準に従う ことを認めるという点においてである)、必ずしもすべての行為の期待効用 (expected utility) を最大化しないような生き方になるだろう。したがって、 あらゆる個々の行為において必ず効用を最大化するよりも {生すべてにわたって効用を最大化すること(またそうした性向を発展させる こと)に主要な焦点をおく実際主義者は(また、その点に関しては予想主義者も)、 それ自体として考慮すれば効用の最大化に及ばない行い(それどころか「ひど い行い」でさえあるかもしれない) をきわめて有徳な人々(すなわち善を最大 化する(optimific)な性向を持つ人々) が折にふれてするということ を認めるだろう。レイルトンやクリスプのような「最善の見込み」による(あ るいは「洗練された」)行為功利主義者・行為帰結主義者は、善を最大化する 堅固な性向から不可避的に帰結したたまたまの不正な行為を、その性向を変え る(まして拒絶する)十分な理由とはみなさないであろう。(ヘアもおそらく、 義務論的な決定手続きを適用した結果、不可避的に生じたと見る偶然の不正な あるいは最適ではない行為を、決定手続きを変えたり拒絶したりする十分な理 由とはみなさないだろう) また、ブランドのような規則功利主義者や性格功利 主義者ならなおさら、最適な性質から不可避的に生じたとみなされるたまたま 最適でない行為(あるいはひどい行為でも)を、そのような性質を変える(まし て拒絶する)十分な理由とはみなさないであろう。それどころか、後者の理論 家は、その性質によってなされた行為を不正とさえみなさないだろ う。

*)。 これゆえ、多くの帰結主義者がその主張を拒絶するが、それというのも我々が 先で言及したように、彼らは行為者の行為の評価は、実際の 帰結で はなく予想される帰結によって決定されると主張するからである。

そこで、徳倫理の批判者が予想主義の見地から彼らの反論を述べ、有徳な(あ るいは少なくとも尊敬しうる)性格特徴から行為する行為者が、その行為の 予想される悪い帰結のゆえに非難されると思われる例を指摘したと しよう。そのような例は、主観主義的(subjectivist)な形式の予想 主義という見地からでは、もっともらしく述べられないであろう。というのも、 そのような見地(主観主義的な予想主義)は先に述べたように、行為者の行為の 評価に影響する帰結はその行為が生みだすであろうと行為者自身が信 じている帰結であるからであり、有徳な行為者ならば、全体にひどい帰結を もたらすと信じている行為を自分の有徳な性格特徴に導かれたが故 に行なう気にはそうそうならないからである。しかし、客観主義的 (objectivist)な形式の予想主義という見地もあり、それによれば行為者の行 為から帰結する見込みが高いと行為した時に(たとえば蓋然性に関するある理 想的な観察者によって)正しく判断される帰結が重要(その蓋然性についての行 為者自身の判断が正しいか誤りかは関係ない)なのであるが、そうした形式か ら批判者が例を提示したとしたらどうであろうか。すなわち、もし行為者がよ く発達した有徳な性格特徴によって客観的にいってきわめて悪い帰結をもたら しそうな行為をなす気になったとしたらどうであろうか。たとえば、ある気前 いい人が、彼にはこじきだと思える人物にだまされて金を寄付するとする。し かし実際はその金をうけとったのは非情な手段でもって組織的に女性を抑圧す る宗教団体の一員だったとする。その「こじき」は外見がきわめてそれらしい ものだったので、まんまとだますことに成功する。さらに、寄付がなされたと き、金は団体が女性を抑圧するのに使われる可能性が客観的に高いとする。 (我々はさらに以下のように想像することもできる。すなわち、その気前いい 人は外国の町におり、そこではそのような詐欺があると聞かされていたが、そ のようなニセのこじきがいる地域をどうすれば避けられるかを地元の人に尋ね たとき不正確な助言しか得られなかった、と) この場合、客観的な予想主義者 ならば、以下のように主張するであろう。すなわち、その気前いい人は彼の気 前よさのせいで不正に行為したのであり、徳倫理の正しさの基準はそれゆえ誤 りである、と。しかし、その気前いい人が、この場合にニセのこじきに金を寄 付することで本当に不正に行為しているのかどうかは、およそ明ら かではないと思われる。それどころか一般的に言って、ある行為者が有徳な性 格特徴から行為したが、誤った信念を自分の落ち度とは言えないような仕方で 持っていたせいで悪い帰結が生じた場合、彼の行為が不正なのかどうかはおよ そ明らかではないと思われる。

これらの種類の例は、批判者の例が実はいかに極端なものかを明らかにするの に役立つ。というのは、それは、行為者の行為に対する実際のあるいは予想さ れる帰結以外の何かに重要性をおく、あらゆる正しさの基準に対す る反論になるだろうからである。それゆえそれは、徳倫理だけでなくカント主 義に対する反論にもなるし、このことに限って言えば規則功利主義や規則帰結 主義に対する反論にもなるだろう。これが倫理学説のすべての範囲に対してな されうるきわめて一般的な反論であり、そしてまた非常に多くの人が上の例に 関する批判者の判断を直観に反するものだと考えるということをかんがみるな らば、私はそれに対する私の返答をここでさらに続けるということは自分の責 務ではないと思う。

4 結論

近年徳倫理の運動は、カント主義的および功利主義的な倫理学説の特徴的で説 得力ある代替となる選択肢としての徳倫理の確率にむけて、大きな進展をみせ た。この過程において徳倫理は、これら伝統的なアプローチのいくつかの深刻 な欠点を暴きだし、また、道徳心理学、政治哲学、応用倫理学などの関連領域 において、新たな洞察を提供した (*

道徳心理学の分野では、 John McDowell, `Virtue and Reason', The Monist 62 (1979) をとくに参照せよ。 生命倫理では、 S. R. L. Clark, The Moral Satus of Animals (Oxford: Oxford University Press, 1977); Rosalind Hursthouse, Beginning Lives; Edmund D. Pellegrino & David C. Thomasma, The Virtues in Medical Practice (New York: Oxford University PRess, 1993); Gregory Pence, Ethical Optimism in Medicine (Oradell: Medical Economics Company, 1980) を参照せよ。 ビジネスエシックスでは、 Robert Solomon, Ethics and Excellence: Cooperation and Integrity(New York: Oxford University Press, 1992) を参照せよ。 政治哲学では、脚注8の文献表を見よ。

*)。 しかし徳倫理の中心的特徴はつねにかなり不明瞭なままにされてきており、そ のせいで徳倫理の長所を評価することは困難になっていた。徳倫理が提示する ものをよりよく理解し、判断するために、私は多くの形態の徳倫理を束ねる六 つの重要な主張を明らかにした。この結果生じる基本的な立場は、徳倫理がど のようにカント主義や功利主義と重要な仕方で異なっているかを示しており、 それゆえ、なぜ徳倫理が(そう考える哲学者もいたように) 性格ベースの形態 のカント主義や功利主義に単純に同化されえないかというとを説明している。 私はまた、生命倫理学の特定の問題に対する徳倫理の適用をいくつか概説する ことによって生命倫理学に対するより確立されたアプローチのやや紋切り型な 諸方法にかわる特徴的で有望な選択肢を、徳倫理がどのように提供できるかと いうことも示したつもりである。最近再生した徳倫理が、倫理学の分野におけ る不朽の特徴として生き残っていくかどうかは、まだわからないままである。 いずれにせよ、この議論が徳倫理の展望を明らかにするのに役立ったことを願 う。


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