5 Why Be Moral on Internet?---道徳の根拠付けとインターネットの発展

伊勢田哲治

1 序論

われわれはなぜ道徳的に行為せねばならないのだろうか?これはプラトンの昔から倫理学の基本的な問いでありつづけてきた。しかしながら、 おそらくこれにたいする完全な答えはなく、実際、これまで倫理学者が与えてきたのは、ある種の特定の条件が満たされた時だけに通用する限定的な答えでしかない。しかしながら、最近の情報技術の展開、とりわけインターネットを通した人間関係の増加は、そうした倫理学者が前提としてきたものを掘り崩すような方向で働いているとみなせる側面がある。本稿の目的は、そうした情報技術の展開と「なぜ道徳的にあらねばならないのか(why be moral?)」の問い(以下、この問いをWBMと略する)に対する答えとの関わりとを考察することである。この考察の含意は単に抽象的な哲学的考察に留まらない。もしも我々が人々に道徳的に行動するように期待するならば、そうした行動を促進するような社会的条件をととのえることが肝要である。したがって、本稿で行うような、若干抽象的な考察も、われわれは情報技術の発展をどのような形で補っていかなくてはならないのか、というより実践的な問題に深く関わるのである。

本論に入る前に、いくつか注意しておきたい。まず、わたしは、一般の社会での倫理についてWBMに満足の行く答えが提示されているとは考えていない。むしろ、私見では、この問いへの満足の行く答えは存在しないというのが現状であろう。わたしが本稿で論じようとしているのは、その不十分な議論ですらさらに危うくするような要因があらわれつつあるということである。

第二に、本論文の前半の議論は、WBMに関する網羅的なサーヴェイを意図してはいない (*

網羅的なサーヴェイを求める向きには川本隆史(1992)の文献案内やホスパーズの論文(Hospers 1961)などが参考になる。

*)。ここでとりあげるのは、現代の状況である程度説得力をもち、かつまた情報技術の展開との関わりで考慮すべき論点があるものである(この限定の範囲内においてすら本論は網羅的とはいえないが、それについてはご寛恕願いたい)。

第三の注意として、わたしはインターネットの発展が、何か質的に新しい状況を作っていると主張しているわけでない。本論でとりあげるインターネット上のコミュニケーションをめぐる問題に類似した問題は、多かれ少なかれ近代社会の成立以来存在してきた。あるのは程度の差である。しかし、ある結論(たとえば「道徳的に振る舞うべきである」という)がさまざまな考慮のバランスの上に成り立つ場合、「程度の差」が結論の180度の転回という質的な変化をもたらすことがある。本稿の議論をすすめる上でわたしが念頭においているのはこのような可能性である。

2 "Why be moral?"の問いとは何か?

まず、"why be moral?" とはどういう問いであるかを確認しておこう。"why be moral?" という表現は、"why should we be moral?"と"why should I be moral?"という、社会的および個人的な両方の問題を同時に扱うために作られたようである。カイ・ニールセンのまとめ(Nielsen 1963)によれば、WBMの問いには二つのレベルがある。一つは、社会内での一般的な行動基準として、なぜ道徳的な行動をとらなくてはならないか、という問題であり、もう一つはある種の特殊な状況(誰にも自分がやったと分からない状況など)でなぜ道徳的に行動せねばならないのか、という問題である。せっかく両者を統一的に扱うために作られた"why be moral?"という表現であるが、実際の論点を整理する上では、やはり両者を分けた方がなにかと便利である。そこで、本稿では、以下、前者の問題を「一般WBM問題」、後者を「個人WBM問題」と呼ぶ。

多くの論者が指摘するように、「なぜ道徳的であらねばならないのか?」というときの「ねばならない」を道徳的な指令と考えるとこの問いは意味をなさないので、これは、自愛の思慮など、他の観点からの「ねばならない」である(Prechard 1912)。この場合でも、道徳が完全に自愛の思慮などによって正当化されると考える論者は少ない。したがって、WBMによって問われているのは、現実社会の諸条件のもとで、なぜ道徳的であることが自愛の思慮(ないし他の基準)にもかなっているのか、という問題だといってよいだろう。

もう一つ、WBMの実践的含意を考える上では、この問いと「なぜ我々は現実におおむね道徳的に行為するのか?」という事実問題に関する問いとの関係を考えておく必要がある。両者の答えは必ずしも一致ないし調和するとは限らない。たとえば、進化論的な見地から道徳の起源を論ずる道徳起源論(たとえば内井1996など)は、道徳的な行動や傾向の生物学的な利益(同じ遺伝子を持つ子孫をどれだけ残せるか)を問題とする。これはいわば行為者にとっては無意識の過程である。これに対し、WBMの問いを立てるということは、とりもなおさず道徳の根拠を意識的に問題化することである。仮に道徳が事実そうした生物学的な利益に基づいて発展してきたとした場合でも、生物学的利益に関心をもたない個人にとっては、そうした事実はWBMへの答えとして何らの説得力も持たない。なぜ道徳的に振る舞う必要があるのかということについて人々がすでに疑問を持ち始めてしまった後では、無意識の過程にたよってばかりもいられない。そういう場面ではWBMにある程度有効な答えを用意することは必要なのである。

