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ハーマン・T・ タバーニ、フランシス・S・ グロジンスキー「サイバーストーキング、プライバシー、道徳的責任」

佐々木拓

出典:Herman T. Tavani and Frances S. Grodzinsky, 'Cyberstalking, personal privacy, and moral responsibility', in Ethics and Information Technology, Vol. 4, No.2, pp.123-132, 2002.

キーワード:サイバーストーキング(cyberstalking)、助け合いの義務(duty to assist)、インターネットサーチエンジン(Internet search engines)、インターネットサービスプロバイダ(Internet service providers)、法的責任(legal liability)、道徳的責任(moral responsibility)、プライバシー(personal privacy)、公的記録(public records)

はじめに

ハーマン・タバーニ教授は、リヴィエ大学哲学科の助教授であり、Ethics and Information Technology のエディターの一人でもある。また、フランシス・グロジンスキーは聖ハート大学のコンピュータ科学・情報技術科の教授である。以下、著者らの章分けに従って論文を紹介する。

サイバーストーキング:導入と概観

まず、筆者らは、サイバーストーキングの概念を規定することから始める。彼らによれば、サイバーストーキングとは、これまで物理的な世界で生じてきたストーキング行為がオンラインの世界に拡張されたものと考えられる。このことの意味は、一つには、インターネットによってサイバーストーキングという新たな種類の犯罪が生じたのではない、ということであり、もう一つには、インターネットのおかげでストーカーたちは新たなストーキング行為の様態を手に入れた、ということである。

サイバーストーキングの概念を正確に捉えるのは難しい。その理由のひとつには、物理的世界におけるストーキング行為の概念的外延と内包が十分に理解されていないために、サイバースペースにおけるストーキング行為が一体何を指すのかがを理解するのが難しいことがある。

また、サイバーストーキングはしばしば、サイバースペースにおける「ハラスメント犯罪」と似たものとされ、混同されることも理由のひとつである(クリスチャン・ユーノルド事件とバーダー・デラパンタ事件)。 本論文では、エイミー・ボイヤーのインターネット・ストーキング事件の考察を通じて、なぜこの事件がサイバーストーキングの明確な事例としてふさわしいのか、なぜこの事件が多くの倫理的議論を呼んだのかが示される。

エイミー・ボイヤー事件にまつわる倫理的反省

1999年10月15日、ニューハンプシャー州ナシュア在住のエイミー・ボイヤー(20歳)がインターネットを通じてストーキングを行なっていた若い男性によって殺害された。ストーカーであるリアム・ユーエンスは様々なオンラインツールを用いて数多くのストーキング行為を行ない、結果としてボイヤーを死に至らしめた。ユーエンスは標準のインターネットサーチエンジンを用いてボイヤーの住所、職場、乗用車の種類などを見つけ出し、加えて、インターネットサービスプロバイダ(ISP)によって提供されるオンライン装置を用いてボイヤーの個人情報を獲得し、2つのウェブ・サイトを作った。1つのサイトで、ユーエンスはボイヤーの写真付で彼女の個人情報を公開し、もう1つのサイトには、彼はボイヤーの殺害計画を綿密に書き記した。

