9 「潜在性」をめぐるヒト胚研究の応用倫理学的問題

---ヒト胚小委員会報告書(平成12年2月)を受けて---

松王 政浩

1998年11月6日発行のサイエンス誌に、アメリカ・ウィスコンシン大学のJ.トムソンのグループによって、ヒト胚性幹細胞(ヒトES細胞)をヒトの初期胚から分離して培養すること(これを専門用語で「樹立」という)に成功したと発表された。胚性幹細胞とは全身のあらゆる細胞に分化することのできる万能細胞であり、ヒトからこの細胞が樹立されたという事実(マウスやウシ、ブタなど、他のほ乳類の幾種かについてはすでにこれまで樹立が報告されている)は、とりわけ、現在世界的に不足している移植用の臓器作成という、医学的応用への期待を大いにもたらすこととなった。(さらにヒトの体細胞の核を除核卵に移植してできるヒトクローン胚からES細胞を樹立することで、そこから元の個体に対して拒絶反応のない臓器が作成されることも期待される。)しかしこの研究は、着床すればヒトの個体を発生するヒト胚(受精卵)を用いるものであり、ヒト胚をどのように位置付け、いかに扱うべきかという倫理的問題が、研究に伴って喚起されることになる。

日本ではこれまでヒト胚研究利用についての包括的な議論はなされておらず、科学技術会議生命倫理委員会は、ヒト胚研究小委員会を設置してこの問題を討議し、平成12年2月2日、一定の規制の下では研究を行ってよいとする委員会の提言案が、広く一般の意見を採り入れることを前提にして報告書として公表された(「ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する基本的考え方(案)」以下「報告書」と略記)。その提言内容は日本の現行の法律、各国の対応状況、生物学的知見、国民感情、胚提供者の保護等にかなり細心に配慮されたものである。しかし私は、この提言の中で倫理的に最も重要と思われる、ヒト胚そのものについての基本的な考え方において、その考え方の基礎にあるであろう「ヒト胚の潜在性」についての認識には、まだ未整理の混乱があり、提言全体の一貫性あるいは有効性が維持できているかどうか大いに疑わしさが残されているように思う。ヒト胚利用は倫理的な問題になり得、問題がヒト胚である以上、焦点はそれがもつ潜在性の評価に大きく関わることになろう。したがってその点での混乱は、提言の説得性を著しく損なうことにもなりかねない。本論は、その混乱の内容を明らかにし、そうした混乱を避けるための一つの考え方を提唱するものである(*

ヒト胚研究問題と情報倫理との関連について、一言断っておく。ES細胞研究のためのヒト胚研究は、成体の体細胞の核を移植した胚(すなわちクローン胚)からのES細胞樹立を明らかに「次の段階」として見据えて進められる研究であり、広く遺伝子関連研究として位置づけうるものである。遺伝子は生命の基本情報であり、なおかつその情報の扱いには様々な倫理的問題が伴う。すなわち遺伝子問題も一つの重要な「情報倫理」の問題となるわけである。本論文はそのような遺伝子問題の一環であるヒト胚研究をテーマとして扱うことから、情報倫理研究資料の一つとして本誌に記載されることとなった。

*)

1 報告書における「潜在性」認識

1.1 ヒト胚の基本認識に関わる記述

報告書は、大きく分けて、ヒトES細胞の樹立機関や研究機関の満たすべき要件、あるいはヒト胚提供者へのインフォームドコンセントの在り方など、「ヒト胚研究遂行のプロセスに関する倫理的判断・提言」と、「ヒト胚そのものについての基本認識の提示」という二つの部分から成ると考えられる。ヒト胚研究を倫理的に問題にしようとする場合、議論のプライオリティは明らかに後者になければならない(後者が満足されてはじめて前者の議論が意味を持つ)。しかし実際に報告書では、確かにヒト胚の基本認識について、第一章の「ヒト胚研究をめぐる動向」に続いてすぐに章を割いて示されてはいるものの、その全体に占める比重はさほど大きくなく、基礎認識の前提にまで踏み込んで論じる内容のものではない。報告書が広く一般の意見を聞くための資料であるということから、あまり議論が哲学に偏したものであってはならないということは分かるが、議論の一貫性を保証する程度には、前提についての踏み込んだ(場合によっては哲学的な)議論が必要である。今回の報告書はこの要件を満たしていないと思われる。

