Fine Newsletter LOGO

マット・マコーミック「暴力的なテレビゲームで遊ぶのは不正なことか?」

相澤伸依

出典:Matt McCormick, "Is it wrong to play violent video games?", Ethics and Information Technology, Vol. 3, pp.277-287, 2001.

キーワード:暴力的なテレビゲーム (violent video game)、不道徳な行為の擬似体験 (simulation of immoral act)、リスクを増大させる行為 (risk increasing act)、本人の性格への危害 (harm to one's character)

本論文の筆者マコーミック氏は、カリフォルニア州立大学哲学科に在籍している。以下では、マコーミッ ク氏の論文を要約する形で紹介していく。

<導入>

近年、テレビゲームは広く普及し、多くの人々がそれで遊んでいる。テレビゲームの中には、プレイヤーが敵キャラや対戦相手と戦う暴力的なゲームもある。近年の技術改良により、その戦闘シーンはますます刺激的なものになっている。

暴力的なゲームで遊ぶことには賛否両論があるが、道徳的な問題としては次の三点が挙げられよう。すなわち、1) たとえ実際に犠牲者がいなくとも、擬似暴力を行うことがそれ自体で不正なことなのか、2) 犠牲者はいるのか、3) 不道徳な行いを体験することは不正なのか、不正だとすれば何が問題なのか、の三点である。

本論文では、功利主義、義務論、および徳倫理という三つの倫理学理論を用いて、暴力的なゲームに関する問題が論じられる。まず初めに、功利主義とカント主義が、暴力ゲーム反対論に十分な根拠を与えることはできないことが主張される。次に、徳倫理学の古典的なモデルであるアリストテレスの議論を用いて、暴力的なゲームで遊ぶ場合に生じるかもしれない危害を、本人の性格への危害として解釈することが提案される。

<暴力的なテレビゲームに対する功利主義の応答>

暴力的なゲームについての一般的な反論は功利主義的、または帰結主義的立場からなされる。すなわち、暴力的なゲームで遊ぶことによって人は、多かれ少なかれ他者に危害を与える行為をするようになるというのである。ここでは、擬似的な行為と現実の行為との関係についてみていく。まず、擬似行為が我々にどのように影響するかを理解するために、三つの区別を用いよう。

1) 危険な行為 (dangerous act)

行為者自身または彼以外の人に危害が加わるリスクを直接に増大させるような行為。例えばスカイダイビングは他の多くの行為よりも危険である。

2) 危害を及ぼす行為 (harmful act)

誰かに危害を及ぼす行為。これは危険な行為である場合もあるしそうでない場合もある。例えば危険な行為であるロシアンルーレットは、引き金が引かれて弾が出れば危害を及ぼす行為になる。一方、サンドウィッチを食べることは通常は危険な行為ではないが、食べ過ぎて窒息死すれば危害を及ぼす行為だといえる。

3) リスクを増大させる行為 (risk increasing act)

人に危険な行為や危害を及ぼす行為をさせやすくする行為のこと。例えば、飲酒運転。

この三つの区別を踏まえて、暴力的なゲームで遊ぶことおよび不道徳な行為の擬似体験について分析しよう。

普通の状況において、つまりただテレビの前に座って暴力的なゲームで遊ぶことは、それ自体で危険な行為でも危害のある行為でもない。問題は暴力的なゲームで遊ぶことはリスクを増大させる行為だと考えられる点にある。すなわち、暴力的なゲームで遊ぶことによりそのプレイヤーが、暴力をふるったり他者や自身に危害を加える可能性が増すと考えられるのである。

功利主義によれば、行為は、それが利益を促進する限りでよいとされ、人々に危害を引き起こす限りでよくないとされる。したがって、功利主義者は、暴力的なゲームは容認しがたいほどにリスクを増大させるので道徳的に反対されるべきであると論じることができよう。

ただし功利主義的に暴力的なゲーム反対論を展開するためには、少なくとも次の二点を示す必要がある。つまり、1) 暴力的なゲームは実際にリスクを増大させる、2) 暴力的なゲームは利益以上にリスクを増大させる、の二点である。前者については、ゲームで遊んだ結果としてプレイヤーが他人により危害を加えるようになったことを経験的研究によって明らかにせねばならない。後者が必要になるのは、暴力的なゲームからは、楽しさや経済効果、技術進歩などの利益が得られると考えられ、功利計算の結果リスクを増大させる不利益よりも利益が大きければそれを功利主義によって擁護することもできるからである。

