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フィリップ・アグリ「民主主義社会における知的生活を支援する」

島内明文

出典:Agre, Philip E. ‘Supporting the intellectual life of a democratic society,’ in Ethics and Information Technology, Vol.3, No4, pp.289-298

この論文は、知的生活を支援する道具としてのデジタル・ライブラリーに着目しつつ、われわれの生における知的生活の位置づけを検討したものである。以下では、筆者の議論を要約する形で紹介していく。なお、筆者のアグリ氏は、カリフォルニア大学の助教授で、情報学を専門にしている(http://dlis.gseis.ucla.edu/people/pagre/)。

1. 導入

デジタル・ライブラリー(digital library)は情報資源やリテラシーの促進者である、とわれわれは考えており、その役割の一つは知的生活(intellectual life)の支援である。ところで、情報技術が安価で遍在的な(ubiquitous)ものとなるにつれて、情報サービスが日常生活の中に織り込まれていく(woven into)。知的生活とは何であり、それをどのように促進するかを、われわれはもっと真剣に問うてしかるべき状況にいる。本論の目的は、デジタル・ライブラリーの採用しうる方向性に関する長期戦略を練り上げるための概念的な素材を集めることにある。最も狭義には、デジタル・ライブラリーとは、電子テキストや画像などを保管、検索するためのネットワーク化されたコンピュータ・システムのことであるが、本論ではデジタル・ライブラリーという表現は知的生活を支援する潜在的な道具を指示する。

2. 階層の固定観念

まずは、知的生活が知識階層に限定されたものであるという固定観念(stereotype)を検討しよう。たしかに、知識階層というものが実際に存在するが、それは多様な仕方で定義され、それぞれの文化のうちで組織化されるものである。民主主義社会は、知識階層にのみ依存するのではなく、あらゆる市民に知的活動を求め、これを重んじる。それゆえ、万人が知的生活を営み、それについて問いを立て、考えるのである。ところが、このような知的生活の実現を妨げる嘆かわしい力学が、現実社会の中で作用している。学歴重視の風潮は、その一例である。知的才能がエリートの地位を示すものと見なされ、能力主義的な教育システムは人々を管理し、学歴に対する不安感や防衛反応を引き起こしている。また、知的生活がしばしば政治と関わる以上、それは一部のエリートに限られたものであるという主張もなされる。たとえば、民衆が社会の担い手たりうることに懐疑的な態度を保持しつづけるバーク流の保守主義や、マルクス=レーニン主義流の前衛という発想などである。しかし、このような考え方は、普通の人々の判断を信頼するという民主的な精神を欠いており、知的生活の民主的ヴィジョンとは相容れない。

3.知的生活の多様性

知的生活を知識階層に限られたものとして理解するならば、それを支援するデジタル・ライブラリーのデザインもまた文化的に卓越した人々にのみ有利なものとなってしまうだろう。知識階層と対比される普通の人々に関しては、無知な大衆という固定観念があるので、これを克服するために知的生活の多様性を適切に評価し、分析しておこう。まずは、知的生活の目的が多様であることに、目を向けねばならない。たとえば、自己理解、偏見の克服、内的生活の陶冶、伝統の維持と克服などが、知的生活の目的になりうる。知的生活はその目的に応じて、宗教、アマチュア科学、政治参加、起業活動、専門能力の開発などのかたちで日常の中に体現される。以上のことから、知的生活を知識階層に限られたものとしては理解しえないのである。内省的な(introspective)人々だけでなく、具体的な実践に没頭している人々もまた同様に知的生活を営みうる。知的生活は文化的プロジェクトなどを含んだ多様な構造を持つので、デジタル・ライブラリーは知的活動の営まれる状況に適した情報提供を行ないうるものでなければならない。

