2 サイバーリバタリアニズム神話と共同体の展望

ラングドン・ウィナー

出典

Langon Winner, "Cyberlibertarian Myths and the Prospects for community" in D. Johnson & H. Nissenbaum, Computers, Ethics & Social Values , Prentice-Hall, 1995.

キーワード

1 序

日常世界のあらゆる場面でコンピュータ化・ネットワーク化が加速度的に進行している現在、既にコンピュータやネットワークの存在は我々の生活に欠かせないものとなりつつある。しかしそれと同時に、既存の社会規範や制度ではカバーできない問題も数多く噴出している。それゆえ、まさに今我々は、このネットワーク時代にふさわしい慣習、社会関係、規範、制度とは何かという問題に真剣に取り組むべき時期へと差し掛かっているのである。

この問題を巡っては今日様々な議論がなされているが、その中でも特に隆盛を示しつつあるのが「サイバーリバタリアニズム」と呼ばれる思想である。今回ここに紹介するウィナーの論文は、このサイバーリバタリアニズムが来るべき社会についてどのような展望を抱いているのか、そしてその社会像がいかに浅薄なものであるのかを明らかにした上で、新たに「共同体」という観点から社会のあるべき姿を考察することを提案するものである。

2 サイバーリバタリアニズムとはどのような思想か

サイバーリバタリアニズムの思想は、コンピュータ雑誌やサイバースペース・インターネット関連の文献など今日様々な場所で取り上げられているが、サイバーリバタリアニズムの考え方が政治的イデオロギーとして最も明確に宣言されているのは、1994年の夏に「進歩と自由基金」(the Progress and Freedom Foundation)から発表された、エスター・ダイソン、ジョージ・ギルダー、ジョージ・キーワース、アルヴィン・トフラーによる「サイバースペースとアメリカンドリーム:知識時代のマグナ・カルタ」宣言であろう。

そのサイバーリバタリアニズムの思想は、具体的には次のように特徴付けられる。

(1)技術的決定論。これは技術と文化一般に関する従来の技術的決定論を一般化したものではなく、今世紀末の電子技術の革新に特化しての主張であるが、「我々は新たなテクノロジーの発展によって必然的に突き動かされている」と主張する点では変わるところはない。例えばアルヴィン・トフラーは、コンピュータや電気通信の発達を遂げた現在、人間は農業革命・産業革命に継ぐ第三の激変を迎えているという有名な説を提唱したが、サイバーリバタリアンはこの変動を「不可避な」変化、「抵抗不可能な」変化、「世界を変革するような」変化だと主張する。つまり、デジタル技術の変動は我々の直面すべき運命であり、このような変動を前に我々はもはや立ち止まることはできないのであって、むしろ新たなテクノロジーのもたらす要請に素早く反応することが要求されているというのである。さらにケヴィン・ケリーのように、急速な技術発展はつまるところ準生物学的な見地から説明可能な一種の進化にほかならないという説もあり、サイバーリバタリアンの間で人気を博している。

(2)徹底的個人主義。これは、サイバースペース上の個人の合理的な自己利益の追求をさまたげる、旧来の社会的・政治的・経済的構造の負荷からの個人の解放を唱える主張である。このような主張の理論的基盤としてマグナ・カルタの起草者たちは、個人の責任なき権利を擁護し利他主義や社会福祉や政府による介入を批判する、アイン・ランドの見解を引いている。

(3)自由市場経済との結びつき。サイバーリバタリアニズム思想は、供給側重視の資本主義や自由市場資本主義といった、ミルトン・フリードマンやシカゴ学派の思想を軸に据えている。例えば、ジョージ・ギルダーは、自由市場経済とデジタルテクノロジーとの結合は、過去に例を見ないほどの富を創出して人間を解放する発展なのだと論じ、シカゴ学派の思想の普及に一役買うこととなった。

もっとも、サイバーリバタリアンたちはデジタルテクノロジーと自由市場経済とを結びつけることで、単に勝ち組による市場の支配を主張しているのではない。むしろサイバーリバタリアンたちは、古典的な共同体主義的アナーキズムの理想を実現する社会的・政治的条件の出現を期待しているのであり、テクノロジーの発展によって脱中心化・多様性・調和を実現するような構造的変化が生まれることを期待しているのである。さらにサイバーリバタリアンたちは、人々がコンピュータを用いてオンライン上で議論を行ったり自分の立場を表明したり運動を組織したり選挙に参加したりすることにより、新たなるジェファーソン流の民主主義が繁栄する基盤を提供するだろうという展望をも抱いている。

