出典:"Facing the future: Seeking ethics for everyday surveillance"in Ethics and information Technology 3.PP171-181,2001.
キーワード:検索可能なデータベース(searchable database) 、データ監視 (dataveillance これはRoger Clarke氏による造語)、社会的仕分け(social sorting) 、標準化(normalization)、人格(person)
本論文の筆者ライオン氏は、カナダのクイーンズ大学社会学部に在籍している。 以下では、ライオンしの論文を要約する形で紹介していく。
今日、我々は高度技術化社会において、データベースとつながったシステムによ る監視のもとで生活している。組織的に個人情報が集められることはもはや日常的に なっており、さらに我々は、自分の行動に関する情報が集められ、使われることに気 づいている。その際、指紋などのバイオメトリクスや遺伝子情報、ビデオカメラの映 像など、様々な方法が用いられ、断片的な個人情報をつなげて人物像が作り上げられ ている。
このような監視の激増によって生じる問題を扱う際には、「プライバシー」の概 念は不適切である。なぜなら、今日の監視が問題であるのは、プライバシーが侵害さ れるからではなく、「社会的仕分け(social sorting)」の中心的な手段となってい るためである。社会的仕分けとは、リスク評価とリスク理のために集団や個々人を分 類する社会的仕分けとは、誰が犯罪を犯しそうか、製品を買いそうか、サービスを求 めているかを事前に発見することによってリスクを最小限にしようとする試みであ る。
例えば、トロント警察では警察官が車内のパソコンで本部と無線通信を行い、犯 罪の種類と地域が集計されたデータベースにアクセスできる。犯罪のパターンをシミ ュレートし、予防するシステムである。言い換えれば、このシステムは容疑を分類す ることで犯罪を阻止しようとするシステムなのである。
分類することは、抽象的なデータを扱うがゆえに中立的に見えることがあるかも しれないが、そうではない。データベースの個人情報からのみ、ある個人がどういう 人物であるかという判断がなされたら、それは当人のアイデンティティーと矛盾する かもしれない。また、個人情報によって個人を分類することは、分類の対象となる人 々に影響を与え、社会に介入し、不平等を強化する。というのは、人々が分類される 範疇は彼らの個性を構築するのに寄与しているからである。ところが、分類の範疇そ のものは人の運命と選択にとって重要であるにも関わらず、倫理的・民主的考察の対 象になることはめったにない。
以上のような考察は新しいものではないが、現在ではより切迫したものになって いるため、今日の監視には新しい倫理学的アプローチが必要なのである。
今日の監視に対する新しい倫理的アプローチを考える前に、これまでに監視につ いての議論で使われてきた推論、メタファー、改善策について考えてみよう。まず、 メタファーについて述べていく。
過去20年間、監視の議論は「ビッグブラザー」と「パノプチコン」という、今 となっては古くさい二つのメタファーに支配されてきた。「ビッグブラザー」は George Orwellの「1984」という小説で使われたメタファーで、国家権力による個人 の監視に焦点が置かれている。今でも監視の議論にはおきまりのように引用される が、今日の状況は電子技術の使用と国以外の組織による監視が存在するという点で当 時とは異なるため、今日の監視についての議論には不適切なメタファーである。
もう一つの重要なメタファーである「パノプチコン」は、J.Benthamの弟が考案 した円形刑務所の構造であり、J.BenthamやM.Foucaultの研究によって思想的に洗練 された。パノプチコンでは、ブラインドで看守の姿が隠されているため、監視されて いるかどうか不確かであることが囚人の恐怖を呼び起こし、彼らを自律させる。「ビ ッグブラザー」と「パノプチコン」はともに、恐怖が監視対象をコントロールするの に役立っているのである。ただ、「パノプチコン」の場合は、「ビッグブラザー」の ように監視者によって見られていると確信することで感じる恐怖ではなく、見られて いるかどうかわからないという恐怖である。どちらの場合も、Foucaultが「生の権力 (biopower)」と呼んだものによって人が標準(normalized)される仕組みである。
