6 バーチャルリアリティと身体---情報倫理的アプローチ

松王政浩

バーチャルリアリティというのは、語義的には、「さも現実であるかのような印象、効果をもちうるが、現実ではない」と、理解される。では一体、バーチャルリアリティとリアリティとはどこが決定的に違うのか。何が、現実世界を現実たらしめているのか。この問に対して色々な答えが出されてきたが、これまで一つの基準として考えられてきたのは、「身体性」の有無である。簡単にまとめれば、現実の我々の経験というのは、つねに我々の身体を介してなされ、身体という一種の可能的制約によって現実世界への帰属意識というものが生じたが、バーチャルな体験というのは、一面ではある感覚的なリアリティをその中で経験することができても、経験する世界の内に我々の身体はないので、その世界に帰属する意識は生じない、ということである。現実世界の「現実性」というのが決して一枚岩ではなく、経験主体に相対的であるというのは、すでに(たとえばN. Goodman の Ways of Worldmaking 以来少なくとも哲学的には)一般的な認識であって、そのような認識論的前提から言えばバーチャルとリアリティとの区別というのは意味がないかもしれない。しかし、それでも我々はバーチャルな経験と現実の経験とを区別できるように思い、実際何らかの違いを感じる。その基準がどこにあるかということを考えてみるならば、それは「身体」に帰着するのではないか。

もしバーチャルな体験というのが、せいぜいテレビ画面などの固定されたスクリーンに映し出されるリアルな映像を迫力のある音声を伴って見たり、電話やパソコンなど現在普及している機器を用いて通信を行うということである場合には、確かにこの基準は有効であると思われる。しかしJ.ラニア以来、格段の技術的進歩を見せている「没入型」のバーチャルリアリティが普及していったときに、果たして身体性の有無という基準は維持できるのであろうか。没入型のVRの場合、我々は仮想の身体をもつことになる。もちろん、仮想の身体そのものは現実の身体と区別が可能であり、現実の身体がバーチャル世界にない以上、バーチャル世界は現実世界とは明確に区別できるはずである。しかし、身体が現実世界で果たしている機能と、バーチャルな身体がバーチャルな世界で果たしている機能との間に果たして何らかの区別が可能であろうか。すなわちそれぞれの身体がもつ「身体性」には何か明確な区別をなしうるのだろうか。もしそれがなしえないのだとしたら、現実の身体がその「身体性」ゆえに負う現実性の根拠が希薄となり、バーチャル世界と現実世界が、単に数として異なる世界だという区別はできても、一方がつねに本物で片方が偽物、あるいは一方がつねに主で他方が従というような絶対的な重み付けが成り立たなくなるのではないか。すなわち、現実世界の「現実性」は経験主体の間での相対化にとどまらず、経験される様々なバーチャル世界との間で相対化されることになり、主体に対する現実性の度合いにおいて、バーチャル世界と現実世界の間で完全な逆転が生じるようになるのではないか。

私は、この事態が単に一つの可能な想定にとどまるものではなく、容易にその可能性を覆し得ない、理論的にはほとんど不可避ともいうべき事態であると考える。以下本論において、「身体性」の考察を通してそのことを明らかにする。次いで、それでは「身体性」という一つの防護壁が取り払われたとき、そこにどのような「倫理的」問題が生じる可能性があるのか。この点に関する若干の考察を最後に付す。

