12 シェーマン『プライバシーの哲学的次元』とエツィオーニ『プライバシーの限界』
1 はじめに
FINEプロジェクト京都拠点では情報倫理学の理論的基礎考察を行なうことを目指
しているが、残念ながら、国内にはいまだ十分に哲学的プライバシー論が紹介さ
れているとは言いがたいと思われる。哲学的プライバシー論については、若干古
いがシェーマンによるアンソロジー[schoeman84]が非常に有益で示唆に富む(*特にシェーマンのintroductionは必読である。
*)。まずこれをふりか
えったのち、新共同体主義者を名乗る最近のエツィオーニ[etzioni99]の議論を
紹介する(*
本紹介は第2回FINE京都研究会(1999年12月4日)において発表
されたものである。
*) 。
2 哲学的プライバシー論の課題
哲学者・倫理学者が中心的な興味を持つ問題は次のように列挙できるだろう。
- 「プライバシー」をどう定義するか
- プライバシー問題の明晰化
- 「プライバシー問題」と言われる問題群に共通なものはあるか
(coherence)
- 「プライバシー問題」は独自の問題領域か(distinciveness)
- プライバシーはなぜ重要か
- プライバシーは文化に相対的か
- 社会政策においてプライバシーをどう位置づけるか
3 「プライバシー」の定義
いかなる議論においても、基本的対象の定義は重要である。特にプライバシーに関す
る議論では、そもそもなにをもってプライバシーとするのかが定まっていない。
そこでまずプライバシーの定義について考察しておく。
まず、「プライバシーとは自分についてのどんな情報が他人に伝えられるかに関
する権利である」とする定義がある。この定義では、例えば、「プライバシー
の権利」という語や、「プライバシーはまもられるべきか」という問いが同語
反復に近くなってしまい、規範的議論においては有効ではない。
「プライバシーとは、自分についての情報、親密さ、あるいは誰が個人のアイデ
ンティティ等に接触するかをコントロールすることである」とする定義である。
しかし、この定義によれば、「一人で無人島にながれついてしまった男は情報
をコントロールできないが、プライバシーがないとは言えない」、あるいは、
「自分の情報はすべて他の人に知らせと決めた男はのプライバシーは存在する
か」といった反例ができてしまう。
そこで、現在最も有効であると皆されているのは、「プライバシーとは、ある人
への接触がなんらかのしかたで制限されてい状態である」とする弱く広い定義で
あると言えるだろう。
4 法的なプライバシー権の歴史の流れ
さて、プライバシーに関する議論では、やはり法的な話が中心になる。ここでは、
まず合州国におけるプライバシーの権の歴史的概要を紹介する。
日本国憲法の条文と同様に、合州国憲法でもプライバシー権は明文的には認めら
れていない。そもそもプライバシーの権利は19世紀終りまでは独自のものとは認
められていなかった。現代ならばプライバシーの問題とみなされるような係争は、
私的所有権にかかわるものと見なされていた。たとえば、名誉毀損は、「名誉」
という所有物に害を与えるので不法とされたのである。
プライバシー権はWarren & Brandeisの有名な論文 "The Right to Privacy"
(1890) [warren90]で、他の権利(自由、所有etc.)とは独立のものとして
提唱された。この後、数百の裁判が行なわれ、プライバシーの権利は急速に認め
られるようになる。
60年代後半からの生殖にかかわる数件の裁判で、プライバシー権は私的な
選択にかかわるものに拡張された。Griswold v. Coneticut (1965)で
は避妊手段の選択はプライバシーに属するとして州の避妊禁止を憲法違反である
と判決し、プライバシー権が憲法上の権利として認められたとされる。
Eisenstadt v. Baird (1972) では避妊器具の頒布の制限もプライバシーに関す
るとして違憲判決が下され、最も有名なRoe v. Wade (1973)では人工妊娠中絶もプライバ
シーに関わるものとして処理された。
ここでは、このような合州国の法理論の流れのなかでは、「プライバシーの権利」
は、我々がこの語によって連想されるような個人の情報管理だけでなく、個人の
選択にかかわるものとされたことが、議論を複雑にしていることに注意をうなが
しておく。
5 プライバシーの意義に関する諸議論
5.1 Warren & Brandeisによる問題提起
さて、Warren[warren90]らは「プライバシー」という言葉そのものは定義
しなかったが、イエロージャーナリズム等による名誉毀損等の裁判が数多くなさ
れている当時の状況下において、独立の権利として「一人にしておかれる権利
