13 コンピュータは教育を変えるか?

ポール・A. ウィンターズ

出典と概略

ここで取り上げる『コンピュータと社会』( Computers and Society, Paul A. Winters ed., Greenhaven Press, 1997)は、Current Controversiesシリーズのなかの一冊である。このシリーズは、現代社会の抱える諸問題に関する相反する立場の小論文を並載するという形式をとっており、この『コンピュータと社会』もそうした形式で編まれている。

以下では同書の第五章「コンピュータは教育を変えるか?("Will ComputersTransform Education?")」の内容を紹介することにしたい。この章では、「コンピュータは教育を変えるか?」という問題を概観したあと、それに対して肯定派2名、否定派3名が各々の見解を披露している。それぞれの小論ごとに要約していくことにする。

1 肯定派の意見---コンピュータは教育を変える

リチャード・W. ライリー「コンピュータ教育は、生徒にとっての未来の活力である」

ライリー(Richard W. Riley,教育省長官)によれば、アメリカが積極的に「デジタル時代の扉」を開ける努力をしていかない限り、世界中の競合国たちに、最初にこの扉を開けられてしまい、利益を奪われてしまう。もしこの情報革命の成果を獲得しようとするならば、国の将来を背負う子どもたちにこそ十分な情報教育を受けさせる必要があり、だからこそインターネットにアメリカ中のすべての学校を接続するべきなのだ。

すべての子どものための自由な公教育の原理は民主主義の根底を成す。だからこそ、あらゆる教育施設はネットワークへのアクセスを可能にすべきである。たとえ一度にすべての教育施設をネットワークにつなげることができなくても、学校や図書館が、ネットワークの窓口になるべきである。なぜなら、ラテン系とヒスパニック系などの増加しつつある低所得層の子どもたちにも、学習の機会を与えなくてはならないからである。

情報テクノロジーは、地理的に孤立していたり貧困によって脅かされている生徒の学習のために、実に価値あるものである。質の高い教育を受けた子どもは、将来頼りになる労働者となり、よき市民となり、強力な消費者となるに違いない。もし、国が、低所得層の子どもたちの教育ニーズを無視するのなら、そのことは結局、経済的危機の遠因となるだろう。国は役に立たない労働力を多く抱えることになるからだ。

世界レベルの労働力を作り出すことに、今こそ取り組まなくてはならない。初期の教育テクノロジーへの投資は、かなりの長期間にわたる経済的な見返りを与えるだろうし、より低い公的援助のコストと、より大きな国家の生産性という形で、常に利益はアメリカ国民すべてに渡るであろう。我々が理解すべきなのは、テクノロジーはコストではなしに、投資であるということだ。教育者は、投資の心を必要としている。すなわち、学校は、未来の潮流としてのテクノロジーにしっかりとコミットするべきなのだ。

そのためにも、国は、教師のプロとしてのスキルを、新しいテクノロジーを効果的に使用できるよう訓練することによって、発展させる必要がある。すなわち、2000年までに、国はアメリカのすべての教師に、教室で有用な最新のテクノロジーに関する第一級の訓練を受ける機会を与えなくてはならない。

子どもたちの未来のため、アメリカの発展のために、情報教育は欠かせないものになっているのである。

リード・E. フント「コンピュータは、学校にとって必要なリソースである」

フント(Reed E. Hundt, Federal Communications Commission委員長)によれば、コンピュータと情報テクノロジーの発展により、社会は急速に変化しつつある。しかし、学校にはコンピュータはあっても、旧式のものであるがゆえに、ネットワークに接続されていないケースが多い。この情報時代にあって、子供たちには、依然として、基本的なリテラシーが教えられているとは言えない。この問題を解決するには、アメリカ中のあらゆる教室が情報を発信し受信するためのネットワークに接続されなければならないのである。

情報テクノロジーは、ネットワークを通した家庭学習も可能にするだろうし、教師とのコミュニケーションを通しての親の教育参加も可能にするだろう。

我々が為すべきことは、すべての教室に、情報革命の利益を得るための道具を備えること、そして今の教室をある種の巣として、独立した場所として、安全な場として、残しておくことである。学校は、いわばコミュニティセンターになるだろう。

アメリカ社会の発展は、子どもたちのニーズに答えることによって、もたらされるのである。子どもは社会全体で育てなければならない。

2 否定派の意見---コンピュータは教育を変えない

マイケル・シュラージ「コンピュータは教育を変えないであろう」

シュラージ(Michael Schrage,マサチューセッツ工科大学リサーチアソシエイト)によれば、減税や福祉改革などといった現実問題に関しては、大統領と下院議長は大きく対立している。にもかかわらず、「教育の将来」ということになると、両者は同じ立場を主張する。すなわち「国中のすべての教室はインターネットに接続されるべきだ」と。トップの政治家達はみな、インターネットを崇拝しているのである。

確かに、インターネットは世界を変えるであろう。それは魅力的で活気に満ちた発展的なメディアである。しかし、残念ながら、それは教育に良い影響を与えることはないだろう。

そのことはテクノロジーの歴史を見れば明らかである。電話やテレビやビデオの発明が、この国の教育レベルを上げたとでもいうのか? もし教育の質がテクノロジーに依存していると言うなら、それは、良い教科書のほうが良い教師よりも、子どもの教育に対してより大きなインパクトを持っている、と言っているようなものである。確かにそのことは、一部の生徒にとっては真実かもしれない。しかしながら、教師の質よりも図書や教科書の質を評価するような学校システムは、生徒の大部分に対して質の高い教育を供給することに失敗しているのである。

