8 郵政省「インターネット上の情報流通ルールについて」の問題点

井出明

1997年12月末に郵政省は、インターネット上の情報流通ルールに関する報告書を作成している(*

同報告書は http://www.mpt.go.jp/pressrelease/japanese/denki/980105j601.htmlにおいて 閲覧が可能である。

*)。報告書は大変な力作であって、堀部男政男氏を座長とし、法学系(特に公法)の大学教官(*

明治大学教授 新美育文氏、東京大学教授 佐伯仁志氏、北陸大学助教授 鈴木秀美氏、東京大学教授 高橋和之氏の4氏である。

*)が中心となり、実務家の協力(*

(株)日本総合研究所法務部部長 大谷和子氏、日本電信電話(株)法務考査部長 藤田潔氏の2氏である。

*)を得て、作成されている。報告書自体が、「論点の整理と当面の対策」とことわっているとおり、本報告所では、深く議論されていなかった論点でありながら、今や深い考察が求められるものも出現している。特に、本報告書は、1997年段階で「インターネット上での情報の自由流通への規制」を示唆しているが、昨今この ような声は一部で強くなりつつある。そこで本稿では、当該報告書が、「今後の あるべきルールについて各方面から幅広い意見が寄せられることを希望する」と いう提言をふまえ、2000年1月段階での、当該報告書の批判的検討を行ってみた い。

1 報告書の概要

報告書は4章から構成されている。はじめの第1章では、インターネット上での情 報流通ルールの必要性について書かれており、次の2章では、諸外国における情 報流通ルールの議論の状況についてレポートされている。3章では、情報流通ルー ルの具体的なあり方を検討し、最終章でまとめを行っている。

特に第3章の提言を含んだ部分は、情報化社会が持つ負の側面を如何に是正して いくのかという論点に対し、具体的な回答を与えている。

2 問題点

しかしながら、2年前に発表されたという、いわば「インターネット普及段階の 提言」であるということを割りびいたとしても、この提言には、いくつかの看過 しがたい問題点が内包されている。以下、本報告書において、大きな問題点とな りうる「匿名による情報発信」と「フィルタリング及びレイティング」について、 順次考察を行ってみたい。

2.1 匿名のメリット

本報告書では、第1章の1[2]等において、「匿名の情報発信の危険性」が指摘さ れている。背景として、報告書では、「匿名による情報発信では、心理的抑制効 果が働かず、無責任な情報や違法行為が氾濫する」と報告している。

しかし、これは本当であろうか。仮に、法的ルールとして、発信者が特定できる 状況をインターネットに持ち込んだ場合、結果的にインターネットに出現する情 報の質や内容は、確かに無責任な情報は減るかもしれない。ところが、逆に、匿 名であったからこそ可能であった企業への告発や行政への提言も、同時に減って しまう可能性があるのではないだろうか。自分の身元をあかして情報発信を行う ことは非常に勇気のいることである。違法でない表現であっても、表現者に様々 な圧力が加えられる危険性がありうる。換言すれば、身元をあかすべきであると いうルールを持ち込んだだけで、表現行為に対する重大な萎縮効果をもたらしか ねないのである。「ものを言えば唇寒し」の状況が本来自由な表現空間として発 展したインターネットにおいて出現することは決して望ましい状況ではないであ ろう。

このことは、実は政治的表現内容においては、非常に大きな意義を持つ。現代に おいても、現体制や現政権を批判することが許されない状況が存する国は多々あ る。従来、そのような状況下の国において、反体制的表現をとることは非常に難 しかったのであろう。しかしながら、匿名による情報発信が可能であるならば、 わざわざ危険を冒さずして、現体制への批判を行うことが可能である。したがっ て、情報発信が「匿名」であるということのみを理由とした情報発信への規制を 施そうとすることはかえってインターネットの持つ可能性を削いでしまうことに なりかねない(*

この点につき、京都大学のように大学からの情報発信において、匿名による発信を禁止する大学も存在する。しかし、これは実は大きな問題ではないか。在学生の中には、留学生もおり、彼らの属す本国の中には、政治的意見表明の自由が事実上制限されている国も多数存在する。彼らにとって、匿名発信が可能なメディアは、自国の政治の実状を知らせたり、自己の政治的アピールを主張するための手段として欠かせないものであろう。そうであるとすれば、大学側はむしろ彼らの情報発信の自由を守るべきであり、大学こそが匿名性の維持に気を配るべきである。
また、大学からの情報発信は、問題が生じたときにもっとも対処しやすい形態で あると考えられる。大学がアカウントを発行するときには、当該アカウントの保 持者を特定した状態で、アカウントを発行している。したがって、問題のある情 報が発信された場合は、その発信者のアカウントを即座に停止すればよいだけで ある。そうであるとすれば、大学における情報発信の匿名性は、一般の民間プロ バイダに比べて、強く保障されて当然であろう。