インターネットサーチエンジン、公的記録、個人のプライバシー

インターネットサーチエンジンは我々が様々な有益な情報を収集するのを手助けする一方で、エイミー・ボイヤー事件でリアム・ユーエンスがしたように、個人情報を集めるのにも役にたつ。インターネット上に置かれた個人情報やデータは、サーチエンジンの使用によって、本人に知られることなく(それゆえ同意なく)、容易に集めることが可能である。インターネット上に置かれたデータが、本人に知られず、許可なく、広範にばらまかれ、その結果、当該の情報について本人のコントロールが効かなくなること、そしてそれを可能にするという点において、サーチエンジンは議論をかもす技術であると言える。
インターネット上で集めることができる個人情報は公的な情報である、と言われることがある。伝統的に一般公衆に入手可能な情報はプライバシー法やその政策によっては保護されない。とすると、我々はインターネット上で収集可能な情報を「公的情報」とみなすべきかどうか、ということを問題にしなければならない。 データベース間でのやり取りが容易なことから、個人に関する電子情報の交換を制限する法律がいくつか制定されている。しかし、その法によって保護されるのは「機密的」(confidential)か「極めて個人的な」(intimate)なものに限定され、その多くは医療記録や金融関係の記録に限定されている。ヘレン・ニッセンバウムはこれらの法の保護が「極めて個人的以外の領域」にある個人情報については適用されない[注:Nissenbaum, Helen, 1998:'Protecting Privacy in an Information Age: The Problem of Privacy in Public' , Law and Philosophy, 17: 559-496]、と指摘している。つまり、エイミー・ボイヤー事件において、ユーエンスによって集められた情報は本性上、極めて個人的もしくは機密的ではないとみなされるのである。果たして、このようなインターネット上の個人情報は保護されないというのが前提なのであろうか、と筆者らは問いをなげかける。

公的記録における個人情報の商品化

プライバシー政策、プライバシー法の観点からみて、パブリック・ソースに置かれた個人情報にはどのような地位が与えられるべきだろうか、と筆者らは問う。インターネット以前において既にこれらの情報は一般公衆に提供されていたわけだが、新しい技術の出現によって、これらの情報の地位は変えられるべきだろうか。この問に答える代りに、筆者らはまず、そもそもそのような情報はなぜ公的なものにされたのだろうか、と問う。筆者らの見解では、これらの情報が、様々なレベルにおける行政機関の間で効率良く利用されるためである。機密的でも極めて個人的でもない個人情報の一部は、個人に害が及ばない限り、「公的記録」として誰にでもアクセス可能にしておいた方が、よりよい行政サービスが得られる、というのである。 しかし、このような意図の下になされた個人情報の公開は、インターネット技術の登場によって意味が変わってしまった。例えば、もしそれらの情報をオンライン企業家が収集し、他の個人情報と結び付け、それらを自己の利益のために売ることができるために、当該の情報が公的なものとされた、としたらどうだろう。

問題のある推論

ここで筆者らは、「情報商人」たちは次のような推論をするだろうと考える。(a)「公的記録はパブリック・スペースで常に入手可能であった」(b)「インターネットはパブリック・スペースである」したがって、(c)すべての公的記録はオンラインで入手可能にすべきだ」。このような推論をする人は、さらに、公的記録をオンラインに置くことは、それらの情報が自由に流れることを保証するものだと考えるだろう。しかし、エイミー・ボイヤー事件のように、このような推論を前提することで、個人が不法行為を被ったり、危害を受けている状況が生じている。おそらく、我々はオンラインにある公的記録へのアクセスに関する政策を考え直さねばならない、と筆者らは考える。それは、同時に、サーチ・エンジンによって入手可能な個人情報についての政策やガイドラインを作ることをも示唆しているだろう。

もし、インターネットサーチエンジンがなかったら、ユーエンスは、はたしてボイヤーの情報を集めにわざわざ市庁舎などへ行っただろうか?サーチ・装置なしに個人情報を集めるのは極めて手間がかかり、仮に特定の個人についてそれほど多くの情報を集めていたら、誰かがそれに気づくだろう。とすれば、エイミー・ボイヤー事件は、インターネットサーチエンジンがなかったら、起こらなかったかもしれない。 さて、ここまでの議論で、エイミー・ボイヤーのプライバシーの権利(もしくはそれへの期待)に関しては何が言えるだろうか。彼女の権利は侵害されているだろうか?ボイヤーの義父であるティム・レムズバークは、事実侵害されたと考え、連邦議会にオンライン商取引で個人の社会保証番号を売ることを規制する法律を作るよう要請し、ユーエンスにボイヤーの職場や住所の情報を提供したオンライン会社を訴えた。また、レムズバークはユーエンスがウェブ・サイトを作ったトライポッドとジオシティーに対しても訴訟を起こした。ここで、インターネットサービスプロバイダは、自らがホストとなっているサイトに含まれた情報によって引き起こされた危害に対して道徳的な責任を負うのか、という問題が生じる。