1 従来型の議論

とりあえず、バーチャルリアリティとリアリティを身体性で区別する議論の幾つかを見て、従来の捉えられ方を確認することにしよう。

ポール・ヴィヴィリオ(都市、建築という視点から文明批評を行っているフランスの都市計画研究家、思想家)は、テレビやインターネットによる通信などのいわゆる「テレプレゼンス(tele-presence, 電子的媒体により遠隔地にあたかも自分が実在するかのような効果)」を評して次のように述べる。我々は、惑星とエコロジーの身体、社会的身体、生物的身体という3つのレベルの身体をもち、そこから身体に関して自らを再構成する、すなわちまず「他者」に関して、そして「大地」あるいは「固有の世界」に関して自らを再構成する。固有の世界の中に位置づけられることがなければ、固有の身体はない。その位置づけは、「ここに、今いる」という形でなされる。ところが、テレプレゼンスにおいては、「ここで、今」というのが否定されるので(「ここ」あるいは「今」のいずれかが否定される)、テレプレゼンスが何らかの固有な世界の中に位置づけられることはなく、したがって固有の身体をもたない。バーチャルリアリティの本質的な特徴は、この固有の身体の喪失にある。(ヴィヴィリオは、こうした身体喪失がたとえば「他者」の喪失につながり、ある種の文明的危機を孕むことをこれに続けて述べている。)

粉川哲夫も、同様の視点で次のように述べる。「電子的な情報システムは,身体的な場所に依存しない.回線さえ通っていれば,あるいは,無線を送受できる環境さえあれば,どこにいても,『いまここ』の場を『むこう側』に偏在させることができる.言い換えれば,電子的な情報システムは,身体を基準としたこれまでの場所性を無意味にし,相対化する。」現実世界における我々の身体は、暗黙レベルで他者や物、環境などとつながり、一つの「共生領域」を作っており、それが我々の知覚や思考の拠点になっているが、バーチャルな領域ではこれが否定される。ここで粉川のいう「共生領域」とは、ヴィヴィリオのいう「固有世界」に他ならない。(なお粉川はこれに続き、バーチャルな領域での新たな思考や知覚がどのようなものか、今後スケッチしていく必要を唱える。)

あるいは大澤真幸は、阪神淡路大震災や湾岸戦争の報道をもとにして、テレビというメディアが構成するバーチャルリアリティに還元できない「現実」の「残滓」はどこにあるか、という問を立て、それが、「〈現実〉に実践的・認識的に対峙する者が、全的にその〈現実〉に内属している、ということからくる効果のようなもの」ではないかと提言する。そして、この内属の様式を「身体」と呼ぶ。概して、身体の存在は、仮想現実を構成する因果連関の外に放置される、というのが彼の見方である。

いずれも、メディアの評価や着眼には違いがあるものの、バーチャルリアリティとリアリティの境界線に、現実世界に特定の位置をもつ「身体」があるという見解で一致していることは明らかである。そして、我々が、現在、直接向き合っているバーチャルリアリティ(今争点となっているのは、もちろん、テレビやパソコンなどの「電子的メディア」によるバーチャルリアリティ)が、すでに現在もたらしている、あるいは近い将来もたらすであろう種々の問題に対処する上で、その処方や解決の鍵となるのが「現実の身体」である、というところでも論調は同じである。つまり、今のところバーチャルリアリティにどんな問題が生じても、バーチャルリアリティは本家たる「リアリティ」に対して、「身体がない」ということを一つの明示的な限界とするものだから、我々はこの限界ゆえに、ある意味では「安心して」その対処を考えることができる、という認識である。

さらに、上の3人(あるいは従来型の議論)が、はじめから、現実世界が「世界」としてもつ複雑さに現実性の根拠を置いているのではないということも、後の議論を行う上で重要な意味をもってくるのでここで指摘しておきたい。すなわち現実世界は確かに圧倒的な複雑性をもった諸関係の総体だと取りあえず言うことができるが、バーチャルな世界もその情報網のその将来的、潜在的な複雑さは計り知れぬものになると予想される。それゆえ複雑性そのものは根拠となしえないのである。しかし(上の議論が言うところは)いかに現在のメディアによるバーチャルリアリティが複雑化しようと、我々はその世界で固有の場所を占めてその中で絡め取られていくことがない、すなわち身体がそこにはない、このことが現実性議論の要になると、論者はそれぞれ思い至ったのだと考えられる。