3 WBMへの既存の回答

3.1 一般WBM問題

まず、なぜ我々は一般に道徳的に振る舞わなくてはならないのか、という、一般WBM 問題に対する回答から考えていこう。

外的サンクション

「なぜものを盗んではいけないの?」と子供に尋かれた場合に、とりあえず手っ取り早くあたえることのできる答えは「そんなことをすると警察につかまるよ」というものであろう。これは非道徳的な行動へのサンクションの存在に訴える議論である。ここでのサンクションはきちんと制度化されたものでなくてもかまわないし(「そんなことをするとだれも遊んでくれなくなるよ」)、肯定的なサンクションであってもかまわないだろう(「いい子にしていたらお菓子をあげるよ」)。本人が信じさえすれば現実のサンクションである必要すらない(「悪いことをする子はあとで地獄におとされてひどい目にあうんだぞ」)。また外的な規範を内面化した内的なサンクション、つまり良心の呵責や罪の意識といったものもサンクションに含まれるが、内的なサンクションについてはあとで触れることにし、ここではもっぱら外的サンクションを考える。

さて、このように外的サンクションに訴えることが十分に効き目がある場合については倫理学者はあまりWBMを議論しない。これは、そのような状況では道徳的行為と自己利益の一致が明白だからであろう。しかし、実際問題としてはわれわれの行為の大半は外的サンクションの(少なくとも潜在的な)対象となるし、道徳性の発達を考える上でも、外的サンクションの存在を媒介として道徳が働く段階を無視することはできないだろう。

しかし、また同時に、外的サンクションに基づくWBMの解答は根本的に不十分である。それは、外的サンクションそのものの正当性自体もまた、WBMの問いの重要な一部であり、サンクションの存在自体に訴えてサンクションを正当化することはできないからである。

社会の安定性

なぜ道徳的なサンクションが必要なのか、という古典的な問いへの、これもまた古典的な答えは、「社会がうまく機能するために必要だから」というものであろう。では、なぜ社会がうまく機能した方がよいのか?カート・バイヤーはこれにホッブズ流の回答を与える(Baier 1958 ch.7)。ホッブズの場合、自然状態とは万人の万人に対する戦争状態であって、この自然状態を回避するには、全員が絶対的な支配者に対して権利を同時に譲渡するしかない、と考えていた。バイアーも同様な二者択一の状況を設定するが、バイアーが自然状態に対置するのは、道徳律が様々な内的・外的なサンクションで強制されている状態である。戦争状態は誰にとっても損害が大きい状態であるため、長い目で見て個々の成員にとって利益が大きいのは道徳的な状態の方である。したがって道徳は目先の利益よりも優越的な行為の理由となるのである。

このような考え方に対しては、果たして自然状態はそんなにひどい状態なのか、という事実的疑問、また、自然状態と道徳的状態の二者択一は本当に正しい問題設定なのか、といった批判がある(Nielsen 1963など)。とりわけ、社会全体の秩序が維持されるのであれば、少々道徳規則に違反してもいいのではないか、という疑問にはこの議論は答えてくれない。これが個人WBM問題とわたしがよぶ問題へわれわれを誘うことになる。

互酬性

前節のバイアーと同じ路線の考え方をゲーム理論を使って洗練させた代表的な哲学者はデヴィッド・ゴーチエである。ゴーチエは協力関係を成立させるための取引は「ミニマックスな相対的譲歩の原理(principle of minimax relative concession)」と呼ばれるものに基づいてなされなくてはならない、と論じる(Gauthier 1986, ch.5)。この概念をきちんと説明するためにはゴーチエの使うゲーム理論の道具立てを導入せねばならず、本論の考察の範囲を超えてしまうので、ここでは最小限の説明に止める。協力関係は関係者すべてが、協力することでしない場合よりも多くの利得を得る場合にのみ成立する。各参加者が協力から得る利得は、協力の内容次第でさまざまに変わりうる。ここで全員が期待できる最大の利得をえられるような選択肢があればよいが、ない場合には誰かが(おそらくは全員が)譲歩しなくてはならない。このような状況で合理的な行為者たちが取引を成立させるには、全員が納得できる条件にすること、すなわち譲歩の量をなるべく公平にすることになり、そのための原理がミニマックスな相対的譲歩の原理である。(これ以上正確な内容についてはGauthier 1986、特に133-146を参照のこと)。約束を守ったり真実を述べたり、といった、われわれの社会における道徳の規則の多くは、このような相互の公平な譲歩の結果だと見ることができる(156)。

しかし、そのような取引に合意するのはいいとして、われわれはなぜその合意を破ってはいけないのだろうか?ゴーチエはこの疑問に対し、さらなる仮定を導入することで答える(Gauthier 1986, ch.6)。ある合意に対し、基本的にその合意に反さない範囲内での効用の最大化を目指す行為者を制約付き最大化追求者(constrained maximizer、以下CM)とよぶことにする(167)。CMは、相手がおおむね合意に沿って行動する限りは自分も合意にそって行動するが、相手が合意を意に介さない率直な最大化追求者 (straightforward maximizer、以下SM)だとわかると、自分もSMとして行動する。さて、ここでさらに、行為者たちがCMかSMかは他の行為者にもある程度は判断できる (ゴーチエは「半透明(translucent)」という表現を使う)と仮定する(174)。この条件下では、もし十分な比率のCMが社会の中にいるなら、CMの方がSMよりも多くの利得を得る可能性があることが証明できる(正確な条件と証明は174-177を見よ)。道徳の文脈に置き換えて言えば、自分の利益のために道徳の規則を破るような性向をもつ者は、そうした性向を持っていることがかなりの確率で他の者に知られてしまうため、自らも道徳的な扱いを受けることができなくなってしまう可能性がある、ということである。

したがって、ゴーチエの考えるような条件が満たされるのなら、道徳的な性向を持つことは結局互いの自己利益を最大化する、ということが言えるので、これは一般WBM 問題に対する(そして部分的には特殊問題に対する)かなり強力な解答となる。しかしながら、ゴーチエの議論が、さまざまな理想化の下に成り立っているため、現実の社会においてどの程度有効か、というのは疑問が残るところである(*

