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マーク・A・マイケル「なぜ自然に干渉してはいけないのか」

中本速

出典:Mark A. Michael "Why not interfere with nature?" Ethical Theory and Moral Practice, vol.5, 2002, pp.89-112.

キーワード:生態系の健康(ecosystem health)、生態系への危害(ecosystemic harm)、環境倫理学(environmental ethics)、干渉(interference)

はじめに

本稿で紹介される論文の目的は、自然に対して干渉してはいけないという、例外なき一応の(prima facie)原則が正当化され得ないと示すことにある。ここでいう「例外なき一応の」とは、他の義務や価値との衝突を考慮に入れない場合は例外がないという意味である。

以下、要約を示す。なお、論述の順序は原文にしたがったが、章立て及び小見出しは紹介者によるものであり、原文のものとは異なるので注意されたい。

1 不干渉の原則は正しいか

ある種の環境倫理観の支持者たちはしばしば次のように論じる。生物種や生態系、生命共同体といった環境の総体に対する、我々のもっとも主要な義務とは、その完全性(integrity)、安定性、美を尊重することであり、尊重のもっともよいやり方は、環境の総体を放っておいて干渉(interfere)しないことである。

こうした不干渉の原則は正しいのだろうか。なぜ我々は自然に干渉してはいけないのだろうか。以下、不干渉の原則を正当化しようとする様々な議論を検討する。

2 準備段階としての考察

干渉とは、人間が意図的に手を加えることにより、手を加えなかった場合とは異なる結果を生み出すことである。

なぜ生態系への干渉を控えなければならないのか。もっともはっきりした答えは、干渉は何らかの形で生態系に害を与えるからというものである。しかし、どのように害を与えるのだろうか。生態系への危害についての説明は多くあるのだが、人間中心主義的な説明以外では、おおむね二つのアプローチに分かれるようである。片方は、生態系はそれ自身の幸福(well-being)あるいは善(good)を持っているというものである。行為が生態系の幸福に有害なものであれば、それは生態系に危害を加えたといえる。もう一方のアプローチは、生態系が内在的価値を持つというものである。生態系は絵画と同様、価値の源泉である。生態系の生物多様性を減らしたなら、それは世界の価値の総計を減らしたことになり、害を引き起こしたといえる。このアプローチはある種の功利主義に極めて親和性が高い。

準備段階で解決しておかなければならない問題として、干渉の禁止は全てを考慮した上での(all things considered)ルールなのか、それともより穏当な一応の(prima facie)ルールなのかということがある。後の議論ではっきりするように、一応の禁止ですら擁護するのは十分に難しい。全てを考慮した禁止の正当化を求めるのは、あまりにもバーの設定が高く、また、生態系を守るのに必要以上のものを求めている。ほとんどの環境保護論者にとっては、一応の不干渉原則をたてることができれば十分なはずである。

干渉が常に不正であるという考えを正当化するためには、干渉が常に害のあるものだということを示さなければならない。つまりそのとき示さなければならないのは、干渉が生態系の幸福にとって例外なく有害なものであるということか、もしくは、干渉が常に生態系の価値を低めるということである。干渉とこれらの危害の間の関係には、二通りの理解がある。一方では、その関係は因果的なものでありながら偶然的(contingent)なものである。もう一方では、干渉と危害のあいだに何らかの概念的なつながりを見つけようとする。以下、これらについて順次検討していく。

3 因果的かつ偶然的理解の検討

因果的かつ偶然的理解において、もっとも難しい問題は、その理解では例外なき禁止の主張を支えきれないということである。というのも、干渉がいつでも生態系に有害な影響を与えるというような、自然法則や普遍的一般性はどこにもないからである。因果的な説明において不干渉の原則が正当化できるのは、せいぜい経験則(a rule of thumb)としてである。しかし、経験則では、生態系への干渉をふくむ全ての政策を批判するのに十分でない。

ここで問題となっているのは、他の義務との比較や善の大きさの比較に基づいて判断されるような干渉の是非ではない。いま正当化を試みているのは、一応の不干渉原則にすぎないからである。それゆえ、今の問題は、干渉と害の関係は偶然的なのだから干渉が例外なく害を引き起こすと考える理由はなく、したがって干渉が常に不正だと論じることはできない、ということである。

認識上の困難を考慮に入れることによって、生態系に決して干渉してはならないという主張を救うことができるかもしれない。たとえ、まれに干渉が生態系に害よりも利益を与えることがあったとしても、生態系は複雑なものだから、我々は決して、今がその状況だと行動する前からはっきり知ることはできない。だから、我々の生態系への干渉、方向の向け直しが正当化されることは決してない。

