6 ネットワーク社会とバーチャルリアリティ


夏休みということでコンピュータゲームに興じられた方も多いだろうから、今回はバーチャルリアリティ、略してVRについて少し考えてみよう。情報倫理ということからすれば、暴力的内容を含んだゲームの世界に耽溺し、現実世界とバーチャルな世界の区別がつきにくくなった人間による犯罪などというのが格好の題材になるのかもしれないが、私としてはさしあたってはそのような単純な話を問題にしたいのではない。実際、そのようなテーマで書かれた論文もかなりの数にのぼるが、ポルノグラフィと性犯罪の関係の場合同様、きちんとした実証的データに基づかない安易な関係づけは危険ですらある。

VRは、それまで主として軍事関連の研究として行われてきた研究が、80年代の後半から医療や教育といった領域を含めた商用利用に応用されるようになったことによって身近なものになった。住宅展示場などで体験された方もおられるだろう。このVRの研究においては、何らかのすでに存在する「現実」をVR装置を使って「擬似的」に体験させるインターフェイスの開発、特にVRであるということを意識させない「没入感」の向上が主たる目標となっていた。そこではあくまでオリジナルとしての現実があり、それの精巧なコピーをコンピュータ・シミュレーションによって体験することが関心事だったのである。したがって、フランスのボードリヤールが『象徴交換と死』をはじめとする諸論考で主張したような、現代社会におけるオリジナルとコピーの二分法の解体といった現象は、少なくとも現在のVR研究者の受け入れるところではないだろう。むしろ、そこでの差異が強く意識されるようになっているといってもよい。

しかし、この差異は埋められるためにこそ強調されているともいえる。哲学者ならば、ここで「身体感覚」なるものを持ち出すかもしれない。しかし、神経中枢に直接刺激を与えるヘッドセットの開発が最も困難であると考えられている嗅覚にいたるまで進んだ場合に、「本物」の身体感覚とバーチャルな感覚を原理的に区別するものは何かという問いは、われわれを古い哲学的、認識論的問題にまで連れ戻す。また、バーチャルワールドは、構造上一定の限界をもったフィードバックシステムでしかないが、現実世界は無限に開かれたシステムであるという指摘もある。しかし、電子ネットワークなどを通じてこのバーチャルワールドに複数の人間が没入し、そこで双方向コミュニケーションを行うようになれば、システムとしての開放性が発生することになる。現状では回線容量の問題もあっておもちゃ程度のものしか実用化されていないが、近未来SFが告げるように、近い将来現実世界と何ら変わりのないバーチャル社会が実現するであろうことは間違いない。それにマルチメディアでなくともキャラクタベースでの双方向通信の世界でも、「ネット社会」「ネット人格」なる語が示すように、現実社会とは別種のリアリティのあり方が話題になっていることを考えれば、いずれは現実世界とバーチャル世界の区別自体が意味をもたなくなるということもあり得る。このことは、複数のリアリティと人格の重層的あり方という現象学的社会学における指摘を考えに入れれば、バーチャルリアリティと呼ばれるものも、他のさまざまな相対的リアリティと並ぶひとつのリアリティのあり方にすぎないようになるということを意味する。

ゲームの話に戻ろう。シューティングゲームにおいては、設定された敵は、当初は人間(多くは旧ドイツ兵やギャング)であったが、バイオレンス表現に敏感な欧米においては次第に、人間とも動物ともつかないエイリアンかロボットになっていった。動物の権利という主張が叫ばれる現代においては当然のことなのかもしれないが、おそらく今後はエイリアンですら、生命体であると認定されるかぎりにおいては忌避されることなるだろう(この点では日本は「遅れて」いる。日本の多くのアニメ映画をドイツの小学生がその暴力シーンのゆえに見ることが許されないのをご存じだろうか)。今夏封切られた「スターウォーズ」の新作においても、次々と倒される敵兵はほぼすべてドロイドと呼ばれるロボットであった。こうした流れは、決して仮想世界における表現や行動が現実世界に短絡的に接合されることが危惧されているからだけではあるまい。かつてカントは動物虐待の禁止を、動物虐待によって残虐な心性が育つことが、ひいては人間に対する残虐行為につながるという理由で正当化した。しかし現代ではそのようなもってまわった理由をつける必要はあるまい。したがって、ひょっとするとバーチャルワールドにおける「暴力」は、それ自体として犯罪になるという可能性すら否定しきれまい。少々レベルは異なるが、電子ネットワークにおける「名誉毀損」が問題になったとき、その行為はネットワーク上の筆名である「ハンドル」という仮想人格に対してのみ行われたのであって、現実の特定の人格に対する違法行為ではないという主張は、裁判において認められなかったという事実もある。また、昨今話題のチャイルドポルノ規制に関しても、実在する子どもの人権を守るというだけなら写真などの規制をするだけでよいのだが、被害者を特定し得ないアニメも規制の対象にすべきか否かが問題となった。ここでも現実の子どもに対する性犯罪を予防するということを越えた問題意識があったのだろう。VRがわれわれの欲望を解放するということがしばしば言われる。チャレンジドピープルにとっての経験領域の拡大や、遠隔地に対するバーチャル洗礼、そしてもちろんバーチャルセックスなど、VRテクノロジーの応用領域は無限にある。そして、新たな欲望の解放が、それを規制しようという欲望をも同時に喚起し、その結果新しい倫理問題を構成するということは、応用倫理学の領域において情報倫理学に先行する生命倫理学が教えるところでもある。

(1999年10月号)

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