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ロバート・マッカーサー「プライバシーの合理的期待」

林 誓雄

キーワード: ブラウジング/拾い読みをする(browsing)、クッキー  (cookies)、Eメール(e-mail)、赤外線走査(infrared scanning)、プライ バシー(privacy)、合理的期待権(reasonable expectations)、スキャンカー ド(scan card)、非合理的調査(unreasonable searches)

0:導入

本稿で紹介する論文の著者であるロバート・マッカーサーは、アメリカ合衆 国メイン州のコルビー・カレッジで哲学科長代理を務め、論理学、分析哲学、法 哲学を専門としている。 (http://www.colby.edu/philosophy/faculty/mcarthur/) マッカーサーはこの論文において、法的な論拠でしばしば使用される「合理的な 個人とその個人の期待(a reasonable person and his or her expectations) という概念を吟味する。ここでは彼が、プライバシーという概念全体ではなく、 その合理的な期待という点に絞って議論を進めていることに注意されたい。 以下では、マッカーサーの論文の要約というかたちで紹介する。尚、原文には章 タイトルが付されていなかったため、紹介者によって章タイトルを付すことにし た。

1:プライバシーの合理的期待

技術競争が凄まじいスピードで進む中、プライバシーについての主観的期待 は無意識のうちに変わっているかもしれない。我々のプライバシーについての法 的権利は、単に商業技術産業の現状を投影したものではなく、明確な目的を持つ 思慮に満ちた選択が反映されたものであるべきである。

そこでマッカーサーは、プライバシーの合理的期待(reasonable expectations of privacy)というものがどんなものかを理解することが必要だ と述べる。そうすることにより、消え去りつつあるプライバシーに対する我々の 心配自体が現に起こっており、また我々の懸念がプライバシーを重視した旧時代 に対する郷愁の発露にすぎないことがより明確になるであろう。

一般に「合理的個人」という語、およびその人の期待という概念の使用は、 法的推論において広く使われるものである。ここでの「合理的個人およびその個 人の期待」は明らかに規範的である。というのも、それは社会的に受け入れられ ている慣習、もしくはいかなる時においても彼らの主観的期待として世間の大多 数の人々が持つだろういくつかの感覚を単に踏襲(hew)しているわけではない からである。マッカーサーは以下の文脈で「合理的期待」を「合理的な人間が期 待すべきもの」という意味で使うとしている。

2:プライバシーの非合理的期待

はじめにマッカーサーは、人々が持つと思われる期待というのは、一見(on their face)きわめて非合理的であることを念頭に置くことが大切であると述べ る。例えば、公共の場である映画館の入場券売り場の列で会話をしているとしよ う。仮に人が普通の声で話をしているとしたら、その人の話は周りの人たちに聞 かれてしまっている。それゆえ、その人が自分の「プライベート」を期待するこ とは全くもって非合理的なのだ。別の例で言えば、ある人が様々な人々に自分の 生活についての個人的な秘密を言うとする。そしてこれらのことが伝われば、お そらく彼らは他の人にも言うだろう。だから、この事柄はきわめてよく知られる ことになる。その人がその後出されたこの情報を含む新聞記事を見つけるとして も、その人はプライバシーの侵害が起こったと合理的に主張することは出来ない だろう。なぜなら、その人にその情報漏えいの元々の原因があったからだ 。

以上からマッカーサーは二つの有用な原理が浮かび上がる、と述べる。 一番目の原理は不運の原理である。

2.1:不運の原理(The Mischance Principle)

我々は、他の諸個人が情報を得るために多大な努力をしないのにも かかわらず、自分たちのプライバシーを見つけられ、聞かれ、知られることにな らないような合理的期待をすることはできない。

不運の原理の例としては、以下のようなものが考えられる。隠れるところの ない窓の付近で着替える;歩道で私的な手紙を落とす;公の集会で会話に参加す る;他の人が見るかもしれないコンピュータの画面で画像やテキストを映し出 す;防犯カメラのある本屋で雑誌を読む;自分の銀行書類を道端においてあるゴ ミ袋の中に入れる、などが挙げられる。これらの事例全てにおいて警察調査員や おせっかいな隣人は情報を探し出すことができる。だが、彼らはまだ不運の原理 を逸脱してはいないだろう。というのも、これらの情報については、誰もがまっ たくの偶然にたどり着くことができるからである。

一方でマッカーサーは、自分がしばしば訪れるヘルスクラブの更衣室を隠し カメラで監視されているとしたら、彼自身の服を着ていない人格の像(イメー ジ)はプライベートなものと考えられる、と言う。上記二つの違いは不運の原理 によって説明されるとマッカーサーは述べる。

