14 ビデオゲーム文化:男性性・暴力性・快楽を伴った遊戯

N. アロウェイ & P. ギルバート

出典

Nola Alloway and Pam Gilbert, "Video Game Culture: Playing with Masculinity,Violence and Pleasure" in Wired-Up: Young People and the Electronic Media, edited by Sue Howard, 1998, UCL Press.

1 導入

夥しい数にのぼるビデオゲーム文化が子供や青少年に与える影響は、現在はっきりと認められている。しかし、一般的にその影響というものは否定的に捉えられている。親や教師、政治家、聖職者たちは、子供たちがビデオゲームで浪費する時間についてや、そのようなゲームの中で明白に正当化された暴力性や攻撃性について、また社会的暴力や無法性と、新しいゲーム文化の大衆性とを結びつける可能性について、不平を言ってきた。ビデオゲームの若年層への影響を評価しようとする試みは広範囲にいたり、様々な研究領域や研究方法に由来するものとなった。しかしながら、それらの研究は典型的に、子供たちの諸行動と、ゲームで遊ぶ際の物語や慣習の中に占めるイメージとの因果的な繋がりを示そうとしている。驚くべき事に、ほとんどの研究が、この文化にある明白で興味深い特色がみられることを見逃している。ビデオゲーム文化は男性中心的で、激しく男性的で攻撃的、暴力的な文化である。女の子よりも男の子の方が多くビデオゲームで遊 び、ゲームセンターに足を運ぶ。そしてテレビよりも多く、攻撃的なテーマや、男性の姿や声がビデオゲームのスクリーンには映される。ビデオゲーム文化のほとんどは、男性向きに作られ、ひどく男主体の領域である。女性にとっては居心地の悪い場所であり、そこでは女性は傍観者或いは見物人になってしまう。

2 論説、主体性と位置づけ

ビデオゲームの物語や慣習は、様々な慣習の複雑な相互作用の一部であるビデオゲーム文化の形態に結びつけられる。暴力性はビデオゲーム文化だけの特色ではなく、暴力性は至る所にある。ビデオゲームが突出しているのではない。それは暴力性、攻撃性、性別、民族性や権力を構成する社会的慣習のネットワークの一部である。若者は、性別化され、階級化された意識や民族的意識について彼らがどのよう立場にあり、どのように構成されるかということによって、社会世界における見解をもつ。そのことは常に複雑である。若者は同一の方法でゲームの主題を読みとるのではなく、むしろビデオゲーム文化のとりとめもない世界に没入しているのである。若者がどのようにしてビデオゲーム文化の中のストーリーや慣習を受け取るかは、彼らの社会的位置づけに依存しているだろう。

しかしながら、多くのビデオゲームは男性らしさと、権力、攻撃性、勝利、優越性、そして暴力的な行為とを結びつけている。ゲームセンターは、男らしさが経験され、実践されうる社会的な闘技場になっている。ビデオゲーム内の仮想現実では、男らしさはしばしば暴力的な行為を通した権力の達成と成功に関連づけられる。

3 暴力性の区別

おそらく大人よりも若年層が惹き付けられると言う理由で、ゲーム文化は若年層にとってメッセージ性をもつ媒体であるとしてしばしば過大視された。ビデオゲーム産業が若年層に強固なマーケットを確立して以来、親たちは、自身が子供に買い与えているにもかかわらず、子供の遊んでいるものについて詳細な知識を持っていなかった。Girouxは一般的文化における暴力表現の区別を論じ、特に映画における暴力表現に注目していた。彼の儀式的暴力と象徴的な暴力という区別は、ビデオゲームの暴力性の影響を論じるのにも非常に役に立つ。儀式的暴力は破壊することの興奮に対する反応をもたらすが、象徴的な暴力はより複雑で、批判的、知的な闘争を求める。象徴的な暴力は暴力自体が目的ではない。多くのビデオゲームの暴力は、儀式的暴力であり、ビデオゲーム文化はプレイヤーを、アクションによって感情的にさせ、理由のない暴力の仮想経験の中に快楽を与える。