right to be left alone」を提唱し、大きな影響力を持つことなった。これ以降、
この論文に従って多くの判例が下されることになった。
5.2 Prosserの還元主義
しかし、1960年のProsserの論文[prosser60]によれば、それまで「プライ
バシー」侵害であるとされた判決においてには、実際には4つの類型があり、こ
れには3つの別個の利益が対応している。
- 個人の孤独や個人的事情に対する侵害。心理的苦痛を与える。
- 個人的な羞恥心を刺激する事柄を公けにすること。評判や心理的静穏と
いう利益が害される。
- 個人に関する誤った情報を広めること。評判と心理的静穏。
- 他人の個人情報を自分のものとすること。財産権。
このように多様な侵害とそれに対応する利益があるのだから、プライバシー問題
は単一の問題ではない。むしろ、名声、財産、心理的安逸といった他の価値・権
利の問題として捉えるべきであって、プライバシーそのものに価値をみとめねば
ならないわけではないとする。
そこで道徳・法哲学者たちによる議論は、プライバシーがcoherentで
distinctiveかという問題に向けられた。すなわち、一般に「プライバシー問題」
とされる問題群が、それらすべてを「プライバシー問題」としてひとくくりにす
るような首尾一貫した特徴をもっているかどうか、また、以降近年に至るまで、
それらの問題群は、他の諸法的・道徳的権利に還元されえないのかどうかが争わ
れることになったのである。
5.3 Blousteinのプライバシー擁護
WarrenとBrandeisはプライバシーの役割の中心には、「神聖な人格性」
"inviolate personality"が存在すると述べているが、1964年のBloustein
[bloustein64]これをより明晰にしようとする。「神聖な人格性」には、
個人の尊厳や、個人のかけがえのなさ、自律等が含まれている。このような価値
は、Prosserが言うような名声や財産、心理的安逸等には還元されない。
たとえば、隠棲している人の家にあがりこんだら、たしかにその人は安逸を害さ
れるだろうが、これは必然的ではない。かりに心理的な不安を味わうとしても、
これは自分の尊厳を害されたことの結果として苦しむのである。
また、もし完全に他人によって詮策を受けるなら、自分が独特であり、自律して
いるという感覚を失ない、また個人としての自分の意識を失なうことになる。つ
まり、道徳的人格を失なうことになる。このラインの議論にしたがって、Stanly
BennやJeffrey Reimanは、人格とは自分がある個人的計画projectと自分自身の
視点をもっていることを意識している存在であり、他人の観察等は社会的存
在としての行為者に他人の視点を強制することになる。ある人格が他人に観察さ
れたり判断されたりすることを望まないならば、その人格を観察しないことが人
格を尊敬することであると主張する。
5.4 Fried: 対人関係の必須要素としてのプライバシー
60年代に至るまで、このような人格の尊重としてのプライバシー論がさかんに行
なわれていたのだが、1968年に、社会学者Charles Friedの非常に重要な論文
[fried68]によって議論に対人関係におけるプライバシーが導入される。
情報を共有することが親密な関係を成立させるポイントである。
FriedはBlousteinに代表されるような個人の尊厳にかかわるものとしてのプライ
バシーの重要性をみとめた上で、さらに、道徳的・社会的人格の発展にとって特
に重要なのは愛や友情、信頼といった親密な対人関係であるとする。このような
関係を作りあげるには自分の内面を自発的に他人に伝え、共有することが要求さ
れるが、その前提として、まずは内面に相当するものをもっていることが必要と
される。したがってプライバシーを持つことは親密な関係の必要条件であるとする。
5.5 Gersteinの参加者役割とプライベートライフ
1970年と1978年のGersteinの論文[gerstein70,gerstein78]によれば、人間
関係には参加者役割と観察者役割の二種があり、親密な関係に入るには、観察者
的態度を捨て、参加者とならねばならい。観察者の視線を意識することは参加者
として関係に没入することを阻害する。また、プライベートな生活は我々が最も
自分自身である感覚をもてる場であるが、これは社会的な監視や支配のしめつけ
のもとでは不可能であり、また、社会的な制約から自由になることは、個性の発
達に不可欠である。社会的な規範から自由な場で人は自分自身を知ることができ
るようになる。
5.6 Rachelsの情報のつかいわけ
1975年のRachels[rachels75](*『情報倫理学研究資料集I』に文献
紹介がある。
*)はFriedの議論を発展させ、プライバシーは単に親密な関係を疎遠