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大学において、匿名の情報発信を認める必要性は、研究の向上という点からも認められてしかるべきである。本来、研究者が自由な交流を楽しむことは、よりよい研究を生み出すためには不可欠な精神的刺激であろう。自己の専攻や所属を隠して、専門外の事柄についても、自由に発言することによって、切磋琢磨していく環境というのは、インターネットでしか生み出せないものである。にもかかわらず、情報発信元を特定できる状態でしか情報発信を認めないと言うのでは、インターネットを知的交流のメディアとして十分活用することは難しい。

*) また、「インターネットは『容易』に匿名な情報発信を行える」と言われてはい るが、一般ギャラリーはさておき、捜査機関等にとっては、情報発信の匿名性は 維持されていないと言える。少なくとも、刑事犯に当たる場合は、国内でのデー タ通信は令状をとることによって、誰から誰にどのような情報が送られているか を探知することは十分に可能なはずである。問題は、直接に国内法が機能しない、 海外を経由した情報流通であるが、少なくともICPO加盟国間については、捜査連 携を強めていくことが確認されているので(*

平成10年版警察白書 p. 24

*)、 今後、捜査機関等に対しては情報化社会の匿名性は低減していく方向にあると考 えられる。技術的な側面から考えてみても、発信元を秘匿させる技術を習得する ことは難しく、また秘匿できたと思ってもそれをうち破る技術がすぐに開発され る(*

商用の匿名プロクシを使ったとしても、匿名性の維持は難しいであ ろうということを指摘する向きもある。 http://www.hotwired.co.jp/news/news/Technology/story/2317.html

*)(*

確信的に匿名情報の重要さを説き続ける企業もある。論理として、匿名による情 報発信がそれ自体「権利」であるという構成を行って、商業ベースで匿名サーバー を提供している。有名なものとして、anonymizer.comがある。同社によれば、コ ソボ問題における、政治アピールなどは匿名でなされないと安全ではないという 例を用い、匿名による情報発信の大切さを述べている。このような企業に対して は、匿名による情報発信の規制を求めることは現実に不可能であろう。そうであ るとすれば、匿名情報については、やはり受信側で信頼しないと言う教育を施す ことが肝要と考える。http://www.anonymizer.com/3.0/index.shtml

*)。したがっ て、今後の高度情報化社会において、完全な匿名性を維持することは、非常に困 難なことであると筆者は推察している(*

1999年において、東芝に対し、 民間の一消費者がクレームを付け大問題に発展した事件がある。この事件の場合 でも、告発者の個人情報が出た瞬間に、個人への攻撃が逆に始まっている。した がって、匿名性を守らないで、企業への告発を行うということは、それ自体非常 にリスクの高い行為であるといえよう。現代においては、企業と私人の力関係が 圧倒的に大きい以上、私人に対して情報の匿名性に対する権利を認めることは、 企業と私人の力関係のバランスを是正することにつながるとも考えられる。事件 の詳細は東芝のHPを参照。 http://www.toshiba.co.jp/about/press/1999_07/pr_j1901.htm

*)。 上記のような困難性にもかかわらず、それ相応の秘匿のための努力を費やしてな された「匿名の情報発信」は、もはや「無責任な情報発信」とは言えないであろ う。むしろ、発信者はそれ相応の手間暇を費やしてでも、どうしても発信したかっ た「情報」があるはずであると考えるのが議論の正しい方向性であると考える (*

筆者としては、学校等における情報倫理教育において「匿名による情 報発信を行うべきではない」ということを教えることは望ましくないと考えてい る。氏素性を明らかにした情報発信を行った場合に、どこの誰からどのような攻 撃を受けるかわからないため、匿名性の維持はその意味でも、情報化社会におけ る大切な権利であると言ってもよいであろう。そうであるとすれば、学校等にお ける情報倫理教育においては、むしろ、「情報化社会においては、究極的な意味 で匿名性の保持が困難である」ということを周知徹底させた方が、よいのではな いだろうか。何らかの違法性を持った情報が発信された場合に、よほどの高度な 技術力で痕跡の隠蔽を行わない限り、捜査機関が真剣に取り組めば、かなりの精 度で情報発信者を特定できることは前に述べたとおりである。そして、「匿名性 が実は保持されにくい」と教えることは、違法行為を抑止するための重要な防波 堤になりうるのである。