ではヒト胚そのものの認識を、報告書はどのように述べているのか。報告書から読みとれるかぎり、基本認識に直接関わると考えられる内容は次の三点である。

(1)現在日本ではヒト胚は法的な権利主体や保護の対象とはなっていないが、 「ヒト胚は、いったん子宮に着床すれば成長して人になりうるものであり、… ヒト胚はヒトの生命の萌芽としての意味を持ち、ヒトの他の細胞とは異なり、 倫理的に尊重されるべきものであり、慎重に取り扱わなければならない」 (報告書 p. 8)。すなわちヒト胚はそれ自身尊重すべき対象である。

(2)「樹立されたヒト胚性幹細胞を使用する研究については、現在のところ核移 植や他の胚との結合等を行わなければ個体発生にはつながらず、人の生命の 誕生に関する倫理的な問題を生じない」(p. 10)。「ヒト胚性幹細胞それ自体 は個体の産生につながることはなく、…罰則を伴った法律による規制が不可 欠なものではない」(同)。すなわちヒト胚は、個体を発生しない限り利用 可能な対象である。なお、これと同一認識に根ざした考え方として、ヒトク ローン胚の作成を現在は控えるべきだ、との考え方も示される。ヒトクロー ン胚は「母胎への移植を行えば、禁止されるべきヒトクローン個体の産生につ ながり得る」(p. 11)というのがその根拠として挙げられている。

(3)「ヒトES細胞の樹立に用いるヒト胚は、不妊治療に際して生じ、やむを得ず廃棄されるいわゆる余剰胚に限定されるべきである。当初からヒトES細胞を樹立するための目的をもって、精子と卵子を受精させてヒト胚を作成することは、新たに生命の萌芽を作成し、滅失するという行為を行うものであり、認めるべきではない」(p. 10)。すなわちヒト胚は、余剰胚であるかぎり利用可能な対象である。

以上が、今回示されたヒト胚についての基本認識のベースとなるものであり、この上に、一定の規制下でのヒト胚性幹細胞研究の承認がなされ、ヒト胚研究に伴う他の倫理的問題への具体的提言がなされるのである。

「成長して人になりうる」、「個体の産生にはつながらない」、「不妊治療目的(したがって移植して個体を発生させる目的)で生じた余剰胚のみを用いる」という点から、ここで示されている認識が、いずれも胚のもつ「人に至る潜在性(潜在的能力potentiality)」についての評価に基づいていることはほぼ明らかであろう。しかし、一体その根拠となる潜在性とはどのようなものなのか。三つのいずれの潜在性も同じ「人への潜在性」という言葉で一括りにでき、それ以上潜在性の意味について問う必要のないものなのだろうか。私は上の認識には二つの異なる潜在性評価が未整理のまま含まれ、はじめに述べたとおり、その点で混乱があって提言の一貫性の失われる可能性が十分あると考える。

二つの潜在性の混在

ヒト胚の潜在性評価は、何も今回の問題に固有に生じる評価ではない。胚性幹細胞を分離、樹立するのに必要な受精後14日までの初期胚のみならず、その後のあらゆる成長過程にある胚(胎児)を含めた人工中絶の是非(あるいは場合によっては生後まもない嬰児を殺すことの是非)をめぐる議論(とりわけ欧米の生命倫理論)の中で、潜在性の評価は議論の一つの焦点をなすものであった。

中絶論争における潜在性議論は、「人格論」と不可分な関係にある (cf. Oderberg)。人格論とは、簡単に言えば、たとえば自分が経験の持続的主体であるという「自己の概念」をもつことができ、喜びや苦しみを感じることができる、というような一定の要件を満たすものを「人格」とし、人格であるものは不正に殺されてはならないとする考え方である。潜在性議論はこの考え方と結びつき、一方では「胚や胎児は尊ぶべき人格に至る潜在性をもつものなのだから(不正に)殺されてはならない」という主張がなされ、他方では「胚や胎児は潜在的に人格というだけで、現に人格ではない。潜在的にそうだというだけでは現在の権利に結びつかないし、権利を奪うということもない」として中絶を正当化する主張がなされもする。もちろん、潜在性の議論が二分法的に必ずこの二つの主張のいずれかになるというわけではなく、この二つの主張はいわば「両極」であってその中間的な主張も考えられるし、またこれとは違う枠組みで潜在性を捉えることも可能であろう。(なお、胚や胎児を道徳的に問題にする上で、「潜在性」や「人格」は多義的で混乱を招くとして、それを持ち出すことに対し疑義を抱く主張も一方ではなされているが、この点については後で述べよう。)