さて、確かに我々は、「現在の」メディアがつくるバーチャルリアリティと、リアリティとの界面に注視しておく必要があるだろう。そしてその際には、上の主張のように、「身体性」が議論の最も重要な鍵を握るにちがいない。しかし、初めにも述べたように、我々の身の回りには、現在普及しているバーチャルリアリティとは明らかにレベルの異なるもう一つのバーチャルリアリティが、確実に迫りつつある。この事実にも我々は目を向ける必要がある。そのもう一つのバーチャルリアリティとは、通例、「没入型」と呼ばれるバーチャルリアリティである。これは、「没入」(immersive)と言われるとおり、従来のバーチャルリアリティと違い、我々は身体的にバーチャルリアリティの世界の中に入り込む(あるいは少なくとも、そのような「錯覚」を錯覚とは感じずに体験する)類のものである。このとき、「現実の身体」は依然、バーチャルとリアリティを明確に分かち、現実の現実性を守る砦(我々が現実の領域に安全に身を残した状態でバーチャルに関する問題に対処しうる砦)になると考えられるだろうか。次にそのもう一つのバーチャルリアリティと身体との関係について考えてみよう。

2 バーチャルな身体

2.1 没入型バーチャルリアリティのシステム

没入型のバーチャルリアリティは、1989年 J. ラニアーが開発した RB2 (Reality Built for 2)というインタラクティブな相互通信装置を「祖形」として現在に至るまで開発が進められてきているものである。このバーチャルリアリティがどのような特徴をもつものなのか、おおよその論者は次のような規定で一致している。(ここでは廣瀬通孝氏の解説におおよそ基づいて述べておく 。)

このバーチャルリアリティは、「ディスプレイシステム」、「入力サブシステム」、「シミュレーションサブシステム」の3つのシステムをもつ。それぞれのシステムの中身は大体次のとおりである。

ディスプレイサブシステム:利用者の感覚器(視覚のみならず、聴覚、触覚なども含む)に対し、リアルな感覚刺激を発生するための装置。臨場感、奥行感の実現、多感覚の統合などが技術的に図られる。(なお、ディスプレイシステムはだいたい、同時に入力システムとしての役割ももっている。)

入力サブシステム:HMDやデータグローブにより、人間の動作を「自然な」形でコンピュータに伝える装置。キーボード操作のような記号的言語的操作でなく、手、足、頭の動きなど、日常的な「自然な」動きによって、信号を伝えることができるという点が、従来のバーチャルリアリティと異なる点である。自然な動きにより信号を伝えるためには、空間内の定められた点の位置や姿勢を時々刻々とコンピュータに伝える必要があるが、このとき磁気による計測システムなどが利用される。(これは、ある一点から発生された磁界変化を、離れた場所に置かれた磁気コイルに発生する誘導電流の大きさを受信することによって、両者の位置関係を計測しようというものである。)またデータグローブでは、光ファイバーが曲がると光を通さなくなるという性質に基づき、光量の変化を適当な変換によって曲げ角に変換することにより、手の「自然な動き」を信号として伝えることを可能にしている。

シミュレーションサブシステム:人間が何か、その世界の対象に操作を加えた場合、システムがどう応答すればよいかの因果関係を予め決めておき、入力システムとディスプレイシステムをつないでループを形成するシステム。

このようなシステム構成の中で、我々はある自律性をもった世界とインタラクションをもつことが可能となる。(単純な例としては、我々はモニターを通じて見ることのできるボールを、同じくモニターに見えている「自分の」手でつかみ、投げることができる。そして、投げられたボールは何らかの飛行曲線を描いて飛んで、離れた場所にある「物」にぶつかる。)そのインタラクションのインターフェイスとなるのは、少なくとも経験者の視点においては、「バーチャル世界における身体」である(もちろん、このシステムの設計者の視点からすればそれはHMDやデータグローブなど、現実世界にある電子機器である)。少なくともバーチャルな体験の最中に、現実の身体が常時意識されたり、あるいは身体の「二重性」が苦痛に感じられたりするということは考えられないであろう。人間の感覚はそこまでメタ化できるほど高度なものではない。

