23 倫理・法・メディアのクオリティ

アンドリュー・ベルゼイ

出典

Andrew Belsey, "Ethics, Law and the Quality of the Media", in Brenda Almond (ed.), Introducing Applied Ethics, Balckwell, 1995.

1 論旨

民主主義的な市民社会では表現や言論の自由は非常に重要な要素であるということを前提とし、筆者は米国と英国のメディアの置かれている状況を対比的に考察する。米国では憲法修正第一条により法的に表現の自由が保証され、法的規制によるジャーナリズムへの抑圧がないがゆえに各ジャーナリストは倫理性を追求することができる。憲法修正第一条がジャーナリズムの倫理的実践の必要条件であるといえる。一方、英国には政府による圧力や多くの法的規制が存在し、言論や表現の自由はかなりの制限を受けている。そこでジャーナリストのすることといえば法の抜け道を探し出そうと努力することであり、倫理性の追求は彼らの関心事とはならない。ジャーナリズムの倫理性やメディアのクオリティを高めるためには米国の法的枠組みのほうが優れており、それゆえ英国はジャーナリズムに対する法的規制を減らし、ジャーナリズムの自主的な取り組みにまかせるべきだ、というのが筆者の主張である。

2 導入

情報・意見の自由な流通は民主主義が機能するうえで重要な要素の一つであるが、それを担うメディアのあり方は国ごとに異なり、中でも倫理的・法的枠組みの違いがメディアのクオリティに影響を与えている。本論では主に英国と米国のメディアの差異を述べ、英国のメディアが置かれている環境がそのクオリティに深刻な影響を与えていることを主張する。

この問題について、クレイドマンとビーチャムのThe Virtuous Journaist(『有徳なジャーナリスト』)が有力な議論を提供している。それによると「米国や西欧民主主義国家で期待されていることは、公衆が市民の義務を果たすのに必要な情報をジャーナリストが与えてくれるということである。」集めた情報を自由に公開できる法的な特権や保護をプレスが持つことを正当化するのは民主主義的政治プロセスにおいてプレスが持つこうした機能である。この特権が米国で顕著であるのは米国憲法修正第一条によって法的に保護されているからである。しかし、二人の著書の主張を敷衍すると、法的に保護されたプレスの自由の伝統は倫理的ジャーナリズムの実践、すなわち有徳なジャーナリストであるための不可欠な背景であるばかりではなく、不可欠な「条件」でもあるという一つのテーゼを引き出すことができる。英国のプレスの倫理的不完全さや米国のプレスとの差異を説明するのは、そうした伝統の欠如である。

3 米国の状況

米国には修正第一条があるので、ジャーナリストは干渉やその脅威をそれほど心配する必要はない。その上、情報の自由に関する法制によって積極的自由が与えられており、法がジャーナリストの立場に立っているといえる。しかしその憲法による保証は絶対的ではない。プレスの自由を制限するのは、例えば名誉毀損などの法的制裁であり、この法的基準は英国のそれよりも厳しい。また英国のプレスに比べると米国のプレスには政府の情報を公開するより大きな自由が与えられているが、国家の安全に対する危険や生命への事実上の脅威が存在するような場合では、プレスの自由が他の憲法上の権利や自由より優先されることはない。さらにロビイストからの甘い言葉や脅しのような非公式な圧力に対しても憲法上の保証は無力である。一方で修正第一条を悪用して、例えばセンセーショナルなスクープ記事を書くなどの自らのプレスの自由を主張するものもいる。ここで重要なのは、米国には修正第一条が与える確固とした土台があるということであり、それゆえにジャーナリストはプレスの自由という理想を誤らせようとする者に反発できるのである。