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実は、情報の匿名性に関する問題点は、「匿名性」にあるのではない。その情報 が間違っている場合に問題が発生するにすぎない。「匿名」それ自体を悪とす る報告書のスタンスには、疑問を感じざるを得ないのである。

したがって、学校での情報教育や情報倫理教育を行う場合は、「匿名による情報 発信の禁止」を教えるのではなく、「匿名による情報の信頼度」について教える べきなのであろう。匿名で発信された情報は信頼度が低いということを教えてお けば、匿名情報に振り回される危険性は低下するであろう。実際に情報化社会に おいて、実現可能な対策としては、匿名情報の発信を禁ずるよりも、受信側で匿 名情報を信頼しないと言う心構えを確立させる方が現実的であろう。換言すれば、 「誰でも自由に情報発信が可能」なメディアにおいて、情報の発信段階での規制 を行うことはどうしても限界があるのである(*

匿名による情報発信は、 プロキシーサーバーを用いた場合に、顕在化してくる。この場合、掲示板等への 書き込みの主体が誰であるのかが分からなくなるといういわば目くらまし的な効 果をプロキシーサーバーは生み出す。元来、プロキシーサーバーは受信側で情報 を素早く受領するために作られた装置であるが、目下のところ、匿名化の装置と して機能している例が少なくない。したがって、国際的な監視の方向性として、 いざ違法な表現行為が行われたときは、プロキシー経由の書き込みであっても発 信元が特定できる体制を作り上げておくことが肝要であると考えられる。

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そして、仮に、違法な表現行為が発生したとしても、多くの場合、現行法の適用 で対応できる場合が多い。たとえば、公務員の守秘義務や医師・弁護士等の職業 的守秘義務に抵触するおそれがある表現内容がインターネット上で現れたとして も、現行法の枠内で十分に対処できると考える。また、直接の法的規制にかから ない表現内容についても、個人への中傷やプライバシー侵害(*

ノンフィクション「逆転」事件(最判平成6年2月6日 民集48巻2号149頁)において、判例は私人間でもプライバシー侵害が起こりうることを認めている。

*)は民法の不法行為の規定などを用いることによって、現行法の枠内でも十分対処できるはずである。換言すれば、情報の発信段階において匿名を禁ずるなどの規制をかける意義はきわめて小さいといえるであろう。

2.2 フィルタリング及びレイティングについて

フィルタリングの危険性

報告書の第3章1(2)、同章5(1)、さらに第4章5においてフィルタリング技術を活 用して「有害情報の除去」がなされるべきことが提言されている。そして、フィ ルタリングに対するマイナス面の検討は、「表現の萎縮効果をもたらしかねない」 と述べるにとどまっている。しかしながら、フィルタリングに対するこのような 認識は、危険であると言わざるを得ない。フィルタリングは、一歩間違えば「検 閲」になりかねない危険性を持っているのであるが、本報告書はその点に対する 言及が不十分であると言えよう。

従来の検閲は、実はほとんどが、罰則を事後的に適用する「事後検閲」であり、 表現物をいわば「事前検閲」する事は、量的にも制度的にも、実際は不可能であっ た。ところが、フィルタリングシステムが完備した場合、従来は不可能であった 「事前検閲」が、この電子ネットワーク社会においては有史以来初めて可能とな るのである。具体的には、あらゆるパソコンに特定のフィルタリングソフトが組 み込まれたとしよう(*

現実に、Windows98からは、webにおけるフィルタ リング機能が強化されている。具体的には、PICS(Platform for Internet Contents Selection)が、Windows98からは、アプリケーションではなくOSレベル で対応するようになった。PICSとは、W3C(the World Wide Web Consortium)が提 唱する新しいフィルタリングシステムであり、コンテンツ作成者や第三者が、コ ンテンツ内容を「性」「暴力」などのカテゴリー別に段階的なラベリングを行い、 受信側の設定で、特定段階以上のラベルが付いたコンテンツを表示できなくさせ るものである。確かにデフォルトの設定では、Windows98では、このPICSの機能 は解除されているものの、インターネット経由等でPICSをオンにすることは容易 なので、Windowsの使用者は、常にマイクロソフト社からの情報遮断の可能性に さらされることとなる。

