内井惣七「道徳起源論から進化倫理学へ」に対する8つの質問

奥田太郎

論文「道徳起源論から進化倫理学へ」では、比較的短い紙幅の中に多くの重要な論点が圧縮された形で提示されているため、読者は熟読しなければ決定的な留意点を見落としてしまいかねない。実際、私も、一読して感じた疑問点を解消するために、内井氏の著書『進化論と倫理』を再読し、さらに幾度か本論文を読み返す必要があった。そこで、この場では、(まだ確実に理解できていない点も含めて)私が一読した際に感じた疑問点を内井氏に問い、また、内井氏が提唱する還元主義倫理学の構想に関する私なりの理解の当否を確認したいと思う。(質問内容に論文に対する誤解が含まれていることは大いにあり得るが、その点については新たにこの場で指摘されることでさらなる理解につながる、ということで容赦されたい。)

さて、第一部「道徳起源論と還元主義」では、進化論を軸に(現在ある道徳性を問う)記述倫理学における還元主義の路線が示され、また、第二部「規範倫理学における還元主義」では、章題の通り、進化論的知見に基づき(あるべき道徳性を問う)規範倫理学における還元主義の路線が示されている。注意すべきなのは、この二つの還元主義はきちんと区別されねばならないということである。前者が事実の領域内での還元主義であるのに対し、後者が「価値あるいは規範の領域内での還元主義」であることは言うまでもない。この区別を念頭に置いた上で、内井氏は、この二つの還元主義の路線を進化論的知見によって架橋しようと試みている、と私は理解した。そこで、疑問に思ったのは、「進化論的」と言うフレーズの含意がいかなるものか、ということである。それは、「進化論のような」という意味なのか、それとも、「進化論の」という意味なのか。その点について、以下のような質問をしてみたい。

質問1:(現在ある)道徳性に関する還元主義(記述倫理学における還元主義)の方法と、(あるべき)道徳性に関する還元主義(規範倫理学における還元主義)の方法との間にアナロジー以上のつながりがあるのか?

両者に共通する還元の方法は、1)非道徳的な要素の組み合わせによる理解、及び、2)非道徳的でダイナミックな過程により生成されるという観点の導入(還元ノート、4段落)である。2)のダイナミックな過程は、記述倫理学における還元主義の場合には「自然淘汰」であり、規範倫理学における還元主義の場合には「限定された合理性の改善過程」であると思われる。そして、この両者の間にアナロジーが成立することについては、内井氏は次のように述べて認めている。

進化の説明は事実に関わる問題であり、選択をいかになすべきかという選択の合理性という規範的な問題とは別次元の話である。しかし、ベイジアンのいう最大化と進化論の最適化の論理構造はきわめて類似しているので、少なくともアナロジーとして、進化における最適化は合理性を考えるときの有力なヒントを提供しうる。(22節、1段落)

そこで、

質問2:この両者の間にアナロジー以上のつながりがないのだとすれば、「進化倫理学」(この倫理学の規定についても確認したい)と言ったときの「進化」とは、実はある種の「最大化モデル」の別名ということにはならないだろうか?

また、「進化」という語について、次のような疑問点も浮かんだ。まずは以下の引用文を見ていただきたい。

この路線[道徳起源論にヒントを得た記述倫理学における還元主義の路線(奥田による補足)]を規範倫理学において踏襲したわたしは、「普遍化可能性」や「善の公平な重みづけ」といった規範倫理の基本的な条件が、そういった条件を前提しない、もっと素朴で道徳的な条件から、進化や個々人の選択行動や社会的過程を通じていかにして可能となり、合理的な選択の結果として受け入れられるかというシナリオを描いてみせることによって、「非道徳的条件に還元できる」と主張した。(還元ノート、4段落)

質問3:ここで言われる「進化」とは、果たして進化論で言われる進化と同一のものだと言ってよいか?

質問4:また、この論文の中で、個々人の選択行動と社会的過程とは区別されるような生物学的進化が「普遍化可能性」や「善の公平な重みづけ」を可能にする、という議論はなされているのか?なされているなら、それはどこか?

さらに、こうした進化の意味合い、及び、上記の規範倫理学における還元主義と記述倫理学における還元主義とのつながりに関する疑問が生じる原因となった疑問点として、次の質問をしたい。

質問5:山岸氏の信頼の解き放ち理論が生物学的基盤の考察と倫理学者の考察との間をつなぐミッシング・リンクの一つを提供する、とは具体的にはどういうことか?