さて、胚性幹細胞研究に用いられるヒト胚は、基本的に人工授精によって得られるものであり、なおかつ、結果的に胚を滅失することになろうとも単に滅失するのではなく「他の人を救う有用な研究目的」に利用された上で滅失されるのであるから、この場合のヒト胚を「中絶」の場合と全く同じように考えるわけにはいかないだろう(*

なお、今回の報告書では、人工授精によって得られいずれ滅失される余剰胚そのものについて、どのような倫理的立場をとるのかは一切触れられていない。しかし本来、余剰胚の「利用」の是非に先立ち、そもそも余剰胚という形で我々が胚を存在させてしまっていることについて、何らかの倫理的な判断がなされる必要がある。報告書に対して寄せられた一般意見の中にも、今回の見解は余剰胚がすでに存在するという事実にあまりに依存したものだとの批判的意見があったが(またこれに関連した意見を、本稿の初稿に目を通していただいた京都大学水谷助教授からも伺い、問題の深さを認識させられた)、これはもっともな意見で、同じ胚である余剰胚の位置付けをカッコに入れて(あるいはあたかも倫理的問題と無関係であるかのようにして)、胚の位置付けを行うというのはかなり無理がある。私がこの論文において以下で特に指摘する「潜在性基準の混乱」に加え、このような「胚問題の部分的切り捨て」も、今回の報告書における大きな不備である。もっとも、潜在性についてきちんとした議論が成立すれば、余剰胚そのものについての倫理的位置付けも明確になる可能性があると思われる。本論後半にある、私の提言する潜在性の一つの考え方は、余剰胚の位置についてもかなり明確な立場をとりうる考え方である。

*) 。しかしヒト胚研究の倫理性において焦点になると考えられる「潜在性」も、正に倫理性が問題になる以上、単なる生物学的な成体になる潜在性を意味するのではなく「(道徳的に有意味である)人格」への潜在性を意味しなければならないはずである。(現に報告書においても、潜在性を言う場合には、「人になりうる」というように「ヒト胚」など生物学的なレベルで言う場合の「ヒト」と区別して「人」という文字が用いられている。明らかにこの「人」の文字は「人格」を念頭に置いたものであろう。)それゆえヒト胚研究問題においても、主要な部分では中絶論争と共通した議論の展開が可能だと思われる。

私は今回の報告書で前提されているヒト胚の潜在性は、実際、中絶論争において取り上げられることのある、一つの潜在性基準と(混乱した形ではあるが)重なるものであると思う。その基準とは、道徳的に問題となる潜在性を「能動的潜在性(active potentiality)」と「受動的潜在性(passive potentiality)」に分けて考えるという基準である。M. Tooley が定式化したもの(Tooley 83, pp. 178-83., 『実哲研』 pp. 62-63.)を少し一般化して述べると、いま仮に、道徳的に有意味な状態をAとすると(たとえば人格)、能動的潜在性とは、あるものにおいて「干渉を受けない限りAが生じる」という潜在性を意味し、受動的潜在性とは、あるものにおいて「適切な作用を受けない限りAは生じない」という潜在性を意味する。中絶の議論においては、たとえば胎内にある受精卵は能動的潜在性をもつが、精子や卵子は受動的潜在性しかもたず、「能動的潜在性を破壊することは悪であるが受動的潜在性を破壊しても悪ではない」として、潜在性に基づいた中絶反対論を行うということが考えられる。

