進化論生物学は規範倫理学の役に立つか?

伊勢田哲治

本稿では、内井惣七氏が論考「道徳起源論から進化生物学へ」(以下、この論文からの引用は「第○節」という節番号で示す)で展開した還元主義のプログラムを批判的に検討していきたい。内井氏は道徳的価値を非道徳的な価値に還元するという意味での還元主義のプログラムをすすめているが、進化論からの道徳の起源に関する知見が、このプログラムに重要な役割を果たす、というのが内井氏の見込みである。わたしは内井氏の還元主義のプログラム自体にはシンパシーを抱くが、内井氏の引用するような進化論からの知見がどれほどそのプログラムに役に立つかについては懐疑的である。むしろ、道徳性を文化的産物と見なして、進化の歴史から切り離して考えた方が実り多い議論ができるのではないだろうか。本稿では以上のような点について掘り下げてみたい。

6 規範倫理学の基盤としての進化論生物学

進化論からの知見ははたして規範倫理学の問題を考える上で役に立つだろうか。もちろんこれにたいする完全な答えを要求することは、進化論倫理学がようやく糸口についた段階の現在では過大な要求であるだろうが、進化論と規範倫理学を結び付ける試みを進めていく上では、すくなくとも「将来的には役に立つかも知れない」という見込みは必要である。しかし、この「見込み」というレベルで考えることにした場合、進化論はわれわれに何を教えてくれることができそうだろうか?

内井氏は第13節において、あるべき倫理を考える際に「人間の能力や道徳という営みに関わる科学的な知見」を無視することは不合理であるとする。つまり、「『べし』は『できる』を含意する」という命題からの帰結として、われわれがどういう道徳を持つことができるか分からなければわれわれが何をなすべきかも分からず、科学の知見はその重要な要素となるということである。わたしは内井氏のこの大筋の路線は健全なものであると思う。しかし、それに続けて、内井氏は、彼の還元主義は「あるべき倫理を考える際のわれわれの基盤も、道徳起源論が明らかにしたような素材でしかありえず、この枠内である程度の洗練を加えていくことでしか規範倫理は構築できない」という路線をとることを明らかにする。「道徳起源論が明らかにしたような素材」とは、内井氏の論考の第一部の内容をふまえるなら、いわゆる「条件付き利他主義」に基づいて発達した道徳感覚とも言うべき社会的本能だということになるだろう。わたしが問題だと思うのは、科学一般の規範倫理における有用性の主張ではなく、この道徳起源論に関する特定の主張である。

まず、比較的小さな問題として、あるべき倫理の基盤は道徳起源論が明らかにしたような素材「でしかありえ」ない、という主張がある。これは、額面通りに読めば、われわれの道徳性の基礎となるのは進化によって形成された性向のみであるという(見込みに関する)主張である。これを真面目に主張するのならば、内井氏は、ほかに道徳性の基礎となるようなものがないと示す努力をされるべきであろうが、この論文中にそのような努力はみうけられない。さらにいえば、個体レベルでの学習や洗脳などの非進化論的な要因が道徳性の基礎となりうる(道徳を可能ならしめるという意味で)ことを否定するのは難しかろうとおもわれる。

しかし内井氏の立場にはさらに大きな問題があるようにおもわれる。それは、規範倫理の基礎としては、現在の我々がどういう心理的な能力をもつか、ということが大事なのであって、それがどういう由来で生じたかということが二次的な関心でしかない、という点である。たとえば、道徳感覚の大きな要素として内井氏もあげる共感能力について考えてみよう。われわれが共感能力を持つと言うこと、またそれがおおむねどういう性質のものであるかということは内観や道徳心理学的研究で調べることができる。そして、われわれが心理的にどうしても共感を持つことができないような場面で共感に基づいて行為することを要求するのは意味がない、という意味で、規範的な道徳を考える上でもこのような研究は参考にすべきである。しかし、進化論からの知見はこれにいったい何を付け加えてくれるだろうか? われわれの共感能力のある種の特性がどのような進化的なバックグラウンドを持つかということは興味深い話ではあるが、その特性の存在がすでに知られているならば、規範倫理をする上では、進化的バックグラウンドについての情報はあまり関係がなかろう。もちろん、進化論の考察から、共感能力にこれまで思いもよらなかったような制限があることが明るみに出ることはあるだろう(現在の進化論がそこまでたどりついているかどうか私は非常に懐疑的だが)。しかしこれにしても、進化論の役割は道徳心理学をする上での作業仮説の提示という二次的なものである。

7 共感能力や道徳感覚は現在の進化論で説明できるか?

