3 サイバースペースにおける憲法

ローレンス・トライブ

著者紹介

ローレンス=トライブはハーバード大学の憲法学教授。

本著の構成

本稿においては、まず序論を述べた上で、具体的な現在の問題とそれに対する5 つの原則を提唱し、最後に結論を導いている。

原文は、http://www.sjgames.com/SS/tribe.htmlにおいて、閲覧可能である。

序論

元々、本稿は、ハーバード大学での講演を活字におこし、web上で公開したものである。この後援が行われたのは、1991年であるが、インターネットがおよそ一般化していない当時でさえ、トライブは、「サイバースペース」という現実空間とは異なる「空間」(*

「空間」という概念は、通常3次元空間を意味しているが、サイバースペースでは、次元的な概念は意味を持たない。あるサイトとサイトやサイトと視聴者を結ぶ線は幾何的な意味を持たないからである。トライブ自身がこのことを意識しているのかは分からないが、サイバースペースに対して、"space" という言葉ではなく、"world" という単語を当てているのは通常の空間概念がサイバースペース上では使えないということを意味しているのではないかと考える。

*)が成立することを予見していた。彼は、講演の冒頭部分では、「サイバースペースとは何か」というサイバースペースの定義に対して、多くの時間を割いている。

次に、サイバースペースにおける「憲法」(*

「憲法」なる概念は、実は多義的である。「憲法」という言葉の意味内容は、憲法の概説書を引くべきであるが、本稿においてトライブがわざわざ "the constitution" という言葉を用いていて、、成文憲法としての "constitutional law" という後を使っていない点は留意すべきである。トライブは、社会的秩序としての、"the constitution" を述べていることが後の叙述から推察される。

*)への言及を筆者は行っている。彼によれば、サイバースペースにおける「憲法」を考える意味は、次の通りである。

現実に存在する憲法は、現実社会の反映であるが、サイバースペースにおける秩序は現実社会の秩序とは異なっている。したがって、現実の憲法的秩序がサイバースペースにおける秩序と異なる場合に、現実の憲法的秩序を再考することは、従来の憲法的価値が本当に大切なものであったのか検証するために有益であるとする。

上記の説を論証するために、トライブは、メリーランド州 vs クレイグ事件を挙げている。この事件は、児童虐待事件の立件に際して、証拠として単方向のテレビを用いたことが、憲法修正6条に違反しているのではないか(*

修正6条は、刑事手続きにおける適性手続きを守らせる条項である。そこでは、反対尋問権が保障されている。日本国憲法38条に相当する規定である。

*)として問題視された事件である。最高裁は、結果的に合憲判決を出している(*

確かに合憲判決は出しているものの、論理構成自体は二つに分かれる。一つは、利益衡量アプローチを行い、単方向テレビによる証拠採用を行った方が、行わないよりも裁判がやりやすいという考え方である。もう一つは、修正6条自体が、単方向テレビの採用を違憲とはしないという考え方である。後者については、具体的には、メリーランド州の行った手続き自体は反対審問権を侵害はしていないという認定をしている。

*)

トライブ自身は、200年前の修正条項に現代技術をそのまま当てはめて良いのであろうかという疑問を呈している。具体的にいえば、反対尋問が嘘を見抜くための手続きであるとすれば、対審は必ず行われなければならない。しかし、修正6 条の求めた価値が、「証言が実在したか(=捜査官によるねつ造ではなかったか)」という点を証明するためのものであれば、単方向テレビでも十分に証拠価値はあるのであるとしている。

このように、新技術は憲法的価値が本当に大切なものなのかを再考する契機を与えるのである。

以上見てきた憲法的価値の再考は、憲法解釈にどのような変動をもたらすであろうか。具体的には、当然のものとして従来「優先的価値がある」とされていたものが、実は恣意的であったり偶然的なものであることが分かるようになった (*

トライブは、この点においてより詳細な解説を行っている。たとえば、ある憲法条項の解釈において、『従来は、「Aを保障しているという場合に、当然の前提としてBという価値を含んでいる」という類の議論をしていたが、技術の発達は、憲法が「Aを保障している」といった場合に、本当にAを保障しているだけであって、Bは無関係であることを示すことがあり得るのである。』という解析を行っている。

*)

序論の最後で、著者は憲法的価値の不動性を主張している。昨今の相対主義の伸長を筆者は苦々しく思っており、相対主義は人間の根源的価値を脅かしかねないと感じている。但し、このことは憲法的価値が不変であるということを意味しているわけではない。トライブによれば、現在の変化の方向性が危険であるということを主張しているだけで、憲法的価値が変わってはいけないということを主張はしていないのである。ハッカーやクラッカーにおびえるサイバースペースにおいて、どのようなことが原理・原則となるのかを彼は次に論じている。

問題

憲法的構造はあまりに容易に現れるので、今更それを取り上げるべきだと真剣に考える人は少ないとトライブはいう。その上で、彼は、憲法は非常に上手くできており、現代でもその憲法の基本的枠組みは有益であるとの主張を展開している。