ここで、今の例に見られるように、一般に能動・受動という潜在性基準は、潜在性のうち一方が倫理的評価に値し他方は値しないことを述べるための基準と考えられるので(そうでなければ潜在性をわざわざ二つの相に分けて捉える必要はないだろう)、もしこの基準が妥当な基準として成り立つとするならば、ある存在Xについて倫理的な判断を行う場合に、Xが同一の状態Aについて、一方では能動的潜在性をもつと主張し、同時に他のところでは受動的潜在性しかもたないと主張することは、この基準の有効性を全く失くしてしまうということに注意していただきたい。

上の1.1で述べた三つの基本認識が、ヒト胚の潜在性評価においてこの基準を用いていることを確認してみよう。まず(1)は、ヒト胚が尊重されるべきであり、その理由を「いったん子宮に着床すれば成長して人になりうる」こととしているが、これは明らかに「ヒト胚はいったん子宮に着床し、中絶などの干渉を受けない限りそれ自身で人格を生じる」と言い換えることができるので、(1)は、ヒト胚そのものを倫理的に判断する上において、ヒト胚が「人格」に関して能動的潜在性をもつものと捉えていると言えよう。(「いったん子宮に着床すれば」という部分は外部からの作用を含みうるので、これは「受動的潜在性」だと言えなくもないが、この部分はヒト胚が尊重されるべき理由には無関係である。)

では(2)はどうかというと、胚性幹細胞を使用する研究が倫理的に問題ないとして、その理由を「核移植や他の胚との結合等を行わなければ個体発生にはつながらない」ためとしているが、ここでの「個体」は明らかに「人格」を指すものであるから、それゆえこの理由は「ヒト胚は、適切な作用を受けない限り人格を生じない」というように書き換えられることになる。すなわち(2)は、ヒト胚を倫理的に判断するについて、ヒト胚が「人格」に関して受動的潜在性しかもたないと捉えていることになる。 この段階で、報告書でのヒト胚の基本認識が、能動・受動の潜在性基準を確かに前提として用いたものであるが、しかしながらその基準の有効性を失うような混乱した用い方をしていることがわかるであろう。

(3)に至っては、さらに混乱が見られる。まず一つ確認しておくと、ヒト胚が余剰胚に限って利用可能だという考え方(すでに日本では生殖医療の研究目的 であれば、1985年の日本産婦人科学会の会告に則った余剰胚利用が認められている)は、余剰胚と単なる研究目的の胚とでは「現実に」胚としては何も 変わらないこと、また研究に用いられるという点では同じだということ、さらにはどちらを利用しようとも研究者の動機・目的に違いはないこと、これ らを勘案すると、単に「国民の一部に感情を害する人がいるから」というナイーブな理由以上に一歩踏み込んだその根拠を求めるとするならば、それを 余剰胚の「潜在性」に訴えざるを得ないということである。(ヒト胚の研究は余剰胚のみ利用可能との見解は、R. Edwardsのものが有名であるが (Edwards, pp. 49-51)、この見解が説得力をもつとすれば潜在性に訴えざるを得ないことをJ. Harrisが胚のmoral statusの観点から述べている。(Harris, p. 62))ではその潜在性とはどのようなものかというと、研究用に新たに胚 を作ってはならず、研究に利用してよいのは「余剰胚のみ」という点に鑑みれば、余剰胚は本来着床が目的であり研究専用のものはそうでないことから、 受動的潜在性という相で胚を捉えることを否定(したがって胚を能動的潜在 性をもつものと規定)していることになる。ところが、余剰胚であれそれを 実験に用いてよいとする点では、明らかに受動的潜在性に訴えていることに なる。このように(3)の主張には、それ自身で二つの潜在性に訴えるという混 乱を見て取ることができるのである。

かくして報告書における、ヒト胚についての基本認識は、その依拠する潜在性議論から困難に直面することになる。

2 潜在性議論の可否

2.1 能動・受動潜在性の区別は有効か

報告書は能動・受動潜在性という基準の用い方に混乱がある。ではこの二つの潜在性のうち、いずれか一方に依拠して論じなさいと要求すべきなのだろうか。そうすることで確かに議論の一貫性は保持できることになるが、しかしそれではおそらく報告書のねらいが大きくはずれることになるだろう。また何より、そもそも能動・受動という形で胚の潜在性を区別することの妥当性が言えなければ、論全体の妥当性、有効性を言うことはできない。果たしてこの潜在性基準は妥当なのだろうか。

