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クリストフ・リュトゲ 「インターネットの倫理へのプロレゴメナ」について

神崎宣次

はじめに

この記事は、2002年12月14日から16日にかけて行われた第三回情報倫理の構築プロジェクト国際ワークショップ(FINE2002)におけるクリストフ・リュトゲ博士(ミュンヘン大学)の発表 'Prolegomena to an Ethics of the Internet' の概要を紹介したものである。博士の中心的な主張を一言で表せば、「匿名性を特徴とする現代社会では、旧来の道徳原理や面と向ってのサンクションの手段(instrument of face-to-face-sanction)はもはや機能しない。それらに代わって、適切なインセンティブを設定することによって他者の行為の予測可能性を高めるような制度をいかに実施(implement)するかが、(情報)倫理学の問題となる」というものである。実際の発表では、西洋哲学の伝統に適宜言及しつつこのような主張が展開されたのであるが、ここでは紙面の都合上そのような細かい議論は省略して、発表の大筋のみを紹介する。なお、以下の見出しの数字とタイトルは博士の発表原稿に基づいている。

1 イントロダクション

まず最初にインターネットの性質として、全地球的規模、フィルタリングを受けないアクセス、インタラクティブ性、脱中心化されていること、の四つが挙げられている。リュトゲはこれらの性質を議論なしに導入しているのであるが、これらをインターネットの性質とみなすことに関して批判が出ることが予測されるだろう。しかし、これらの性質をインターネットが全く持たないともいえない。インターネットのある部分はこのような性質を持っているし、これらの性質が倫理に関わるいくつかの問題を生じさせているといえるだろう。そのような問題の内、この発表で取り扱われているのは、インターネットが道徳的な規範や規則の施行を困難にするという問題である。

2 インターネットに対する哲学的批判

インターネットが民主主義や社会関係に対してもつ影響については、既に哲学的に論じられてきている。ここでは一例として、一見インターネットは強制を受けない自由な議論を可能とし、民主主義を実施するための理想的条件を提供するかのように思われるが、実際にはその逆で民主主義に対する脅威であるのだというサンステイン(Cass Sunstein 2001: Republic.com, Princeton.)の議論が引合いに出されている。

サンステインはこの問題に対処するためのいくつかの案を示しているが、その本質は自発的な強制のメカニズムと外部からの強制のメカニズムを組合せたものとなっている。サンステインの案に対してリュトゲは、脱中心化という性質があるために、近い将来においてインターネット上で効果的に施行されるとは思われないという評価を下している。リュトゲ自身がより効果的であると考えるアプローチ(制度倫理)は、以下で述べられる。

3 制度倫理 (institutional ethics)

倫理学上の重要な問題とは、倫理学が用いている概念が前近代社会の枠組で形成されたものであり、現代社会の条件には適切ではないことである、とリュトゲは考えている。しかしこのように言う時に、彼が社会として考えているのは、実は市場経済のことである。彼がいうには、前近代的な枠組を引きずっている倫理学においては、個々人の相互作用はゼロサムゲームであるとみなされており、自己利益を追及することは他者から搾取することである。それゆえ自己利益の追及は制約されるべきものとされ、共有や再配分や節度が要求されるという。それに対して、現代社会の条件とは、適切な制度の下で個々人が自分の利益を追及することは他者を搾取することにはならず、むしろ相互の利益になる、というものであると説明される。リュトゲ自身の言葉で言えば、「伝統的な西洋の倫理学には、個々人の利益の追及が連帯という伝統的理想を--非常に効果的に--促進しうるということが理解できない。また、競争が慈善の効率的な形態となりうることも理解されない。慈善が行きとどくのは、人々の仁恵を通じてではなく、市場における通常の交換の過程を通じてなのである」ということになる。

リュトゲの主張を一言で表せば、現代社会において倫理が実効性を持つために必要なのは、伝統的な倫理学における規範ではなくて、上で述べた適切な制度を実施すること(制度倫理)であるというものになる。

制度倫理では、適切な制度の下では他人の行動を十分安定して予測することができるので、そのような制度は(少くとも長期的には)社会の全員を益するものとして正当化される。よって伝統的な意味での規範の正当化の問題は、規範をいかにして適切な制度として成立させ、実施するかという問題として捉え直されることになる。