ここで注意しておきたいのは、我々は修正第一条がジャーナリズムの倫理的実践の必要条件としてみることができるが、ジャーナリズムの倫理性まで保証するものではないということである。表現の自由を明記している憲法でさえジャーナリズムの倫理性を保証することはできないのである。実際、米国のジャーナリストは倫理を真剣に考え、倫理的実践を真剣に行っている。というのも法的な規制が無く、憲法による保護があるという状況では、かえって倫理的問題が前面に置かれ、ジャーナリストはそれらについての考慮を強いられるからである。クレイドマンとビーチャムは、これに関して「法的拘束からの自由はジャーナリストの特別な権利であるが、それは道徳的義務に関する一層の意識を要求する」と指摘する。その理由は、公表に関する法的自由があるからといって、その公表の道徳的正当化を常に意味することはないからである。実際にプライバシー侵害や差別問題などの倫理的問題に直面したとき、ジャーナリストが従うべき行動の指針が存在しない場合もあるので、ジャーナリストには応用倫理学者になる義務があり、倫理学説の何たるかやそれを実際に如何に応用するかを理解する義務がある。

クレイドマンとビーチャムが挙げるジャーナリストへの勧告は徳という考え方を用いており、それは「全てのジャーナリストが有徳なジャーナリストであれ」というものである。ここで二人は徳倫理を採用している。公正、正直、客観性などの徳目が提示されるが、有徳であるということは単に徳目のリストを知るということではない。それは有徳であることに実践性が伴わなければならないからである。日々生活をするなかで何らかの問題ある状況に直面した時、有徳な性格は新しい状況に古い原則を適応させることができる性格であり、このように原則と実用的な考え方を結合させることがジャーナリズムにおいては重要なのである。法的制裁があるからというよりも良い気質から倫理的に行動するジャーナリストのほうがよりよく社会に役立つことができるだろうということは、徳という言葉を嫌うジャーナリストでさえ同意するであろうとクレイドマンとビーチャムは結論付ける。ここからプレスの政治的・民主主義的保護や修正第一条が保証する米国の状況へと議論は戻る。こうした法的な保証の存在は、米国のジャーナリストがその倫理的実践を構成するのは何かという問いを真剣に受け止めることを可能にするばかりでなく、道徳的に責務付けるのである。つまりジャーナリズムを実践する自由はそのアウトプットの倫理的クオリティに関心を持つ義務を備えているのである。

4 英国の状況

英国の状況は米国のものとは非常に異なり、放送局に定期的な認可の更新が強いられているように、政治的な規制は厳しい。テレビやラジオ放送に関する委員会があり、その委員会は必要に応じて放送内容をチェックできる。それは実質上検閲のメカニズムに等しいものである。英国の放送メディアには公共の役に立ち、高品質を維持しようと政治的にコミットする風潮があり、また視聴者が放送内容について苦情を申し立てられる法定機関もある。しかしその裁定は満足のいかない場合が多く、その機関の有効性が疑問視されている。

一方、新聞には法的管理や規制が存在せず、十分な資本があれば、誰でも新聞の発行が可能である。新聞は新聞王や大企業に所有される傾向にあり、彼らが編集に口出しをすることが認められ、それによって新聞のクオリティが下がると考えられている。多くの英国人ジャーナリストはプロパガンダに利用するのではなく、単に利益のみを求める経営者を望んでいる。もしそうなれば、彼らはアウトプットのクオリティに関心を向けることができると思っているからだ。しかし、実際は商業主義それ自体に質を低下させる要素があるともいえるだろう。クオリティへの完全なコミットメントが欠けていることは「上質な」新聞とタブロイド紙という二極分化に反映されているのかもしれない。それでも報道機関は自主規制の試みとして苦情を受け付ける機関を設置し、倫理綱要を作成している。しかし、その活動内容には懐疑的な意見も少なくない。

さらに英国と米国との間には大きな法的な違いが存在する。英国には修正第一条のようなプレスの自由を保証する法律がなく、表現・言論の自由に関する条項(第十条)がある欧州人権規約は英国法に組み込まれておらず、裁判におけるその有効性も明確ではない。情報公開法のような積極的な自由も存在せず、英国のジャーナリストは米国のような特権を持たない。加えてメディアで公表されるものを制限する立法が五十以上もあり、その中には十分な正当化理由を持たないものまで存在している。それでも公務上の機密や名誉毀損などよく知られた重要な規制もあり、これらは実際にジャーナリズムにかなりの影響を与えている。

それよりも深刻な違いは米国と英国にける民主主義国家の意味の違いである。英国は成文憲法を持たない立憲君主制であり、いまだに多くの「国王特権」が認められている。この意味で英国民は「市民」ではない。このことが「市民の義務を行使するために必要な情報を市民に与える」というプレスの自由の正当化根拠を打ち消しているのである。英国の政治的伝統は自由なプレスという伝統をむしろ敵視しており、英国のジャーナリストは法の抜け道を探すことに時間を費やし、倫理的問題に目をむけることができない。

5 メディアのクオリティ、法か倫理か?