ここまでの議論では、共感能力やそれを大きな要素とする道徳感覚がどのようにして生じてきたのか、その結果どのような特性を持つのか、といったことが現在の進化論で説明できている、という前提で話をすすめてきた。しかし、進化論はこの面でどのていど成功しているだろうか?第一部での議論によれば、内井氏はダーウィンにならって道徳感覚を他の種にもみられる能力の複合体とみなし、その「複合的心性」がどうやって発達しえたのかの説明の部分で最近の進化生物学の「条件付き利他主義」の考えを利用することを試みている(第8節など)。したがって共感能力などの要素は「条件付き利他主義」による説明においては所与の前提条件となっているわけだが、もし共感能力の存在自体が進化論でうまく説明できていないのなら、内井氏の還元主義のプログラムには大きな欠落があるといわざるをえない。そして、この共感能力の説明はなかなかの難問ではないかと思われる。感情としての共感能力の特性として、見返りの得られない相手に対しても働く、という側面が指摘できる。実際、相手が自分に十分な見返りを与えることができないと見切った時に(たとえば相手がみよりのない老人や障害者などであるときに)突然態度が冷淡になるのを「共感能力がある」と呼ぶのは、控えめに言っても我々の言語直観に非常に反する。この点、内井氏も引くドゥ・ヴァールの『利己的なサル、相手を思いやるサル』において、ドゥ・ヴァールのあげるサルの共感能力の例の多くが弱者に対する共感であることは言及しておく価値があるだろう。弱者への思いやりが共感能力の不可欠の部分であるという暗黙の前提がなければ、ドゥ・ヴァールはそういう例のあげ方をしなかったであろう。また、共感能力はわが子などの近親者以外に対しても働くと考えられているということも付け加えておいて良いだろう(ふたたび、ドゥ・ヴァールもそうした例を意識的にあげている)。このような能力の発達は、見返りの得られない相手をシビアに切り捨てることをその特徴とする条件付き利他主義で説明することは難しいであろうし、血縁淘汰では近親者の外への共感能力の広がりの説明は困難であろう。

これと関連してもう一つ付け加えるならば、このような共感能力が「複合的心性」としての道徳感覚の重要な要素ならば、道徳感覚そのものが条件付き利他主義で説明できるという内井氏のメインの主張の妥当性も怪しくなるのではないかと思われる。これについては道徳感覚がどう「複合的」なのかはっきりしないので正確なところはなんとも言えない。しかし、例えば良心の呵責が上記のような共感能力に基づいて働くものならば、見返りの得られない相手に対しても良心の呵責を覚えてしまうであろうし、そのような感覚はそれを搾取する戦略によって簡単に追い落とされてしまうだろう。(この点で、アクセルロッドのシミュレーションでtit for two tatsと称する、ほんの少しだけtit for tatより寛容な戦略ですら簡単に搾取されてしまうという結果が出ているのは興味深い。アクセルロッド1998参照)。

もちろん内井氏はこれに対する反論を用意している。すなわち、意識的に自己利益を追求することは、われわれの計算能力の限界などからいって、かならずしも我々の自己利益を最大化しないので、むしろ意識的には共感能力やそれに基づく道徳感覚を身につけたほうが良いことが多い、というものである(たとえば26節など)。しかし、わたしが問題にしているのは、計算次第で見返りが得られるかどうか分からない様な場合ではなく、あきらかに見返りのえられない場合に関する判断である。もちろん、あきらかにみかえりがえられないと思える状況でも見返りが得られることはあるだろうが、全般的にはそういう場合にその種の道徳感覚にもとづいて相手のために何かすることは本人にとって負の効用を持つだろう。断わっておくが、わたしは必ずしもわれわれがそういう意味での道徳感覚を一般に持っていると主張しているわけではない(そのためには前にも述べたように道徳心理学的調査が必要である)。むしろ私の主張は、条件付き利他主義は、このようなものとしての道徳感覚の基礎としては、われわれの計算能力の限界などを考慮にいれたとしてもまだ不十分だということである。

