10 情報メディアと選挙


プリンストン滞在も残すところ一週間となった。さしたる問題もなく明けた2000年は、ここ合州国にとっては選挙の年である。この国の公職選挙法についてはよく知らないのだが、各種メディアの利用に関しては日本よりはるかに自由度が高く、したがって、いかにしてそれらの情報メディアを使いこなすかが選挙戦の重要なポイントとなっているようだ。たとえば、1960年の大統領選挙で、テレビという新しいメディアを利用しつくしたJ・F・ケネディの姿は、D・ハルバースタムのベストセラー、The Power That Be(邦題『メディアの権力』)に生々しく描かれている。共和党のニクソン候補に対して圧倒的に劣勢であったケネディは、初の候補者同士のテレビ討論会を機に、一気に逆転勝利を果たすのである。

さて、大統領選挙の前哨戦ともいえる今秋の上院議員選挙では、何といってもニューヨーク州での選挙戦が興味深い。それは共和党からの立候補を表明しているジュリアーニ現ニューヨーク市長とヒラリー・クリントン大統領夫人の戦いである。以下ではこのふたりの選挙戦に関して滞米中に目にしたいくつかのエピソードを報告してみよう。もちろん政治学の素人のレポートであるから、財政面などの本質的な論点は省略せざるを得ないが、おそらくはこちらの一般の市民の関心を集めた、情報メディアに関わる「事件」がいくつかある。

まず、ジュリアーニ陣営の一撃。昨年10月からブルックリン美術館で開催された、その名もSensationという展覧会の図録を事前に見たジュリアーニ氏は、その内容が「吐き気をもよおす」ものであって、このような下品な展覧会を中止しないかぎり、ニューヨーク市はブルックリン美術館への財政援助を打ち切ると宣言した。なかでも、展覧会の目玉でもあるクリス・オフィリーなるイギリスの若手画家の「聖母」という絵が特にお気に召さなかったらしい。その絵は、黒人の聖母マリアが象の糞を用いて描かれた片方の乳房を露出しているもので、背景はポルノ写真のコラージュでできている。これが保守系共和党員で敬虔なカトリック信者でもある彼の逆鱗に触れたという次第なのだが、芸術作品の内容に行政当局が口をはさむという行為には、当然のように「表現の自由」を定めた合州国憲法修正第一条に違反するという理由で、芸術家団体などから猛反発をくらうことになる。

これについては、当初は私もよくある権力と芸術の間の表現の自由をめぐる論争であると思い、情報倫理学にとって格好の事例としてフォローしていた。しかし、ニューヨークタイムスなどの新聞を読んでよく考えてみれば、ジュリアーニ氏は元検事の法律の専門家であり、彼の行為が憲法違反のおそれが多分にあることを自覚していなかったはずはないのである。

つまりこれは彼なりの選挙キャンペーンでもあったのだ。ニューヨーク州というのは西はナイアガラの滝にいたるまでけっこう広大な州なのだが、東南端のニューヨーク市を除けばほとんどが田舎である。マンハッタンの「浄化」政策で一躍名をあげたジュリアーニ市長としても、ニューヨーク市以外の州民、特にその保守層に文化に関する自らの確固たる信念を広く伝える必要があった。繰り広げられた抗議デモや支持者の見解はテレビの全米ネットワークのニュースや新聞を通じて連日報道され、議論を喚起する多くのWebサイトも開設された。要するにジュリアーニという名前と彼の主張が数週間にわたって各種メディアで流れ続けたわけである。もちろん費用は彼に一切かからない。

対するヒラリー・クリントン候補は、現大統領夫人として完璧な知名度を誇りつつも、ニューヨーク州自体とは何の関係もない、日本で言う「落下傘候補」である。この彼女が今年早々にテレビの深夜番組"Late Show"にゲストとして出演した。この番組は、夜11時からの最終ニュースのあとに放送されるトークショーのようなもので、お色気番組ではないものの、さほど「上品」な教養番組でもなく、まちがっても「ファースト・レディ」がゲスト出演する類のものではない。

日頃ワシントンや国際政治などの公的な場にしか登場することのなかったクリントン候補としては、「親しみやすさ」をねらった賭に出たのだろう。ホストのレターマン氏の若干意地の悪い質問やニューヨーク州に関するトリヴィアルなクイズにもそつなく答えていた。

おまけに最後には「なぜ私はこの番組に出る決心をしたのか」を上位10項目あげる。これは「トランプ氏(有名な成金の大富豪で、自身も政界への野望をもっている)からの今晩のディナーの誘いを断る口実にするため」とか「ここでうまく話すことに成功したら、あとはもうどこへでも行けるだろうから」など、アメリカ人の好きそうなジョークに満ちたものであった。この「事件」も翌日のテレビニュースで繰り返し流され、各新聞でも大きく扱われた。さほど批判的な報道もなかったことからみると、「クリントン大統領夫人」から「ヒラリー」への転身はおおむね成功したといってもいいのだろう。

アメリカでは選挙は一種のお祭りでもある。電子ネットワークという新しいメディアがこの祭りをどのように変容させるのかはまだ定かではないが、政治学者たちは、電子投票を含めた電子ネットワーク時代の民主主義のあり方をさかんに論じ始めている。もちろん安易に直接民主制の可能性などを説く者は少なく、個々の有権者の声が直接候補者に届くことの意義や選挙資金の流れを逐次ネットワーク上で公開する必要性などをめぐる、現実的な議論が中心である。そろそろ日本でも、公職選挙法の見直しなど、情報メディアと政治の関係を新しい時代にあわせて再考すべきではないだろうか。ホワイトハウスと首相官邸のWebサイトの差は質量ともに大きい。

(2000年3月号)

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