「道徳起源論から進化倫理学へ」についてのコメント---普遍化可能性要件の「見直し」がもたらすもの

奥野満里子

1 はじめに

内井教授の論文「道徳起源論から進化倫理学へ」の最大の特徴は、還元主義倫理学を支持するというその明確な主張にある。これは、非還元主義はとらないという、そして「道徳や倫理を、現実にみられる人間本性から離れた高尚なものとみなす倫理的立場はとらない」という、強烈なメッセージとして理解される。この還元主義倫理学というメッセージを、進化論的知見にもとづいてこれほどまでに明確かつ説得的に提示した論者は、進化論の始祖であるダーウィン自身を除けば稀である。この点において、内井教授の論文は高く評価されるべきものであろう。

ところで、教授の論文の主目的は、還元主義倫理学の可能性を示すことであり、特定の規範倫理の正当化を達成したものではない。たとえば内井教授は功利主義倫理学に明らかに共感をもたれているが、この論文中で功利主義の完全な正当化を試みたわけではない。この点には留意して読むべきである。

論文の中では、規範倫理学へのアプローチとして、

  1. 合理性を軸に構成するのが適当であろうということ(「合理的だといえる選好を基準にして考えれば、バイアスや不一致は相当程度取り除くことができ、規範や価値の体系化も可能になる。あるべき倫理とは、このような合理的見地から受け入れられるという意味で正当化できるものである。」とし、「合理性」の規定が道徳性を前提せずにすますことができれば、還元主義を貫くことは可能だとされる。)と、
  2. 「限定された合理性 bounded rationality」の概念を用いること(しかし、限定された合理性の個々の事例を改善したり体系化することは可能であるとされ、われわれに可能な「局所的改善を通じて最大化を目指せ」という意味での最大化の主張はなお活きる、とされる)

が主張される。このアプローチに沿って正当化される見込みのある有力な立場の一つとして功利主義が考えられてはいるものの、正当化される唯一の倫理的立場が功利主義だと論じられたわけではない。

それでも、私を含めた倫理学者の中には、今回の論文を通じて特定の規範倫理の正当化の可能性がどのように見えてくるのか、という問題に特別な関心をもつ者が多いはずである。そして特に、内井教授もこれまで(一定の留保をつけながら)評価され続けてきた、ヘアによる功利主義の基礎づけがどのように見直されるかについて関心をもつ読者は多いはずである。というのは、この論文のなかで展開される内井教授のもう一つの重要な主張が、ヘアが長年、自らの功利主義理論を基礎づけるものとして主張してきた「道徳判断の論理的性質としての普遍化可能性」という概念の見直しにあるからである。

2 ヘアの普遍化可能性要件はどのように見直されたか

内井教授による、ヘアの普遍化可能性要件の見直しは、以下のようにまとめることができる。

(1)道徳判断の普遍化可能性と、「すべての人の善を同等に考慮するという条件」(善の重みづけ。これを「善の普遍化可能性」ともいう)の区別。

(2)普遍化可能性要件は論理的テーゼではないし、道徳起源論の観点からみても強すぎる(17節)。相互的な規則によって互いの行為を規制するという条件はあっても、これは「排他性」や個体に対する言及を排除しないものであり、厳密な普遍化可能性とは言えない。

すべての人の善を同等に考慮するという条件についても、道徳起源論の観点からみる限り、「すべての人」が「人類一般」や「感覚のあるすべての存在」にまで拡張できるということは自明ではない。

以上の分析により、普遍化可能性要件と「善の等しい考慮の条件」の双方の厳密な普遍化を主張するには---道徳判断を下す者に論理的に要請されるわけではない「厳密な」普遍化可能性要件と、やはり条件としては強すぎて自明とはいえない「広い範囲にわたる全ての存在の善を同等に考慮するという条件」の双方を主張するには---、何らかの正当化が必要である、とされる。そして、この点について内井教授は以下のように述べる。

これがある程度の実質をもつ価値判断を含むことになれば、無条件の正当性を言うことはむずかしい。しかし、どのような条件の下でそれの正当性が言えるかが明らかになれば、これは哲学的分析における一つの重要な収穫となる。(25節)

その「正当性の条件を述べる」試みにおいて、教授が立てるのは以下のような見込みである。

見込み: 社会生活での交渉相手の範囲を広げ、それに伴って倫理的な考察の対象とされる人々の範囲を拡張する、つまり相互性あるいは「普遍化」の考察を広げることには、それに見合う利益が(条件次第で)期待できることを示す。