英国におけるメディアと当局(政府と司法)の間の闘争は1980年代初頭以降ますますさかんになっている。特に自身の機密に関して政府はその公表を抑圧しようとしてきた。この抑圧に対し多くの訴訟が起こされ、当初は政府が優勢であったが、次第に政府の機密を公衆が知るようになり、結果としてメディアが勝利を得たといえる。もう一方の闘争はタブロイド紙が主張する「権利」に関わる。例えば、タブロイド紙が政治家や芸能人などの公人の私生活を明かそうとしたが、これに対し政治家はプライバシー侵害の訴訟などの手段で対抗した。このようなプライバシー保護の名の下で行われた政府のプレス批判は国家機密の公開を強いられたことに対する、メディアへの報復として見られている。

プライバシーに関する立法は、プレスだけでなく社会の広い領域に関わる問題であり、プレスだけを規制することは困難であるばかりか不正でもあるということから、円滑には進んでいない。それでも議論すべき立法案が三つある。プレスを管理する法定機関を置くこと、プライバシー侵害に対し民事訴訟を起こし賠償金を請求することを可能にすること、情報を得るための私有財への侵入や盗聴器利用を刑事犯罪とすること、この三つである。境界例の取り扱いなど留意すべき点はあるが、第三の提案の正当化は最も容易である。しかし、第一・第二の提案の正当化は困難である。というのも、プライバシーに関するジャーナリストの一般的な行為の指針は以下の理由から、法の問題ではなく倫理の問題であるべきだからである。一つの理由は法規制がジャーナリズムに萎縮効果を与えるということである。また、これを政治的な文脈で解すれば、民主主義社会が機能しなくなる、ということも理由として挙げられる。さらに最初のテーゼに戻ると、法的に保護されたプレスの自由の伝統は倫理的ジャーナリズムの実践や有徳なジャーナリストであるための不可欠な条件であるから、プレスに対するこれ以上の法的規制は、英国のジャーナリズムの倫理性の向上を妨げるだけである。

6 クオリティへの問い

英国メディアには多くの法的規制や所有権の集中、情報の自由の不在などの問題がある。その解決のためには法的規制を増やすのではなく、減少させるべきであり、政府の機密の減少、開かれた政府がその出発点となる。またメディアの自主規制は民主主義の精神にも適合している。その時たんに禁止事項を定めた倫理綱要を作成するという消極的な方策によるだけではなく、ジャーナリストの倫理性を向上させるための倫理教育を行うといった積極的な取り組みも必要である。その一環として、プレスの自主規制機関はジャーナリストの適性(competence)の問題を重要視すべきである。ジャーナリストの適性は専門的な技術だけではなく、正直さや高潔さなどの道徳的資質も含まれる。

7 まとめ

しかし、上述のテーゼに対する反論もある。それは米国とは正反対の伝統を持つ国のジャーナリストにも有徳な人が大勢いるということである。確かに上述のテーゼには限定が必要である。政府の迫害や違法な活動などの脅威にさらされ、法的な保護を欠いているにもかかわらず、彼らは修正第一条のようなプレスの自由をもたらそうと努力しているがゆえに、有徳なジャーナリストたりうる条件を備えているのである。近い将来、コンピュータネットワークや衛星放送の発達によってメディアを取り巻く環境は大きく変化するであろう。これに対し法的規制によってのみ対処することはおそらく困難であろう。このことはメディアのクオリティは法の問題ではなく、倫理の問題であるという本論の主張に対するさらなる裏付けを提供するであろう。


(三輪恭久)
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