2.2 バーチャルな身体と現実の身体

ではこのようなバーチャルな身体は、我々の現実の身体との間に、「身体」として何か明確な区別をもつであろうか。問題はこの区別の有無である。区別を「もつ」とする考え方の一つに、現在の水準でリアルタイムに作り出せるCG の精度(バーチャルな世界における最も大きな経験的要素は明らかに「視覚」である)は、到底通常の視覚的像に匹敵するだけのものにはなりえない、それゆえバーチャルな身体は現実の身体ほどには我々の意志の通りに、「細やかに」世界との間でインタラクションを行うことはできない、という考え方があろう。つまり、本来身体の身体たる所以は、意志との間に保たれる極めて密度の高いその「質感」にあるのであって、バーチャルな身体にはこれが欠落しており、それゆえ現実の身体に対して擬似的なものでしかない、という考え方である。

しかしこの考え方は次の二つの根拠により退けられる。まず一つは、CG精度は原理的にはいくらでも向上させることができるということである。コンピュータの解析能力、データの転送容量が現在よりはるかに向上すれば(このペースは今後ますます上がるだろう。ギガバイトpsの通信速度が標準になるのも間近と考えられている)、たとえば予め自分の手の非常に詳細なデータをコンピュータに組み込んでおき、そのデータをもとにリアルタイムに自分の「生の手」をモニター上に再現させ、なおかつそれを現実の手と同じ程度に意のままに操るというようなことも可能となるだろう。つまり「質感」において、バーチャルとリアリティは元々一つのスペクトル上に展開されうるものなのであって、両者の質的な差は原理上どのようにでも取ることができ、その間に越えがたい溝があるわけではないのである。

第二に、バーチャルリアリティは必ずしも現実の「模倣」である必要がなく、バーチャルな世界の種類によっては、身体的質感がそもそも問題とならないということが挙げられる。質感の差が明確に意識されるのは、バーチャルな世界が現実と似て非なるからである。ところがバーチャルな世界では、たとえば自分が分子大の大きさになり、自分の手で分子の組み替えを行うというようなことが可能である 。このような世界(これは非現実な世界というより、現実が増幅された世界 augmented realityと言える)には我々は元々「現実に」身を置くことができない以上、これを経験する以前に基準とすべき「通常の」身体感覚など存在しない。この経験とともに与えられる質感が、すべての基準となるのである。このように現実の身体感覚が適用することが意味のない身体に対して、現実の身体にある質感の欠落ゆえに、それを身体性の欠落した欠陥品だとすることはできないはずである。両者はただ相対化されるのみである。(なおさらに付け加えると、「質感」と同様に、身体的「自由度」に訴えることも無意味である。これはバーチャル世界が高々人間の手による設計の範囲内でしか存在し得ないものだから、我々はその中で現実のような身体的「自由」を味わうことができない、それゆえ現実身体とは一線が引かれるという考え方である。しかし、上の例に挙げたように「分子世界」に入ることや、あるいは世界を飛行して回るといったようなことは、バーチャル世界でのみ可能となる「自由」なのである。また、そもそも自由度が現実性に概念的に結びつくかどうかということ自体が自明ではない。極端に拘束がある場合を除いて、むしろ世界の自由度は現実性有無の問題としてよりも、いずれの世界を好むかという「好みの問題」として捉える方が、私には適切であるように思われる。)