別にゴミ箱のケースを考えてみる 。他人のゴミを隅々まで探すことは不運の 原理に適合する。というのも、曲がり角にあるゴミ袋は犬によって引き裂かれ、 中身を巻き散らかされる可能性があるからだ。また、突然の風があなたの銀行明 細を誰かの足元まで吹き飛ばすかもしれない。だから、この紙の切れ端を見て、 あなたの銀行の残高を知ることで、人はその情報を得るための努力をする必要は ないのだ。つまり、プライバシーの侵害がこうして起こることを訴えることはで きない。こうした理由から、誰かがあなたのゴミを持ち帰り倉庫に持っていき、 そこで隅々まで調べる(こうしてあなたの銀行明細を見つける)としても、その 人は合理的なプライバシーの概念によって保護されている情報を見ているわけで はない。その人は偶然にも、あなたの銀行明細を見てしまったのである。

道の向こうから、カーテンのかかっていない窓を覗き見ることは、あなたの 土地で不法な植物が栽培されているかどうかを判断するために、赤外線探知機を 用いて、あなたの家を調査することとはきわめて異なる。前者では、窓から収集 される情報は誰にでも偶然にも利用できる。後者は、最新の技術装置を用いると いう行動をとり、あなたの家の熱パターンについての情報にたどり着かねばなら ない。不運の原理が働く範囲は可能性のある例の中に限るのである。というの も、偶然見られることからプライバシーを保持する用心をすることは比較的容易 であるからだ。

マッカーサーはプライバシーの合理的期待は状況によってまちまちであると いう。例えば通りを歩く際、私は自分のブリーフケースのプライバシーには極め て合理的な期待を持っている。私はブリーフケースが見知らぬ人によって開けら れたり、正当な理由がないのなら、警察によってさえも開けられたりすることを 期待しない。それゆえブリーフケースの中の文書は私的なものとして適切に考え ることができるし、詮索の目で見られるべきではない。それに対し、空港を歩く ことは別の問題である。私と私のブリーフケースは検査されることになる。そう でないと考えることの方が非合理的である。ブリーフケース内の文書は検査官に 開けられることによって簡単に通行人に見られてしまう。ここではプライバシー を期待することは非合理的であろう。これらの考えは全てのセキュリティゾー ン、つまり美術館、学校、裁判所、政府の建物などで適用するだろう。主な違 い、つまり空港と路上との違いは自分のブリーフケースとその中身を、調べられ ることになる場所へ持っていくことを自ら選んだところにある。このことは我々 に二つ目の原理をもたらす。

2.2:自発の原理(The Voluntary Principle)

もし私が自分についてのプライバシーと自分の手元にある情報を周 りにさらすことで、プライバシーの相対量を減らすという選択をするのなら、私 はこのプライバシーが維持される合理的期待を減らすことになる。

プライバシーの相対量を減らすということは、不運によってその情報が他の 人の気を惹くという期待を増やすことである。例えば、ある人が額の上で自分の 社会身分証明番号を彫り付けることは、積極的に“自分のプライバシーが守られ る”という期待を減らしていることになるのだ。

マッカーサーによると、プライバシーは単に人物、物事、もしくは細々とし た情報についての問題だけなのではなく、社会やその社会の法の規範に従って社 会全体に制度的な方法で実際には適用されるものである。家の中での行動につい てのプライバシーを期待することは合理的である。というのも、我々が住む社会 では家庭内のプライバシーは価値を持ち、プライバシーを保護する法は合理的に 制定されているからである。空港内でポケットの中身のプライバシーを維持する のを期待することは合理的ではない。というのも、爆発物や武器を隠すことが容 易なこの時代では厳重な空港警備は合理的だ、と社会は考えているからである。 勿論この合理性は飛行機の破壊活動やハイジャックの社会的コストを防ぎ、また それに伴う厳しい警備による社会的利益を引き出す。この例には我々の感情につ いてのパラドックスがある。我々は自分が安全のために一緒に乗る乗客全てにつ いて、飛行機に損害を与え、違う目的地へとそらしてしまう可能性を消去するた めに完全な検査を一方では望む。と同時に、自分自身は検査されたくない、と望 むだろう。しかし、空港における自分の個人的立場のプライバシーを守りたい、 という望みはみんなの安全を守ろうとするみんなの望みの一般化とは相容れない ものである。自分のプライバシーは合理的だということを他者のプライバシーと 切り離して考えると、現代の社会の流れではそれはただの非合理的なことに過ぎ なくなる。