8 道徳性の再定義としての拡張された条件付き利他主義

あるいは、内井氏は、道徳性を拡張された条件付き利他主義として「再定義」しようと(進化論の知見に基づいて)提案しているという見方もできるだろう。それならば、われわれが従来理解してきた意味での道徳性やその基礎となる共感能力を進化論の議論で裏付けることができなかったとしても、それが彼の議論の欠点とは言えない。内井氏が「一定の非道徳的な能力や傾向性がないと道徳は不可能であるだけでなく、道徳とはそれらの能力や傾向性が束になって作用する一群の現象に対する呼び名である」(第13節)と言うとき、彼が念頭に置いているのはこの種の再定義であるかもしれない。確かに、たとえばゴーチエなどは同様な路線をとるわけで、必ずしも簡単にこの方向性を却下はできないが、このやりかたでは道徳を道徳たらしめている(つまり道徳を他の種類の価値基準から区別する)重要な要素がぬけおちてしまうと感じるのは私だけではあるまい。

その抜け落ちてしまう要素とは、端的にいえば「つきあっても見返りが期待できない相手への配慮」である。ここでわたしは必ずしも実質的な道徳原理としての弱者への配慮を念頭に置いているわけではない。たとえば(内井氏も第15節で引く)バイアーが「みずからの原則を普遍化する用意があること」を道徳性の条件の一つとして挙げた時、その含意の一部として、「わたしにとって相手が役に立つか立たないか」という基準でその原則が適用できたりできなかったりというように原則の適用の対象を取捨選択することは認められない、ということが含まれているであろう(その適用の結果、やはり弱者の利害は考慮にいれなくてよいという実質的道徳の結論が出るかどうかはその原則の内容によるわけで、また別問題である)。しかるに、条件付き利他主義にせよ、その拡張として内井氏が提示するさまざまな合理的な「普遍化」の議論にせよ、相手と交流することによってなんらかの見返りが期待できることが前提であって、見返りの期待できない相手は、そもそも(その相手の利害をどのように重み付けるか、などという実質的判断以前に)考慮に入ってこない仕組みになっている。これは内井氏の道徳の理解における大きな問題ではないだろうか。

この普遍化を巡る問題に関して、内井氏はバイアーの普遍化可能性の条件を、道徳の定義というよりは一定の価値判断を含むものとして分析する(第17節)。わたしはこの分析には反対しない。しかし、多くの人が道徳の定義とみまがうまでに道徳にとって基本的であり続けてきた価値判断が救えないのならば、それは内井氏の道徳性の再定義(再定義であるとして)の妥当性を疑ってみる十分な理由になるだろう。内井氏もそれを理解するからこそ合理的な考察によって「普遍化」の要素を条件付き利他主義に付け足そうとするわけだが、その試みは上に述べた重要な点で不十分であるように思われる。

ここで、この議論は内井氏の還元主義のプログラム自体に対する反対ではないということははっきりさせておいたほうがよかろう。われわれが道徳的価値と呼ぶものが、非道徳的な価値に還元できることが示せるならば、もちろんそれは倫理学にとって非常に重要な成果である。しかし、その分析の過程で道徳性そのものが再定義され、再定義されたなにか別のものを還元してみせるというのであれば、その魅力は大幅に減少してしまう。この項でわたしが反論しているのはそうした可能性である。

9 「文化的洗練」をめぐる問題

内井氏は、ここまでで述べたような「条件付き利他主義」と(バイアーなどが言う意味での)「道徳性」のあいだのギャップの問題に気付いていないわけではない。その結果、たとえば、第17節で内井氏は、普遍化可能性にふくまれる公平性や合理性の要素は「生物学的起源にさらに文化的な洗練が加えられた価値判断」と分析し、第20節ではさらに踏み込んで「文化的側面の内に道徳性の規範的条件の大半が含まれる」であろうと示唆する。わたしは、道徳を文化的なものと捉えることには大賛成である。しかし、もしこの視点をとることを許されるなら、はたして内井氏の第一部での条件付き利他主義の進化からの議論がどの程度道徳の理解に貢献するか非常に疑わしくなってくると思う。この点を、ドーキンスのミームの概念を利用しながら以下展開する。