かくして質感に訴えて、現実の身体にのみ認められる特別な身体性を主張することはできない。では次のような考えについてはどうだろうか。上の3人の論者がいずれも論じているように、現実の身体は、現実世界に或る位置を占め、現実世界との界面になっている。つまり身体は、単にその「見え」をもって身体ということはできず、諸々の事物や人との諸関係の接合点としてそれを捉える必要がある。したがって、たとえ「見え」においてバーチャルな身体とリアルな身体の区別がもしつかないとしても、また「見え」の差に訴えることが無意味になる場合があるとしても、現実の身体が現実の世界との間に結ぶその「関係」のゆえに、現実の身体は代替不可能な身体性を保持することができる。

ここで注意すべきことは、もしこの考え方をとるのだとしても、根拠となる「関係」を現実世界の構造にある何らかの特殊性に訴えることには全く説得力がないということである。すでに3人の議論を整理する中で確認しておいたように、バーチャルな世界の構造は原理上いくらでも複雑化が可能であり、「複雑性ゆえの現実性」という見方はとるべきではない。(あるいはこのように言うのが一層正確かも知れない。確かに物理的に精密なレベルにおいては、バーチャルなシミュレーション世界は現実世界の構造の複雑さに及ばないであろう。しかし世界の完全な物理的精密さが我々の通常の世界認識に必要なわけではない。我々の認識に掛かる部分は、たとえば素粒子レベルの物理的構造に比して、極めて肌理の荒いもの、あるいはそれとは全く次元の異なるものだと考えられる。したがって、そのような我々の通常の認識レベルで現実世界が複雑であると思われるのと同じ程度には、バーチャルな世界も複雑化させることができると考えられる。)

それゆえもし上の考え方を取るのなら、現実の身体と現実世界との間の関係の「結ばれ方」、すなわち「現実の身体が世界と関係をもつその方法」に訴えるほかはない。では果たしてそこに現実性の鍵を握る特殊性が見いだせるであろうか。

身体と世界がどのように関係を取り結ぶかについての現象学的な研究は多いが、実証的なレベルの研究はあまり見られない。バーチャルリアリティがあくまで「工学的に」実現される世界であり、それとの比較においていま現実世界の身体の意味が問われ、有意な差があるかどうかが問題とされる以上、その考察は十分実証可能なレベルでなされることが望ましい。おそらく現時点で、この考察の基準とするに最もふさわしい理論は、ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論であろう 。(実際、この理論に注目するバーチャルリアリティ関連の工学者は少なくない。)

アフォーダンス(affordance)とは、一言で言うと、「単に知覚者が主観的に構成するのではない、環境の中にある、知覚者にとっての価値ある情報」である。アフォーダンス研究者によれば、たとえば、カエルが飛び出すときに空いている隙間は、頭部の幅の1.3倍以上である。また、人間が足だけで登れると知覚する高さは、股下の長さの0.88倍である。この「すり抜けられる隙間」「登れる段」が、アフォーダンスと呼ばれる。このような情報は、知覚者の単なる主観でなく、むしろ環境の側に存在し、知覚者はそれを各自環境の中からピックアップするのだと考えられる。この理論の示唆するところは、現実の世界と身体との関係が、正にこのアフォーダンスに基づいて捉えられるべきものだということである。すなわち我々の現実身体が世界とは、我々が自分にとって価値ある情報であるアフォーダンスを世界の中からピックアップする際に身体がその基準になる、という形ではじめて具体的な関係を取り結ぶものであって、我々がもつ現実世界についての(広い意味での)知識あるいは信念は、このようにピックアップされた無数のアフォーダンスに基づいて織りなされるというわけである。

この理論の評価はまだ必ずしも定まったというわけではないが、これまでにこの研究において蓄積されている実証的な数々のデータから判断して、少なくともいま我々が問題にしている「現実身体の特殊性」の有無という問題の判定基準としては十分機能すると考えられる。すなわち、もし現実身体と世界の関係の取り結びにおいて、この理論が主張する以外の要素を考慮すべき可能性があるとしても、実証に掛かりうる現実的関係の「本質」としては、これを考慮することで十分であろうと判断される。もしこの本質が、現実身体と世界との間でのみ見いだせるなら、そのとき現実の身体は代替不能な身体性をもつと確かに考えられよう。