4.離れた次元にあるものとしての知的生活

知的生活は社会生活や職業生活などと同様、われわれの生の一部をなす。われわれの生は多様な生活を含んでおり、それらは生のうちで区別され、統合され、対立しあう。健全な生とは、諸生活の十全かつバランスの取れた状態のことである。ここでは、知的生活が他の生活からある程度まで離れた次元にあることを検討する。 まず、知的生活は、その目的や成果(pay off)が明白ではない点で、訓練(training)という道具的な概念から区別される。つぎに、知的生活を営む人は現実の生活のわずらわしさに目を向けず、いわば頭の中で生活している点で、知的生活は病的な(pathological)ものでもありうる。さらに、知的生活には、孤独でありうる、またはそれに近い精神状態でありうる安全な空間が不可欠である。われわれは知的生活において自らの観察したものを表示する固有の言語を発達させるが、この観察を日常世界で有益なものとするためには知的生活の言語を日常言語に翻訳しなおさねばならない。知的生活がわれわれにとって新鮮な刺激であるという点で、知的生活は日常からある程度まで離れた次元にあるといえるだろう。知的生活と日常とを仕切る壁がたしかに存在するけれども、われわれは両者を行き来することで生を営む。

5.問い

 

学校での最大のトラウマといえば、無味乾燥な(dry)テキストの講読を強いられることである。そこでは、問いを立てつつ読むことこそ文献解釈の方法の中心であることが忘れられている。問いを立てつつテキストを読むことは、われわれの同一性、すなわち自己と現実の世界とを理解可能なものにしている自己に関する継続的な物語に基礎を持つ。われわれの同一性が公的な事象である限り、問いもまた公的な性格をおびる。われわれの問いは、それが無意識的で、秘められたものであり、形成途上であるときでさえ、文化という象徴資源を活用する自己創出(self-fashioning)のプロジェクトを通じて生じる。多くの人々は、自らの問いを公的に表明するや、また自らの問いを明確にすることに慣れてはいない。重要なのは、充実した充実した生のうちに問いが生じることである。デジタル・ライブラリーの技術的支援によって、自らの現在の問いに合致したテキストを探し出し、単一のテキストではなくて知の歴史全般を解釈する実践が可能になる。

6.動態

知的生活は、目的追求の(goal-driven)過程でも、全くの方法的(methodic)過程でもない。知的生活は、それがわれわれの心を動かす限り、積極的に追求される過程である。ここでは、生得的な心的能力と知的活動の文化的形態や実践的環境との相互作用という視点から知的生活を分析する。

知的生活は本質的に断片的な(fragmentary)ものである。われわれは思索の断片を何かに記録しておかない限り、それをすぐに忘れてしまう。それゆえ、思索の断片を外部化すること、すなわち言語や図表などを用いて思索の断片に形式と構造とを与えることは、新たな思索をもたらしうる点で有益である。思索は、異なる考えの間でのアナロジー、既存の考えの未知の対象への適用などを含んでおり、新たな考えの形成に際しては既存の考えをどのような言葉で表現するかが重要になる。このことをテキスト読解やデジタル・ライブラリーとの関係で捉えなおしておこう。われわれは何かの目的でテキストを読解し、そこで生じる新たな問いをふまえつつ再読する。そうすると、テキストは何らかの新たな答えを与えるであろう。このことが、教養ある人物は書物を単に所有するだけでなく書物とともに生きる、とされる所以である。長い間、個人の書斎というものが思索との関連で固有の意味と構造とを持ちつづけてきた。現代においては、個人のデジタル・ライブラリーが知的生活を支援する。たとえば、自分の読んだ新聞記事を保存しておくだけでも、それを必要に応じて再読すれば新たな思索の手掛かりとなるだろう。

7.連携

知的生活の中心にあるのは、発見(discovery)という要素である。われわれは、生の目的などの知的使命(calling)というものを、自らの人格の整合性との関わりで見いだす。また、知的生活は、われわれを既存の生の外部へと連れ出し、新たな生をもたらすこともある。われわれは知的生活を通じて、新たな自己の構想を獲得しさえする。たとえば、何かのきっかけで、政治的実践や介護に携わるようになったり、宗教的改心を遂げることなどがある。  