4 ゲーム専門雑誌

ビデオゲームはほとんどが男の子向けとして作られ、ゲームのテキストはしばしば非常にはっきりとプレイヤーに、暴力性や快楽、欲求との関連づけを示してしまう。ビデオゲームを専門に扱う雑誌もまたそうした傾向がある。雑誌のビデオゲームの広告や宣伝、批評はほとんど男の子に向けられたものである。ゲーム雑誌がビデオゲームのもつ欠点を助長しているかのようである。

5 支配的な男性らしさと、女性らしさ、別の男性らしさ

支配的な男らしさは、単独で表現されるのではない。支配的な男らしさは常に、女性との関連や、様々な従属的な男らしさとの関連において築きあげられる。ゲームは、暴力的な男性らしさを示しつつ、同時に女性らしさや非暴力的な男性らしさを端に追いやり、下位に置く。例えばゲームに登場する女性は、弱者として扱われていたり、しばしば性的に誇張され、過度にセクシャルに表現されてしまう。

支配的な男らしさは、獰猛な個人主義、競争や対抗、他者を操ること、暴力的行為、他の生命の軽視に基づいている。ゲームでは他の人間を支配できるどころか、宇宙さえも支配でき、プレーヤーに増長する機会を与える。ある広告にあるように「ゲームの中では神の如く振る舞える」のである。

6 ゲームと一体化すること

ビデオゲームの特色はその相互作用性である。技術が作品の中で洗練されるにしたがって、ゲームはリアル指向の歩みを、いくぶん粗野な調子で進めていった。ゲームは全感覚を使い、体験を一体化するようなアイデアを打ちだした。より美しい画像、より高い技術そして仮想現実の到来は、少年たちにそして僅かであるが少女のプレイヤーたちに、知ることや実践し、遊ぶための機会を与え、そしてゲームを通してもたらされる性別的考えを体現する機会を与えた。

しかしゲームをすることによる、男らしさの体現をとおして得られた快は、多くの少年がゲームに現れる性別的考えを批判的に反省的に読みとることを困難にしている。

7 少年へのゲームについてのインタビュー

ここで私たちはゲームセンターにいた15歳から17歳の間の少年、22人にビデオゲームで遊ぶことについて話を聞いた。話を聞いた少年のほとんどに言えるのは、ゲームをプレイすることに関連づけられた行為や、ゲームのストーリーを通して男らしさとして合法化され権威づけられた物語と行動について、反省的に批判的に振る舞うことの欠如であった。暴力性と男らしさを関連づけることは、より明白にされる必要があり、また少年たちにはこのことを論議する機会が必要である。彼らの、プレイしたいと思ったら誰でもゲームをプレイすればいいと言う、ゲーム文化に対する平等主義者的考えは、ゲーム文化の強い性差別的な特色をぼやけさせてしまい、ゲーム文化の中の、度を過ぎた暴力的イメージや行動を暗黙のうちに軟化させ定着させることを助長してしまった。

8 結論

重要なことは、ビデオゲームのような大衆的な文化が、故意であるか否かに関わらず、娯楽を装って、性差的な意見を産み出していることである。ゲームをすることの問題点は、その物語上や記号上の特色が、暴力や快楽を伴って、男らしさや性別の理解をもたらすことである。

ゲームが男の子に向けられていることにより、特に少年たちは、男らしさが、他者の支配や根拠のない暴力、制度化された闘い、犠牲を出す闘争、他者や環境への無関心、征服による増長という文脈で表現されていることを理解し、反論する機会をもつことが重要である。

教育上の危機は、個人的に没入し、相互的なゲームの文化を通して実践されえた論説を無批判に容認することにある。

我々が忘れてはいけないのは、ビデオゲームが、性差に関連する知識に従事するだけでなく、快楽や欲求主観的経験にも従事するということである。


(黒仁田 崇)
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