M. Tooleyはこの基準を一旦定式化して見せた後で、この基準について二つの問題を指摘する。一つは、「精子・卵子は人格への受動的潜在性しか持たないが、胚は能動的潜在性をもち、後者の滅失や操作のみが倫理的に問題だ」とする中絶反対論の考え方に対して、胚もまた放置されれば死んでしまうのだから(すなわち適切な温度維持や栄養の供給が必要なのだから)それ自体では完全な能動的潜在性をもつとは言えない、ということである。もう一つは、能動的な潜在性というものがもしあるとしても、その破壊が直ちに不正とは言えない(不正とは言えない例がある)ということである。Tooleyは次のような例を挙げてこれを説明しようとする。いまヒトの精子と未受精の卵細胞を内包した一つの装置があり、この装置は外部から干渉を受けなければ受精をもたらし、さらにそれを人工子宮内で培養して新生児を産出するものとする。Tooleyはこれが「完全な」能動的潜在性をもつ一つの例だとしている。このとき、もしも装置を初期の段階で切って精子や卵子を死なせることがあるとしても、これは道徳的不正にはならない(精子や卵子の滅失は不正ではない)。それゆえ、能動的潜在性の破壊だからと言って、それだけで不正を行うことにはならないというわけである。ところが、この Tooleyの説明に対してD. S. Oderbergは、この装置もまた外部からエネルギーを供給したり温度管理をしたりする必要があり、それは胚が栄養供給や温度管理を必要とするのと事情が同じである、つまり胚が能動的と言えないのなら装置もそう言えない(にも関わらずTooleyは前者だけを都合よく無視している)と指摘している(Oderberg, p. 38)。

このような二人の指摘から明らかに見て取れることは、能動・受動の潜在性基準は精子や胚、あるいは装置の「どの部分に注目し、どの部分を捨象するか」に依存するということ、すなわち結局我々の「主観に相対的」なものでしかないということであって、それゆえこの基準は倫理的判断を下す上での確固たる基準としては不適だということである。たとえいずれかの潜在性に固執してそれに基づく一貫した議論が行えたとしても、つねに他の主観的観点から、他方の潜在性に基づく反対の議論が「全く同じ権利で」行えるのである。したがって、報告書が、暗にではあれ能動・受動の潜在性基準に依拠していること自体が、まず何よりも問題であったと言わねばならない。 

2.2 潜在性そのものが無効か

では能動・受動の基準がだめなら、これに代わって一体どのようにして胚そのものの倫理的評価を行えばよいのだろうか。ここで我々は一つの選択に迫られる。能動・受動の基準がだめでも、別の形でなおも潜在性に依拠して胚を捉えるのか、それとも潜在性に訴えるのはやめにするのか。

ここでまた、欧米の中絶論争に触れよう。この論争において一部の論者は、中絶問題を潜在性に基づいて考えることの不毛性を唱える。不毛だとする理由は、だいたい次の二つである。(1)胚や胎児を人格への潜在性をもつものとするなら、精子や卵子あるいはその前の始原生殖細胞すら同じ潜在性をもつことになり、潜在性をもつ範囲はほとんど際限なく拡大してしまう。(Harris, Feinberg, Warnockなど。なお、これに対する一つの反論が能動・受動の区別説であるが、この考え方が有効でないことはすでに見たとおりである。)(2)もう一つの理由は、人格への潜在性は、現実の人格に対して認められる生存権などの諸権利とは無関係だということである。(Singer, Feinbergなど。)あるものが潜在的にAだからといって、現実のAが有する諸権利をそのものがもつことにはならない。アメリカ大統領である人物が、幼少時に潜在的に大統領であるからといって、そのときすでにアメリカの軍の全権が与えられていたわけではない。胚や胎児の権利は、たとえばすでに感覚器の発達した胎児が苦痛を受けない権利などを考えることができるが、このような権利は一切、潜在性と無関係である。

