William Wresch, Disconnected---Haves and Have-nots in the Infomation Age, Rutgers University Press, 1996, Chapter 9, "World Education."
著者のWilliam Wreschは、ウィスコンシン大学の教授(数学、情報処理)である一方で、アメリカのフルブライト学生としてアフリカのナミビア大学でコンピュータ科学(computer science)の教鞭をとった。またWreschは著書としてアフリカでの教育という視点から世界各国の教育事情を紹介した本を刊行している。彼は情報化時代と呼ばれる今日、「情報は力である(Information is power.)」と力説するが、この章ではその情報の在り方そのものがアフリカを中心に世界の中でいかに扱われているかを豊富な資料を元にして紹介している。
彼がナミビアで見たものは現地の黒人たちへの教育が十分に為されていないことである。Wreschは1993年にナミビア大学に赴任して教鞭を執ったが、その講義の感想として、現地の黒人への教育というよりも、現地の白人(アフリカーナ:オランダ系の現地出身の白人)に対する授業であったと述べている。その事由についてWreschは以下のような考察をして紹介している。
ナミビアは1990年に独立した新興国であると同時に、それ以前の教育というと、この国は南アフリカ共和国の委任統治領だったこともあり、それは全人口のうち一部であるイギリス連邦の人たちのためのものであった。
特に南アフリカ共和国に関して言えば、1948年にアフリカーナが政権をとって以来、彼らは国民教育という視点から黒人に対して「バンツー教育(BanthuEducation)」なるものを実施した。その目的は当時の教育大臣であるH. Verwoerd博士が「私が国民教育をコントロールする時、私は国民たちが子供たちにとってヨーロッパの人たちがいう平等が彼らのためではないことを悟ることを教えられるためにそれら〈国民教育〉を改革するであろう。平等を信じている人々は国民にとって望ましくない先生であってはならない。教育というのは生活の機会に従って、また彼らが生活している地球に従って人々を訓練し、かつ教えなければならないものである(AMUNGO 1993:57)」と指摘したように、国民教育の必要性を十分に教示したものであった。それに応じて南アフリカの委任統治領であるナミビアにも黒人たちに以下の6項目を求めた。それはすなわち、
である。しかしこのバンツー教育はアフリカーナにとっては「二重の勝利」であった。というのも、一つは既に述べたがアフリカーナによる政治の実現であるが、Wreschはバンツー教育で掲げた項目はそれぞれアフリカーナが黒人を「従順な住民」としたり、黒人に対するある種の偏見を含まれて作成されたものであることがアフリカーナのもう一つの勝利であるとしている。それは次のように言えるであろう。すなわち、子供たちに自分たちの母国語を教えることは寛大かもしれないが、そのことは同時に黒人どうしがお互いに分割しあうための 能率のよい戦略となることを表している。もし複数のことばがあれば黒人たちはお互いにコミュニケーションをはかれないであろう。公用語の読み書きの能力は黒人たちにアフリカーナの秩序に従うことを意味している。また衛生に関する知識は黒人たちが本来的に不衛生であったり、また彼らがこの地域の中で特別な教育が必要であるといった仮定のうえで成り立っている話である。それに専門的な技術とはハンマーやショベルを使うことを表しているのである。
黒人はアパルトヘイトの底辺にいる。Wreschは国民教育というのは黒人たちに彼らの約束された地位への準備に役立つために存在しているはずであるとしている。しかし、黒人に対する国民教育の水準はその結果、アフリカーナとの教育水準の差異---具体的には、教師一人あたりに対する生徒数や教師そのものの学力水準、そして進学率や設備投資の度合い---は著しいものになっている。現在アパルトヘイトが廃止され、南アフリカやナミビアではすべての者に完全な教育をさまざまな教育機関が実施し始めて模索しつつある状況にある。
Wreschは、例えば年間就学日数が国際間で異なるのと同様に(Wreschが西欧・東欧・東アジアに関して調査したところ、中国が最大の251日、ポルトガルが最小の172日であると報告している)、厳密な意味での国際的比較は不可能であるとはしているが、おおよその教育事情はこういった数値から窺えるものだとして紹介している。その一例として、国別による就学率をあげてみることにする。
国名 | 小学校 | 中学校 |
アルジェリア | 94 | 61 |
象牙海岸 | 75 | 20 |
エジプト | 97 | 81 |
ガーナ | 75 | 39 |
ナイジェリア | 70 | 19 |
タンザニア | 63 | 4 |
アフガニスタン | 24 | 8 |
中国 | 100 | 44 |
インド | 98 | 43 |
日本 | 100 | 96 |
パキスタン | 38 | 20 |
フランス | 100 | 97 |
ドイツ | 100 | 100 |
ポーランド | 99 | 81 |
アメリカ | N/A | 89 |