3:新しい技術とプライバシーへの合理的期待

新しい技術によって我々がプライバシーと考えるものの中身が変わり始めて いる。例はモビルトラック( www.mobiltrak.com)として知られるラジオのモニ タリング装置である。私が車の中で窓を開け放ってラジオを鳴り響かせながらあ たりをドライブすれば、私は自発的に偶然通りすがった人が私の合わせたラジオ 番組を聞けるようにしていることになる。不運の原理に従えば、私のラジオから シグナルを拾うモビルトラックのようなモニタリング装置は、詮索しない人にも 利用できる情報を記録しているので、プライバシーの期待を侵害することはな い。だが、私が窓を開けそしてラジオをそのように大音量でかけることなどけっ してしないのならば、実際に私のクルマに乗っていない人が私の音楽の趣味を知 るなんてことは極めてありそうにないことではなかろうか。すると、私がプライ バシーを維持することに注意すれば、モビルトラックは合理的にプライバシーの 期待を侵害するだろうか。この問いにマッカーサーは、誰もほとんどラジオの趣 味を隠すことに骨を折らないのでプライバシーを侵害するわけではない、と答え る。

マッカーサーは別の例も挙げている。スーパーマーケットは今や割引カード と呼ばれるものを客に利用できるようにしている。客はかなりの量の個人情報を 必要とする申込書に記入している。これらのカードは買う物を通す前にスキャン する(実際には少しの割引しかされてない)。だが、そのカードの真の目的は顧 客への割引ではなく、顧客データに集計される商品の情報を得るためなのだ。個 人の購入傾向が一旦わかれば、この情報によって将来有用なマーケティングの手 段が得られるのである。不運の原理をこの場合に適用させることは、データの収 集のプライバシーについての問題を明らかにする。手作業で店のプロフィールを 集めるシステムをとるスーパーマーケットを考えてみる。調査係がレジごとに立 ち、雑貨が通るたびにそれをチェックする。処理の終了に先立って調査係がお客 の名前と住所を尋ねる。すると、この情報は顧客のファイルにためられる。した がって、支配人は客の買ったものリストをざっと見通し、どの商品が売れるか、 もしくは客を店に戻すには何をすればよいか、結論を出すのである。調査の流れ がきわめて公であるがゆえに、ここでの調査に問題はない。なぜなら通りがかり の誰もが、その店の冷凍マメを私が買っているところを見ることができるわけだ からだ。そこでの私のIDはまた別の問題だろうが、私がクレジットカードや チェックなどで買い物をする場合には私のIDも問題となる。私が現金で支払う稀 な客だとしたら、自ら自分の名を名乗るか、断るかの選択をすることができる。 もし店が、そのシステムを用いるのに調査係を使うのなら、プライバシーの問題 はないであろう。なぜなら、(現金で支払うことにより)自分の名前を出さない ことを私は選択できるが、この場合いずれにせよカートの中身は誰にでも知るこ とができるという理由で、上記の例は不運の原理と自発の原理の両方を満たして いるからである。

しかし、現に使われているスキャンカードやデータファイルソフトを使う場 合は、その情報は客についての膨大なプロフィールへと同様に集められた別の データファイルと容易に併せられる。したがって、調査係が現れることを知って いるこの店で買い物をすることで、購買者は情報収集に自発的に参加している、 と言われるかもしれない。またそれぞれ集められた情報は不運の原理の基準は満 たされるが、商品の情報の収集はどちらの原理も満たしていないように思われ る、とマッカーサーは主張する。というのも、もしかするとデータを集める技術 のことを購買者は知らないかもしれないし、それが広く使われていることも知ら ないかもしれないからである。

自発の原理が時々説明される方法の一つに次のものがある。それはプライバ シーを維持しようとして失敗することによってその情報が公になってしまう、と いうものである。前に挙げた例に戻れば、社会におけるセキュリティ番号を自分 の額に打ちつけることによって、私は積極的にその情報が知られることになる見 込みを増加させている。電気技師が家にいる時に身分証明書を放って置いておく としたら、私は消極的に(注意の義務を怠ったことによって)その情報が知られ ることになる見込みを増大させているのである。自発の原理のこの消極的な側面 は、情報技術におけるプライバシーの合理的期待の構成要素を分類する際に重要 になってくる、と著者は言う。

4:インターネット空間におけるプライバシー

ここで著者は二つの例を考察する。個人のインターネットブラウジングがプ ライベートなもの(秘密のもの)であると期待することは合理的かということ と、Eメールはプライベートだと期待することは合理的かという問いの二つであ る。消極的自発の原理を不運の原理同様に使用することで答えは両方「合理的で はない」と彼は主張する。