指摘されているように、確かに潜在性を議論に持ち込むことによって議論が曖昧になったり無関係な話に引きずられてしまう可能性はあろう。理想は、Warnock が述べるように、「胚(胎児)が何になりうるか」ではなく「胚(胎児)は現に何であるか」ということに基づいて倫理的な問題を考えることである(Warnock, p. 8)。しかし、胚のあらゆる段階についてそれが何であるかを明確に規定して、その時期に胚がもつ道徳的意味を判断することはまず不可能である。Harrisの指摘にもあるように、「胚(胎児)が何であるか」が結局「完全な人格的存在者からどれほど隔たっているか」ということに基づいてしか規定できないのであれば、最後には再び潜在性の議論を持ち出さざるをえないのである(Harris, p. 53)。

私自身は、潜在性を不用意に切り落として現実性にのみ話を限定しようとするよりは、規定に慎重さを期しつつ潜在性の上に議論を組み立てようとする方が見込みがあるだろうと考える一人である。

3 「時系列上の人格潜在性」という考え方

そこで以下、胚そのものについての倫理的判断を下す上で妥当だと私が思う、潜在性についての一つの考え方を述べてみたい。

これまで私はヒト胚研究問題におけるヒト胚の潜在性評価について、中絶論争における潜在性評価を手掛かりに論じてきた。確かに両者は「人格への潜在性」という問題を共有するし、中絶をめぐる諸議論が潜在性の問題の所在を明らかにする上で非常に有効であることは、すでに確認してきた通りである。しかし、主要な問題を共有しているからといって、ヒト胚研究の胚と中絶される胚とが、必ずしも全く同一のものとして論じられなければならないわけではない。私は、とりわけ今問題である「研究用の胚」について妥当な潜在性評価を得るべく、ここで、中絶胚を一旦問題から切り離すことにする。この切り離しが決してご都合主義的な問題の切り捨てでなく、ある妥当性を有するだろうということはいずれ議論の途中で明らかになる。

とりあえず、次の点の確認から入ることにしよう。胚の潜在性を問題にするときにその潜在性が最低限満たしていなければならない条件は、それが主観に左右されて別の意味になったり、その適用範囲が無際限に広がったりしないということである。上で見たように、現在なされている潜在性批判の一つの柱は、人格への潜在性ということを言い出せば、結局のところ「あらゆるものが人格に対する潜在性をもつ」ということになってしまい、そこから有意味な議論が引き出せないということであった。けれどもそれでは、ヒト胚問題に限らず、他のいかなる文脈でも、潜在性を語ることが全く無意味になってしまうのではないか。潜在性を有意味に語る仕方というのは存在しないのだろうか。

実は遠くライプニッツの昔から、潜在性(可能性)について次のような区別の成り立つことが主張されている。まず一つに、現実の世界の時系列上、未来に生じることがらについて、現在の事物がもつ潜在性というのがある(これを潜在性Aとする)。他方、現実世界において生じることはないが、論理的意味において可能だという潜在性がある(これを潜在性Bとする)。現実世界の時系列が一つに決まるということが疑いえない以上、この区別自体は客観的に妥当すると言わねばならない。いま体外受精によって複数の胚ができたとしよう。そしてそのうち一つの胚が現実に母胎へ移植され、それにより新生児が誕生したが、他の胚は移植されることはなく、滅失したとしよう。このとき、移植されることになる胚は「人格への潜在性A」をもつが、移植されない胚は「人格への潜在性B」をもつということになる。さて、もし我々が移植の決定のはるか前から、どの胚が潜在性Aをもち、どの胚が潜在性Bをもつかということを知ることができるなら、そのとき潜在性Bをもつ胚を「人格への潜在性」という点で我々が尊重すべき理由が果たしてあるだろうか。潜在性Bゆえに、その胚は現実世界では決して人格に至ることはないのである。ならばこの胚を、いかなる時点であれ、少なくとも「人格」に絡めて尊重すべき理由は見いだせないであろう。この点で尊重すべきは潜在性Aをもつ胚だけである。