この見込みが有望であることを示すさいに内井教授が援用するのが、山岸俊男教授による「信頼の解き放ち理論」と、サイモンの「限定された合理性」の考え方である。

(3)山岸研究(26節〜28節)と「限定された合理性」に示唆を得ての考察。

両者に示唆を得て内井教授が主張するのは、次のようなことである。

社会的不確実性と機会コストが大きい社会環境の中では、認知資源の投資行動が有利な方 策となり、社会的知性を発達させる人々が生じる。その副産物として、変わりやすい社会的環境で高信頼者の特性(一般的信頼)が獲得され、関係の拡張(「排他性」あるいは「狭い相互性」から「開かれた相互性」へと抜け出ること)が可能になる。

その結果、限定されたものであることには変わりないが、「改善」された合理性にはなり得る。

これは、 狭義の普遍化可能性(正義の原理)だけでなく、異なる人々の「善の同等な扱い」についてもあてはまる。

そして、善悪の個人間比較と重みづけは、判断する人の(国や共同体などに縛られた)排他的態度の有無によって大きく左右されうる。

以上の考察により、(1)普遍化可能性要件および「善の同等な配慮」の要件はヘアが述べていたような「道徳判断の論理的性質」ではないこと、しかしながら(2)我々にとって、これらの要件は、山岸氏が述べるような一定の環境下においては人々が合理的に受け入れるであろうものとみなされ、その限りで規範倫理の基礎をなす要件として正当化されうるものとして、みなされるわけである。

わたしの理解によれば、以上が、内井教授による「普遍化可能性要件の見直し」である。

3 実践への含意

ところで、以上のように普遍化可能性要件が見直されるなら、普遍化されるべき「倫理的配慮」の範囲も見直されることにはならないのだろうか。ひいては、倫理的実践のあり方も、厳密な普遍化可能性要件、および、感覚を有する全ての存在の善への同等な配慮の要件を前提して動物解放や各種の差別の撤廃を唱えるシンガーら従来の功利主義者たちの見方とは異なる形に、訂正されることにはならないのであろうか。

普遍化可能性の見直しについて、内井教授は次のようにも述べている。

......もちろん、すべての人々が普遍化可能性を受け入れるとか、すべての人々が「公平」な重みづけを行なうということを示したわけではない(そんなことは不可能であり、また不必要である)。わたしが示したのは、...合理的選択の結果として普遍化可能性が少なくとも人々の一部に定着しうること、また、われわれが知る「道徳性」によって要求されるような、善の重みづけの変化が同じく合理的な選択の結果としてもたらされうることにすぎない。しかし、それらの結果が人々に対して規範的な拘束をもたらす理由は、還元主義の路線に従って明らかにしたはずである。合理的選択の基盤となった選好が人々の行為を拘束するのである。したがって、合理性を追求しようとすれば「為すべきこと」は受け入れられる。こういった規範に従わない人々が存在することは還元の失敗を意味しない。そういった人々がいるからこそ、「べし」が意味を持ち、道徳の存在理由があるにすぎない。(32節)
......人間の社会の中で、普遍化可能性を認める人々とそうでない人々とは共存しうる。同じく、善の重みづけについても異なるやり方をとる人々が共存しうる。「重みづけのこうあるべき仕方」とは、その時々の改善された合理性に従って選択される仕方である、というのが現在のわたしの見当であるから、これは変化しうるので、一義性をもつ保証はない。改善されていく合理性による局所的な最大化原理はこのような変化の余地を残す。われわれ人間にはそれ以上のことは望めない。(32節)

これらの主張は、普遍化可能性は「ある条件のもとで」「ある人々に対して」しか正当化できない(合理的に受け入れられない)ということを意味しているように読める。しかし、だとすれば、我々が現実の様々な倫理問題を論じるときに、我々全てに共通する前提として普遍化可能性要件を認めることはできないわけである。では、我々はいかにして実践問題を論じることができるのだろうか。すでに山岸教授が設定したような条件下にあり、普遍化可能性要件をあらかじめ認める者にしか、道徳的議論は通用しない、ということになるのか。そのような、すでに普遍化可能性要件を受け入れている人々の間での道徳的議論によって導かれる実践的主張は、はたしてどれだけの効果をもつのか(環境破壊のような深刻な倫理問題を解決するには、あまり道徳的でない、普遍的配慮をしようとしないような人々を説得することが最も重要である)。これが、私の第一の疑問である。