まず、インターネットを考えると、クッキーや他のソフトを使うことでイン ターネットで訪れたWebサイトの履歴が用意に辿れるということは今やよく知ら れている。ほとんどのインターネットブラウザでは、たとえクッキーを受けなく ともコンピュータ自体の履歴ファイルに記録が残される。そしてほとんどの人々 がクッキーを認めるがゆえにDoubleClick(www.double-click.net)のような会 社は容易にインターネットを巡った記録をとることができる。それゆえ、イン ターネットにログオンするということは、全体を映している防犯カメラのある本 屋で雑誌を読むのと似ているように思えると著者は言う。インターネット上では 個人IDを隠すことや使われている様々な追跡技術をブロックすることを怠ると、 自発の原理の消極的な側面によって、個人はこの情報を本質的に晒していること になるのだ。著者は初めからワールドワイドウェブが密閉された環境というより も、透明な環境であると提唱する。例えば、部屋というプライバシーの中で日記 を書く、というよりも巨大なデパートで店から店へ渡り歩くことの方がその環境 に似ている。インターネットめぐりへのアクセスをコントロールする明確な社会 規範や法律を欠いていることを考えれば、この空間の中でプライバシーを期待す ることは合理的ではない。

次にEメールのプライバシーを考える。普通のEメールメッセージを送るこ とが安全からかけ離れていることは、当たり前になってきた。Eメールの露見性 についての新聞記事での一般的提言においては、Eメールメッセージは絵葉書の ようなものと考えよ、となっている。絵葉書にはメッセージがその受取人までの 行程で他の人々に読まれる数多くの機会が内在されている。最近の調べでは有名 企業のうち27%が社員のEメールをモニタするプログラムを置いていることがわ かったが、これは3年前の倍である。最近では、FBIの「Carnivore」システムに よって、犯罪の疑いがあるEメールの傍受が試みられている。このシステムは時 に、関係の無いEメールまでも傍受してしまう怖れもある。それゆえ、再度消極 的な自発の原理によれば、この従来不安定な領域でEメールを使うことは、ある 個人が書いたものがなんであれ、他者の目、恐らくは多数の他者の目に晒すこと になる。この透明性全てを考えると、Eメールにプライバシーを期待することは 合理的ではない。

プライバシーの期待がどの程度合理的であるかということは、その内容(防 犯カメラの前で雑誌を読むようなこと)と同様、情報が持つかもしれない特定の 形態を支配している社会の規範にも左右される。技術的な侵害や厳しい (heightened)皮肉はプライバシーの期待や、願望の合理性を必然的に打ち消す わけではない。

5:医療記録のプライバシー

重要な事例の一つに医療記録のプライバシーがある。個人の医療記録がプラ イベートなものであるという規範は、医療情報のセキュリティが極めて侵害され やすくなってしまったとはいえ、十分に発展してきた。そこで人々は医療情報に プライバシーを単に付与するということはほとんどなくなった。政治的に問題を 挙げることに加え、多くの人々が医療記録の保護をより堅固なものにしようと歩 み始めてきている。医療の現場(practice)を離れる時にファイルを取り出すこ と、保険会社を変えるときにその記録を問い合わせること、そしてオンライン上 では医療情報を提供しないこと、ということは全てこの方針においては賢明な方 法である。合衆国郵政公社を通じて移動する封筒や、陸線電話での会話のプライ バシーからは未だ程遠いが、医療情報はますます固く保護されているし、そのプ ライバシーの期待もそれゆえますます合理的である。

6:プライバシーと社会

一般的な問題として、どの程度我々がプライバシーを持つことができるの か、また合理的に持つことが期待できるのかということは、我々の社会の慣習や 法、そして潜在的な規範原則に相関的である。情報技術の急激な進歩は、我々の プライバシーに対する意識を真剣に問い直させるものである。プライバシーを守 るためには、技術の進歩に注意しつつまた、そんな防衛をもたらす様々な社会的 コストにも注意しなければならない。医療記録の例に見られるのと同様、社会的 コストが相対的に低く、技術的な方法が手作業であるようなところでは、高いプ ライバシーを期待することは合理的である。Eメールのプライバシーの事例に見 られるように、コストが高い・もしくは求められる技術が過度に複雑であるとこ ろでは、プライバシーはより低い期待を持つ羽目になる。この全てを分類するこ とは明らかに複雑な問題である。不運の原理そして自発の原理は、我々が皆期待 すべきプライバシーの大きさを是が非でも確かめる際には合理性を導く有用な指 針となるのである。

まとめ

技術の進歩によってプライバシーはもはや期待できない時代になっている。 いくらセキュリティシステムで自分のプライバシーを守ろうとしても、それをす り抜ける技術は次から次へと開発され、結局はイタチゴッコになってしまう。そ んな社会で何より求められるのは個人のプライバシーに関する規範やプライバ シーの侵害を取り締まる法の整備である、とマッカーサーは述べている。それ以 前に不運の原則や自発の原則などを鑑み、自らがプライバシーの防護を怠ってい ないかどうか確かめる必要がある。


(はやし せいゆう 京都大学文学部)
この記事終わり