な関係から区別するために必要なだけではなく、多様な人間関係をやりくりする
手段として認める。何がプライベートとみなされるかは特定の関係に依存すると
示唆する。
5.7 Ruth Gavisonの緩衝地帯としてのプライバシー
Gavisonは、1980年の総括的な論文[gavison80](*『情報倫理学研究
資料集I』に文献紹介がある。
*)
で、これまでのプライバシー論の
整理を行ない、さらに、社会的規範からの緩衝地帯としてのプライバシーを提唱
する。プライバシーは人から嫌われるような思想を考える情緒的・知的空間を用
意するのである。
5.8 Wasserstromの「カウンターカルチャー的視点」
Wasserstrom[wasserstrom78]は、「カウンタカルチャー的視点」からする
と、現代ではプライバシーがあまりに重視されていると指摘する。我々は、人に
は見せられない恥ずかしい行為があると思いこむことによって、必要以上に脆弱
vulnerableになっている。なにをプライバシーと感じるかは文化に相対的であり、
その文化そのものをを変更することもできる。また、プライバシーは欺瞞と偽善
の隠れ蓑になり、また人々の自己を私的・公的の二つに分断してしまう原因になっ
ている。
6 ここまでのまとめ
ここまでの流れのなかで、倫理学者がプライバシーの議論でよく使うよく使われ
る三つの論点すなわち、私的所有説、人格の尊厳説、そして親密性理論が出て
きている。Blousteinたちの人格の尊厳説は今ではほとんどの哲学者が自前のもの
として使うほど一般的になっているし、Fried-Rachelsのラインの親密性理論も
最近人気がある(また、これらの議論は、必ずしも互いに背反するものではない)。
Bennの議論はカント流の「人格への尊敬」、Gavisonの議論はミルの自由論での
個性の擁護論をそのまま持ちこんでいる。
Wasserstromらの「カウンターカルチャー的」な態度は、日本のアカデミックな
世界では言及されることが少ないので、紹介しておくのは興味深いことであろう。
「カウンターカルチャー的」態度、あるいは、既存の文化や権威に対する反発的
な態度が、初期のネットワーク文化をささえていたのは確かなことであり、ネッ
トワークのさまざまな問題を考える上では不可欠の論点であると思われる。
シェーマンがアンソロジーに集めている議論はプライバシーそのものの重要性の如
何にかかわるものであって、一般に政治的・社会的な文脈でプライバシーの権利
を擁護する場合には必ずしもプライバシーがdistinctな価値であることを主張す
る必要はないことに注意するべきである。もちろん、例えばRachels が言及して
いるように
- 競争的な状況で利益を守るため
- 単にはずかしいから
- 生活に大きな影響を与えるから
- 問題に関係のないirrelevantな情報と
偏見によって不利益を被るのを避けるため
等の(必ずしもプライバシー権をdistinctiveでないものとするかもしれない)さ
まざまな理由をあげることができるだろう。
7 エツィオーニの共同体主義
上のような哲学的プライバシー論の伝統の眼鏡をかけて、現代のプライバシー論
争を見てみることにしよう。
7.1 IDカード問題
エツィオーニ[etzioni99]は5つの具体的事例(妊婦のHIV検査、ミーガン法、暗号
政策、IDカードとバイオメトリクス、医療情報)をとりあげて、プライバシーの
権利は(特に合州国では)あまりにも特権的に扱われており、むしろ有害であると
分析する。J. S. ミルに代表される自由主義的議論は、現代よりずっとプライバ
シーが尊重されていなかった時代に対する反応であって、彼らの議論は、現代で
はあまりに過大評価されている。現代に生きる我々は、プライバシー権に代表さ
れる個人的権利と、次第に無視される傾向にある共通善common good (*共通善は我々が共有している関心事(特に健康と安全)と定義される。
*) とのバ
ランスが求められるべきであるとする。
例として、国民IDとバイオメトリクス利用の分析をとりあげてみる。合州国では
国民番号(Universal ID)が存在しないために、(1)逃亡者の問題(合州国では年間
5000人)、(2) 育児施設等での児童虐待(1990年の調査によれば、6つの州で6000人
の児童虐待の前科を持つ者が働いていた)、(3)脱税、(4)育児手当未払い、(5)不
法な銃の購入、(6)不法入国、(7) 福祉詐欺、(8)アイデンティティ泥棒、(9)ク
レジットカード泥棒等が問題になっている。Universal IDカード、バイオメトリ
クスや複数質問認証等の認証技術はこれに対するよい対策になるだろう。
これに対して自由優先主義者たちlibertarianは、
- 全体主義的である
- すべり坂をすべり落ちることになる。