しかしこれが現実身体に固有な本質でないことは、すぐに知られることである。没入型バーチャルリアリティの最大の特徴は、我々にとって自然なインターフェイスによる、バーチャル世界とのインタラクティヴィティにあり、この点が工学的設計の最も重要な指針となるところである。すなわち没入型バーチャルリアリティ世界において、経験主体の身体のサイズ(もちろんこれは「見え」のサイズである)や形質的特徴、あるいは世界の事物の大きさ、色、形、硬度、位置関係などのすべてが予め数値化されて設計されている。これは世界が主体に対して、アフォーダンスがピックアップできる条件を、現実世界と同様に明示的に呈示するものであることを意味する。このように条件の整った、いわば「アフォーダンス環境」の中に我々が没入するならば、我々はすぐにアフォーダンス獲得の行動に出るであろう。3D映画を見て多くの観客が、画面から飛び出して泳ぐ魚に触れようと手を差し出したり(ただしこの場合はインタラクションはない)、データグローブを装着した人が感嘆の声を上げつつ、次々に眼前の物体の触感と距離を確かめようと手を差し延べる行動に出るのは、正にバーチャル世界でのアフォーダンス獲得行為の現れである。すなわち我々はバーチャル世界でも同様に、次々とアフォーダンスをピックアップし、その情報の上に、世界についての、そして世界と自分との関係についての認識を形成していくものと考えられる。このとき情報のピックアップの基準、あるいは可能的制約となるのはもちろんバーチャルな身体であって、正に「アフォーダンスの基準である」というのが、バーチャルな身体の他ならぬ「本質」だと言えよう。

かくして現実身体の本質はまたバーチャル身体の本質でもあって、それゆえ我々は現実身体が現実世界との間に関係を取り結ぶその「取り結び方」に、現実身体だけの特殊性を認めることはできない。それゆえ、「関係」に基づく、先に挙げた現実身体の擁護論も成立しえないということになる。

このように「質感」や「世界との関係」など、一見、現実身体のユニークさをいうのに十分と思われる事柄は、実は十分な根拠を与えてくれない。それでは、現実身体はバーチャル身体との間に完全に相対化されてしまい、したがって現実身体は現実性の砦としての意味を失ってしまうのであろうか。おそらく唯一、砦として残るのは、「現実の身体の死は、バーチャルな身体の死をも意味するが、バーチャルな身体が死んでも現実の身体は必ずしも死なない」、あるいは「バーチャルな身体が物を食べても、現実の身体は空腹を癒されない」というような、「生命の維持」に関わる次元での非対称性であろう。しかし、我々の経験は、いつでも生命の維持に直接強く関わるものではない(あるいは少なくともそれをつねに意識して成り立っているわけではない)。それゆえ、結局そうした例外的状況以外では、これまで両者を隔てきた「身体」の壁は、この没入型バーチャルリアリティにおいて取り払われてしまうと言わざるをえない。もともと現実世界とバーチャル世界の間にある「現実性」の差の根拠として、ほとんど唯一見いだされていたと言える身体性が効力を失えば、現実性は現実世界とバーチャル世界との間で相対化し始めることになる。そして、両世界の間で現実性の比重が逆転するという事態もまた十分に予想される事態となるのである。

3 新たに生じる倫理的問題

 

もっとも、現実性が世界間で相対化することが直ちに問題だというわけではない。それはまだ、メディア社会が今後踏み込むだろうと理論上予想される一つの段階を性格づけているにすぎない。しかし、この事態に伴って生じるかもしれない問題、倫理的な議論を喚起する可能性のある問題が幾つかあり、そのうちのあるものは、すでに現に我々の直面する問題となってきている。それゆえ、我々は確かにいまから、身体性の砦の崩壊およびそれに伴う現実性相対化という局面を、それこそ「リアル」に受けとめ、種々の事態に備える心の構えを持つ必要があろう。もちろん、現実性の相対化に伴う様々な「効用」も一方では考えられるわけだが、ここでは予想される負の所産について、その主なものを素描しておくことにしよう。