原則1.憲法の規制の方向は個人ではなく政府であると言う原則

これは、憲法学においては当然の前提とされているが、サイバースペースでもこの原則は貫かれるべきである。

但し、通常世界の憲法の構造は、国家権力を分散させる方向に向かうが、これはサイバースペースにおいては時代遅れの概念である。サイバースペースにおいては国境という概念がないため、規制(*

「規制」という概念について、法学者は法を当然に想定している。トライブが「規制は無意味だ」と言っている背景には、「法は国家権力による強制力を伴った社会規範である」という概念があるはずである。だからこそ、国境概念のないサイバースペースにおいては規制の意味がないのである。
*)が意味を持たないのである。

ネットワーク上には、仮想政府があり、その仮想政府に対して憲法が規範として働くことを念頭に置くべきである。

原則2.私有財産や個性に対する憲法的境界は、公共の福祉や技術的実現性よりも深いところで変わる

サイバースペースにおいては、情報は私有されるべきではない。憲法的価値としては、情報は私有されてはならないのである。著作権はあくまで政策の問題であって、憲法の問題ではない(*

情報が私有されるべきではないということを主張するために、トライブは、ロックの所有権論を持ち出している。但し、ロックの所有権論の解釈について、知的財産権まで含むのか否かについては解釈が分かれている。アメリカ著作権法学会の判例・通説では、ロック所有権論は知的財産権を含むとしているが、学説の有力反対説には、ロック所有権論は知的財産については自由利用を認めていると考える向きもある。ロック所有権論は、身体を個人財産と考えることから始まる。その上で、アメリカの通説は、身体から生み出される知的生産はロックの所有概念には当然含まれるとしているのに対し、学説の中には、ロックは身体から離れてしまった著作物に対してまで、所有権を認めているわけではないという結論を導くものもある。この問題はここだけで大論点になりうる。この点につき、小泉直樹『アメリカ著作権制度』弘文堂 (1996) p. 28が詳しいので、参照されたい。

また、合衆国憲法憲法第1章8条8項には、発明に対する特許の規定があるものの、この条文は「連邦議会の権限」を定めただけであって、人権規範としての性質を持っておらず、あくまで議会に対する授権規範として機能しているにすぎない。したがって、この条項があるからと言って、合衆国政府が、義務的に知的財産を守るべき制度を要求されることにはない。だからこそ、トライブの知的財産に関する提言は意味を持つのである。

*)。また、情報に価値的な序列をつけることにも反対である。上記の主張を行うことで、我々の人権が単に功利主義的に決められるべきではないという結論にいたる。

原則3.政府は情報をコントロールするべきではない

これは、政府という存在が油断のならないものであるという概念を前提としている。しかし、現実に被害を与える言論をする者は、排除されている。最高裁の判例は、守られるべき言論の範囲をかなり確定してきている。憲法的原理は、捨て去られるべきではなく、変化の対象と考えるべきなのである。

原則4.憲法は科学技術の進歩が反駁できない通常の人間性の概念に基づいている。

コンピュータ技術に対する規制はされるべきではない。しかし、これは修正1 条の表現の自由のみを論拠としているだけではない。コンピュータを技術として利用することでより深い精神活動が可能なると言う点にも論拠がある。現在のところ、コンピュータによる情報流通と人間間のコミュニケーションとの間には潜在的ギャップがあることを忘れてはならない。

原則5.憲法的概念は技術の進歩によって変わるべきではない

憲法的価値は通常の法解釈の根底に脈々と流れているのである。

確かに、最高裁判所は、新たな技術が登場したときは、その技術に対して憲法的保障が及ぶかという点につき、大変冷淡である(*

裁判所が、新技術に対する憲法的価値の保障に関し及び腰であることの例として、トライブは、ワイアタッピング(電話盗聴)と単方向テレビによる証人尋問、電話における通話記録の開示等を挙げている。映画でさえ、当初は修正一条の表現の自由の保障が及ばないとされていた。

*)。しかも、裁判官は、立法による解決を重視すべきであって、裁判官の解釈に多くを依存すべきではないと述べる。

しかし、我々は具体的事案に際し、憲法が確立させた価値による判断を行うべきである。

トライブは、全ての結語として、憲法は、「場所を守るのではなく、人を守る」という思想を導いている。そして、憲法というレンズを通して、人を守る方法についてより考察を深めるべきであると提唱して講演を終えている(*

トライブ自身は、権利を主張する際に、憲法を持ち出すことに慎重である。しかし、それは決して、「憲法を神棚に飾ること」を意味しない。憲法は、ルールとして通常の法律より、高い次元にあり、それに、何らかの解釈を与えることは社会的影響が大きい。したがって、憲法を持ち出さなくとも、権利の主張が可能な場合には、むやみに憲法を持ち出すべきではない。このことは、アメリカで、ブランダイス裁判官によって1936年に提唱された考え方であり、現在ではブランダイスルールとして確立している。

*)


(井出 明)
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