インターネットサービスプロバイダ、法的責任、道徳的責任

ユーエンスは2つのウェブ・サイトを作った。1つはボイヤーの写真を含む記述的情報についてのもので、もう1つはボイヤーの殺人計画を記したものである。これらのサイトのホストとなったISPにはどのような道徳的、法的責任があるだろうか。筆者らはまずこの問題に答えるために、そもそも道徳的、法的「責任」ということで意味されることはなにか、という問を立てる。そして、近年議論されているISPに関する責任の役割ということで考えられていることを記述することから議論を始める。

ISPと法的責任

IPSに附属する責任やアカウンタビリティーに関しては、デボラ・ジョンソンがバックグラウンド的問題に関してすばらしい見解をしめしているので[Deborah G. Johnson. Computer Ethics, 3rd edn. Prentice Hall Upper Saddle River, NJ, 2001. 邦訳水谷雅彦、江口聡監訳『コンピュータ倫理学』、オーム社、2003]、ここでは詳述しないが、エイミー・ボイヤー事件に関係する点のみ言及したい。1995年のストラトン・オークモント対プロディジー・サービス・カンパニー判決において、法廷はプロディジー社に法的責任があることを見出した。それはプロディジー社がホストとなっているコンピュータ掲示板システム(BBS)に同社が「編集管理」を行なっていると広告していたためであり、それにより法廷はISPを新聞のような「原文出版社」と解し、それに付随する厳格責任を適用したのであった。しかしこれ以来多くのISPが自らをむしろ電話会社のような「公共の伝達者」として理解されるべきだ、という主張をするようになった。この考えはもうじき判決で用いられるだろう。

通信品位法(CDA)第230節によれば、ISPの役割はプロディジー判決のような訴訟から保護されるというように解釈される。ここで法は明確に「コンピュータによる相互サービスのいかなるプロバイダもユーザも、他の情報提供者によって提供された情報の出版社、発言者として扱われるものとする」と謳っている。CDAはフィラデルフィア連邦裁により覆され、最高裁でも次第に支持されないようになってきたが、第230節は効力をとどめている。したがって、ISPは管理するサイトや電子フォーラムの内容について法的責任を負わない。しかしながらISPはモニタリングやフィルタリングをするよう勧められている。

ISPと道徳的責任

法的責任に次いでISPの道徳的責任に焦点を当てた場合、アントン・ヴェダーが詳しい考察を行なっている[Anton H. Vedder. 'Accountability of Internet Access and Service Providers: Strict Liability entering Ethics', in Ethics and Information Tchnology, 3(1)67-74, 2001.]。ここではヴェダーの議論の中からボイヤー事件の問題を抽出するために、彼の設けた道徳的責任の区別をとりあげ、それを再構成する。ヴェダーはISPの責任問題を明確にするには「回顧的責任」(retrospective responsibility)と「前視的責任」(prospective responsibility)を区別する必要があると言う。これらの区別は、ヴェダー自身も認めるとおり、明確なものではない。ヴェダーによれば、回顧的責任と前視的責任は連続性がある。

ISPの場合、サイト管理などに怠惰にならないよう、法的責任の脅威を課すことには意味がある。この時、われわれは将来の危害を防ぐために、功利主義的にISPに責任を課す。これは前視的な責任である。しかし、ヴェダー曰く、われわれはISPに回顧的責任を課すことをためらう。というのも、回顧的責任の意味にはの概念が含まれており、罪の概念はそもそも個人に適用されるべきであり、集団には馴染まないからである。しかし、ヴェダーは集団にも罪の概念が適用される可能性を示唆しており、それは前視的責任と回顧的責任の連結による。ここで、著者はヴェダーの議論を再構成し、次のような主張を導き出している。「もし、(ISPのような)集合体が前視的な意味での責任があると言うことができ(これはISPに対する法的責任のもっともな根拠になっている)、かつ、行為者がある行為に対して前視的な意味では責任がない場合にはその行為に対して回顧的な意味で個人に責任があると言うことが意味がない場合、その時われわれはISPに道徳的な意味での回顧的責任を課すことが理にかなっていると結論できる。」