3 サイバーリバタリアニズムの保守主義的傾向

このように、サイバーリバタリアニズムの思想には、既に社会思想として大きな影響力を有する思想や、近い将来大きな影響を及ぼすであろうと予期されるような主張が一つに編み込まれている。そしてこのサイバーリバタリアニズムにとってかわるだけのサイバースペース哲学も展開されていないだけに、多くの専門家たちがサイバーリバタリアニズムの立場に魅力を感じている。しかしサイバーリバタリアンたちは、そのような社会変革の結果誰が勝者となり誰が敗者となるのか、そのような変革は既存の不正義の源泉を増大させるのかあるいは減少させるのか、または民主主義化の恩恵を受けるのは一般大衆全体なのかそれとも最新の機器を所有している人たちだけなのかといった問題に対しては、ほとんど関心を示していない。

その原因は、自由を追求する個人の活動と利益を追求する企業の活動との混同にある。確かに、「政府がサイバースペースを所有するのではない、民衆が所有するのである」というマグナ・カルタの宣言は、サイバースペースが人々に権利と責任の割り当てられているコモンズ(共有財)であることを示唆しているようにも解釈できる。しかし、マグナ・カルタの「民衆による所有」という事柄が本当に意味しているのは、単なる「私的所有(private ownership)」のことにすぎない。しかも、そこで思い浮かべられている私的な存在というのは多国籍的な大企業、とくに電気通信関連の大企業のことである。マグナ・カルタの起草者たちは、大企業間の競争を煽り連携を阻害するような政府の規制が施行されることを恐れているのである。

また、さらにマグナ・カルタでは、安価で社会的に利用可能なチャンネルを多数生み出すために情報通信権力の集中化を促進すべきだという主張も行われている。しかし、電気通信の所有権や管理権の集中を認める1995年電気通信改革法が審議されていた際に、CNNがその法制化に批判的な広告を流すことを拒否した一件に見い出されるように、一握りの組織がニュースや娯楽や芸術表現などのチャンネル全てを支配してしまうことには、民主主義社会にとっての重大な問題があるだろう。それにもかかわらず、サイバーリバタリアニズム思想では、とにかく急速な経済成長と幅広いチャンネルへのアクセスが保証されさえすればよいと考えられているので、このような重大な問題も棚上げされ、無視されるのである。

以上のようにサイバーリバタリアニズムの思想の中には、徹底的な個人主義、自由市場経済への熱狂、政府の役割に対する軽蔑、企業の権力への熱狂などが結びついているが、このような主張はまさに保守派の政治思想の中に位置づけられる。主要な社会的サイバーリバタリアニズムでは、公共的討議を通じた民主的な決定によって技術革新の方向を定めようという試みが拒否され、反政府、反福祉、反労働者、反環境、反公教育といった一連の政策が主張されているのである。

4 サイバーリバタリアニズムにおける浅薄な共同体観念

サイバーリバタリアンたちの提示する議論は、概ね以下のようなものである。すなわち、まずネットワークコンピューティングの領域や世界的な科学技術の発展の中で、現にどのような現象が生じているのかを観察する。そして、共同体だの民主主義だの市民権だの平等だのといった印象的な言葉を用いて、そこで観察された現象を説明する。だがこの時サイバーリバタリアンたちは、これらの言葉が歴史や哲学や社会科学などの領域で独特の意味を担っているにも関わらず、それらの領域での研究を目下の議論に関係のないものとして無視してしまっている。

例えば共同体という観念を例にとって考えてみよう。サイバーリバタリアンたちがインターネット上での人間関係ということで重要視しているのは、コンピュータを媒介として他の人々と親密な接触を保っているという、熱狂的でぼやけた結合体験である。そしてこの点は確かに旧来の共同体観念とも共通している。しかし、旧来の共同体では共同体への帰属感覚はその構成員たちに対する強力な義務の感覚と表裏一体であったのに対して、オンライン上の人間関係についての議論では義務や責任といった事柄はたいてい無視されている。

また、サイバーリバタリアニズムの共同体観念の空虚さは、「共同体の目的は自分と非常によく似た人々を見つけ出しその類似性を楽しむことである」というよく聞かれる主張にも反映されている。というのも、現実の共同体にはもちろんそのような想定は存在していないし、共同体の問題を扱う政治理論などではむしろ、個人の欲求と集団のニーズとのバランスをどのように取るかという問題が、共同体の生活を把握する鍵になると理解されているのである。