このような論を検討するときには、混合されがちな二種類の主張を区別するのが重要である。ここで切り離さなければならないのは、我々の行為が生態系に及ぼす影響が予言できるかどうかについての懐疑主義である。これを、予測不可能論と呼ぼう。予測不可能論が述べているのは、干渉あるいは不干渉から生じるどのような特定の例についても、結果を予測するのに十分な証拠が集まることはない、ということである。しかし、予測不可能論は、生態系に干渉すべきでないという主張の支えにはならない。予測不可能論は一般に環境保護主義と親和しない。というのも、もし干渉の影響も不干渉の影響も予測できないのなら、干渉が生態系に利益を与える可能性も害を与える可能性と同様にあるし、不干渉が利益ではなく害を与える可能性も同様にあるからだ。懐疑主義が形而上学的な考えのもとに主張されていても、同じことである。認識的なものであれ形而上学的なものであれ、不確定性のもとでは、干渉の結果を予測できないので、干渉が害を与えるだろうとはいえない。

認識に関わる問題を考慮することで不干渉原則を擁護できるとしたら、それは以下の二つのうちのどちらか、あるいは両方を主張する以外に道はない。第一に、我々は、干渉が生態系に害を為すと理性的に確信できる。この主張は、経験的一般化によって裏付けられるだろう。かつて人間が生態系に干渉したとき、一般的に益よりも害を与えたのである。第二に、生態系には、放っておかれたなら長期的には価値を高め健康を維持する、という傾向が認められる。これは、環境保護論者が支持してきた主張である。

これらはどちらも、干渉が不干渉よりも生態系に利益を与えるという予測が、決して合理的な判断にならない、ということを含意している。それゆえ、もっとも善い意図のもとでさえ、干渉は状況を悪化させ、改善に失敗すると予想するのは合理的である。我々が干渉を慎めば、生態系はよりよいものになっただろうと予想するのは合理的である。ここで主張されているのは、干渉が害を与えるという証拠があまりに圧倒的であるがゆえに、現実のシナリオでは干渉が支持されることはありえないということである。

この一つ目の議論の正しさを支えているのは、一般化の土台となっている過去のケースは、干渉が提案されたいかなるケースとも相似であるという仮定である。しかし、少なくとも、非対称性の源泉となるものが二つある。第一に、過去に行われたほとんど全ての干渉は、生態系の健康や幸福を増やすことに目的をおかず、極めて狭い人間中心的な課題を推進するために行われたということである。生態系の利益を狙いとしない干渉が生態系の幸福を侵害したからといって、人間の干渉が常に害を為すという主張の根拠にはならない。第二に、このような文脈の中で顧みられる干渉は、ほとんどが、生態系の働きがよくわかっていなかった頃に行われたということである。人間は、自分たちの利益のためになら、生態系に操作を加えて予測通りの結果を引き出すことに熟達し続けてきた。ならば、生態系を操作して、生態系の視点から見て有益な結果を出すことができておかしいことがあるだろうか。ここから導かれるのは、望まぬ予期しない結果よりも望む結果を得るという、能力についての非対称性である。それゆえ、干渉が生態系の利益をねらってなされるならば、過去の例は、現在起こる出来事についての道しるべとして頼りにならない。

二つ目の主張、生態系は放っておかれればその健康や幸福を維持するという考えも、厳密に吟味される必要がある。どのような健康や幸福の概念を取り入れたとしても、永久的に維持される静的な絶頂状態などという考えは、今日では一般的に否定されている。放っておかれた生態系が永久に自身の幸福を維持し増進するという仮定は非合理的である。ならば、人間以外が自然に引き起こす幸福の減少、それを防ぐべく干渉しては何故いけないのか。

不干渉の支持者が、それでも干渉が間違っていると主張するには、二つの方法が残されている。一つは、上のように稀な事情のもとでも、干渉はよい影響を与えることができないと主張するものである。なぜなら、我々は干渉することそれ自体によって生態系に害を加えるからだ。この論が前提しているのは、生態系の幸福あるいは価値が、何らかの点において、人間の不干渉によって形成されているということである。これについては次節で論じる。二つ目の説明は次のようなものである。個々の生態系は新しく多様な生命の形態を紡ぎ出す全体のプロセスの一部分あるいは下位のシステムにすぎず、この全体のプロセスこそ価値を見出され保存されるべきものである。生態系が自然に衰退して新しいものと入れ替わるのは、そのプロセスの一部分である。生態系は、少なくとも人間の活動がきっかけとなっていない場合には、衰退するにまかせなければならない。この見解については、第五節で検討する。

