ローレンス=トライブはハーバード大学の憲法学教授。
本稿においては、まず序論を述べた上で、具体的な現在の問題とそれに対する5 つの原則を提唱し、最後に結論を導いている。
原文は、http://www.sjgames.com/SS/tribe.htmlにおいて、閲覧可能である。
元々、本稿は、ハーバード大学での講演を活字におこし、web上で公開したものである。この後援が行われたのは、1991年であるが、インターネットがおよそ一般化していない当時でさえ、トライブは、「サイバースペース」という現実空間とは異なる「空間」(*
*)が成立することを予見していた。彼は、講演の冒頭部分では、「サイバースペースとは何か」というサイバースペースの定義に対して、多くの時間を割いている。
次に、サイバースペースにおける「憲法」(*
*)への言及を筆者は行っている。彼によれば、サイバースペースにおける「憲法」を考える意味は、次の通りである。
現実に存在する憲法は、現実社会の反映であるが、サイバースペースにおける秩序は現実社会の秩序とは異なっている。したがって、現実の憲法的秩序がサイバースペースにおける秩序と異なる場合に、現実の憲法的秩序を再考することは、従来の憲法的価値が本当に大切なものであったのか検証するために有益であるとする。
上記の説を論証するために、トライブは、メリーランド州 vs クレイグ事件を挙げている。この事件は、児童虐待事件の立件に際して、証拠として単方向のテレビを用いたことが、憲法修正6条に違反しているのではないか(*
*)として問題視された事件である。最高裁は、結果的に合憲判決を出している(*
*) 。
トライブ自身は、200年前の修正条項に現代技術をそのまま当てはめて良いのであろうかという疑問を呈している。具体的にいえば、反対尋問が嘘を見抜くための手続きであるとすれば、対審は必ず行われなければならない。しかし、修正6 条の求めた価値が、「証言が実在したか(=捜査官によるねつ造ではなかったか)」という点を証明するためのものであれば、単方向テレビでも十分に証拠価値はあるのであるとしている。
このように、新技術は憲法的価値が本当に大切なものなのかを再考する契機を与えるのである。
以上見てきた憲法的価値の再考は、憲法解釈にどのような変動をもたらすであろうか。具体的には、当然のものとして従来「優先的価値がある」とされていたものが、実は恣意的であったり偶然的なものであることが分かるようになった (*
*)。
序論の最後で、著者は憲法的価値の不動性を主張している。昨今の相対主義の伸長を筆者は苦々しく思っており、相対主義は人間の根源的価値を脅かしかねないと感じている。但し、このことは憲法的価値が不変であるということを意味しているわけではない。トライブによれば、現在の変化の方向性が危険であるということを主張しているだけで、憲法的価値が変わってはいけないということを主張はしていないのである。ハッカーやクラッカーにおびえるサイバースペースにおいて、どのようなことが原理・原則となるのかを彼は次に論じている。
憲法的構造はあまりに容易に現れるので、今更それを取り上げるべきだと真剣に考える人は少ないとトライブはいう。その上で、彼は、憲法は非常に上手くできており、現代でもその憲法の基本的枠組みは有益であるとの主張を展開している。
これは、憲法学においては当然の前提とされているが、サイバースペースでもこの原則は貫かれるべきである。
但し、通常世界の憲法の構造は、国家権力を分散させる方向に向かうが、これはサイバースペースにおいては時代遅れの概念である。サイバースペースにおいては国境という概念がないため、規制(*
ネットワーク上には、仮想政府があり、その仮想政府に対して憲法が規範として働くことを念頭に置くべきである。
サイバースペースにおいては、情報は私有されるべきではない。憲法的価値としては、情報は私有されてはならないのである。著作権はあくまで政策の問題であって、憲法の問題ではない(*
*)。また、情報に価値的な序列をつけることにも反対である。上記の主張を行うことで、我々の人権が単に功利主義的に決められるべきではないという結論にいたる。
これは、政府という存在が油断のならないものであるという概念を前提としている。しかし、現実に被害を与える言論をする者は、排除されている。最高裁の判例は、守られるべき言論の範囲をかなり確定してきている。憲法的原理は、捨て去られるべきではなく、変化の対象と考えるべきなのである。
コンピュータ技術に対する規制はされるべきではない。しかし、これは修正1 条の表現の自由のみを論拠としているだけではない。コンピュータを技術として利用することでより深い精神活動が可能なると言う点にも論拠がある。現在のところ、コンピュータによる情報流通と人間間のコミュニケーションとの間には潜在的ギャップがあることを忘れてはならない。
憲法的価値は通常の法解釈の根底に脈々と流れているのである。
確かに、最高裁判所は、新たな技術が登場したときは、その技術に対して憲法的保障が及ぶかという点につき、大変冷淡である(*
*)。しかも、裁判官は、立法による解決を重視すべきであって、裁判官の解釈に多くを依存すべきではないと述べる。
しかし、我々は具体的事案に際し、憲法が確立させた価値による判断を行うべきである。
トライブは、全ての結語として、憲法は、「場所を守るのではなく、人を守る」という思想を導いている。そして、憲法というレンズを通して、人を守る方法についてより考察を深めるべきであると提唱して講演を終えている(*
*)。