一方現在では、そのようなあまり害のないと思われる傾向とは別に、有害な傾向も生じつつある。例えばマグナ・カルタでは、地理によってではなく共通の関心を媒介として結合された「電子地域」の創出によって、社会生活における多様性の実現が期待されている。しかし、その内実は、技術革新によってあるサイバースペースの出来事が別のサイバースペースに影響を及ぼすことがないようにするためのバリアーの設置が可能になるということなのであって、そこで実現される多様性というのは隔離という手段で確保されるものにすぎない。それに対して従来の共同体とは、職業や民族的背景や収入や社会的関心の異なる人々の間で共生を模索する、いわば多様性の実験室だったのであり、技術革新によって人々がこのような共生の模索から解放されるという主張は疑わしい。また、ここで考察したようなサイバーリバタリアンの共同体観念と同様、民主主義・平等・シチズンシップなど、サイバーリバタリアンたちが用いているその他の社会・政治思想のキーワードも、所詮空虚なものにすぎない。

5 サイバーリバタリアニズムにかわる電子技術と社会との関係

それでは、サイバーリバタリアニズムのような浅薄な思想にとってかわる、真に人間的で民主的な未来社会像はどのようにして描き出されるのか。我々は、ネットワークコンピューティングの可能性や展望を論じる際にも、社会生活や政治生活を論じる際に用いられる歴史的・理論的コンテクストへと立ち返らなければならない。つまり、共同体だの民主主義だのシチズンシップだのと高らかに唱えるよりも、ネットワークコンピューティングの到来が共同体にどのような影響を及ぼすのか、それに対してどのように対処するのが理にかなっているかについて、考えてみなければならない。

このような考察の具体例として、インターネット商法などの新しい経済活動領域の勃興という現象について考えてみる。例えばアマゾン・コム(Amazon.com)などの電子書店では、家庭のコンピュータでカタログ検索や24時間サービスが受けられる。またこのような電子書店の中には、従来の店舗売り書店の中で最大級の規模を誇る店舗よりも遥かに多くの書籍を取り扱い対象としているものや、およそ10%から40パーセントの割引価格で書籍を提供しているものもある。そしてこのような電子書店の発展は、確かに多くの人々に好意的に受け止められている。

しかしここで我々は、もし人々がインターネット上の購買へと推移してしまうならば、従来の商店の喪失という隠れた代価を支払う結果に陥る、という点にも注目しなければならない。我々が書店で本を買うことの意義は、何も書籍を購入するということだけに限られてはない。書店というのは最も読書好きの集う場所であるし、われわれは店員や常連客たちとの本についての会話を楽しみとして書店へと赴く。そしてこうした人々が集まる場所としての商店の存在は、その共同体の繁栄を示す一つのサインとなっている。ジェーン・ヤコブスやケヴィン・リンチなどは、共同体生活が維持する社会慣習と街の形態との間に成立する関係を明らかにしているが、この視点からどのような街の形態が「善い生活」をもたらすかという道徳的議論を展開することができる。技術様式と市民文化との関係についてどのような選択を行なうべきかを理解するためにも、同じような考察が重要であると思われる。

このような観点から合衆国では、大規模スーパーマーケットの到来は小さな商店に打撃を与え、共同体の経済の中心地の火を消してしまうことで、様々な社会的害悪をもたらす結果になるという意識も広がってはいる。しかし、われわれはインターネット商法にも十分注意を払うべきである。多くの商店はごくわずかな儲けで商売を営んでおり、たとえ売り上げの10%から15%がインターネット商法に流れただけでもそれらの店は潰れてしまうかもしれないのである。大規模スーパーマーケットに対しては共同体も力を結集するかもしれないが、ネット商店はそのレーダーをかいくぐって忍び込んでくるものであるので、われわれはどこでどんなふうに買い物をするかについて、もっと慎重な選択をする必要がある。それゆえ、この場合結論としては、確かにインターネットを用いて市場の探索や商品の比較をすべきではあるが、実際に商品を購入する段階になれば、デジタル世界ではなく実際に自分の家の近所の商店で購入することが望ましい、ということになろう。

以上の議論を要約すると、ここで提起されているのは、今日のサイバーリバタリアンの過熱に対抗しうるサイバー共同体主義哲学構築の必要性などではない。むしろここで提起されているのは、我々が技術革新に関連した個人の選択や社会政策の問題に直面する際には、複雑な共同体主義的関心も考慮に入れたほうがよい、ということである。新しい技術の使用は慣習に変化をもたらす。その慣習は永続的な制度として凝固する。そしてもちろん、そのような制度がわれわれの生き方の枠組みの大部分を規定している。それゆえ、ここで問われなければならないのは、人々とネットワークコンピューティングとの関わりから生じる新たな習慣や関係や制度は、本当にわれわれが促進したいと願っているようなたぐいのものであるのか、それともわれわれが改定または反対さえも試みなければならないようなたぐいのものであるのか、という問題なのである。


(林芳紀)
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