- アウトサイダーを不当に差別することになる
- 萎縮効果をもたらす
といった問題を指摘する。
このような批判に対する共同体主義者の答として、エツィオーニは、
- IDカードはむしろプライバシーを強化する。いちいちうっとうしい詮策
をうけないための最善の方法は、信頼できる情報を提示すること。IDは
それに役立つ。信頼できる認証はアイデンティティを保証し、それゆえ
他人を信頼させることができる。
- そもそもすべり坂議論は誤謬。恣意的なラインであるからといって
それがすべりやすいということにはならない。
- IDカードは多くの国で実用されており、彼らは全体主義とはかかわりが
ない。リバタリアンは原因と結果を混同している。全体主義がIDを利用
したのであり、IDが全体主義を作りだしたわけではない。全体主義は社
会秩序が崩壊したときに生じる。法と秩序を守ることによって、IDはむ
しろ全体主義への流れを食いとめる。
また、(計画される)政府によるIDは企業による情報収集ほど侵入的では
ない。もし全体主義政権が成立したとしたら、それは企業のデータベー
スに公的情報を加えるだろう。
実は、現在の(合州国の)システムでは、人々はなにも共通善を得ないの
にプライバシーの喪失に苦しんでいる。
- IDの目的が犯罪者等を閉めだすことにあるのだから、差別は当然。むし
ろ、不当な差別の原因にはならない。むしろ、たんなる見かけ等による
差別を減少させる。
- リバタリアンはIDが不当捜査を構成すると主張し、これは法的伝統にな
じまないと言うが、そうではない。飲酒検問が一例となる。
ユニバーサルIDに問題があるとすれば、それは国家が情報を一元管理することそ
のものではなく、むしろ、情報の不当使用と不正確なデータにあるのだから、そ
の対策を練ることは重要である。
7.2 共同体主義的プライバシー概念
エツィオーニが提唱するのは、プライバシーの健全な共同体主義的な扱いは、それを
行為者が、 正当に他人に対して開示や責任をもとめられることなく行為す
ることができる領域とみなすことであるというものである。プライバシーはある
種の行為が共同体、公衆、あるいは政府の詮策を免除されることを認める社会的
認可societal licenseを受けた領域と見なされるべきであるとする(*こ
れをエツィオーニ は、法的には修正第4条の精神にもとづくとする。合州国憲法修正
第4条。身体、住居を不合理な捜索や押収に対して保護し、正当な理由に基づき
発せられ、捜索の場所や押収する物を特定した令状によらない捜索押収を禁止。
*)。
エツィオーニは、一般に「プライバシー」と認められている領域を、上のような行為
の秘匿の認可としてのプライバシーと、私的選択private choiceの二つに分析す
べきであるとする。自由主義者はプライバシーの保護が重要である大きな理由は、
個人的選択(あるいは自律) にあると考える。したがって、彼らにとってこの行
為の秘匿と個人的選択の区別はあまり重要ではない。また全体主義者にとって、
個人の選択に圧力を加え支配するためには、プライバシーというバリアがあって
はまずいのは当然である。したがって全体主義者にとってもこの区別は重要では
ない。
これに対して、エツィオーニの提唱する繊細共同体主義responsive
communitarianism(*
日本語としてどう訳せばよいのかについて紹介者は
まだ定見をもっていない。
*) は、個人の選択はできるかぎり尊重するが、プライ
バシーは制限することを推奨する。これによって、政府や権力によってではなく、
共同体の成員相互の詮策と監視によって個人の選択に圧力をかけるのが共通善を
促進する最善の方法であるという。個人が自分自身にとっての善を自己決定しそ
れを追求するのははばまないが、共同体の監視によってそれに制約を与えるとい
うわけである。これによって「全体主義的」という批判を回避できるというわけ
である。
いくらある特定の行為を法によって犯罪と規定し、規制しようとしても、共同体
が実際にそれを嫌悪しなければその「犯罪」は減少することはない。逆に、その
共同体がその行為を実際に嫌悪しているならば、その行為が行なわれることは少
なくなるだろう。このような事態が生じるのは、共同体の価値観を個人が内面化
するからというだけでなく、共同体が個人の行為を監視するようになるからであ
る。専門職に従事する人々が一般に高い道徳性を保てるのも、なんらかの明示的
な綱領が存在するからではなく、むしろ、専門家の共同体がその規範を維持して
いるからである。このようにして、社会的監視を増やし政府の支配を減少させる
ことが共通善の達成に有効だ、というのがエツィオーニの提唱である。
はじめに紹介したような個人の道徳的自律・尊厳の必須要素としてのプライバシー
擁護と、共同体主義者たちのプライバシー権への懐疑的態度との対立については、