ヴェダーの議論を適用する

ヴェダーの議論をボイヤー事件に適用してみよう。ヨーンスが作ったサイトを管理していたジオシティーとトライポッドには道徳的責任を課すことはできるだろうか? ヴェダーが正しいなら、責任の法的側面と道徳的側面はそれほど「きれいに」分けられるものではない。それに、現状ではジオにもトライポッドにも法的責任はないし、両プロバイダ自身が故意にボイヤーに危害を加えたわけではない。したがって、われわれが両プロバイダに道徳的責任があると明確に言えるかどうかは定かではない。しかし先の定式に従うならば、次のことは言えるだろう。「もしトライポッドとジオシティーに前視的な意味での責任を(抑止の功利主義的な概念に基づいて)法的に課しうるならば、かつ、もし前視的責任が回顧的責任を含意するならば(この場合、罪は道徳的行為者に課されうる)、その時は、当該のIPS2社は、エイミー・ボイヤーに起ったことに対して、少なくとも道徳的な意味では非難に値する、と推論できるだろう。」

個人のレベルでの道徳的責務

筆者によれば、サイバーストークに気づいたインターネットユーザは、被害者になりうる人に、それを知らせる道徳的な義務がある。この節では、この主張を正当化するために、筆者は道徳的責務の概念と正義の概念の関係についての考察を行なう。そのためにここではジョセフ・パイパー、キャロル・ギリガン、アントン・ヴェダーの3人の道徳的概念についての見解をみることにする。

道徳的責務についての3つの見解:パイパー、ギリガン、ヴェダーのモデル

パイパーによれば、道徳的責務は単に規則に従う、ということ以上のものであり、個人の他の個人に対する関係や個人の属するコミュニティーとの関係をも含意している[Josef Peiper The Four Cardinal Virtues, University of Notre Dame Press, Indiana, 1996.]。また、ギリガンはフェミニスト倫理に関する著作において、パイパーに近い考えを提示している[Calol Gilligan, In a Different Voice, Harvard University Press, Cambridge, 1982.]。両者にとって道徳的責務の概念は正義の概念と強く結びついている。正義は個人のお互いに対する道徳的責務を含む個人間の相互関係を含意している。そして、個人同士の関係は道徳的責務の概念の発展において大きな役割を果たすと考えられている。

これらの考えは、パイパーの「相互的正義」およびギリガンの「ケアの倫理」という概念の中に見られる。ここでケアと正義が同じ枠組みの中で語られるとするならば、われわれは、たとえ特定の法によって命じられなくとも、個人は他者を助け、危害を防止する道徳的責務を負うといえることになる。 また、ヴェダーによれば、誰かの生命に脅威がある場合、われわれは単に特定の法がないという理由だけでは、脅威の犠牲者に情報を伝える道徳的責務を免れることはできない[Vedder 2001]。ヴェダーは、危害や危険、犯罪を防止するための能力と機会がある時、それは行為者にそれが起るのを防止する義務が課される、と主張する。

道徳的責務のミニマリズム的概念

道徳性は個人に「他者に対して危害を加えない」ということのみを要求し、危害の防止や善行を要求し得ない、という考えが存在する。これはたとえ危害を防止し、善行をする能力があったとしても、道徳的行為者はそれを要請されない、ということである。 しかし、多くの倫理学理論が個人にその能力があるならば危害を防止せよという見解を指示している。例えば、いくつかの自然法思想がそうである。自然法思想においては、人類全体の苦を減らし、繁栄を促進することが道徳の目的とされる。となれば、サイバースペースにおいて危害を防止することも当然道徳的責務となるだろう。このような考えはポジマンに見ることができる[Louis Pojman, Ethics: Discovering Right and Wrong, 4th edn, Wadsworth, Belmont, CA, 2001]。