安彦一恵(1992)は、ゴーチエの論証の核となるのは「全員の等しい合理性」という仮定だと考えているようだが、これは必ずしも必要な仮定ではあるまい。他の行為者の多くが制約付き最大化追求者として振る舞うなら、それが合理性によるものであれ進化的な条件付けによるものであれ、わたしの行為決定にとっては同じことである。

*)。 また、取り引きしても利得の望めない相手との関係にはこの議論は適用できず、深刻な弱者切り捨てを含意するのではないかという懸念もある。

3.2 個人WBM問題

社会一般においてなぜ道徳的な行動が流布するのが望ましいかについては、バイアーやゴーチエの議論が、それぞれに問題はありつつも、一定の回答を用意していると言ってよいだろう。しかし、社会一般に道徳が流布していたとしても、私個人が、だれも見ていない時でもやはり道徳的に行為せねばならないかどうか、というのは別の問題である。もし道徳的に行為せねばならないとしたら、それはなぜだろうか?

(*

大庭健(1992)はWBMを考える際に、「密室での実害なき違反」という問題設定をしているが、この後者の条件はWBMとは異質な問題を持ち込む可能性があるのであまり適当とはいえない。というのも、ある種の功利主義理論では、誰にも害を及ぼさないのなら何も問題ないという結論が当然出るであろうが、そうした理論が道徳理論として適切かどうかはまた別の問題である。

*)

共感と内的サンクション

子供が「なぜものを盗んではいけないの?」と尋いた場合のもう一つの典型的な答えは、「だって相手の人が困るでしょう?」というものであろう。この答えが機能するには、子供自身がなんらかの共感能力を持ち、相手が困っているさまを想像し自分の中に再現することで盗むという行為に対する反対の動機が形成される必要がある。その意味でこれは共感能力にうったえる議論であるといえる。基本的には同じ形式の議論は、内的サンクション、つまり良心の呵責や罪の意識、恥の意識に訴えることでも成立するだろう。

倫理学者のあるもの、とりわけ功利主義的な傾向をもつ者は、この解答をもうすこし洗練させ、道徳的に行動するための根拠として、われわれの多くが共有する共感能力に訴えることがある。例えば、"why be moral"の文脈とは若干ずれるが、功利主義者のスマートは、人々を功利主義へと説得するためには彼らの「一般化された博愛の感覚 (sentiment of generalized benevolance)」に訴える必要がある、と説く(Smart 1973, 7)。したがって彼は、功利主義を説得する上では、「共感的で博愛的な」読者しか相手にしない(31)。そういう読者に対しては、人類の幸福を目的とするという功利主義の考え方そのものを擁護する必要はなく、ただ、功利主義が整合的で、反論にもきちんと答えられるということを示しさえすればよいという(ibid.)。そのような限定は非常に手前勝手に見えるかもしれないけれども、所詮、いかなる人にもいかなる精神状態のときにも訴えるような、そういう倫理学理論などないということは十分あり得るのである(7)。

スマートの場合には、一般的な共感能力を普遍的な功利原理を説得する手がかりとした。したがって個別の相手に対して共感を感じるかどうかはあまり関係ないように見えるかもしれない。しかし、仮にある人が功利の原理が普遍的に妥当することを否定したとしても、同様の説得は、個別の事例においてある人が(見られているかどうかに関わらず)功利主義的な行為を選択するように仕向けるために利用できるだろう。この場合には、一般的な共感能力ではなく、その行為によって影響を受ける具体的な個人に対する共感の存在が問題となるだろう。グリーンスパン(Greenspan 1995)が倫理は罪の意識などの感情の上に基礎づけられなくてはならないと論じる際に考えているのはこれに類するプロセスであろう。

実際に、心理学的な事実の問題としてわれわれの多くが共感能力や良心を持つことを考えるならば、その心性を足がかりとして倫理を構築しようというのは、スマートの議論を一見して感じるほどには乱暴なやりかたではない、とはいえるだろう。また、外的サンクションや相互利益に訴える議論と違い、共感に訴える議論は、他人の目が届かない場面での道徳行動に関しても一定の説得力をもつ、という点は注意してよいだろう。

しかし、共感や内的サンクションに訴える議論は、個人WBM問題への答えとしては、外的サンクションが一般WBM問題に対する答えとして不十分なのと同じ理由で不完全である。つまり、共感も内的サンクションもある程度は学習して身につけるものであるが、なぜそれを身につけた方がよいのか、ということについての答えは、共感や内的サンクション自体は与えてくれない。また、すでに共感や内的サンクションを身につけた後でも、そうしたものを維持した方がよいのかどうか疑問を持ってしまうことがあるだろう。"Why be moral?"とはまさにそうした場面で発される問いではないだろうか。

人生の意味

ピーター・シンガーの場合は、「なぜ道徳的であるべきか」を論ずるにあたって、「人生の意味」に関する議論を導入する。シンガーは、共感や罪の意識に訴える議論は、サイコパスがなぜ望ましくないのか説明できないとして退ける(Singer 1993)。シンガーの考えによれば、サイコパスとしての人生は「人生の意味」を欠いている点が問題である。