もちろん、実際には、我々が移植決定前にこの潜在性を見分けることはできない。また移植された後であっても、胚が流産する場合には、実際に流産するまでそれが潜在性Bの胚であることは分からないし、廃棄寸前の凍結保存胚が特別な事情で母胎に移植されるという場合には、逆にその直前までその胚は潜在性Bの胚であると信じられていただろう。しかし確実なことが二つある。一つは、潜在性Aの胚が、母胎への移植がなされた胚の中にしかないということで、もう一つは、余剰胚が廃棄を決定され研究に供されるなら、その時点でその胚が潜在性Bの胚であることが明らかになるということである。とりわけ二つ目の点が肝心である。この潜在性Bの胚は、我々が知る知らぬに関わらず、潜在性としてはずっとBである。前段で、もし我々がその潜在性をずっと前に知っていたら、我々はその胚を人格に絡めて尊重すべき理由をもたないと述べたが、その潜在性を後で知ったために事情が異なる、などと言うことは不合理である。それゆえ胚は研究に供される時点で、もはや人格への潜在性を理由に尊重される必要は一切ないのである。

これは果たして詭弁だろうか。きっと次のような反論が出てくるにちがいない。「確かに潜在性Bである胚は、ずっと変わらず潜在性Bだと言えるかもしれない。しかし、それが潜在性Bであることには、たとえば、研究に供与しようというような我々の意志決定が内在的に関係している。にもかかわらず、いまの立論はこの我々の意志を度外視して、たちの悪い宿命論だけで胚を論じようとしている。」この反論は一見もっともに思われる。確かに上で述べた胚の潜在性には我々の意志決定が内在的に関係している。しかし、上で述べたことに若干の補足を行うことにより、正に「意志の内在的関与」というその点で、この反論は覆されることがわかるであろう。いま我々はヒト胚研究の胚、つまり体外受精による胚を問題にしているが、体外受精された胚は、成体となり人格を生成するためには「必ず」我々の意志と、それに応ずる人工的な技術によって母胎に移植されなければならない。(将来、人工子宮が開発されて、受精から胚の成体への成長が一つのシステム内で「連続して」発生することになったとしても、そもそも装置がそのような形にできているということが完全に我々の意志的制御によってもたらされるので、通常の母胎移植と基本的事情は変わらない。)すなわち、胚が潜在性Bをもつことに対して我々の意志が内在的に関係しているのと同様、胚が潜在性Aをもつことに対しても我々の意志が「不可分なものとして」内在的に関与していることになる。ところで母胎への移植の意志がなければ、胚は「人格への成長をなす環境(いまこれを「ニッチ」と呼んでおきたい)にはない」と言えるが、このニッチの下にない胚は、ニッチにある胚と生化学的構造はほとんど等しくとも、それは「単にそのような構造物」にいつまでもとどまるものである。それゆえ、すでにニッチにある胚ならば我々が新たに(独立に)意志的に関与する場合は意志が倫理的考慮の対象たりえるが、ニッチ自体が我々の意志と不可分である(意志がなければそもそもニッチはない)場合には、意志を以てはじめて倫理的考慮の対象(単なる生化学的構造物以上のもの)が発生するわけであるから、我々の意志は少なくとも「発生させない意志」に関しては倫理的考慮の外にあることになる。(たとえば予め胚の遺伝子に傷をつけておいて、それを故意に発生させるということがあるので、「発生させる意志」については十分倫理的考慮の余地がある。しかし今は研究に供する胚が問題なので、「発生させない意志」が倫理的考慮外であることがわかればよい。)すなわち我々は体外受精卵の潜在性A, Bについて、我々の意志がむしろ内在的に関与するゆえに、その潜在性への道義的責任のようなものを負うことはなく、移植、あるいは研究供与が意志的に行われた時点で、その胚が人格への潜在性を理由に尊重されるべきか否かの判断を下しうるのである。

ここでこの議論が中絶問題と独立になしうることを一言述べておこう。中絶が問題となる母体内の胚(胎児)にも、もちろん潜在性A、Bの区別はつけられる。中絶される胚は人格への潜在性Bしかもたないと言える。そしてまた、中絶するか否かという我々の意志が、この潜在性に内在的に関与しているということも上の場合と同様であろう。しかし中絶の場合には、中絶するか否かという我々の意志とは「独立に」、胚に対してすでに一定のニッチが成立している。それゆえ、中絶することで確かにその胚が潜在性Bであったことが分かるにしても、潜在性Bへの意志関与が、それだけで道義的責任の訴追を免れているかどうかは決して自明ではない。すなわち、ヒト胚研究の場合は潜在性の議論だけで、研究のための胚の評価が行えるが、中絶問題の場合はそうはいかない可能性があるので、両者の議論をとりあえず切り離して行うことは妥当なのである。