Wreschによると、表15.1からわかるのは、先進国と途上国との間で就学率の差が大きく離れていることである。また、途上国と呼ばれるような国の中では、小学校の就学率は高いのにもかかわらず、中学校の就学率となると激減しているような国があることが窺われる。とくにアフリカの場合だと、学業よりも家業、例えば家畜の群の番をすることのほうが優先されることが多く、このことに関してナミビアの教育大臣は「第1学年で8万5000人もの子供たちが最終学年である第12学年で修了するのは5000人である」と述べている。
また別の資料では、こうした途上国の国では教師の賃金を十分に支払える体制が十分ではなく、もっぱら教師の賃金は学生たちが支払うコメや小麦粉といった食糧、それに古着やガソリンといった衣料や燃料によって賄われていることが往々にしてあると報告されている(NGONGO 1995)。こうした「授業料」を支払うことのできない学生はその時点で彼らの教育が終わる、ということもまた実状なのである。
南アフリカの教育事情を中心に取り上げてWreschが結論づけていることは、「教育が人々を区別するために用いられ、その結果、子供たちのある特定のクラスが受ける教育の量に大きな差が生じていることのみならず、こうした子供たちが教わることについても大きな差が生じていること」である。換言すると、政治上の政策は教育の量を制限するのみならず、質までをも制限していたといえる。質の違いは世界中の至る所に存在する。こうした差異のいくつかは経済的なものであったり、またいくつかは教育政策に起因すると捉えることが可能であるが、原因がたとえどういったものであろうとも、この差異は確かに存在するのである。以下で触れていることは、この質的差異をWreschがどのように見ているのかについて要約したものである。
教師のトレーニング(training)は多種多様である。まず始めに、1982年に発行された「世界の14歳の子供たちが科学の知識」に関する比較についてまとめたものをWreschは紹介して考察している(INKELS 1982:214-215)。
オーストラリア | 24.6 |
ベルギー | 21.2 |
イギリス | 21.3 |
フィンランド | 20.5 |
ドイツ | 23.7 |
ハンガリー | 29.1 |
イタリア | 18.5 |
日本 | 31.2 |
ニュージーランド | 24.2 |
スウェーデン | 21.7 |
アメリカ | 21.6 |
中国 | 9.2 |
インド | 7.6 |
イラン | 7.8 |
タイ | 15.6 |
1982年の14歳というのは今の新人教師たちのことである。表15.2からすぐに分かることはこれらの子供たちが2つのグループに大別されること、つまり、先進国の子供たちと発展途上国の子供たちという2つのグループに大別できることである。イタリアを除いて先進国の科学的知識の点数は20〜31であり、その一方でタイを除いた発展途上国の科学的知識の点数は10以下であることがわかる。その差は歴然としているが、実状はこの表であらわしている以上に悪い。なぜならば先進国の場合、子供たちの95パーセントを対象にしているのに対して、イランとインドの場合は25パーセントしか対象にしていおらず、というもの、イランとイラクの場合、1982年の時点で25パーセントの子供たちしか学校に就学していない現状があるためである。したがってこの表\ref{知識}から窺われることは、イランとインドの教育的エリート集団の科学的知識は平均的な日本の生徒の4分の1程度であり、総じて発展途上国の事情はあまり恵まれたものではないということである。
Wreschは以前、ナミビア北部にあるOngwediviaの教育大学を訪問した。そこは熱心な学生であふれかえっており、すべてのことがうま くいっているように思えたのだが、実験室を歩いてみると、顕微鏡は1つしかない。ましてや実験装置や化学物質はなく、コンピュータも大学に設置されていない状態で、一つしかない図書館にそれでも熱心な学生たちであふれており、本の奪い合いが起こったりするという。もしこうした学生が発展途上国の典型的な学生であれば、また日本の第9学年に相応する4分の1程度の科学的知識を知っているものだとすれば、こうした差異を埋めるような相応の、例えば実験室とか図書館といった施設が不足していなければ、より多くの発展途上国の学生は熱心に科学的研究にいそしむのではないか、そして進学率もまた同様に向上するのではないかと結論づけている。
ロシア共和国とそれ以外の旧ソ連邦の共和国において、モスクワの学校はアメリカの都心の学校と設備的にはほぼ同等の設備を有している。しかし、それ以外の学校の半分以上では初歩的な電力システムが故障していることが多く、それは同時にマイクロコンピュータや他の教育補助に関係するものが使えないということを意味している。モスクワの高校ではコンピュータが十分にある一方で、そこでは政府が情報学コースを設置し、高校生に情報学のコースを履修することを求めているが、モスクワ以外のほとんどの高校生はキーボードを描いた紙の上でタイピングの練習をして、プログラムを書き、そして書いたものを教師のところに持っていくことで「RUN(実行)」をする。教師はそのプログラムを目で追って、生徒のつくったプログラムの出力が正しいかどうかを生徒たちに説明している。モスクワ以外の生徒のほとんどんが実際のコンピュータを見もせず、ましてや使いもせずにその課程を修了しているのである。