われわれが人生の意味を感じるのは、自分自身をなにかの物語の一部として感じるときであり、そういうとき、われわれは組織のためや理想のために自分を犠牲にすることに幸福を感じる (Singer 1995)。しかしその物語があまりに卑小なものであれば、ふと我が身を振り返ったときに、なぜ自分がそんなもののために自己犠牲するのかばかばかしくなってしまうだろう。しかし、シンガーの考えでは、「宇宙の観点から」の物語、すなわちこの宇宙のすべての有感生物を含んだ物語は最も大きな物語であり決してばかばかしくならない。であるから、人生の意味を見失った人にとって、宇宙の観点からの物語のために生きるのは、人生を幸福で有意義なものにする方法として推薦できる。これはとりもなおさず道徳的に生きるということに他ならない。

このようなシンガーのアジテーションに説得力を感じるかどうかは人によるであろう。ただ、WBMへの答えとして言えば、「人生に意味などいらない」あるいは「わたしは自己利益の追求という物語に十分意味を見いだしている」といった反応に対して、この議論はあまりに弱すぎるだろう。

道徳的性向

前節の最後で検討したゴーチエの解答は、個人WBM問題への答えも一部含んでいると考えられる。CMもSMも行為者の性向である。つまり、CMとは、他人が見ていようがいまいが合意に沿って(すなわち道徳的に)行動する性向の持ち主である。したがって CMであることが合理的であるならば、CMであることによって人に見えないところでも道徳的に振る舞うのが合理的だということになる。

しかし、この結論はSMとCMがただ二つの選択肢だという仮定に依存している。第三の選択肢として、通常はCMとして振る舞うが、絶対にだれにもわからないという状況ではSMとして振る舞うような戦略を考えてみよう。この第三の選択肢はSMよりも見破られにくいであろうし、したがってCMからより有効に搾取できる可能性がある。個人WB M問題に答えるには、この第三の選択肢をとってはならない理由を提示する必要がある。

まさにその理由を提示するのが、R.M.ヘアのこの問題に関する見解である(Hare 1981, ch.11)。ヘアは、彼の二層理論の考え方をWBMの問題に応用する。この場合、批判的レベルは完全な情報に基づく自愛の思慮であり、直観的レベルはそうした自愛の思慮によって選択されるような直観的規則である。われわれは個々の場面において批判的思考をするのに十分な情報や時間を持たないことが多いので、そうした思考に十分近似した答えを与えることができるような直観的規制を前もって習慣化した方がよい。とりわけ、道徳的な人間だと周囲に思わせることは利益になることが多いが、そうした評判を確立する最も簡単な方法は実際に道徳的な人間としての習慣を身につけることである。ヘアは、特に、教育の場面でのこのような考慮の重要性を重視する。子供を育てる際に、子供の利益を考えるなら、道徳的な性格を植え付けるのが一番なのである。

これに対しても、もう少し複雑な習慣、つまり絶対に人にばれない状況以外では道徳的に振る舞うがそういう状況では利己的に振る舞えるような習慣を身につければもっとよいのではないか、という反論があるかもしれない。しかし、ヘアは、そのような反応は、人間の認知的・心理的限界を軽視しすぎていると考える。誰かにばれるかどうかなどという判断を高い信頼性をもってその場で下せるほどわれわれは賢くないし、そういう場面で利己的に振る舞える人間がほかの場面では完全に道徳的な性格を示せるほどわれわれの心は便利にできていない。こうした限界を考えに入れれば、単純に、いつでも道徳的に振る舞うような心性を養うのがけっきょく一番よい、ということになるのである。

ヘアの議論にはかなり説得力があるように思われるが、これとても利己主義者に対する完全な答えではないことは言うまでもない。たまたまある人が、ヘアが考えるような高潔な人格を身につけておらず(将来そのような人格を身につける見込みもなく)、また現に人に見られずに利己的に行動するチャンスに恵まれているならば、ここでのヘアの議論からは、その人が利己的に行動することに反対する理由はほとんどない。強いて言うならば、そこであえて道徳的に行動することで、道徳的な人格を養う努力ぐらいはすべきだという程度のことはいえるかもしれない。

3.3 小括

さて、以上、代表的な倫理学者の見解を見てきたわけだが、この概観からえられる結論はなんだろうか?まず、確信犯的な利己主義者を完全に納得させる議論はない、という点は確認してよいだろう(*

これは、今さら言うまでもなく、100年近く前にシジウィックも明確に述べているところである。Sidgwick 1907, concluding chapter参照。

*)。 つまり、仮に以上のさまざまな見解をすべて受け入れたとしても、誰にも知られず、社会の安定性もおびやかさず、共感も良心のとがめも働かず、人生の意味の喪失にも脅かされておらず、人前での高潔な人間としての行動パターンにも影響しないと確信できる場面では、その場面で道徳的に行動する理由はない、と(とりあえずは)結論できるのである。しかし、以上のようなさまざまな現実的な制約を考慮に入れれば、われわれの行為のほとんどはなんらかの形で以上の議論のどれかのスコープに収まるであろう(誰にも知られないという条件からしてかなり高いハードルである)。しかしながら、この解答が現実社会のあり方に依拠していると言うことは、社会のあり方が変わったり、新しい技術が導入されたりすることで、この楽観的な答えを撤回せざるをえない状況が生じるかもしれないということである。では、インターネットの発達は、そのような変化の要因となるだろうか?