道徳的責務の領域を拡大する:助ける義務

個人が他者を助ける道徳的責務をもつかどうかはキティ・ジェノヴィーズ事件などの広く知られた犯罪事件の余波としてしばしば語られてきた。ジェノヴィーズ事件は1964年、ニューヨークのクィーンズ通りで若い女性がアパートの前で殺害された事件である。この時殺害された女性ジェノヴィーズのアパートには38人の住人がおり、住人達はジェノヴィーズが何度も刺されている間の35分、誰一人として警察に通報しなかった。犯罪の際に隣人を助けることへの拒否を「ジェノヴィーズ症候群」という言葉も生じた。 エイミー・ボイヤー事件はサイバースペースにおける「ジェノヴィーズ症候群」の表れではないか、と筆者は述べる。そして、もしわれわれが助け合いの義務をもたないならば、サイバースペースはとんでもないものになる、と言う。「なにもしない」ことから生じる危害と他人に手をかすために生じるちょっとした不便さから生じる危害を比べれば、後者が小さいのは一目瞭然である。

エイミー・ボイヤー事件から得られる示唆は、われわれは他者を助ける責任をもつという考えを受け入れるべきだ、というものである。そうすることでわれわれはサイバースペースを傷つきやすい人々(特に子供や女性)にとって安全なものにすることができる。ボイヤーへの脅威は擬似現実的なものでしかない、と批判する人もいるかもしれないが、その人は脅威は擬似的だが、危害は現実的だということを忘れている。助け合いの義務を拒否すれば、個々人のユーザは現実の人類への責任を放棄することになり、受け入れれば、他者の危害を防止することを助ける道徳的責務に気づくだろう、というのが筆者の結論である。

紹介者コメント

本論文によって、われわれはサイバーストーキングにおける重要な論点を枚挙的に知ることができるだろう。われわれはサイバーストーキングによって、プライバシーだけでなく、現実世界における危害をも考慮に入れなければならいない。また、その責任はISPだけでなく、(道徳的なものに限定されるが)事態を認知した個人にも及ぶ。

しかし、彼らの議論の結論は、となると少々問題があるように思われる。というのも、ISPに関して彼らが述べているのは、功利主義的にコンテンツの管理を義務付け、法的責務を負わせなければ、道徳的責務を負わせることが不可能、ということのみであり、結局現段階ではISPはまったく法的・道徳的責任を負っておらず、そして将来負うべきだ、という示唆もないように思われる。

また、個人に関しては、コミュニタリアン的帰属が道徳的責務のために要求されているが、インターネットによるコミュニティはグローバルなものであるので、結局は、人類全体(少なくともインターネット人口全体)に対する義務をわれわれは負うことになる。となると、この義務はわれわれにとって少々大きすぎるかもしれない。中世、近代初期における道徳哲学では、われわれは人類全体への自然法的な義務を課されているとされたが、今世紀において、われわれはインターネットによって同様の義務を課されることになった。われわれは両者を同じように受け入れることができるのだろうか?確かに、われわれのちょっとした努力によってサイバースペースは安全になるだろう。しかし、同じ義務によって、われわれはアフリカのAIDSに対する支援募金やアジア地域の地雷撤去、その他発展途上国の福祉に関するあらゆる募金に参加しなければならないだろう。サイバースペースの安全を守るには想像以上の労力が要請される。しかしながら、われわれはそのようにして「インターネットの安全な住人」を自称し、かつ、ちょっとした自己負担を背負わなければ、自らの安全を保てないのかもしれない。


(ささきたく 京都大学大学院文学研究科)
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