英国では今年の春に二つの重要な安楽死事件の判決が出された。このいずれの 事件も、首から下が完全に麻痺した40代前半の女性が、安楽死の許可を得るた めに裁判所に訴えでたものであったが、一方の訴えは認められ、他方の訴えは 退けられた。この違いは、脊椎の血管が破裂してICUで治療を受けていた一方 の女性(Ms B) は人工呼吸装置の停止を求めていたのに対し、運動ニューロン 病という進行性の不治の病を患っていたもう一方の女性 (ダイアン・プリティ) は夫による自殺幇助を求めていたことによる。英国の判例法によれば、判断能 力のある患者には治療拒否が認められるため、高等法院の判決によって判断能 力が認められたMs Bは、医者に人工呼吸装置の停止を希望し、彼女の意思通り に安楽死することができた。他方、英国では自殺は1961年の自殺法によって非 犯罪化されたが、自殺幇助は同法によって例外なく禁止されている。そのため ダイアン・プリティは、自殺法は英国人権法で保障されている彼女の人権を侵 害しているという主張をし、高等法院、貴族院、そして欧州人権裁判所まで闘 い続けたものの、けっきょく彼女の主張は認められず、敗訴後まもなく病気の 悪化による呼吸困難で息を引き取った(1) 。本稿ではこの二つの事件をめぐる シンガーとキーオンの見解を紹介する。
まず、シンガーは帰結主義と患者の自己決定を尊重する立場から、二つの判決 が異なっていることを批判している。彼によれば、二つの事件の異なる判決は、 法的見地からすると(1)判断能力のある患者の治療拒否権と (2)自殺幇助の 禁止という二つの原則からの当然の結果である。しかし、死ぬことがわかって いても治療を拒否する権利はあるが、治療の停止だけでは(少なくとも適切な 仕方では)死ぬことができない場合に死ぬのを誰かに助けてもらう権利がない というのは、倫理的見地からは意味をなさない。上の二つの原則を杓子定規 に今回の事例に適用することは明らかに直観に反しているため、「われわれは 規則に基づいた倫理(rule-based ethic)を超えて、われわれが直面する状況の 帰結を考慮しなければならない」とシンガーは言う。彼の考えでは、安楽死を 行なう自己決定権をMs Bとダイアン・プリティの両方に認めた場合、両者の帰 結の間には重要な道徳的相違は存在しない。というのは、ダイアン・プリティ に自殺幇助を認めた場合、彼女と同じような状況に置かれている人々がまわり から暗に自殺を強いられるおそれがあるとか、医者による安楽死の濫用が生じ る可能性があると判決では示唆されていたが、それはMs Bのような治療拒否に よる安楽死でもまったく同じだからである。したがって、二つの事例は倫理的 見地から見れば本質的に同様であり、一方の場合に患者の自己決定権を尊重す るのであれば、他方の場合でもそうすべきであったとシンガーは結論している。
一方、キーオンは生命の神聖さを尊重する立場からMs Bに関する判決を批判し ている。彼の考えによると、この事例では、従来認められていた無益(futile) であるかまたは患者に耐えがたい負担を与える (burdensome)場合の治療の拒 否権を超えて、患者が明白に自殺を意図して治療を拒否する権利 (および医師 がそのような患者の願いを全うすること) を認めるに至っている。しかし、こ のような形で患者の死ぬ権利が認められるのであれば、ダイアン・プリティの 事例のような自殺幇助も認められてしまうことになる。というのも、患者を死 なせるという意図が同じであれば、その手段が作為か不作為か(積極的か消 極的か)は道徳的にはなんら重要性を持たないからである。それゆえ、生命の 神聖さを重視する立場からすれば、「無益であるか患者に耐えがたい負担を与 える治療を拒否する正当な権利を判例によって拡大解釈し、自殺する権利とそ の幇助とを含むようにする」今回のMs Bに関する判決は誤っていたと彼は結論 している。
シンガーとキーオンの二人の議論に共通しているのは、消極的安楽死(患者の 治療拒否による安楽死)と積極的安楽死 (医者の自殺幇助による安楽死)との区 別は実質的には意味をなさないという意見である(ただし、シンガーは両者の 帰結には変わりがないとし、キーオンは両者の意図には変わりがないとし ている)。実際、ボイドが述べているように、現場の医者はしばしばこの区別 を役に立つものとして考えているが、今回のMs Bを担当していた医師の中には、 人工呼吸装置を停止させることは殺人であり認められないと考える者もおり、 そのため結局Ms Bは別の病院に移ってから安楽死を行なったのである(Boyd p. 211; cf. Slowther p. 243)。他方、二人の議論で大きく異なっているのは、 シンガーが患者の自己決定権を尊重し、いずれの患者も安楽死を許されるべき だったと論じているのに対し、キーオンは生命の神聖さを強調し、(ダイアン・ プリティの安楽死はおろか) Ms Bの安楽死さえ許されるべきではなかったと論 じている点である。今回の二つの事件はこれまでもしばしば問題にされてきた 消極的安楽死と積極的安楽死という区別の居心地の悪さをあらためて際立たせ ると同時に、患者の自己決定権と生命の神聖さという、安楽死において鋭く対 立する二つの重要な価値のいずれを優先させるかという問題をわれわれに突き 付けていると言えよう。
1. この裁判についてさらに詳しくは以下の拙論を参照されたい。「ダイアン・プリティ裁判: 積極的安楽死を求める英国のMND患者」 (『生命倫理学会ニューズレター』(22号)、2002年3月) http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/bioethics/pretty.html