4 不干渉が価値を形成しているという主張の検討

干渉と危害の間に、何らかの概念的なつながりは存在し得ないだろうか。このつながりには、三つの設定の方法がある。一つ目の考え方は、自律と支配の概念を通して干渉と危害を結びつける。干渉は生態系を、人間の目的と計画の従属物に変えてしまう。それゆえ、干渉は自然に害を為すのである。二つ目の考え方は、野性(the wild)というアイデアを援用する。野性は、目的を持った人間の活動によって触れられることなく、かき乱されることなく、またその他の方法で影響を受けていない状態として理解される。もしも、野性が美や知識と同様に内在的価値のあるものならば、目的を持って生態系の方向を変えるような作用は、その野性を破壊することになり、よって必然的に生態系の価値を減じてしまう。三つ目の説明は、二つ目のアプローチの変型である。野性はそれ自体内在的価値を持っているというより、むしろ価値を倍増させる特性として機能していると考えられる。生態系のもつ美や生物多様性は、人間の意図的な干渉によって生まれたものではないがゆえに価値がある。以下、これら三つの考え方を順に検討する。

まず、自然に干渉するのは、人格の自律を侵害することと類比的であり、特別なタイプの害を与えているという主張から検討しよう。もちろん、生態系は人格と同じように自律しているわけではない。だが、支配を、事物の内的な動因の妨害全てにまで拡張すれば、意識のない存在にもこの議論を当てはめることができる。

この分析は、個体としての動物には意味を持つし、もしかしたら植物にも通用するかもしれない。しかし、生態系にまでこの分析を延長することはできない。というのも、生態系は、きわめて比喩的な意味を除けば、自己支配していないからである(not self-directed)。我々は、動物や植物による自己支配を、遺伝子に支えられた振る舞いや、本能的な振る舞いとして同定することができる。しかし、生態系には、生物にとっての遺伝子のような役割を果たす特徴が全くない。また、生態系には核も中心もなく、わずかでも自我に似通ったものはない。たとえ、自我の概念を、植物のような意識のない存在に適用できるほど拡大してもである。

しかし、もしかしたら、干渉について反対されるのは、目的のない、方向付けのないものが意志に従わされ、何らかの目的に奉仕させられている点なのかもしれない。だが、このような事実を支配として議論すると、なぜ、どのようにしてそれが不正であり得るのかと問う必要が出てくる。この論理が言っているのは、人間の行為は人間の目的に起源を持ち、動機づけられているということである。しかし、このことは、その目的が生態系の利益となることを排除しない。

次に検討されるのは、野性それ自体に価値があるという論である。その論によれば、我々が何かを飼い慣らし、自分の支配下におき、意図的に形を変えるとき、何らかの価値が失われている。そうすると、人が生態系に干渉するとき、必然的にその野性(のいくらか?)を消していることになり、それゆえ世界の価値の総計を減らしている。しかし、このアプローチ全体を無効にする決定的な問題がある。もし、野性がたんに目的を持った行動によって影響を受けていないことだとするならば、なぜ、どのようにしてそれが価値を持つのかを知ることは難しい。宇宙のほとんどのものは目的を持った行動によって影響を受けていないから、月の岩など、ほとんど全てのものが何らかの価値を持つことになる。野性は、それらが価値を持つという主張の土台としては不十分である。

とはいえ、もしかしたら、野性と価値のつながりは、最初に仮定されたものよりも複雑なのかもしれない。すなわち、生態系の美や複雑さや生物多様性といった特徴の価値は、それらが自然に生じたことによって高められる。人間が自らの手で生態系に新しい種を加えた場合、生物多様性は高まるかもしれないが、それでも価値はずっと落ちてしまう。多くの人がサハラ砂漠の砂の模様は美しいと思うだろう。もし誰かがブロックで風の方向を変えてより美しい模様を作ろうとしたなら、美が増進したとしても、この命題によってその美は価値のないものになるのである。それは作られたものになるからである。

この考えが例外なき不干渉原則を正当化するためには、干渉がいつでも直接に、自然の美や生物多様性もしくは他の価値ある特徴を生態系から奪うのでなければならない。もしくは、サハラ砂漠にブロックをおいて風向きを変えたように、干渉がいつでも、価値ある特徴を生み出す生態系のプロセスの方向を変えているのでなければならない。だが、その特有のプロセスに触れずに生態系の方向を変えることができるかもしれない。そのようなケースでは干渉は道徳的に問題がない。なぜなら、それは生態系の全体の価値を破壊しないままにおくからである。

