7 アメリカの大学におけるコンピュータ事情


1999年夏から、半年の予定でアメリカ東海岸ニュージャージー州にあるプリンストン大学に客員研究員として滞在している。哲学科に籍をおいているのだが、主たる渡航目的は、University Center for Human Valuesという研究所で情報倫理に関する共同研究を行うことにある。共同研究者のひとりHelen Nissenbaum講師は、情報倫理の分野ではよく知られた研究者。私とも旧知の間柄で、98年の京都での国際ワークショップにも参加した人なので、有意義なコラボレーションが期待される。そこでこの連載も、これからしばらくは「プリンストン通信」と題して、アメリカの情報倫理研究の現状などについてレポートすることにしたい。

まず今回は、アメリカの大学におけるコンピュータ事情について書いてみよう。プリンストン大学は創立250年を誇る名門であるが、コンピュータやネットワークに関しても、相当行き届いたサービスを提供している。私が主に利用している哲学科の院生用コンピュータルームには十数台のマシン(WindowsとMacが半々、UNIX系は無し)があり、DHCPで大学のコンピュータセンターに接続されている。24時間利用可能なので通常はここにラップトップを持ち込んで接続しているのだが、混んでいるときは図書館や他に5、6カ所あるパブリックコンピュータルームに行くこともある。特に東アジア学科のそれは当然日本語表示も可能なので、自分のマシンを持ってきていないときなどは助かる。学部生は、こうしたオープンな部屋や各自の寮(プリンストンではカレッジと呼ばれ、実質上全寮制に近い)のコンピュータルームを利用しているようだ。いずれの部屋でも言えることなのだが、こちらでは日本ではもうあまり見かけなくなっている旧型のマシンがけっこう現役で動いている。OSやアプリケーションも最新のものはあまりなく、MicrosoftのOffice 2000などというものはついぞみかけたことはない。可能な限り新しいバージョンのソフトを詰め込んだ最新スペックのラップトップを意気揚々と持ち込んだ当方は何となく恥ずかしい思いさえしたものだ。

ここの学生や教員にとってはコンピュータは空気や水のようなものなのであって、とくにその存在を意識しないで使っているようにさえ見える。それがいいことなのかどうかは別として、そうなるためには、いわば「枯れた」ディバイスを使うことが前提となり、やみくもに新しいバージョンをインストールすることは愚かですらあるのだろう。日本の大学のコンピュータルームでは、新しいマシンやソフトなどのコンピュータについての会話が多くなされていると思うが、こちらでそのような話題を聞くことはほとんどない。第一、ソフトのインストールやネットワーク周りの管理は、すべて大学のコンピュータセンターが一括して行っており、不具合があれば専任の技術者が出張してきて修理をしてくれる。このコンピュータセンターは、個人所有のパソコンの修理から販売までやってくれ、たいへん重宝している。メールサーバも、一部の理系学科を除けばこのセンターのIMAPサーバを利用する人がほとんどで、私のような客員でも着任と同時にmizutani@princeton.eduといったアドレスが自動的に割り当てられることになっている(自前のサーバを立ち上げている学科の人もこの@princeton.eduのアドレスは必ず持っている)。このメールサーバの一元化ということがいいことなのかどうかはわからないが、着任直後にあったハリケーン騒ぎのような場合の全学の構成員への連絡には便利だろう。ただセキュリティという点では、初期パスワードのまま長期間放っておかれる可能性が多いなど、危険性もあることは確かだ。

私立大学ということもあってか、ネットワーク用のアプリケーションも、特定のメーカーのもの(ここではNetscape Communicator)が強く推奨されており、利用マニュアルもこれに集中している。これを使ったWebmailのサービスも提供しているところをみると、Netscapeと何らかの大規模な契約をしているのだろう。ネットワークのセキュリティについては、きちんとチェックをしたわけではないが、専任のスタッフがそれなりの管理をしているようだ。ただ、あまりがちがちのセキュリティプログラムをかけているようにも思えないし、エンドユーザに対して倫理面での啓蒙的な教育を行っている様子もない。一般に、知的財産権やプライバシーなどに対する意識は日本に比べて相当高いからいいとしても、自己責任の原則ではすまないウィルスやスパムなどの問題についてはどうなっているのだろうか。一度じっくりと調査をしてみたい。

現在の日本の大学の多くでは、教官有志や場合によっては大学院生などがネットワークの管理をさせられており、その点からすれば、専任の技術スタッフに任せておけるというのはありがたいことではある。おそらくは学部単位や全学の「情報委員会」なんてものもないのだろう。人々がコンピュータを話題にせず、それの管理に気をもむことなく学問研究をはじめとする仕事に集中できることは、理想であるには違いない。しかし、そうなるには、まだあまりに早すぎるのではないかという疑念も残る。コンピュータやネットワークが一般に使用されるようになってまだ20年もたってはいない。そしてそれがもたらす問題も出尽くしたわけではなく、既存の問題への対応も始まったばかりである。そのようななかで、コンピュータというものに対する無意識的な依存だけが進むことがはたしてよいことなのだろうか。かつて、近い将来コンピュータの遍在化とそれへの無意識的依存が完成したとき、コンピュータという語そのものが死語になるかもしれないと書いたことがあるが、そうなるまでに現在のエンドユーザが経験し、考えなければならないことはまだまだ数多くあるように思われる。

(1999年12月号)

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