よく知られているように、ドーキンスは文化的に伝播されるアイデアや価値などを一種の遺伝子のようなものと見立て、ミームと呼んだ。このミームの概念を真面目に受け取って進められている研究はそれほど多くないが、たとえばデヴィッド・ハルが選択プロセスとして科学の発展を分析している例(科学の理論やアイデアをミームとしてとらえる)などがあげられる。これらの研究は、ミームの振る舞いは、通常の遺伝子の振る舞いと根本的に違うことを示している(この点については1988年の Biology and Philosophy no.3 vol.2でのハルと彼の批判者たちのやりとりが参考になる) 。簡単にポイントだけならべるならば、まず、ミームの伝播においては「獲得形質」が遺伝する、つまりある個体が学習で付け加えた形質が次にそれをうけとった個体に受け継がれることがある。また、ミームは遺伝的な系統をこえて伝播する。また、その結果として、ミームの進化においてはそのミームをもつ個体の利得と、ミーム自体の利得(つまり次の世代にどれほ どの同じミームを残せるか)はかなり独立である。以上の様な性質は、実のところ、我々とミームの関係は生物個体と遺伝子の関係よりも、むしろ生物個体とウィルスとの関係に近いということを示している。公平性などの道徳の主要な要素を文化的洗練の産物とみなすということは、道徳のこの部分をミーム的な進化の産物とみなすということにほかならないだろう。しかし、上に述べたようなミームの性質のために、このプロセスの理解には条件付き利他主義を考えるために使われているモデルとはかなりちがったモデルを使う必要が出てくる。とりわけ、個体の利得とミームの利得の直接の相関がないということは、ドーキンスやアクセルロッドがつかうような繰り返し囚人のジレンマゲーム型のモデル(個体の利得の計算に基づいてある戦略の適応度を測る)が適用できないということである。たとえば、ある自己犠牲的な行動が他の個体を感動させ同じような行動に走らせるとき、個体としての利得は負でもミームにとっての利得は正となることがある。

この事態は道徳についての進化論的な議論を行う上でむしろ歓迎するべき事態であるようにおもわれる。ここは私自身の見解を展開する場ではなく内井氏の見解について論評する場であるので手短に述べるが、ミームがむしろウィルスに近いもので、道徳性もミームの一種だとすれば、道徳性の進化を考える上で重要なのは、ウィルス病の伝播と鎮静を扱う疫学のモデルだということになる。それならば(ウィルスが個体にどういう利益をもたらすかという問いにわれわれがわずらわせられなくてよいのと類比的に)道徳性が個体にどういう利益をもたらすかという問いにわずらわされる必要はあまりなくなる。ただし、通常のウィルスと違って、道徳性は一旦集団全体に蔓延してしまえば集団全体にとってそれなりの利益をもたらす(これが黄熱病などと違い道徳性がいつまでたっても根絶されない理由であろう)。もしこれが道徳性の進化を考える上で正しいアプローチならば、内井氏が考えるように条件付き利他主義から道徳を何とか説明しようというもくろみはいらざる苦労をしょいこんでいるといわざるを得ない。たしかに、ミームの概念はつかみ所がなくモデル化しにくいので、厳密な数学化を好む者にとって食指の動く研究対象ではないだろう。しかし、これはどちらかと言えば概念装置の問題と言うよりは道徳性という対象自体の問題であろう。

最後に、この、道徳の疫学的モデルを考慮にいれたとき、内井氏のいう還元主義のプログラムがどうなるか簡単に述べておこう。内井氏は非還元主義のひとつの特徴として、「すでに述べたカントのような非還元主義の倫理学では道徳の独自性を強調するあまり、道徳的価値の基盤が経験的な知識を超えた領域(…)におかれ、経験的あるいは科学的に知りうる人間の本性や性向とは無関係なところにおかれる」とする(14節)。しかし、ウィルスの様に伝播するものとして道徳を考えた場合、このモデルに基づく道徳のイメージは(内井氏の言う意味で)非還元的でありかつ経験的探求の対象となることが十分考えられる。つまり、かりに道徳的価値というミームが他の価値のミームと完全に独立の存在でも、その伝播のメカニズムを心理学やゲーム理論の道具立てを用いて探求することは十分可能だろう。この意味で、内井氏の考える還元主義の利点のひとつはほりくずされることになるだろう。しかし、たとえ道徳がこのようなものであるとわかったとしても、これは還元主義のプログラムそのものの破産を意味しないことは銘記しておくべきである。というのも、もし道徳がウィルスのようなものであっても、われわれはなお「われわれは道徳性というウィルスに感染したいと思うか」という問いを立てることができ、この問いにわれわれの他の価値基準にもとづく答えを与えうる可能性は残されているからである。

10 おわりに

以上、批判的なコメントを並べてきたが、わたしが内井氏の還元主義のプログラムや科学的知見の重視に反対する意図は全くないことはもう一度くり返しておいてもよいだろう。内井氏の議論は非常に刺激的な洞察に富むが、本稿の性格上そうした魅力の部分について多くを語ることができなかったのは残念である。内井氏の論文をきっかけに、今後日本の倫理学界でもこうした論議が盛んになっていくことを望む次第である。

文献


(名古屋大学情報文化学部講師)
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