4 制度倫理における実施の問題

適切な制度を実施するという場合、次のような問題が生じてくると考えられる。倫理的規範が人々に自分の利益を追及することを差し控えるよう要求しており、しかし同時に人々はそれぞれ自己の利益を追及する傾向性を持つとすれば、人々が規範にしたがうべき理由はどこにあるのだろうか。リュトゲの答えは、規範にしたがうことで個別の行為が制約されたとしても、そのことは他者から相互作用の相手として信頼されるための「投資」となり、長期的にはより大きな利益を得ることができるというものである。このとき適切な制度とは、このような投資を引き出すための適切なインセンティヴ(とサンクション)を設定するような制度ということになる。

5 倫理学の伝統における利益

この章では、黄金律とカントの定言命法も個々人の(長期的に見た場合の)利益の追及を否定していないと論じられる。

6 制度倫理の観点からみた情報倫理

ここで議論はインターネットの問題に戻る。制度倫理の考え方から情報倫理に対する二つの教訓が導かれる、とリュトゲは主張する。

(1) 最初に述べられたインターネットの性質のために、情報倫理において伝統的な規制のメカニズムや自己規制が機能するとは期待できない。新たな規制のメカニズムが必要とされる。

(2) 情報倫理では、伝統的な意味での倫理的規範ではなく、具体的な規則が重要となる。このような規則は通常国家によって制定されてきたが、他の可能性もありうる(たとえば企業のガイドライン)。

7 インターネットにおける規則の代替物(および、8 結論)

上の(2)で述べられたような具体的な規則は、インターネットには既に存在しており、倫理的規範の機能的等価物として働いている。したがって、インターネットをアナーキーなメディアとみなすのは間違いである。国家が定めた規制以外の規則の例としては、ドメインネームを割り振っているICANNのような機構や、ネチケット、技術的標準や使用されるプログラムによる規制等が挙げられる。

コメント

リュトゲのインターネットに対する見解は『CODE』におけるレッシグの見解と似たものであるが、リュトゲは、これらのメカニズムが行動を規制し方向付けるだけではなくて、更に(長期的な)自己利益の追及と両立させることによって人々の間の協力を引き出しうると主張している。「インターネットが社会を安定させてきた旧来の要素を掘り崩しかねないことが明らかとなってきているが、同時に民主主義を安定させる新しい要素を作り出してもいるのだ」と。それに対してレッシグは同じようなことを論じながら、それほどは楽観的ではないように思われる。

また、リュトゲの述べる制度倫理にはホッブズ的な社会契約論と類似性があることも明らかである。しかし、制度倫理の独自性を主張するためにリュトゲは、社会契約論の多く(具体的に挙げられているのはゴーシェ)が利益の観点から正当化しているのは個別の行為のみであり、制度の正当化は取り扱われていないと述べている。この主張は妥当だろうか。その場合問題となるのは、そもそもリュトゲは制度と言う場合に何を指しているのかだろう。

リュトゲが制度の例を述べているのは、発表の最後の方でインターネット上における規制のメカニズムについて述べている箇所だけである。そこで制度の例として挙げられているのは、技術的標準やプログラムのように、具体的で、機能が実際に設計されているメカニズムである。だとすると、リュトゲが言う通り、社会的契約論はこのような制度は扱ってこなかったといえるかもしれない。

しかし技術的標準やプログラムが、レッシグが述べているように人々の行動を規制し、方向付けるよう機能するのは間違いないが、それに加えて自己利益の追及と長期的に両立させることによって人々の間の協力を引き出すように設計されるとはいえないだろう。たとえばHTTPサーバやSMTPサーバが、そのように設計されうると主張するのは無理である。したがってリュトゲの議論は、制度倫理の根拠づけに関する部分と、制度倫理を情報倫理に適用する部分とが、上手くつながっていないといわざるをえないだろう。しかしそれでも、制度倫理という考え方に有用性があることは、リュトゲが強調する通りであるように思われる。


(かんざきのぶつぐ 京都大学大学院文学研究科)
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