「パノプチコン」が有する監視者(supervisory)と見張り(monitoring)の機 能は、今日の電子技術によるデータ処理にも備わっている。データベースによる監視 は我々をパターンにはめ込み、そのパターンによって作られた選択形式を我々に与え る。データベースの問題は、プライバシーの侵害よりも、人々を標準化する「生の権 力」を可能にしたという点にある。パノプチコンのメタファーは、監視の議論を倫理 学の舞台に導いてくれるが、問題も多い。(著者はRoy Boyneの議論を参照して、現 在の監視はパノプチコン的な監視を超えているため、「パノプチコン」だけでは十分 ではないと述べている。)
次に、データ保護とプライバシー関連法という、これまでに行われてきた対処方 法をいかにしてよりよいものにするかという問題を考える。プライバシーについての 議論は、個人の尊厳に関わる倫理原則に基づいて行われてきたが、問題はそれが今日 の、データベースによる監視に対するアプローチとして適切か、ということである。 プライバシーという言葉は文化的・歴史的に相対的で、主観的なので、議論を個人的 なレベルに引き下げてしまう。また、プライバシーに代わるデータ保護(data protection)という概念は、個人・集団・組織が自分の情報を他人にどの程度伝える かを自分で決めたいという主張であるが、倫理学的に精密化されていないので、これ を基本的人権と結びつけて考えるのは難しい。
また、データベースによる監視は差別システムを生み出し、個人を個人情報によ って勝者と敗者に分ける。これは、今まで監視について言われてきたようなプライバ シーなどの問題ではなく、個人情報の扱いが統制なしに行われた結果である。統制な しに個人情報を加工することで、政治的管理や誤った判断を招く危険がある。
この状況に対して、Gary T. Marxは人格の尊厳とそれに関わる信用の価値と、共 同体への影響を尊重する、監視のための新しい倫理学を提唱した。
監視に対する倫理的批判を人間の尊厳から基礎づけようとするMarxの考え方は、 正しいように思われる。私は、これまで人格の尊厳といったものは監視についての議 論の前面に出されるべきだと主張してきた。もし、断片的な情報から作られた「デジ タル人格(digital persona)」や「データによる身代わり(data double)」が、逆 に亡霊のようにもとの人物を脅かすとしたら、これは「プライバシーの侵害」を超え た問題である。分類されたデータが、データ主体のアイデンティティーと食い違った としても、データ分類の範疇は主体に影響を与える。問題は、データの主体である人 の選択を制限したり、不公平が生じるということである。
コントロールされることや不平等についての問題は、社会的な意味での人格に関 わる。しかし、監視によって集められたデータは抽象的なものであって、そのデータ が採集されたもとの具体的な(肉体を持った)人格から切り離されてしまっている。 そこで私は、「人格」は肉体を持った個人を表すべきだと主張したい。
しかし、これまでに論じてきたように、「人格」は日常監視という社会的現実に 巻き込まれてしまっているのである。データによって構成された人物像(data image)は、抽象的ではあるが、全く無害なものというわけではないからである。デ ータベース管理者はこのことを念頭に置き、データの主体である人は潜在的な危険に 注意しなければならない。監視システムの説明責任は、データを集められる側よりも 集める側に要求されるべきであり、個人情報が当人にわかるような影響を及ぼすこと を認識することから始まる。そのため、「人格」に対する配慮はコントロールへの抵 抗として注目すべきである。
このような一連の問題は次のようにして解決することができる。その第一のステ ップは、監視システムがどのように動いているのか、データ使用者が何をしているの か、知ることである。分類の仕組みを知ることは、きわめて重要である。第二のステ ップは、人間の尊厳や社会的正義が何によって構成されているかを見いだすことであ る。このとき、私は具体化された、社会的な「人格」が出発点となるだろうと考え る。そのために、個人を分類するだけでなく、様々な範疇によって全体的にデータの 主体である人を捉えることで、「人格」という概念に内実を与えることができるだろ う。しかし、肉体が取り戻され、顔があるべき場所に取り戻されない限り、日常監視 システムは我々を脅かし続けるだろう。