似た例がアメリカにもある。いくつかの学校は生徒用のコンピュータを十分に用意し、インターネットを介した授業(telecommunication)を実践しており、その中でテキサス州では世界中の人々や情報をクラスルームとリンクするために使われるTENET(テキサス・エデュケーション・ネットワークの略称)を用いて授業を展開している。生徒たちはNASAからの最新情報を入手したり、世界中の教室とコンタクトをとっている。TENETはすでに生徒に科学、歴史、現代事情、地理学、それに外国語といった特別な情報を与えるのに活用されているわけである。また生徒たちもより多くの情報を得るために、そして教科書には書かれていない多くの時事情報を得るために直接アクセスしている。その一方で、他の州、とりわけ地方の州のことであるが、自分の学校に電話回線を引いていないばかりか、コンピュータもほとんど活用されていないのが現状である。こうした両極端な学校生活の中で生徒たちは毎日学校で同じ時間を過ごしているのである。このことから、生徒たちがコンピュータに割く教育的な機会は大きく異なっていることが窺えるのである。
教育する内容も国によって異なるが、基本となる軸は同じである。それはまず母国語が中心におかれ、その後に科学、数学、社会科、それに外国語が加わる。また、こうしたカリュキラムは最低限その国の中で学ばなくてはならない内容であると同時に、生徒から見て次の高次の教育機関、例えば、中学校から高等学校などのような、目的に応じた最低限の内容でもあることは周知の通りである。
カリキュラムにそった進路事情が世界で非常に異なっている一方で、変わらないものをあげるならば、それは非公式の進路という現状であろう。つまりそれはある特定の生徒にある特定の種類の授業やある特定の水準の授業をうけさせるという圧力のことでもある。
隠された進路事情の一つは原理的に人種的にも民族的にも小数派の人たちのために用意されている。カリフォルニア大学に在籍しているJohn Ogbuはアメリカ、イギリス、イスラエル、インド、日本、そしてニュージーランドでの小数派の生徒に関する研究をし、6つの国に一貫するパターンを発見した。それによると、どの場合でも、少数派の生徒は就学率や識字率、それにクラスの中での協調性や卒業率、そしてIQテストで多数派よりも劣っているというものであった。このような理由には以下のことがあげられる。具体的にインドでは少数派であるハリジャンが今世紀の始めまで、どんな種類の学校に行くにしても行くこと自体が否定され、イスラエルでも、東方系のユダヤ人は1948年まで国内のAshikenazimから異なった学校に通学した。日本のブロク(訳者注、「部落」の誤植か)出身者は今世紀の初めまで学校に行かせてもらえず、今でも何らかの区別がされている。ニュージーランドのマオリ族は以前ニュージーランドから排斥された経験があり、それから彼らは迎え入れられたが、今でも特殊なものとして扱われている。在英の西インド人は白人と本質的には区別されていないが、黒人が多数を占める貧しい学校で教育を受けており、アメリカの場合、歴史的に黒人の生徒を排斥していたことは言うまでもないことである。
もし彼らが自分たちを多数派によって抑圧された少数派の一部として認識するのであれば、多数派がコントロールする学校というのは抑圧を実行しているものとして見ているかもしれない。Ogbuはこの調査を元に「学校に対する強い不信がある以上は、少数派にとって学校の目的そしてルールを完全に受け入れることは困難を生じさせる。子供たちが協調性と学校に対する大人としての認識に気づくまで、子供たちが学校の目的と規則をうけいれ、かつ学校の仕事でマジョリティーと一緒に耐えたり、作業することははるかに難しいであろう(OGBU 1982:275)」と結論づけているのである。
既に冒頭で述べているように「情報は力である」というのがWreschの教育に対する基本姿勢である。しかし、この章に関して言えば、情報すなわちinformationという語はテキサス州のTENETの中での例として触れられているに過ぎず、ほとんど登場していない。だが、Wreschは、この章で彼の基本姿勢である「情報は力である」という文脈をどう位置づければよいのだろうか。かなり私見的なことを含むかもしれないが、以下のような結論でもってまとめてみた。
「情報は力である」ということばは何もWreschに始まったことではない。情報の多寡は人の生活レヴェルを大きく左右する。戦争において情報操作があるように特定の人物が情報を操作することが往々にしてある。しかるに、特定の人物や集団が何かしらの情報を独占した状態で情報を享受していない人たちを場合によっては煽動することも可能である。Wreschがアフリカで見たアパルトヘイトによる差異化された教育がもたらした社会はまさに「情報の制限」を支配者階級が巧みに利用した一産物であるといえよう。そのことによって、教育の中でも十分に情報を与えられる者とそうでない者がそれ相応の職に就き、世代間においてある種の規範として存続させた。これは南アフリカのアパルトヘイトだけではなく、Ogbuが調べた世界中のマイノリティーに対しても同様のことが言える。
教育を受けること自体最低限の権利であり、その教育が不平等であってはならない、と私は考えている。新しい情報を媒介する手段であるネットワークは、この功罪に関する議論は別にしたとしても、その有無そのものが情報の多寡を表すようになりつつあるのも否定できない。Wreschはこの章の最後に「教育ではカリュキラム、設備、環境といったパズルのピースが混ざっており、一つのピースに勤しむ と、別な問題が生じてくる」と述べている。ネットワークの設備が整ったとしても、教師のネットワークに対する力量などが問われたり、ネットワークを受け入れるだけの体制を整える必要がある。こうした関係を相互補完的にかつ相乗的に高めていくことがこれからの情報社会に求められている課題なのかもしれない。