インターネットは、無鉄砲な教育者や迎合的な政治家が、学校が直面している現実的な問題を避けることを望んで離そうとしない最新テクノロジーに過ぎない。彼らは、実質的には学校を改善することには何ら関係のないテクノロジーのビジョンを宣伝しているのである。コンピュータやネットワークは、教師の質の低下や不適切なカリキュラムなどといった教育問題などを解決してくれはしないのである。

クリフォード・ストール「コンピュータによい教師の代わりはできない」

ストール(Clifford Stoll,『インターネットはからっぽの洞窟』の著者)によれば、コンピュータは、学校の危機に対する解決として教育分野に受け入れられてきたが、その教育上の価値は非常に疑わしい。子どもたちは、コンピュータのエデュテイメントソフトを好み、何時間もそれで遊ぶ。しかし、喜んで何かをやっているということは、必ずしもそれが彼らの頭に入っているということを意味しない。本来、学習とは労力や訓練や責任を要するものだ。学習の娯楽化は、継続的な精神的努力の感覚を高めないのである。

確かに、例えば生徒が宿題のための情報を集める際に、ウェブが役立つかもしれない。しかし、彼らはしばしばオンライン上のものをコピーすることによって楽をする。こうしたコンピュータのコピー・ペースト精神は、創造性に反して働くのである。

インターネットの推進者は、WWWが生徒の気軽なコミュニケーションを実現すると言う。しかし、キーボードの前での単調な現実は、ひとつの孤独である。遠くの異邦人と接触している一方で、我々はクラスメイトや教師や家族から離れてしまっている。

海の向こうの誰かに電子メールを送るよりも、身近な友だちに対する感謝の言葉を書くことのほうが重要ではないか。

教育の最も重要な構成要素は、良い教師と動機づけられた生徒との相互行為(interaction)である。だから、コンピュータが教師と生徒の間に割り込んでくれば、教育の質が下がる。分析的思考や創造的に書くことや社会的コミュニケーションを教えることは、コンピュータにはできないが、良い教師ならばできるのである。コンピュータのスキルなどは、学校ではなく、家庭で学べばよいのである。

デビット・ジレンター「コンピュータは子どもの基本的スキルを教えることができない」

ジレンター(David Gelernter,エール大学コンピュータサイエンス教授)によれば、現在、コンピュータは教育における救世主のように崇められている。確かに、それは科学や音楽や美術などの学習に効果を発揮することもある。

しかしながら、コンピュータは映像や画像よりも文字を軽視することによって生徒のリテラシーを低くする。

生徒にとって親しみやすいマルチメディアは、読書を嫌いにさせる傾向があるのである。本来、読書は、楽しみを伴うものである。それに、本はコンピュータよりもポータブルであるし、書き込むこともできるし、ページの隅をおることもできるし、比較的安価である。

また、プロットや論理的議論の秩序だった展開を理解するよう子どもに教えることは、教育の重要な一部であるが、ハイパーテキストは生徒に文章の文脈を無視させる傾向があるのである。

このように文章を、つながりを欠いたパラグラフに分解してしまうことは、継続的な議論の能力の減退にもつながっている。

また、計算やスペルチェック用のソフトを導入することによって、生徒の基本的なスキルは低下させられる。現在は計算機があるからといって、足し算や引き算を訓練することが時間の無駄になるわけではない。それは生徒の精神的能力を発達させるのである。また、ミススペルの原因は人間であり、正しいスペリングの観念を持たないことは、リテラシーを半分持っていないということなのである。

教育におけるコンピュータの使用は、以下の三つの条件を満たした時にのみ限られるべきであろう。すなわち(1)もっと創造的なソフトウェアを開発すること、(2) 休み時間だけ使用すること、そして最も重要なのが、(3)子どもに、面と向き合わない限り、何も教えることはできないということを教師が自覚すること、である。

3 まとめ

以上の要約から明らかなように、肯定派と否定派のコンピュータやネットワークに対する態度の相違の根本には、その教育観のすれちがいがある。

肯定派の二人にとって教育とは、あくまで社会の流れに適合した「労働力」の養成である。すなわち、現代は情報化社会だから、子どもはそれに適応するためのスキルを身につけなければならないのである。そしてその教育の目的は、再三彼らが強調しているところの「社会の進歩・発展(おそらくは経済中心の)」に置かれているのである(こうした点で、彼らのネットワーク擁護論は、カウンターカルチャーの流れをくんでいるような反権威主義的観点からのそれとは正反対の方向を持つものである)。

一方の反対派にとっての教育とは、読み書きや議論の能力や、社会的コミュニケーション能力といった人間としての基本的スキルを養育することである。それは肯定派ほど即物的でなく、いわば「人格の陶冶」とでも言うべきものに重点が置かれている。そして、三者すべてが、そうした教育に必要不可欠なものとして「教師と生徒の人間関係」を挙げているのである。

小論文形式という制約のためもあって、議論の広がりや深さには欠けるが、アメリカにおける情報教育に対する最も標準的な態度---おそらく日本におけるそれと大差はないであろう---を把握することができるという点に限っては有益な書であろう。


(後藤雄太)
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