4 電子情報と「欠陥」


以前に、電子情報というものにとっては欠陥がつきものであるということについて、それに対する責任の問い難さという点から述べたことがあるが、今回は、それをもう少し詳しくみてみることにしよう。

ほとんどの人がまともに読んだことはないと思われるが、コンピュータのパッケージ・ソフトウェアを購入した場合、箱のなかに必ず「使用許諾契約」に関する書類が入っているはずである。しかも、この契約は、パッケージを開封した瞬間に契約に同意したとみなされる通称「シュリンクラップ契約」といわれるものである。しかるに、この契約書のほとんどには、ディスクの破損などの配給媒体の物理的な欠陥をのぞけば、「いかなる場合においても、そのソフトウェアの使用によって発生するいかなる損害に関しても、一切責任を負わない」というベンダー側の完全免責条項が含まれているのだ。これは、ある意味では驚くべきことであり、他の工業製品との比較におけるソフトウェアというものの異常さを示しているといってもよいだろう。しかし、実は世の中には同じようなものが必ずある。

それは「書籍」である。書籍の奥付のページには、必ずといっていいほど「乱丁、落丁の場合はお取り替えします」と書いてある。これは、出版社が保証するのは書籍の物理的特性であって、それの情報内容ではないということを意味する。誤植があるという理由での返品の可能性を認める出版社は少ないだろうし、極端な話、ある書物を読んでその内容を信じたために何らかの経済的、身体的被害を被ったとしても、読者は泣き寝入りするしかない。このため、書物には「誇大広告」というものが存在せず、しばしば見られるように、明らかに特定のメーカーの健康食品、器具をたいそうな宣伝文句で推薦している書物が存在することにもなる。ようするに、「恐怖の大魔王が降ってくる」であろうが「みるみる毛が生える」であろうが、書物の世界は何でもありなのだ。

これには理由がある。アメリカの裁判所が示した見解は、もし、書籍を商品として売る出版社が、その書籍の内容の正しさにまで責任をもたねばならないとしたら、それはある種の萎縮効果によって情報の自由な流通を不当に妨げ、表現の自由を制限することにつながるというものであった。いかにもアメリカらしい判例であるが、首肯し得る点も多い。

問題はこの書物とソフトウェアをはじめとする電子情報との類比がどこまで可能かどうかである。内容上の欠陥ということに関しては、ソフトウェアのほうがはるかに可能性が高い。数百万行のソースコードを大量の人間が分担して書いたプログラムには必ずバグというものがあり、これを完全に除去することは不可能である。60年代に起きた金星探索機の事故がプログラムのなかのハイフンひとつの欠落が原因であったという逸話は、「歴史上最も高くついたハイフン」の名の下に記憶されている。しかも、発生し得る被害は、使用するマシン、使用目的、使用者のスキルといったものから、温度、湿度、使用年月日にいたる諸条件のきわめて錯綜した組み合わせのなかでの偶然の積み重なりを原因とする可能性がある。さらにそのため、他の製品と異なって、その被害を再現することによって欠陥を明らかにすることも困難である。このような理由もあって、ソフトウェアの完全免責がさしあたっては法的に認められているのだろう(もっとも法律学者の間でこの点に関する見解の相違がないわけではない)。

電子航空図や放射線医療機器のプログラム中のバグが原因の被害のような場合には、人命に関わるだけに責任追及がなされたこともないわけではない。この場合、プログラムは特定の目的に使用される専門技術による製品であるとみなされたといってよいであろう。しかし、書物との対比で考えれば、ソフトウェアは多かれ少なかれそのような性格をもっている。パメラ・サミュエルソンの言い方を借りれば、書物は仕事の仕方を教えるだけであるのに対してソフトウェアは実際に仕事をするのである。だとすれば、ソフトウェアの制作者は、ソフトウェアという奇妙な性格の製品に対して書物以上の責任を追及される可能性があるのだろうか。これはすでに述べた理由により考えにくい。ここで残されている道のひとつは、ソフトウェアを無料にし、かつソースコードを完全に公開することで決定的な免責を獲得するという方法である。このフリーソフトウェアという発想は、ソフトウェア作者のインセンティヴと業界の経済的発展を阻害するとして批判されたこともあったが、それが間違いであったことは、昨今のLinuxブームとそれに乗ろうとする業界の多さや、作者に与えられる世界的な名声という栄誉をみても明らかであろう。

ただこれはひとつの問題解決法であるにすぎない。私は、私の間違いだらけの書物に完全に依拠した論文を書いたために就職に失敗した大学院生に法的責任を追及されることはないだろうが、専門的研究者としての資質を疑われ、著しく評判を落とし、学者社会からつまはじきになる可能性は大いにある。こうした負のサンクションの可能性を、コンピュータ産業や「専門家」がどのように引き受けるようになるのかは、高度情報化社会といわれて久しい現今でも未だ明らかではない。ある企業において、あるソフトウェア会社の製品が採用されている理由のひとつは、企業のコンピュータ管理者が、すべての問題を、バグだらけのソフトにも責任を取ろうとしないソフトウェア会社とそのサポートセンター(サポートセンターというものは、つながらないか、つながってもバグではなく「仕様」でございますのであしからず、という)のせいにすることができるからだという冗談のような話があるが、これが本当の笑い話になる日がいつかくるのだろうか。それともわれわれはソフトウェアというものを「そのようなものさ」と肩をすくめて使い続けるのだろうか。

(1999年8月号)

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