4 インターネットの発展とWBM

インターネット上での人間関係には、不可視性、匿名性など、既存の社会の人間関係ではあまり見られない(少なくとも顕著ではない)特徴が見られる。以下、そうした特徴が、これまで見てきたWBMへの解答にどういう影響を及ぼすか考察していく (*

なお、インターネット上での人間関係に関しては、私自身がインターネットを使った経験に加えて、江下(2000)、シャー(1996)、武田(1999)、竹村(1998)、東京大学社会情報研究所(1999)、牧野(1998)などを参考にしたが、彼らのインターネットに関するイメージがおおむね私の印象と一致していることもあり、以下の叙述で個々の著作を引用する煩雑を避けたことを注記しておく。

*)

4.1 不可視性

まず、インターネット上での行動については、誰にも見られていないという感覚に由来する違反行為が存在することが指摘されている。インターネットにアクセスする自分の姿を物理的に誰も見ておらず、またネット上での自分の行動を誰もモニターしていないように思われることから、何をしてもよいという気になる、という現象である。 WBMの議論でも再三問題になってきた、人に見られるか見られないか、という考慮が、ここではインターネット上での非道徳的行動を促進する方向で働いているわけである。

もちろん、この「見られていない」感覚は錯覚という面も大きい。インターネット上の行動はさまざまなところに痕跡を残す。ログインしてからログアウトするまでの行動は、自分自身のホストおよびアクセスした先のサーバーに記録として残る。仮にプロクシサーバなどを通してどこからアクセスしたかアクセス先から直接は分からないようにしても、プロクシサーバの側の記録を調べればアクセス元が判明する。

しかしながら、深刻な犯罪でなければそのようにして調べ上げる手間をかけることはできないだろう(たとえば、プロクシサーバ側の記録を調べるには、それ相応の理由を提示する必要があるだろう)。つまり、犯罪とするに当たらない程度の反道徳的行為を、相応の注意を払いながら行う分には、現在のインターネットはかなりの不可視性を提供してくれているといえるのではないだろうか。たとえば、普段、ポルノグラフィーは見ること自体が道徳的な悪事である、と公言している人がいたとしよう。かりにこの人がインターネット上で密かにポルノグラフィーを閲覧していたとしても、気をつけさえすればこのことが周囲に露見する可能性は非常に低くすることができる。この場合、この人は外的サンクションをうけることもなく、また周囲から利己的な人間と見なされることによる不利益を被ることもないだろう。また、この人がポルノを見たという程度のことで社会が万人の万人に対する戦争状態に戻ったりはしないだろうから、バイアーの立場からの制止も成立しない。

さらに、インターネット上での行動については、われわれの「見られるか見られないか」に関する判断の信頼性が変わってくる。ヘアは、直観的レベルで道徳的人格を身につけるひとつの理由として、そうした判断の信頼性の低さをあげるわけだが、なぜそうした判断が難しいかと言えば、考慮すべきファクターが多いからである。普通に銀行に押し入ってお金を盗むには、様々な場所での目撃者に気をつけねばならず、自分の身元をわりだすのに利用できる様々な痕跡に気を使わねばならない。しかし、インターネット経由で同じことをする場合は、痕跡はアクセスログに一元化されているため、そこさえ何とかしてしまえば「見られずにすむ」はずである(*

それが実際に「何とかできる」ものなのかどうかは、研究不足でわたしの知識の及ばないところである。有識の読者のご教示を仰ぎたい。

*) 。したがって、インターネットの普及は、この点での不確実性を減らす役割を果たす可能性がある。結果として、ヘア流の二層理論による議論は若干説得力を失うのではなかろうか(*

ただし、ここでもうひとつ注意しておく必要があるのは、コンピュータにあまり詳しくない一般のユーザーにとっては、インターネットの上での行動を確実に不可視にするのは、日常生活よりはるかにむずかしいということである。その意味では、むしろインターネットは、大多数のユーザーにとっては、むしろ道徳的に行動した方がよい場所だといえるかもしれない。

*)

4.2 匿名性

不可視性と深く関わるけれども、WBM問題との関わりでは一応別のものとしてあつかった方がよいのが、匿名性である。インターネットを論じる文脈で匿名性という言葉が用いられる場合、さまざまなレベルでの匿名性が意味されている。ここでは、メールアドレスやいわゆる「ハンドル」が本人を特定しない性質のものである場合に生じる匿名性をとりあげる。

インターネットでのコミュニケーションの形態として、ホームページを見てメールを送ったり、電子掲示板への書き込みという形でやりとりしたり、という形式が広まっている。その際に使うメールアドレスには実名を使う必要はない場合が多く、また掲示板への書き込みやホームページ上でハンドルという仮名を使う習慣が一般に行われている(「ハンドルネーム」という言い方もよく目にするが、「ハンドル」という表現の方が正しいようである)。要するに、ネットの外の世界での自分のアイデンティティ(名前、住所、職業など)を知らせずに立ち入った会話を交わすことがインターネット上では常態となっているのである。場合によっては、性別・職業・年齢等を偽って教えることで匿名性を高める(それだけが理由ではないだろうが)人もいるようである。

この種の匿名性のWBM問題との関わりは、ある面では不可視性の場合と同じである。すなわち、相手に対して自分の素性を知られないことで、現実世界の自分に外的サンクションやその他の不利益がかからないようにすることができる。もちろん手間をかけて身元を特定するに見合うだけの深刻な犯罪行為の場合にはこの限りではないが、比較的軽微な反道徳的行為(差別的な発言や中傷・嫌がらせのメール、掲示板あらしなど)に関しては、サンクションをさけるに十分な匿名性が保証されることは考えられる。

しかし、匿名性の不可視性との違いは、そうした匿名性を利用した反道徳行動が、インターネット上の共同体の安定性をおびやかすという点である。たとえば掲示板あらしのような行為が蔓延することで掲示板というシステムそのものが廃れるならば、これはインターネット共同体に属する者すべてにとっての不利益になるであろう。また、インターネット上に限ってのサンクションは場合によっては可能である。たとえば、掲示板での差別的な発言に対しては、いわゆるフレイミングと呼ばれる罵倒行為によって人格的な攻撃をしてもよいという慣習がインターネット上には存在するようである。これが有効に働けば、差別的発言者に対して精神的な打撃を与えることができるであろう (*

