1992年の国連環境開発会議(UNCED)で出されたリオ宣言(注1)以降、予防原則(Precaution Principle)は環境問題に対処するための原理として広く支持されるようになり、各国の環境政策や国際条約等にもしばしば取り入れられるようになってきている(注2)。しかしながら、その記述のされ方は様々であり、予防原則とは正確にはどのような原理であるのかについての決定的な見解は今のところ存在していないようである。比較的よく引用されるのは、予防原則は六つの基礎的概念からなるというオリオーダンとキャメロン(1994a)による説明であるが、例えばそこで基礎的概念の一つとして挙げられている費用対効果を予防原則自体の構成要素と考えるかどうかについては意見が分かれるだろう(注3)。
それでも次の二点については、予防原則自体に含まれるという一応の意見の一致があるといってよいように思われる。一つは、完全な科学的証拠があることは対策をとるための必要条件ではないという考え方。これは手遅れにならないうちに対処するという予防原則の中心的な意義を述べたものである。もう一つは、挙証責任の転換という考え方である。これは、1998年のウィングスプレッド宣言で強く認識された点で、新たな技術や化学物質等を導入した、あるいはしようとする側に安全性を立証する責任を課すというものである。被害を受ける(可能性のある)側が危害を立証するのは不可能に近いというのが、その根拠となっている。この二つの考え方に共通するのは、共に「証拠」に関わっているという点である。
このことは、リスクアセスメントに基づいた規制が環境保護に失敗してきたという認識に基づいている。リスクアセスメントは、ある計画の安全性の「証拠」を算出するための手法として幅広く用いられている。しかし環境問題は、確率と被害の規模が既知であるようなリスクというよりも、むしろそれらが未知であるという不確実性(uncertainty)を含んだ問題なのである。そのような問題に対してリスクアセスメントの手法を用いることは、元々不適切なのであり、単なる当て推量に過ぎなくなる。さらにその当て推量が経済的利益を正当化するために乱用される傾向がある(Montague1996)。環境問題の不確実性にきちんと対処するためには、リスクアセスメントとは別の原理を用いる必要があるのである。
モンターギュ(ibid.)は、そのような原理として予防原則と汚染者支払原則(Polluter Pays Principle, しばしば"PPP"と略される)の二つがあるが、これら二つの原理にはそれぞれその内容が曖昧であるという弱点がある、と述べている。予防原則に対しては、上で述べた以外にも、完全な科学的証拠が対策をとるための必要条件とならないのであれば何が必要条件となるのかや、どのような対策をとるのかについては何も述べていない、従って実効性がないという批判がある。同様に汚染者支払原則も、いつ、どれ位の額を支払うのかについては何も述べない原理である。普通このような批判に対する反論は、確かに実際に運用するにはそれとは別の法律や条約や判例を作ることを必要とするが、そのことは一般原理としてのこれらの原理の実効性を否定することにはならない、というかたちでなされる。だがモンターギュは、より具体的な提案であるコスタンツァら(Costanza&Cornwell1992)による議論を紹介している。
コスタンツァらの考え方は、単純に言えば予防原則と汚染者支払原則を合体させようというもので、4Pアプローチ(Precautionry Polluter Pays Principle Approach)と呼ばれるものである。これは、建設業界での契約で用いられている契約履行保証(Performance Bond)と空きビンのデポジットという二つのよく知られた制度に類似している。契約履行保証では、建設会社が着工する前に第三者に一定金額を預けておいて、工事が期限内に完全に完了すればそれが返還される。もし間に合わなかったり、工事に問題が生じた場合には、その度合に応じて預けた金額の一部もしくは全部が没収される。したがってこの制度は、建設会社に対して契約を履行する金銭的インセンティブとして働く。それと同様に4Pアプローチでは、新しい技術等を導入しようとするものは、まず最悪の場合の危害を見積ってそれに対する保証金を(そのための公的機関に)預けなければならない。そして、危害の生じる不確実性が軽減されたり、危害が生じないことが経験的に明らかになれば、保証金は(その運用による利子を付けて)返還されることになる。万一危害が生じた場合には、保証金は没収され、環境の修復や賠償のために使われる。
この考え方の利点として次のようなものが挙げられるだろう。1) より環境に害のない代替的選択肢を選ばせたり、より速く不確実性を軽減させるように努力させるインセンティブになる、2) 挙証責任の転換を実現する機構を含んでいる、3) 汚染者支払原則にも合致する、4) 類似の制度が既に、市場経済上で上手く機能している。
もちろん4Pアプローチも実効性に関する問題を完全に回避しているわけではない。以下の問題点が残ることはコスタンツァら自身が認めている。1) 保証金を預託する機関がどのようなものであるべきかについてはより具体的な議論が必要とする。2) 保証金の返還に関わる決定をするための裁判所に準じた制度が必要。3) 「最悪の場合の危害」を評価するための基準も必要となる(アメリカでは、EPA、Environmental Protection Agency の基準が既にある)。
しかしこれらの問題は、所詮は実行のためのメカニズムをどうするかという問題であって、上で述べたような予防原則自体のあいまいさに比べれば扱いやすいものとなっている。その意味で4Pアプローチは、モンターギュが言うように「予防原則と汚染者支払原則を実装(implement)するための現実的な方法を提供」しうる一つのアイディアとして十分評価できるのではないだろうか。
[注1] 第十五原則:「環境を保護するために、各国はその能力に応じて予防的方策を広く講じなければならない。深刻な、あるいは取り返しのつかない損害の恐れがある場合には、完全な科学的確実性がないことを環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を先送りする理由にしてはならない。」
[注2] 予防原則が国際法にどのように取り入れられているかについては、Cameron1994を参照のこと。
[注3] "Precaution Principle"という用語は1970年代の西ドイツの環境政策における"Vorsorge Prinzip"の訳語として導入されたが、元々の西ドイツの環境政策では"Vorsorge Prinzip"は五つの基本原理の内の一つという位置付けであり、それとは別の(時には対抗する)原理として費用対効果が挙げられている(Boehmer-Christiansen1994. またドイツの環境政策の歴史については平子2002を参照のこと)。