2 情報の「所有」と「開示」


98年10月号でも述べたことだが、情報倫理学の扱う領域は、何もコンピュータに関連するものに限定されるわけではない。繰り返しになるが、ビジネス・エシックスにおける「内部告発」の問題、環境倫理における統計データの扱いの問題などは、まさに情報倫理の問題でもある。なかでも、生命倫理のなかには、情報倫理として考えねばならない数多くの論点がある。

まず、最近マスコミで大きく取り扱われた「脳死体」からの臓器移植を考えてみよう。これについては、あまりに加熱した報道のためにドナーやレシピエントのプライバシーが損なわれたという点での指摘が多くなされている。これはこれで立派な情報倫理の問題ではあるが、それ以前に、「脳死」という概念そのものにも情報倫理的に考察すべき点があるように思われる。それは、ある人が「脳死」状態になったという「情報」が、だれの手によって、いかにして獲得され、伝達されるのかということに関わる。中島みち氏の有名な著書のタイトルにもあるように、脳死というのは「見えない死」である。つまり、従来の死の判定基準であった、心拍の停止、自発呼吸の停止、瞳孔散大の三徴候による死亡判定の場合とは異なり、「脳死」はわれわれ素人の目に直接見えるものではない。「息を引き取る」という世俗の表現がぴったりくる三徴候死に対して、脳死は、特殊な技能を持った専門家としての医師が特別な検査を施して初めて判定可能なものなのである。従来でも死の決定は医師の専決事項ではあったが、脳死をもって個体死とし得るようになった現在、ある人が「死亡した」という「情報」は、さしあたっては素人が接近不可能な情報として、「作成」された後、すでに「遺族」となった人々に「わかりやすく」伝達される。しかもこの情報は、患者にとってなにがしか侵襲的な検査によって獲得されるのであるが、それは患者の個人情報ではあっても、もはや当該の患者の治療のためにではなく、臓器を摘出し、移植するための情報なのだ。X線を照射したり、注射針を突き刺したりする、身体にとって侵襲的な検査は、通常はそれが当人の治療のために必要であるがゆえに許されるものであるが、脳死判定の検査はそのようなものではない。もちろん、臓器移植そのものがドナーカードなどによる本人の事前の同意に基づくものであるかぎり、そのような検査の行為も道徳的に許されないものとはいえないだろう。しかし、「見えない死」としての脳死判定を、患者の個人情報という観点から見た場合、ある種の矛盾が内包されていることは確かである。その意味でも、今回の移植騒動においてあったような、脳死判定検査における手順のミスはけっして軽く見逃すべきものではない。

患者の個人情報という点については、また別の大きな動きが起ころうとしている。それは、1998年6月に厚生省健康政策局長の私的諮問機関である「カルテ等の診療情報の活用に関する検討会」の報告書が出され、カルテなどに記された患者の診療記録を患者本人に開示するための法制化が進むようになったということである。一般にこれまでは、個人に関する情報ではあっても、そのすべてを当該個人が知る権利があるとされてきたわけではない。教師の立場からすれば、学生の入試の点数や順位は基本的には非公開である。しかし、多くの領域で「情報開示」が進むにつれ、たとえば内申書や指導要録のような形で記録された情報が徐々にではあるが本人に開示されるようになってきているのも事実である。カルテの開示の促進は、このような流れに棹さすものであるといってよい。しかも、医療の領域では、「十分な情報を得たうえでの患者の選択・拒否・同意」という長い訳語がつけられるインフォームド・コンセントという考え方が、日本でもここ十年ほどの間に浸透してきており、患者の「自己決定権」という言葉の流行もあいまって、カルテの開示への機は熟したというべきであろう。

「検討会」の報告も、おおむねこうした動きに沿うものとなっている。ただ、カルテなどの診療記録の開示を法制化することによって直ちに強制することの是非についてはさまざまな議論があったようだ。おもしろいのは、カルテとは医師の備忘録的性格のものであり、医師の患者に対する主観的な感想なども含むため、開示にはなじまないという意見である。これは、まさに事実としてはそうなのであろう。そのせいか、現行法でも医療過誤の裁判を例外として、診療記録の開示請求権は認められていない。実際、多くの医者はカルテをのぞきこまれるのをいやがるし、なぜかいまだにドイツ語で書くことも多い(これはもちろんドイツ語圏を除けば日本だけの奇習だそうだ。ドイツ哲学なぞを専攻したせいでカルテの一部が読めてしまったとき、それに気づいた医者は実にいやな顔をしたものだった)。これは、これまでの診療情報というものが、まさに医師の所有物であったということを意味している。これに対して、診療記録は第三者が読むことを前提にした公的文書であるという指摘が法律家によってなされている。しかし、これは正論だとしてもカルテというものの現状からはあまりに遠い。仮にカルテの記述を医師法が要求する記載事項に限定して客観化、あるいは公文書化を図るとすれば、その内容はただ無味乾燥な単語の並ぶだけの「記録」になってしまうであろう。今回の報告書に対して、「医療は医療従事者だけのものではなく、医療従事者と患者の共同作業であるべきだ」という発想の転換を図ったものだとする評価がある。そうであるなら、カルテは医師の所有する備忘録でも「客観的」な公的文書もなく、「医療従事者と患者による共著」のようなものとして考えるべきであろう(本稿執筆にあたっては、『ジュリスト』 No.1142の特集と、奥野満里子氏によるレビューを参考にした。奥野氏による詳細なレビューは、『情報倫理学 ---電子ネットワーク社会のエチカ』(ナカニシヤ出版 2000年)に収録されている)。

(1999年6月号)

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