山岸はこの過程を主として個人の学習とみなしているようだが、この過程は一方ではそれを可能にする生物学的基盤の考察とつながり、他方では社会的知性のいくつかの要素を洗練または抽象して「道徳性」の本質的な構成要素と見なすという倫理学者の考察(および文化)とつながる。したがって、山岸の考察は、道徳の生物学的基盤(第一部11節参照)から始めて規範倫理学まで考察したいというわたしにとっては、始点と終点とをつなぐのに欠けていた「ミッシング・リンク」を(少なくとも一つ)提供してくれることになる。(28節、2段落)

ここで述べられている「生物学的基盤の考察」及び「倫理学者の考察」とのつながりが見えにくいように思える。「倫理学者の考察」とのつながりについては後の議論で詳細に論じられているので、疑問点は解消されるが、他方、「生物学的基盤の考察」とのつながりはどうなっているのかが今一つつかめない。そして、関係の拡張によってもたらされる利益と生物学的利益とのつながりはどのようにとらえるべきなのか。この点を含めて、ドゥ・ヴァールの考察と山岸の考察のつながりはあまり十分に論じられてはいないように思われる。

そして、素朴な疑問なのだが、

質問6:生物学的利益と選好充足との間のつながりはどうなっているのか?

内井氏は、本論文の中で、

・・・生物学的利益と倫理学でいう功利性にはある種のアナロジーがあるにしても、どう考えても直結はしない。たかだか、功利性あるいは人間的利益のためには(人間という種にとっての)生物学的利益も無視できない、という弱いつながりが認められるにすぎない。(5節、4段落)

と述べているし、また、『進化論と倫理』でも、

ただし、わたしは「生物学的利益」と「選好充足」の基準をきちんと橋渡ししたわけではない・・・。・・・わたしは、前段の議論[「概して「道徳的」であること」の生物学的証明と「概して道徳的であること」の倫理学的証明(奥田による補足)]がアナロジーにすぎないという批判は甘んじて受けるつもりである。このアナロジーは見かけよりはるかに強力である・・・。しかし、これがアナロジーにすぎないことを認識しておくことは重要である。なぜなら、われわれ人間には、生物学的利益と選好充足との関係については、ルースが述べた程度のごく概略的な対応が言えるのみで、正確な関係など現在まずわかりはしないからである。(内井1996、p. 219)

と述べ、両者のつながりはアナロジーにすぎないと答えている。

しかし、その直後で、

問題は、基本的に事実問題に関する仮説である自然淘汰説から、規範や価値の問題に答えるための「功利性」その他の概念までをどのようにつなぐかである。ちなみに、わたしのいう還元主義の倫理学は、論理的誤謬や単なるアナロジーでこのつながりをつけようとする試みではない。(5節、5段落)

と述べられているが、

質問7:生物学的利益と功利性の間のアナロジーは、この場合の還元主義の倫理学の試みの中でどのように位置づけられうるのか?

以上が私の一読して感じた疑問点である。

最後に、これまでの疑問点が解消されることを前提に、次の質問をしたい。

質問8:還元主義倫理学の試みとは、進化論的知見によって改善された人間本性に関する知識に基づいて構成されうる「改善された」規範倫理学の提示を目的としていると考えてよいのか?

言い換えると、すでに規範倫理学の理論として提示されているヘアやシジウィックの功利主義の路線を進化論的知見による示唆からのフィードバックとして一部修正しつつ(例えば、普遍化可能性の修正、善の重みづけに関する規約主義の導入、功利原理の限定)、科学的知見と整合的な規範倫理学(結果としてそれは功利主義の「一形態」をとる)を新たに構成しようと試みている、と理解してよいか?

さらに正確に言うと、還元主義倫理学とは、(特定タイプの)功利主義理論のような既存の規範倫理学を裏づける道具として進化論的知見を用いる(つまり、功利主義の正当化の装置として進化論的知見を位置づける)、というアプローチではなく、進化論的知見によって新たに裏づけられうるような新しい規範倫理学を提示する(つまり、規範倫理学構築に際して依拠されるべき事実認識として進化論的知見を位置づける)、というアプローチである、と理解してよいか?(進化論的知見による示唆に基づいて還元される規範倫理学は、結果として功利主義の一形態をとるのであって、あらかじめ想定された功利主義的規範倫理学の基礎づけに進化論的知見が利用されているのではない、という理解でよいのか?)

文献


(京都大学文学研究科)
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