(1)バーチャル世界での身体的順応により、現実世界での身体的再適応が困難になってしまう、という生理学的レベルの問題がある。バーチャル世界は現実世界と同じ物理的法則に支配されるとは限らないし、空間形式も同じとは限らない。バーチャル世界ではたとえば空間形式として、リーマン空間、ロバチェフスキー空間のような非ユークリッド空間を選択することもできる 。極端な形式的変化がないとしても、現実にはないような捨象、飛躍によって、それへの順応が現実世界への再順応を妨げてしまったり、現実的な問題を引き起こしたりということは十分考えられる。現在、コンピューターゲーム程度のものでは特にこのような問題は表面化していないが、没入的バーチャル機器の使用による、現実生活での反応時間の遅れや目眩のような症状はすでに報告されている。

我々は通常では認識できないような、増幅された現実をバーチャルリアリティによって認識することができる。これが社会システムとして確立され、我々がバーチャルな方をむしろ「現実」と捉えて、それとパラレルな現実世界が派生的なものとしてしか捉えられなくなった場合に、バーチャル優先の大きな価値転換が生じて現実世界の別の価値が極端に矮小化されて、それがために現実世界に大きな支障を来す可能性がある。もちろん、現実の経験よりもバーチャルな経験を優先させる「効用」も一方にはある。たとえば、医療の現場では、 MRIで脳の血管の様子を画像処理して取り出し、それにより動脈瘤の位置を確認して、それをガンマーナイフをバーチャル機器で遠隔操作することで破壊するというようなことを現に行っている。これらはすべてバーチャルな経験であるが、医者はむしろこちらが実態であるという意識をもっているのだという 。しかしこのような効用が確認されつつある一方で、マイナスの側面も顕在化しつつある。たとえば湾岸戦争や、先頃のコソボ紛争で民間の施設や輸送車が攻撃のとばっちりを受け、多くの民間人の犠牲者が出た。これは情報機器の精度上の問題よりもむしろ、兵器や軍施設に関するバーチャルな情報を軍部が現実の存在よりも優先させるという価値転換に問題の根本があると言える。このようなマイナスの事態が、程度の差はあれ社会の様々な部分に拡大しないという保証は全くない。

(2)バーチャルな身体、およびバーチャルな世界は特定の設計者の手になるものである。したがってこれが特定の目的のために操作され、悪用される危険がつねにある。(このような「設計者問題」は、バーチャルリアリティ問題に限らず、情報の関係する倫理的問題の議論においてつねに指摘され続けている問題である。)たとえば現実の人物の顔や身体のデータがスキャンされ、それがコンピュータ上で再構成されて、本人の知らないところで不本意な仕方で利用される、というようなことも考えられる 。

(3)バーチャルな身体を手に入れることで、複数の身体を手にし、互いに関係のない複数の世界に没入することで、人格面で支障を来すかもしれない 。もちろん複数の世界への没入が人格に関して何の問題も引き起こさないかもしれない。しかし、これが単に、「平日はサラリーマン、週末はディスコのヒーロー」というような話と同列に並べられる話なのかどうかは自明ではなく、「人格とは何か」という大問題を背後に、今後注視しなければならない問題であることは間違いない。

 先頃までの意見として、没入型バーチャルリアリティのような未来技術について、あまり先走って倫理問題をとやかく議論することは意味がない、多くは杞憂に終わるという向きもあった。しかし、この技術はもはや未来の技術とは言えない。すでに確実に現実世界に浸透しつつある技術である。それゆえ上記のような問題を現実の問題として引き受けていく姿勢が、技術者のみならず、我々社会の一員に等し並にあると言わねばならない。


(日本学術振興会特別研究員)
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