しかし、この二点が示されたとしてもさらに反論は可能である。それは、例えばアメリカンフットボールのように、時に暴力的なゲームよりも危険かつ危害を及ぼす行為が道徳的に容認されているにも関わらず、暴力的なゲームのみを不正だとするのは整合性を欠くという反論である。したがって功利主義的に暴力的なゲームを不正だとするためには、先の二点に加えて3) 多くの危険な行為に対する我々の態度を再考し、暴力的なゲームは他の危険な行為と何が異なるのか、を論じる必要がある。

ここまで念頭におかれているのはベンタム流の功利主義であった。しかし、快の質の区別を用いたミル流の功利主義も有効な議論ではない。というのは、快の質を区別するならば、暴力的なゲームだけでなくすべてのテレビゲームが程度の低い快に分類されることになるからである。妥当な道徳理論は娯楽について理に適った説明を与えねばならないが、功利主義ではそれがうまくいっていない。したがって、功利主義的に暴力ゲームを不正だと言うことは困難である。

<暴力的なテレビゲームに対するカント主義の応答>

次に義務論、またはカント主義の倫理学理論を検討しよう。カント主義では、ある行為の正不正は行為が義務と一致するかどうかによって判断される。暴力的なゲームの問題には、カントの「汝の人格、および他者の内にある人間性を単に手段としてだけでなく、常に同時に目的として扱うよう行為せよ」という定言命法定式化が関わる。

カント主義者は、暴力的なゲームで遊ぶことは人を単なる手段として扱うことであり、他者を目的として扱うべしという道徳的義務に違反すると論じられる。この議論があてはまるのは、自動化された敵キャラと戦うような場合ではなく、例えばインターネットを通じて人と人が戦うような場合である。

では、具体的に何が問題なのか。カントの定言命法で重要なのは、他者は我々と同じであり、彼らと関わる際には彼らの立場に立たねばならないということである。暴力的なゲームで他者と遊ぶ時、我々は相手に実際に身体的危害を加えることはできない。しかし、我々は勝つという目的のための単なる手段として彼らを扱いうるのであり、この点が問題なのである。また、我々はみな、実際には決してしたり言ったりしないことをネット上ではしがちである。暴力的なゲームのプレイヤー同士がネット上で、相手を貶める誹謗中傷の言葉を交わし合うのは特別なことではない。これもカント主義者にとっては問題である。

また、カント主義も功利主義と同様、リスクを増大させる危険性をもとに議論を展開することができる。それはカントの『倫理学講義』における動物の虐待を禁止する議論を援用したものである。カントの議論は次のようなものである。すなわち我々は、自己意識を欠く動物に対して直接の義務は持たないが、動物を通じて他者に間接的な義務を持つ。というのは、正しい行動や義務に対する気質は陶冶されねばならず、残酷なことをしていると他者への義務に違反しやすくなると考えられるからである。それゆえ、我々は動物を虐待してはならない。この議論を暴力的なゲームの場合に適用しよう。カントは暴力的なゲームを通じて我々の残酷さや他者への無関心という側面が陶冶されてしまうと論じるだろう。こうしてカント主義者も、暴力的なゲームは他者への義務に違反するリスクを増大させるから不正だと論じることができる。

しかし、カント主義の上記の二つの主張は、暴力的なゲームで遊ぶこと以外にもあてはまる。例えば我々がボクシングをするとき、我々は相手に勝つことを目的にしているし、殴るという残虐なことをしているといえる。したがってカント主義では、このような暴力的な側面を持つ他の娯楽競技も認められないことになるだろう。

以上の議論から、カント主義の主張には次のような疑問・問題点を挙げることができる。すなわち、1) 功利主義の場合と同様、暴力的なゲームで遊ぶことが実際に他者への義務違反を引き起こしやすくするといえるのか、2)行為の否定的側面がどの程度であればそれを道徳的に非難することを正当化できるのか(カントも否定的側面以上の価値を持つ行為、例えば外科手術、を認めることに注意すべきである)、3) 他の行為と不道徳な行為を擬似体験することを差別化することができないということである。

