1 「情報倫理の構築」ワークショップ


いささか旧聞に属するが、1999年3月15、16の両日にわたって、第1回「情報倫理の構築」国際ワークショップを京都で開催した。会場の規模もあって、一般の方々の参加を広く呼びかけることができなかったことを読者の皆様にお詫びするとともに、紙上を借りてワークショップのご報告をさせていただきたいと思う。

このワークショップは、日本学術振興会「未来開拓学術推進事業」の「電子社会システム」部門に属する「情報倫理の構築プロジェクト」の初年度の総まとめとして開催されたものである。これは、おそらく情報倫理の領域における日本で初めての国際会議であると思われる。海外からの招待者は、情報倫理の先駆者のひとりであるダートマス大学のジェームズ・ムーア教授を始めとして、アメリカ、カナダ、オランダ、ロシアから計6名であり、日本側の報告とあわせて2日間で15の発表と討論がなされた。私自身、初めて英語のみを使用言語とする国際会議を主催するということもあり、遺漏も多かったが、プロジェクトのメンバー、とくに同僚の江口聡氏(京都大学リサーチアソシエイト・当時)の尽力もあって、ひとまずは成功裏に終了したものと思う。以下に、簡単ではあるがワークショップの内容をご報告する。

第1回ということもあって、テーマは多岐にわたり、若干総花的にならざるを得なかったが、海外からの報告者の講演は、とくにそれぞれ力のこもったものであった。これには多少理由がある。1998年12月にロンドンで行われた、「コンピュータ・エシックス:哲学的探求」という国際会議にわれわれのプロジェクトからも6名が参加したのであるが、そのおり、情報倫理の著名な論文集の共同編集者であるジョージア工科大学のデボラ・ジョンソン教授とプリンストン大学のヘレン・ニッセンバウム博士らにわれわれの企画について詳しく説明し、日本に招待すべき研究者を両日の発表者のなかから共同で選抜したのである。情報倫理という新しい領域では、年輩の教授が必ずしも一流の研究をしているわけではなく、むしろ若い世代にすぐれた発想と知見とを持つ研究者がいることが多い。実際、ロンドンでも「これは冗談ではないか」という内容の発表もいくつかあった。したがって、今回は従来の日本での国際会議とは少々異なり、たとえ若手であっても、すぐれた報告のできそうな研究者を招待することにしたのであるが、それが大成功であった。

テーマを順不同であげると、倫理学理論の情報技術への適用、情報を商品とする際の問題点、情報倫理における自生的規範のあり方、情報化時代における「個人」の位置、日本における無権限アクセスの問題、バーチャル・リアリティの倫理的問題、情報倫理と教育、電子署名の諸問題、日本における情報セキュリティとプライバシー、知的所有権の倫理学的基礎、インターネットと匿名性、サーチエンジンの倫理的問題、「有害」コンテンツの規制、などである。国際会議であるからには、インターネットと文化間摩擦などのテーマがあればよく、私自身もそれを主題としたかったのであるが、企画委員長としての事務仕事となれない英語での原稿執筆ということもあって、まさに総花的な基調講演をしたにとどまった(内容は本紙での連載をつないだものだと思っていただければけっこうである。結構うけはよかった)。

文化間摩擦といえば、今回のワークショップが英語のみで行われたということとも少し関係する。じつは、今回の招待客のうち、英語を母語とする人は、アメリカからの参加者を含めてたったひとりであった。それでも、出席者全員が多少なりとも理解可能な唯一の言語は英語であるという理由で、英語を公式言語にせざるを得ず、時間と費用の関係で一部を除いて翻訳や通訳をつけることもできなかった。今年ローマで開かれる予定の大規模なコンピュータ・エシックスの国際学会も、やはり英語オンリーだそうだ。インターネットにはもちろん「公用語」のごときものは存在しない。一部の「インターネット・イングリッシュ」本には、意図的にかそうした誤解が見られるが、ネットワークのネットワークたるインターネットに言語による制限があってはならず、また、インターネットにおける他言語使用にともなうさまざまな技術的問題の解決には多くの人々の血のにじむような努力があったはずである。それにもかかわらず、以前にもふれたRFCをはじめとするインターネットの運用に関するドキュメントのほとんどすべてが英語であることもまた事実なのである。

メールアドレスにjpやukなどがつかない唯一の例外が合衆国内のドメインであるというのも、インターネット成立事情を考えるとしても特異なことだろう(かなり以前、ご丁寧に自分のアドレスをnantoaka@kantoka.edu.usとか書いてきたアメリカの先生がいたことを思い出す。「国際電子メール」だからと気をまわしてくれたのだろうが、好感の持てる間違いではあった)。そうしたこともあってか、正書法の変更すら議論しているらしいドイツと異なり、フランスではインターネットをフランス語の危機(もちろん、国際語としてのフランス語の危機という政治的な意味も含めて)ととらえる論者もいる。ミニテルというキャラクタベースでのパソコン通信網を国家政策でいち早く整備したフランスでは、いまだにそれで十分という意見も多いらしい。そうした見解がまったく正しいとは思わないが、日本の学者のホームページに英語版が少ないことを嘆いてみせたり、自分のページにI am sorry, but this page is written in Japanese only.などと書かないと気がすまない人が少なくない日本の現状と比較してみるのもちょっとおもしろい。

いずれにせよ、非英語母語の外国人研究者たちと、英語および英語帝国主義、それに某億万長者のアメリカ人の悪口を言いながら酒を飲んだのは、痛快な思い出である。

(1999年5月号)

目次に戻る