ただし、もとの発言がフレイミングを引き起こすこと自体を目的としている場合にはむしろ無視された方がこたえる、という観察もある(シャー1996参照)。いずれにせよ、相手に精神的な打撃を与える反応が可能であるという点が重要である。

*)

このような性質を鑑みれば、以上のような匿名性の問題については、インターネット上のコミュニケーションをそれだけで完結した一つの共同体としてみた場合、バイヤーやゴーチエのモデルで(つまり一般WBM問題として)処理することが可能である。ここでバイアーやゴーチエ流の議論がWBMの問いに対する十分な答えになるかどうかは、インターネット上の共同体や、インターネット上でのサンクションが、どの程度われわれにとって重要度をもつか、という点にかかってくるだろう。

4.3 文字を通した人間関係

現在のインターネット上でのやりとりには、仮に名前や素性を明らかにしてつきあう場合でも、主に文字だけを中心にして(つまり表情や声などの視覚・聴覚信号を伴わずに)行われる、という制限がある。これも広い意味での匿名性の一部ではあるが、上で扱った問題とは若干性質を異にする。このような制約がWBMの問いと絡むとすれば、どのような点であろうか。ここでは、ゴーチエの言う半透明性に関わる問題と、共感や内的サンクションに関わる問題を取り上げる。

まずゴーチエの半透明性の仮定であるが、われわれは、自分が取り引きする相手が信用できるかどうかに関する判断を、身なり、言葉遣いといった外見上の手がかりや、職業、学歴といった経歴に関する手がかりに頼って行っている。ということは、当然ながら、匿名性や顔や声が遮断されるといった要因は、そうした判断の信頼性にマイナスの効果を与える。これは、SMがCMを搾取するチャンスがそれだけ増えるということであり、合理的な行為者がCMとしての戦略を選んだ際に損をする確率が高くなるということである(本当はゴーチエの証明に沿ったもう少し正確な表現をすべきだが、テクニカルな議論の細部に立ち入るのは本稿の目的ではないので省略する)。

つぎに共感や内的サンクションの問題だが、わたしの予想では、もっぱら文字情報のみを通した人間関係は、共感や内的サンクションに基づくWBMへの解答に影響を与えるのではないかと思われる。ただし、その影響の仕方は単純ではないだろう。

共感にせよ、罪の意識や恥の意識にせよ、こうした感情が働くには、相手がどう感じるかということについてヴィヴィッドな想像力を働かせることが重要である。しかし、会ったことのない相手に関してそうした想像を働かせるのはむずかしい。たとえば、前にふれたフレイミングが、およそ日常会話ではありえないような激しい人格攻撃を含むことが多々あるのは、ひとつには、相手を目の前にしていないために、相手がどの程度傷つくかという点に想像力が働きにくくなる、という面があるのではないだろうか。

さて、これは正確に言って、WBM問題にどうかかわるだろうか。スマートのように、一般的共感能力に訴える議論にとっては、この状況はあまり関係がない。しかし、個別の事例において、共感や内的サンクションを手がかりに道徳的行為をするように仕向けようとする場合には、実際に相手に対して共感や罪の意識を感じるかどうかが大事になる。文字だけを通して人とつきあうことは、そのような説得の手がかりの一つを失うことにつながる可能性がある。これは、インターネット上での行動については、個人WBM問題に対しても答えるのが難しくなることを示唆する要因である。

しかし他方でネット恋愛などがもてはやされるところを見れば、文字だけのやりとりが想像力に与える影響は、決してマイナスだけではないだろう。かえって遮断されている情報を想像で補うことで、実際に会って話す場合よりも肯定的な感情を相手に対して抱くことは可能である。恥ずかしさの感情が抑制されるために立ち入った会話が比較的簡単にできるため、強い感情的絆が成立しやすいという観察もある。また、たとえば、黒人や女性に偏見を持つものは、相手が黒人である(女性である) ことを見ただけで相手の言うことに耳をかさなくなる可能性がある。しかし、メールや掲示板でのやりとりでは、そうした先入観が遮断されるためにかえって感情的なつながりが形成できるということがあるかもしれない。

以上の心理的な影響に関する話は、とりあえずは仮説の段階である。したがって、インターネット上での人間関係についてのより精密な心理学的・社会学的調査に裏付けられる必要がある。

4.4 二重の社会生活

もう一つ考慮しなくてはならないのは、インターネットの普及に伴い、インターネット上での人間関係と、現実生活での人間関係という、いわば「二重生活」を送る人々が現れたことである。この二重性は、先に述べた匿名性によって強化されるが、匿名性は二重生活の必要条件ではないだろう。ここでは、この二重生活がもたらすかもしれない二つの変化について考えたい。

第一に、社会の安定性への要求という点で、この二つの人間関係の間には大きな隔たりがある点を指摘したい。現実の社会が崩壊すれば、われわれは衣食住の確保の問題、身体・生命の安全の問題などの脅威におびやかされることになる。しかし、インターネット上の人間関係がどんなに崩壊しようとも、衣食住や身体・生命の安全はおびやかされない。インターネットを通じてアクセスできる財産は脅かされることになるが、最低限の財産をインターネットから切り離して(たとえば現金という形で)確保しておくことは可能である。極端な話、インターネットというコンピュータ網そのものが崩壊したとしても、多くの人にとっては、それは生命や身体の危険を意味しないだろう。したがってインターネット上での社会の安定性を求めるわれわれの動機は、実生活での社会の安定性をもとめる動機に比べて非常に弱いことになる。先に、インターネット上の人間関係はどれほど大事だろうか、という問いを匿名性の果たす役割とのかかわりで考えたわけだが、あまり強い答えは望めないかもしれない。