知的生活を営む際には、連携(alignment)が重要である。学者や知識人たちの間でのピア・レビューというシステムが、このような連携の実例である。普通の人たちもまた、同好の士を相互に尊重しつつ、対話のネットワークという連携を実現している。自分の考えを適切に発展させる最良の方法は、形成途上の考えに対する他者の反応を求めることである。このことに関連して、インターネット技術、たとえば討論フォーラムなどは、各々の知的共同体の文化言語を十分に発達させ、新たな社会的交通(social mobility)をもたらすであろう。以上に見たような知的生活における連携は、権能の向上(empowerment)という文化的信念に基づく。具体的にいうと、われわれは知的使命とそれを支援するネットワークとを包摂した全き生を営んでおり、自らの思索を価値あるものと見なし発展させねばならないという信念である。

8.具体化された公共圏

知的生活の概念史は、離散的(discrete)かつ有機的な文化というロマン主義的な発想の端緒になったヴィーコとヘルダーとともに始まる。ヴィーコやヘルダーは、それぞれの社会が固有の伝統や文化を表現する豊富な語彙を持ち、有機的全体(organic whole)を構成する、と考えた。ところが、近現代社会は、地理的可動性、文化的多様性、自由主義的な前提に基づく人権を求めるグローバルな活動などを特徴としており、伝統や文化という理念的なものによってではなく、マスメディア、経済状況、法システムなどの実在の共通項によって編成されている。

知的生活はつねに制度的秩序の中に体現されるものであり、民主主義社会における知的生活に関しては、公共討議という制度が重要な意味を持つ。全ての個人が利用可能なフロアとしての公共圏という考え方があるにもかかわらず、新聞の意見欄への寄稿者の多くが専門家であるように、公共討議の場において普通の市民の姿は見えづらい。普通の市民は公共討議の参加者というよりはむしろ、そこに提供される議論の中から自分の意見を選択する消費者にすぎない、とも言えるだろう。インターネットは、専門家たちの構成する公共討議の領域には市民がアクセスしにくい現状を部分的には改善するかもしれない。十全な民主主義社会を実現するためには、普通の市民が自身の知的生活を拡張することで自分なりの考えを獲得し、洗練していくことを可能にする制度が不可欠なのである。

9.新たなモデル

新世代のデジタル・ライブラリー技術は民主主義社会における知的生活を支援しうるのか?その答えは、知的生活がどのような制度の下で営まれるかに依存する。技術と制度とはともに進化するものであり、両者の進化が新たな文化形態と実践とを要求するのである。かくして、教育、出版といった知的生活と関連する領域の実践が、次第に変容していく。たとえば、学校教育は対象の中身に関わるものだと思われているが、生徒たちには学び方を学ぶ(learning how to learn)必要がある。この学び方を学ぶということは、もちろん、生徒が自分なりの知的共同体を構築する術を学ぶことを含んでいる。われわれは民主主義的な知的文化を体験することにより、自分なりの価値観を育み、生活様式の自由を享受する。

10.万事の職業化

これまで述べてきたことは、知的生活に関する固定観念を持つ人々には説得力を欠いたものであろう。しかし、万事の職業化(professionalization of everything)という風潮が強まるとともに、知的生活が万人に開かれたものになりつつある。また、現代の経済システムは動的かつ知識集約型であり、最先端の技術を持ちつづけていることを労働者に要求するために、デジタル・ライブラリーの役割もいっそう重要なものになる。さらに、固有の知識の独占から技術革新の移転へと、職業のありかたも変化している。遍在的デジタル・ライブラリーは、このような変化を技術面で支援する。さらに、ネットワークを活用することで学校教育にピア・レビュー・システムを導入することも可能である。このシステムを学校教育の初期段階から導入すれば、人々は自分の考えに対する他者の反応を受け止め、グローバルな知的文化に参与することに慣れていくだろう。かくして、民主主義的な知的生活の文化基盤が確立されるのである。

コメント

知的生活とは何かという本論の主題は、観想的生活/実践的生活の区別と関わるものであり、哲学・倫理学の見地からは非常に興味深い。また、デジタル・ライブラリーの発達も含めて情報化の進展が、現代における知的生活にどのような影響を及ぼすかということは、きわめて重要な問題である。このような興味深い素材を扱っているにもかかわらず、知的生活とは誰もがそれを営みうるのであり、情報化の進展がよりよい知的生活の可能性を万人に開きうる、という月並みな結論に帰着していることが惜しまれる。


(しまのうちあきふみ 京都大学大学院文学研究科)
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