5 より巨大なプロセスを持ち出す正当化の検討

これまで見てきた不干渉原則の正当化は、論証として不十分なものであった。だが、それは、いずれの正当化ももっとも重要な点をとらえていなかったからではないだろうか。個々の生物、種、生態系の衰退や消滅は、自然がより大きな美や多様性を生み出すプロセスの一部分にすぎない。それゆえ、個々のものの消滅は残念がられるべきでもなければ妨げられるべきでもない。なぜなら、その結果ずっと多くの美、複雑さ、多様性が生まれるからである。我々が生態系に干渉すべきでないのは、生態系の善を意図しようがしまいが、干渉がこの巨大な創造のプロセスを妨げるからである。

この議論の問題点は、自然に衰退している生態系に利益を与えることが、全体のプロセスにとっては害になるという十分な証拠がないことである。自然に引き起こされた個々の生態系の破壊は、ずっと大きな多様性や複雑さのための巨大なプロセスに必要なものだという。だが、そんなことが我々にわかるとは考えがたい。

干渉とは、意図的に影響を与えることによって、そうしなかった場合とは異なる結果へと導くことに過ぎない。そのことを思い出せば、この主張への反論が浮かび上がってくる。意図的な行動だけが巨大なプロセスにとって害となりうるということを、不思議に思わずにはいられない。人間の行動は大いに意図的だけれども、人間はまた、進化の産物でもある。なぜ意図のない自然の原因は、どんなに強力な力を結果に及ぼしても、巨大なプロセスに悪影響を及ぼさないのか。なにが意図的な行動に、そのような力を与えるのか。何らかの巨大なプロセスに訴えて不干渉原則を正当化する試みは、あまりにも多くの答えられない疑問を引き起こす。

6 まとめ

ここまでの論考が正しければ、例外なき一応の不干渉原則は正当化されえない。もちろんこれは、全てあるいはほとんどの干渉が正当化されることを意味しない。生態系が道徳的に無視できないものであると考えるなら、その健康、完全性、自然の美と生物多様性を減らすような行為は、他の全ての事情が同じなら、不正である。対抗する道徳的主張がなければ、生態系への干渉の唯一の正当化は、干渉が生態系の視点から見た幸福に対してプラスの影響を及ぼすということによるものである。

この論文の底流にある考えの一つは、干渉に関わる議論がしばしば誤って考察されていることである。そこには、人間中心か生態系中心か、二つの立場しかないように思われがちである。しかし、忘れられがちな第三の立場があるのだ。その立場は相互の利益の可能性を考慮に入れるものである。人間の幸福の些細な増大によって、生態系への危害を及ぼす干渉を正当化することはできない。その限りにおいては生態系中心といえる。しかし、この論文の論旨にしたがっていえば、人間の生態系への干渉が、つねに有害なものでなければならないと考える理由はない。したがって、原生自然地域や生態系に、決して我々は干渉すべきでないという結論を導くような、説得力のある単純な議論は存在しないのである。原理的に、人間が人間と生態系の両方にとって善をなすような形で、干渉を行えるような状況もありうる。実際、これこそが持続可能な発展という概念を理解する上でもっとも説得力ある考え方である。

紹介者コメント

この論文の目的は、例外無き一応の不干渉原則が、正当化できないと論じることにある。一応の不干渉原則が否定されれば、全てを考慮に入れた(all things considered)原則も否定されるので、例外無き不干渉の原則を全面的に否定することができる。

ただし、4でサハラ砂漠の美にたとえられた論、すなわち、生態系の美や生物多様性の価値が、その発生において人間の手が加わっていないことによって高まるという主張を論じた部分については、決定的な反論とはなっていないように思われる。美や多様性の発生のプロセスには影響を与えないような干渉はないだろうか、と著者はいう。しかし、サハラ砂漠の美や、美の形成されるプロセスに影響を与えないような「干渉」を具体的に考えるのは難しい。ここで議論されているのは、個々の生態系の全体の美や多様性である。それらは、生態系やサハラ砂漠が一部でも異なれば影響を受けるものであろう。著者の干渉の定義には、手を加えなかった場合とは異なる結果を生み出すということが含まれているのだから、美に影響を与えない干渉はありえないように思われる。


(なかもとそく 京都大学文学部)
この記事終り