<残っている問題>

ここまでの議論から、功利主義もカント主義も暴力的なゲームに対する反対論をうまく展開できていないことが明らかになった。両者ともに他者への影響や他者の扱いに関する議論に終始しており、不道徳な行いを体験することを他の行為から差別化することに成功していないのである。我々は、アメリカンフットボールのように危険かつ危害を及ぼす行為を不正だとは考えないが、不道徳なことを疑似体験すること(これは暴力的なゲームだけでなく、例えばスタートレックのホロデッキで犯罪を体験することまで含む)は不正だという強い直観を持つ。この直感を説明するためには、暴力的なゲームで遊ぶことがプレイヤー自身に及ぼす危害に注目する必要がある。

<暴力的なゲームおよびホロデッキの不道徳さに対するアリストテレス主義の応答>

不道徳な行為の疑似体験を不正だとする我々の直観は、アリストテレスの徳倫理によって、説明される。功利主義とカント主義が行為自体に注目するのに対して、アリストテレス主義は個人の性格に注目する。すなわち、人が訓練を通じて正しく考え行為する性格を身につけることによって、そのように行為できるようになるとアリストテレスは考える。ここでは、ある状況における個別の行為よりも、徳のある性格を備えていることが重要なのである。

このようなアリストテレス主義を暴力的なゲームの事例に適用してみよう。暴力という不道徳な行為を擬似体験することにより、我々はよくない性格を形成してしまうことになる。アリストテレス主義者は、他の不道徳な行為を擬似体験すること(例えばホロデッキで擬似小児性愛を疑似体験すること)についても、それは徳を欠く性格を強化するものだと考え、不正だと主張するだろう。

このアリストテレスの立場は功利主義とは異なる。アリストテレス主義において、不道徳な行為の疑似体験が不正だとされるのは、それが他の現実の危害を招くからではなく、それを擬似体験する当人の性格に危害をもたらすからである。擬似体験する人はそうすることによって、自らの徳を犯し幸福から遠ざかっているゆえに、その行為は不正なのである。功利主義の立場ではアメリカンフットボールのような娯楽競技も不正とされる可能性があるが、アリストテレス主義ではそのようなことはない。それらは性格に悪影響を及ぼさないからである。こうしてアリストテレス主義によって、不道徳な行いを体験することを他の行為から差別化することが可能になる。

アリストテレスの視点は、我々のそれよりもあまりに利己的である。現代の徳倫理は、徳を身につけることは、本人だけのためではなく、各人が他者に対して適当な行動をとるためだと論ずる。しかし、アリストテレスの過度に利己的に思われる主張によってのみ、問題は解決されると考えられるのである。道徳的行為についてアリストテレス主義を用いることの新しい点は、我々が自らに課している義務を侵す行為や他者によくない帰結をもたらすことのない行為についても、道徳的困難が存在する、ということが明らかになるところにある。暴力的なゲームおよびそれに類似する事例で問題なのはそれが行為者当人の性格によくない影響を及ぼすからであり、アリストテレスの理論のみが暴力的なゲームを含めて不道徳な行いの疑似体験を不正だとする我々の直観を説明できるのである。

<結論>

以上の議論から次のように結論付けられる。すなわち、暴力的なゲームは道徳的に不正である。それは、リスクを増大させたり、他者への義務を侵すからではなく、本人の性格に危害が加わるからである。

<紹介者コメント>

上の筆者の議論は次の点で不十分なものである。第一に、筆者は暴力的なテレビゲームが本人の性格に危害を与えると論ずる。これについてアリストテレス主義者は、功利主義やカント主義と同様に、経験的な証明を与える必要があると考えられるが、筆者はそれを与えていない。第二に、なぜ暴力的なテレビゲームとボクシングやアメリカンフットボールのような危険で暴力を含む行いが区別されるのかが不明である。筆者はスポーツは性格に悪影響を及ぼさないことを前提して議論を進めるが、その根拠は示されていない。少なくともこれらの二つの疑問が説明されなければ、筆者の議論が成功しているとは言えないだろう。


(あいざわのぶよ 京都大学大学院文学研究科)
この記事終り