さて、話をまとめてみよう。ヒト胚研究に関して胚そのものについての倫理的身分を考える際、我々が基づくべき妥当な潜在性の考え方(その有力な候補となりうるもの)は、現実世界の時系列上にある潜在性か否かというように、潜在性 A、Bの区別を行う考え方である。この区別は我々の主観に左右されることのない客観的なもので、潜在性の意味が拡散してしまうこともない。この潜在性に基づき、胚そのものについて、次のような倫理的判断を混乱なく首尾一貫して行うことができる。すなわち(1)'体外受精された胚は、胎内に移植されるときに限り、人格への潜在性をもつものとして尊重されるものである。(2)'胚の提供者であるカップルの承認を得て、胚を研究に用いる場合には、我々は上の潜在性基準により、人格潜在性に基づく倫理的問題は一切免れており、むしろ、なされる研究の意味において胚の価値を判断すべきである。

この(1)'、(2)'が、委員会報告書のそれぞれ(1)、(2)に代わるものであることは明らかだろう。見かけは大きな変化がないように見えるかもしれないが、その根拠の違いから主張の有効性が両者では全く異なるのである。繰り返すまでもないが、(1)、(2)の主張を前提にまでさかのぼって考えるならば、能動・受動の潜在性基準を同時に用いることによる齟齬、およびつねに反対の潜在性基準が同じ権利で成立するといった問題が見られた。この(1)',(2)'ではそうした問題はもはや生じない。確かに報告書の主張は、たとえば国民感情への配慮という点ではすぐれていよう。しかし上の(1)',(2)'でも、その根拠を強化したからといって決してその辺りの配慮が損なわれたわけではなく、十分国民の同意を得ることができるのではないかと思われる。なお、報告書の(3)にある「余剰胚のみ使用可」という条件は、いまの潜在性基準においては抜け落ちることになる。実験用に作られた胚と余剰胚とには、いまの基準では何ら倫理的区別をつける必要はない。報告書においてはあやふやな、余剰胚そのものの位置付けについても、この基準により明確なものとなるのである(*

もちろん、余剰胚そのものの位置付けは、ここで議論したような「潜在性」以外の倫理的尺度によって行うことも可能であろうが、その場合にはおそらく、そもそも余剰胚を産み出す「人工授精」が是か非かという議論にまでさかのぼらなければならないことになろう。すなわち余剰胚の存在を前提した上でその位置付けを考えるのか、それとも余剰胚を存在させるに至る手前でその位置付けを考えるのかによって、考え方の尺度は異なるだろうということである。したがって、この後者の考え方から、潜在性以外の尺度によって「余剰胚のみ研究に使用してよい」ことの倫理的根拠が示される余地は認める必要があろうが、現在のところ、(当然と言えば当然だが)報告書作成者をはじめとして「余剰胚のみ使用可」とする論者は、おしなべて人工授精を肯定して余剰胚がすでに存在することを前提にしている。私も余剰胚の存在を前提として議論することには賛成であり、それが現実的な議論の方向であると思う。しかしそうであるなら、余剰胚そのものの位置付けは「潜在性」基準においてなさざるをえないであろう。そして潜在性に訴えて余剰胚使用を合理化しようとする限り、ここで私が提言する以外の潜在性を基準にとったとしても、余剰胚と研究専用の胚を倫理的に区別することは、まず見込めない。

*)

****

ヒト胚研究問題は、研究の方向についての倫理や、あるいはこの研究の延長線上にあると見なされる「クローン胚作成」の倫理など、問われるべき倫理的問題がこの上にいくつも重なっていく大きな問題である。それだけにその最も基礎となるヒト胚そのものについて、確固たる倫理的評価をなす必要がある。ここでの私の提言は、そのような必要性、なおかつ問題の緊急性を強く認識しつつなされたものである。

参考文献


(日本学術振興会特別研究員)
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