第二に、二重生活に伴う人格の使い分けの問題である。先に、インターネット上で性別などを偽る(いわゆる「ネットおかま」)例があることを指摘したが、これは匿名性を確保するためだけでなく、日常の自分と違う人格をインターネット上で演じる楽しみのためもあるだろう。日常生活ではおとなしい人物が、インターネット上では非常に攻撃的だというのもよく聞く話である。

こうした人格の使い分けの例をみていると、直観的レベルでの行動様式の二重性は、ヘアが考えるほど難しくないのではないかと思われてくる。「人に見られないところでは利己主義者として振る舞い、その他の場所では高潔な人物として振る舞う」という行動様式はたしかに整合的に身につけることが難しいだろう(これは、どういう場合に人に見られないかの判断が難しいせいもある)。しかし、「インターネット上では利己主義者として振る舞い、その他の場所では高潔な人物として振る舞う」という種類の二重人格であれば、それほど身につけるのは難しくないのではないか。だとすれば、「インターネット上でなぜ道徳的に振る舞わなくてはならないのか」という問いには、ヘアの路線では答えがでない可能性がある。

4.5 人間関係の拡大

ここまで、WBMの問いに解答する上でどちらかというとネガティブな側面をとりあげてきたが、インターネットには、人間関係の輪を大きく拡大するというポジティブな側面があることも忘れてはならない。そうした人間関係の拡大はWBMを考える上でどういう影響があるだろうか?

インターネットは、まず、ゴーチエの考えるような互酬的関係の輪を大きく広げる可能性を秘めている。ゴーチエの一般WBM問題に関する議論は、インターネット上での行動を説得する上でも実はかなりうまくいくのではないかと思われる。インターネットの上でも協力行動が非協力的な行動よりもお互いの利益になる場面が多々あるのは変わりない。たとえば、インターネット上でのものの売買、インターネット上での情報交換などはそうであるし、よりインターネットに固有の事例で言えば、オープンソースのソフトを共同で開発していく際には、各人が少しづつ貢献していくという形での協力などもそうであろう。インターネットがそうした関係の輪を広げるならば、これはとりもなおさず、ゴーチエが考える意味での道徳的な関係の輪が広がることを意味する。

また、インターネットを通じて、これまで接触しようのなかった相手と接触できるようになることは、共感や内的サンクションの働く相手の輪が広がるということでもある。日本や欧米で普通に暮らしていれば、バングラデシュの子供たちと直接接触する機会はまずない。(「バングラデシュの子供たち」が、英米の倫理学の議論で「助けを必要とする赤の他人」の代名詞のように引き合いに出される所以である。)しかし、インターネットは、個人的なレベルでバングラデシュの人々とやりとりする機会を (可能的には)広げている。文字を通してであれ、直接やりとりをするということは、相手の立場について想像力を働かせるという点で非常に大きな前進となるであろう。

さらに、最大限楽観的な見方をするならば、このようにして、世界中の、様々なバックグラウンドの人と直接に言葉をかわすことが、シンガーの言う「宇宙の観点」の物語が絵空事と感じられなくなるきっかけとなるかもしれない(残念ながら、わたしにはまだその効果はあらわれていないが)。少なくとも、様々な文化や様々な価値観と出会うことで、偏狭な物語への固執から解き放たれるという効果はあるだろう。

しかし、一応注意しておかねばならないが、そのような世界への人間関係の広がりは、インターネットによってかなり現実味を増したとはいえ、われわれの現状はまだその可能性の広がりにおいついていない。実際にはインターネット上の人間関係は、比較的小さな輪の中で閉じてしまうというのが実状だろう (*

竹村1998が紹介する様々な事例は、そうした状況が変わりつつある一つの兆候ととらえることができるかもしれない。竹村は、たとえば、ある台風の通り道となった様々な国の人々が互いに実況中継しあうことで、一つの台風に関する経験が国境を越えて共有される様子を描写している。

*)

5 われわれは何をすべきか

以上、インターネット上でなぜ道徳的に振る舞わねばならないかについて、関与する様々なファクターを考えたわけだが、一般の社会での行動に比べて、インターネット上では、道徳的に行動する理由が乏しいということが全般に言えるのではないだろうか。もちろん、ここで挙げたどの要因にせよ、インターネットだけに固有に見られるというものではない(たとえば江下2000の紹介するCB無線の世界は多くの点でインターネットの特徴を先取りしている)。その意味では、これは要するに程度の問題である。しかし、道徳的に行為するべきか否かということに関する議論の多く(特にゴーチエやヘアの議論など)が様々なファクターの比較考量の上に成り立っている以上、程度の問題は、ある個人が判断を下す上で決定的な差を生み出す可能性がある。つまり、普段の日常生活では様々な要因を考慮して道徳的に振る舞うと決めるような人物が、インターネット上では逆の判断に達する可能性が大いにあるということである。