普遍化可能性要件についての教授の見解を理解する限りでは、普遍化の範囲は現実の我々にとって(ある程度の広さと厳密さについては依然として要求されるとしても、)完全に広くはならず、厳密にもならず、そのために我々の道徳的配慮の範囲は多少緩くなるのも自然なことである、ということになる可能性があるように思われる。この可能性を排除することはできるのか。それとも、そのような可能性はあるし、あってよいのだ、と主張されるのだろうか。

4 ヘアの路線をいかなる意味で「継承」するのか

次にわたしが関心をもつのは、特にヘアの道徳理論についての評価についてである。ヘアの普遍化可能性要件が見直されるなら、ヘアによる功利主義の理論的基礎づけは当然に見直されるであろう。ヘアの功利主義理論の正当化の第一のステップである「論理的性格としての普遍化可能性要件(これは善の普遍化可能性を含む)」という前提が誤りであるならば、彼の正当化の論理構造は根底から崩れることにはならないのだろうか。

実際、内井教授はヘアの普遍化可能性の主張について次のように述べる。

わたしは、長年ヘアの分析倫理学の路線上で倫理学の問題を考え、条件つきで彼の普遍化可能性の主張を受け入れてきたのであるが、とくに善の普遍化可能性の扱いについては、最近彼とははっきり袂を分かつことになった。(18節)

しかしながら、別の箇所では「ヘアの路線」を依然として評価する面も見受けられるのである。

一言で言えば、わたしの規範倫理学の構想は、シジウィックやヘアの功利主義の路線をおおむね継承するが、進化的視点と「限定された合理性」の考えを取り入れて、局所的な最適化と合理性の改善をつないだ「最大化原理」へと功利原理を限定したところにある。(32節)

ヘアの議論にまだ魅力があるとすれば、それはどの部分であるのか。ヘアが功利主義理論を支持する、というその一点に尽きるのだろうか。それとも、ヘアの「功利主義の理論的基礎づけ」にも未だ評価すべき点がある、と見ておられるのだろうか。これが、私が教授にお尋ねしたい第二点である。

私自身は、普遍化可能性要件についての内井教授の見直しに対して異論はない。かなり厳密な普遍化可能性要件を認める人もいれば、極めて利己的ないし集団的で道徳的配慮を拡張しようとしない人も存在し続けるだろう、ということにも異論はない。しかし、私は、「普遍化可能性要件を認める者の間では道徳的議論が成立するが、利己的で普遍的配慮をしようとしないごく少数の人々を『説得』することは諦めざるをえない」という結論(内井教授がこのような結論に達されているのかどうかには疑問の余地があるが)に簡単に達したくはないのである。そうした「普遍化可能性要件を認める者」と「利己的で普遍化しない人」との双方に通用するような道徳的議論の仕方がもしあるならば、あるいは彼らをそれぞれに道徳的になるよう説得できるやり方がもしあるならば、私はそのようなやり方を支持したい。そのようなやり方として私が注目するのは、博愛的な欲求をもつ人と利己的な欲求をもつ人とを別々に考察し、「いずれのタイプの人であっても、合理的に考えるならば何らかの道徳体系をもつことを(それぞれ別の理由で)支持するはずであり、それはおそらく(別々の理由から支持されるにもかかわらず)功利主義の道徳体系になるだろう」と論ずるR. B. ブラントのような手法である。私自身は、そのようなやり方を探求する見込みはまだあると考える。こうした「道徳の正当化」について、またとくに功利主義理論という特定の道徳理論の正当化についての、内井教授の今後のさらなる御議論を期待するものである。

5 文献

  1. シンガー、P. (1999)『実践の倫理』新版、昭和堂、1999。
  2. ドゥ・ヴァール、F. (1998)『利己的なサル、他人を思いやるサル』(西田利貞・藤井留美訳)、草思社、1998。
  3. ヘア、R.M. (1994)『道徳的に考えること』、勁草書房、1995。
  4. 奥野満里子(1999)『シジウィックと現代功利主義』、勁草書房、1999。
  5. 塩野谷祐一(1984)『価値理念の構造』東洋経済新報社、1984。
  6. 内井惣七(1974)「倫理判断の普遍化可能性について」『人文学報』38、1974。
  7. 内井惣七(1988)『自由の法則・利害の論理』、ミネルヴァ書房、1988。
  8. 内井惣七(1996)『進化論と倫理』、世界思想社、1996。
  9. 内井惣七(1998-2000)「道徳起源論から進化倫理学へ」、1998-2000。
  10. 山岸俊男(1998)『信頼の構造』、東京大学出版会、1998。
  11. Brandt, R. B. (1979) A Theory of the Good and the Right, Oxford: Clarendon Press.

(九州大学)
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