*)。そのフィルタリングソフトが組み込まれることが、 デファクトスタンダードになったり、法制化された場合は、そのフィルタリング ソフトによって、特定の情報が遮断されてしまうことになるわけである。この遮 断された情報が、真に「有害」である場合はよいのであるが、何らかの権力にとっ て好ましくない情報が、その権力がフィルタリングシステムを支配することによっ て、強制的に流通しなくなる可能性は捨てきれないのである。そうであればこそ、 フィルタリングの導入に当たっては、それが権力による「検閲」となっていない かを再度吟味する必要性があるのである(*

「検閲」は、判例上はポルノ 税関訴訟判決(最大判昭和59年12月12日民集38 巻12号1308頁)で示されたように、 行政権が主体となって行うものである。しかし、電気通信事業法の解釈として、 国その他公の機関が検閲の主体となりうることを本報告書の第3章3(2)[3]は認め ている。さらに、一歩進んで考えると、高度情報化社会においては、国境や地域 というものが意味をなさなくなり、巨大ネットワークを支配する私企業が登場し てくるであろう。現実に、AOLやマイクロソフトはアメリカの通信のかなりの部 分を支配していると言って良いであろう。したがって、今後の高度情報社会にお いては、「私企業による検閲」という事態が生じてくる可能性があるのである。

*)

また、フィルタリングは、結局のところ、受信側でどの情報を受け入れ、どの情 報を遮断するのかを設定する必要があるが、いったいこの「受信側の設定」を誰 が行うべきであるのかという点についての考察が報告書には欠けている。公立の 図書館等で、図書館職員が安易にフィルタリングの設定を行った場合は、まさし く「行政権による情報の遮断」という高度情報化社会においてもっとも忌むべき 事態が出現しかねないのである(*

アメリカでは、図書館のフィルタリン グに関して、いくつかの訴訟が起きている。有名なものとしてはラウンドン区の 公立図書館において、図書館内のすべてのコンピューターにフィルタリングソフ トを機能させたことが、憲法上の「表現の自由」を侵害するという地裁判決も現 れている。訴訟の経緯は市民団体の頁に詳しい。 http://censorware.org/legal/loudoun/

(*

図書館等にフィルタリング ソフトが導入された場合に、現場で設定をやることになれば、担当者は大いに困 惑するはずである。なぜなら、フィルタリングソフトの設定は、先ほどのPICSへ の対応をはじめとして、かなり細かく行えるのであるが、どのようなコンセプト に基づいてフィルタリングを行うのか、その価値観が確立していない現場担当者 に情報の遮断のための設定を行えと言うのは酷であろう。そうであるとすれば、 現実にフィルタリングソフトを導入する場合には、少なくとも同一種類の機関で は統一したフィルタリング基準が適用できるようなガイドラインを作成しておく ことが必要になろう。ただし、この場合であっても、そのガイドラインは唯一絶 対のものではなく、遮断された表現物の発信者等によって、個別のフィルタリン グに対して、異議申し立てが可能になる制度を作っておく必要があろう。

*)

このフィルタリングソフトの設定については、設定の仕方によっては情報の受領 が大きく制限される可能性があり得る。したがって、特定の設定によって表現が 受領されないサイトの運営者にとっては、不満が発生することが考えられる。そ うである以上、図書館等の公的な場所においては、どのようなフィルタリングを 行っているのか、その情報を開示することが望まれるであろう。

現在のところ、フィルタリングソフトの精度は満足できるものとは言えない。本 来は通るべき情報が遮断されている状況は多い(*

井出明「情報における 法と倫理」『グループウェア研究会報告』Vol32 No5 (1999) p. 25

*)。その場合、 遮断されてしまった優良サイトの運営者は、その遮断の解除を依頼できる制度を 確立させておくことが、表現者の表現行為を尊重するためには肝要であろう。

レイティングの実現可能性

報告書では、4章の5等で、フィルタリングがレイティングと連動することを前提 に話が進められているのだが、レイティングが十分に機能するか否かについては、 検討すべき余地がある。

レイティングは、暴力や性表現、そしてアメリカの例で言えば、差別的表現まで、 その表現内容に応じてラベルをつけるという作業を行う。そのラベルについては、 段階的に分けられるということになっているのだが、現実の表現物は、実はその 段階制が担保されているとは限らないのである。PICSに代表されるレイティング システムは、機械的に「乳房の露出は第三段階」「性器の露出は第四段階」等と いうようにコンテンツの格付けを行っていくわけである。しかし、現実のコンテ ンツをみて、第三段階に当たるレイティングを受けたサイトと第四段階に当たる レイティングを受けたサイトにおいて、前者と後者の猥褻度が逆転すると言うこ とは十分あり得ることである。したがって、段階的レイティングが十分に機能す るのかは未だ議論の余地が残るであろう。