これは、現在のインターネットの過渡的な性格にまつわる、一過性の問題かもしれない。たとえば、今のインターネットが文字情報を主なコミュニケーションの方法としているのは、回線を通じてやり取りできる情報量が限られているため、という技術水準の問題という側面があるだろう。もし、将来的に、三次元的な画像や音声が今の電子メールと同じくらいに気軽に送れるようになれば、インターネットを通した人間関係もより共感的なものとなりうるであろうし、相手が信用できるかどうかの判断も、より信頼のおけるものになっていくだろう。不可視性、匿名性についても、現在の技術と制度に相対的なものであって、かならずしも不変のものではない。インターネットと現実世界の二重性については、インターネットが現実の社会関係にもっと有機的にとりこまれることで将来的に解決していくかもしれない。しかし、これらの点については、むしろ逆に不可視性・匿名性等が強まる形でインターネットが発展していく可能性も考えておく必要がある。

さて、それならばわれわれは何をすべきだろうか。まず考えなくてはいけないのは、われわれが、人々にインターネット上で道徳的に行為してほしいと思うかどうかである。これについては、実生活での道徳性ほど緊急ではないにせよ(というのは自然状態になった場合に失うものの大きさが実生活では比べものにならないからだが)、やはりイエスという答えになるだろう。それならば、われわれは、今後のインターネットの進む道を考える上では、個々人が道徳的に行動する理由が増えるような方向を選択すべきだろう。現在のインターネット上のトラブルを巡る議論では、もっぱら法的規制の導入など、外的サンクションばかりがとりざたされているが、道徳的行動の多面性を考えれば、それは貧しいものの見方といえよう。インターネット上でのコミュニケーションを、より、相手の立場への想像力が働きやすい形にすること、インターネット上の共同体が崩壊したときに個々人が失うものをより大きくすること、様々なファクターの導入によって、見られるか見られないかということについての不確実性を増すこと、など、インターネットをより道徳的な場にするためにできることはいろいろある。

ここまで、インターネット上でのWBM問題について論じてきたわけだが、実はWBM を論じるか論じないかということ自体も考えた方がよいかもしれない。もちろん、なぜ道徳的であるべきなのかということについて深刻な疑問を持ってしまった後では、本稿の前半で見てきたような諸議論は合理的な説得としての役割を果たしうるだろう。しかし、WBMを積極的に論じることは、道徳的に行為することについて、それまで疑問を持っていなかった個人にも疑問を植え付ける効果がある可能性がある。そして、ことインターネットの現状に関しては、いったん疑問をもってしまったとき、それほど強い解答をあたえることができないのである。そうだとすれば、人々に道徳的に行動してほしいと望むなら、とりあえずWBMの問題はないようなふりをしつつ、インターネットの改革にいそしむのが賢明だということになるであろう。しかし、もう一言だけ付け加えさせてもらうなら、本当にそういう結論になるのかどうか確かめるためにも、われわれは"why be moral on Internet?"という問いを(慎重に)深めていく必要があるのである。

文献

英語

Baier, K. (1958) The Moral Point of View: A Rational Basis of Ethics. Ithaca: Cornell University Press. relevant portions reprinted in D. Gauthier (ed.) Morality and Rational Self-Interest. Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall, 1970, 151-165.

Gauthier, D. (1986) Morals by Agreement. New York: Oxford University Press.

Greenspan, P. (1995) Practical Guilt: Moral Dilemmas, Emotions, and Social Norms. New York: Oxford University Press.

Hare, R.M. (1981) Moral Thinking: Its Levels, Method and Point. New York: Oxford University Press.

Hospers, John (1961) Human Conduct; An Introduction to the Problems of Ethics. New York: Harcourt, Brace \& World. relevant portion reprinted in W. Sellars and J. Hospers (eds.), Readings in Ethical Theory second edition, Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall, 1970, pp.730-746.

Nielsen, K. (1963) "Why should I be moral?" in Methodos 15, 275-306. reprinted in W. Sellars and J. Hospers (eds.), Readings in Ethical Theory, second edition\/. Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall, 1970, pp. 747-768.

Prichard, H.A. (1912) "Does moral philosophy rest on a mistake?", Mind 21. reprinted in his Moral Obligation. Oxford: Oxford University Press, 1949.

Sidgwick, H. (1907) The Methods of Ethics, 7th ed.. reissued by Indianapolis: Hacket Publishing Company, 1981.

Singer, P. (1993)  Practical Ethics, second edition. Cambridge: Cambridge University Press.

---. (1995) How Are We to Live? : Ethics in an Age of Self-Interest. Amherst, NY: Prometheus Books.

Smart, J.J.C. (1973) "An outline of a system of utilitarian ethics", in J.J.C. Smart and B. Williams, Utilitarianism: for and against. Cambridge: Cambridge University Press.

邦語

安彦一恵(1992)「『なぜ道徳的であるべきか』という問いはどのように論じられるべきか」in 安彦ほか1992、pp. 42-64。

安彦一恵ほか編(1992)『道徳の理由(叢書《エチカ》1)』、昭和堂。

内井惣七(1996)『進化論と倫理』世界思想社。

江下雅之(2000)『ネットワーク社会の深層構造』中央公論新社。

大庭健 (1992)「なぜ道徳的を気にしなくてはいけないのか」in 安彦ほか1992、4-29。

川本隆史(1992)「三酔人人倫問答---《ホワイ・ビー・モラル》文献案内に代えて---」 in 安彦ほか1992、192-214。

シャー、バージニア(1996)『ネチケット---ネットワークのエチケット---』松本功訳、ひつじ書房。

武田徹(1999)『デジタル社会論』共同通信社。

竹村真一(1998)『呼吸するネットワーク』、岩波書店。

東京大学社会情報研究所編(1999)『社会情報学1 システム』東京大学出版会。

牧野二郎(1998)『市民力としてのインターネット』岩波書店。


(名古屋大学)
目次に戻る