最近ではvan den Hoven[hoven98]がうまくまとめている。彼は自由主義者と
共同体主義者の議論の対立点は、まさにこのような個人自律と尊厳にかかわる意
味でのプライバシーであるとして、共同体主義者がそれを認められるかどう
かが議論の鍵であると指摘している。
ポイントはエツィオーニ (あるいは我々)がプライバシーの「自由主義的概念」をどれ
だけ重要なものと見積もっているのかである。「リベラル」な論者の多くは、プ
ライバシーの領域は個人の自律を確保するために必須であると主張する。
エツィオーニはこの個人の自律に関する議論を、国家が市民の選択を規制しようとす
るならば、市民のプライバシーに関する情報が必要であり、それに対抗するため
にプライバシーの権利が必要なのだという議論と解釈してしまう。プライバシー
の重要性をこのようなものと理解すると、たしかに、「国家は不正行為の十分な
証拠がないかぎり私的領域に侵入してはならない」という合州国憲法修正第4 条
程度の条件を保証するだけで、十分にプライバシーは守られていることになる。
しかし、先に述べたような哲学的プライバシー論の伝統が発見してきたプライバ
シーの重要性は、単に国家から行為の規制と強制からの自由のために必要である
ということだけではなく、我々の内心の自由と親密性を維持するためのものでも
あることにもあった。このような重要性を見逃がしては、プライバシー問題に関
する十分な考察を行なうことは不十分であろう。
また最後に、エツィオーニ は(意図的に?)現代社会(特に合州国)で認められている
「個人の権利」対「共通善」という図式で議論を進めるために、十分な効用の計
算(彼の言葉では「バランシング」)を行なうことができなくなっていることを指
摘しておきたい。
関連図書
-
Edward J. Bloustein.
Privacy an an aspect of human dignity: an answer to dean prosser.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Amitai Etzioni.
The limits of privacy.
Basic Books, 1999.
-
Charles Fried.
Privacy.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Ruth Gavison.
Privacy and the limits of law.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Robert S. Gerstein.
Intimacy and privacy.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Robert S. Gerstein.
Privacy and self-incrimination.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Willam L. Prosser.
Privacy.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
James Rachels.
Why privacy is important.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Ferdin and Schoeman, editor.
Privacy: Philosophical dimension of the literature.
Cambridge University Press, 1984.
-
J.van den Hoven.
Privacy and the varieties of moral wrong-doing in an information age.
In CEPE98, 1998.
-
Samuel D. Warren and Louis D. Brandeis.
The right to privacy.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
-
Richard A. Wasserstrom.
Privacy: some arguments and assumptions.
In Ferdinand Schoeman, editor, Philosophical Dimention of
Privacy. Cambridge University Press, 1984.
(江口聡)
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