また、インターネットは当然のことなのであるが、国境を越えるメディアである 以上、国際基準におけるレイティングが可能なのかという点についても議論がな されなければならない。国際社会では、多元的な価値観を持った文化が併存して いる。にもかかわらず、フィルタリングソフトで濾過するためだけに、レイティ ングを行うことは、文化の多元性を否定することになりかねないかという疑問が 残る。

そして、より根元的な問題なのであるが、「誰がレイティングを行うか」という 論点については、かなり深い検討が必要である。情報を「格付け」する以上、レ イティング期間には中立性が要求される。現在、日本においても、先述のPICSに よるフィルタリングシステムが導入されようとしている。その格付け機関として、 電子ネットワーク協議会(*

電子ネットワーク協議会のホームページは http://www.enc.or.jp/ (3)セルフレイティングの活用

*)が、名乗りを上げている のであるが、この機関が評価団体として適切であるか否かという点は当該機関の ホームページを参照してもなお不明である。情報のレイティングを行う以上は、 どのような人材が実際にレイティングに携わるのか、レイティング団体の中立性 はどのように確保されるのか、レイティングに不満がある者はどのようにして救 済されるのか等といった点が詳らかにされるべきであるし、またそうでなければ、 レイティング制度の導入は単に「表現の自由」に対する抑止効果しかもたらさな いであろう。具体的には、レイティングに不満をもつものがレイティング値の書 き換えを要求してきた場合に、どのような対応をとるべきなのかという点につい て、手続き的ルールを確立させておくべきであろ。現実的対応としては、レイティ ング実施機関以外の、別の公的第三者機関を用意し、勝手になされたレイティン グに対しては、その第三者機関に苦情を持ち込める体制を作っておくべきである。

報告書では、レイティングについては、その主体が不鮮明なままであったが、業 として、成人向けサイトを営む会社や個人に対しては、少なくとも日本国内に関 する限り、セルフレイティングがある程度機能しうるという提言を行っておきた い。現在のところ、風俗営業法(*

風俗営業法2条7項2号、同法31条の2

*)によって、業として、アダルトサイトを運営する場合は、警察に届け出を出すこ とが義務づけられている。この規制をより一歩進め、業としてアダルトサイトを 営む場合は、そのサイトが成人向けであることを、サイト情報のヘッダーにつけ ておくよう強制することは、表現行為への侵害にならないと考える。なぜなら、 表現者本人は、それが未成年への有害情報になることを認識している以上、未成 年者の目に入らないためのヘッダーを強制しても、表現内容自体が書き換えられ るわけではないので、「表現の自由」に対する萎縮効果をもたらすことにはなら ない。現実に、有名な市販のフィルタリングソフトに対応したアダルトサイトの トップページは出現し始めている。

3 終わりに

インターネットの利点は、容易に「思想の自由市場」に参加できる 点にある(*

「思想の自由市場」なる概念は、元来は、アメリカのホームズ裁判官 が提唱した考え方である。(佐藤幸治『憲法(第三版)』青林書院1995年 p.415)

*)。「市場」と言うからには、インターネット上には、様々な価値の「無数の」情報 が併存していて、その中から我々が「自由に」「取捨選択」できることが必要で ある。ところが、情報の匿名発信を規制した場合は、たとえ有害な情報が減った としても、有益な情報まで減ってしまう危険がある。とすれば、「市場」が前提 とする「無数の情報」という条件がクリアできなくなる。さらに、フィルタリン グ装置によって、情報の自由流通が阻まれた場合には、情報を「自由に」「取捨 選択」できる前提が無くなるので、その際、もはやインターネットは「思想の自 由市場」でなくなる懸念さえあり得るのである。そうであるからこそ、インター ネットにおける情報発信の自由の制限や、また、情報流通の制限に対してはいく ら敏感になったとしてもなりすぎると言うことはないであろう(*

近年、「新しい人権」として、 「知る権利」が急速にクローズアップされてきている。 このような現状を鑑みたとき、情報の流通が遮断されるシステムであるフィルタ リングソフトは、非常に危険なものとなりうるのである。現在のところ、「知る 権利」を正面から認めた最高裁判例は存在しないが、学説の有力説は知る権利の 権利性を承認している。そうであればこそ、今後、「知る権利」を尊重するとい う意味でも、フィルタリングソフトを導入する際には、十分に深い議論が必要と なろう。(長谷部恭雄『憲法』新世社 1996年 p. 195等)

*)


(京都大学情報学研究科)
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