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特集:コンピュータ倫理学の将来
第二回:ジョン・ウィッカート「コンピュータ倫理学:将来の方向」

佐々木拓

第二回はジョン・ウィッカートの「コンピュータ倫理学:将来の方向」を紹介する。 ウィッカート氏はオーストラリアのチャールズ・スチュアート・ユニバーシティのSI S(School of Information Studies)の特別講師である。 今回紹介する論文は、前回のムーアのものに比して具体的な問題を扱う。現在のIT社 会に生じている問題を具体的に取り上げ、それに基づいてコンピュータ倫理学者が今 後どのような立場をとりうるか、そしてとるべきかについての主張を行なう、という のが彼の議論の構造である。それでは、以下、彼の構成に基づいて論文を紹介する。

出典:Weckert, J., 'Computer ethics: Future directions' in Ethics and Information Technology 3: pp. 93-96, 2001.

キー・ワード:バーコード(bar codes), データ照合(data matching), データ・マイ ニング(data mining), 従業員の監視(employee monitoring), グローバル倫理学(glo bal ethics), 人間‐コンピュータ間のインタフェース(human-computer interface), インターネット規制(interenet regulation), プライバシー(privacy), 責任(respon sibility), サーチ・エンジン(serch engines).

コンピュータ倫理学が学として登場した当時の問題は主にスタンド・アローンのコン ピュータに関するものであり、内容としては、ソフトウェアの製作者の専門家として の責任や海賊版ソフトウェアの作成、巨大データベース上にあるデータに関するプラ イバシー問題などが中心であった。しかし、現在、問題の焦点はコンピュータ・ネッ トワーク、とりわけインターネットに移っている。ウィッカートは以下、コンピュー タ・ネットワークに潜む倫理的問題のいくつかを具体的に列挙し、その問題点を指摘 する。

1:プライバシー

情報技術の発展により、情報を集積、照合し、そこから有益な情報を推論する能力が 飛躍的に向上した。しかし、そのことにより個人のプライバシー侵害もまた増大する こととなった。その要因として、ウィッカートは「データ・マイニング」を取り上げ る。データ・マイニングとは、有意味な法則やパターンを発見することを目的として 膨大な量のデータを探索、分析することである。データ・マイニングによって得られ た法則やパターンは、例えばビジネスの文脈では、広告のターゲットや顧客の絞込み に用いられる。

ウィッカートはデータ・マイニングの特徴を、表面上は「大企業に中小企業と同じ顧 客の知識を与える」と表現している。ウィッカートは行き付けのコーヒー・ショップ とスーパーを例にして説明する。例えば、行き付けのコーヒー・ショップでは、店員 は私のコーヒー豆やグラインドに対する選好を知っており、それに基づいたサービス をしてくれる。一方、スーパーマーケットでは、私は前者と同じ商品を手にいれるこ とはできるが、同じサービスは受けることができない。しかし、データ・マイニング を用いれば、少なくとも表面上は、スーパーにおいても行きつけの店と同じサービス が受けれるかもしれない(例えば、カートに欲しい豆の情報が表示される等)。さて、 ここにどのような問題があるのだろうか。ウィッカートによれば、データ・マイニン グの問題は、個人データが集積されることにあるのではなく、データの中に規則性や パターンが言い出されることにある。しかし、これだけではまだ問題の焦点が不明瞭 であろう。ここで注目すべきは、個人データが公の場にあるとしても、それがば らばらにあるのと、データの連合があるのとでは我々の態度が大 きく異なるということである。データ・マイニングはデータの連合を発見する。 このことにプライバシーの問題が存するのである。

問題を具体的に把握するため、ウィッカートは次のような状況を考察する。私がある スーパーでレジを通る際に、誰かが私の買ったもにいちいちメモをとり、最後に名前 と住所を聞いたとしよう。私が買物をするさまを誰かに見られるのは構わないが、こ のような状況では少なからず嫌な思いをするだろう。また、仮に私は同じスーパーで、 同じ日に、しかし異なった時間に、1枚づつチョコレートを買うとしよう。その時、 私は毎回違うレジ係と顔を合わせる。個々のレジ係は、「私がチョコレートを買った」 ということは知っているかもしれないが、私が何枚チョコレートを買ったかは分から ない。しかしデータ・マイニングが行なわれれば、私とチョコレートの関係はすぐさ ま明らかになるだろう。以上の2つの例で「私」が懸念を抱く状況はバーコードやク レジットカードの使用、そしてそれによって得られたデータをマイニングすることに よって日常的に生じるものである。

プライバシーの問題はデータの連合が公の場に置かれることである、とウィッカート は分析しつつ、さらに、データ・マイニングの場合、それらが忘却されず、さらなる 利用と推論のために保存される、という点を強調する。例えば、コーヒーショップの 店員が持っている私のコーヒーに対する選好というのは、確かに公の場にある私のデー タの連合であるかもしれないが、それはどこにも書きとめられておらず、いつかは忘 却される。データが忘却されるのは非常に重要なことである。しかし、デー タ・マイニングの場合、それがない。どのようなデータ・マイニングが受容され、ど のようなものが受容されないかを決定するにはさらなる研究が必要とされるものの、 データの連合が発見され、それが消去されずに保存されるというまさにこの 点にデータ・マイニングに関するプライバシー問題が存する、というウィッカートの 主張は、強調すべきポイントである。

連合と忘却の問題は別の文脈においても生じている。ウィッカートは例として、犯罪 に関する情報を公開しているサイトCrimeNetをあげる。このサイトの趣旨は、犯罪歴を持つ人の知識を身につけることで犯罪か ら身を守る、というものである。しかし「自分の子供を幼児虐待歴をもつ人間の家に 近づけないようにする」という文脈ではこのサイトは正当化されるかもしれないが、 犯罪者の更正という文脈においては、このサイトは犯罪歴を持つ人にとって大きな障 害となるだろう。CrimeNetは「サイト内の情報は政府機関によって公開されている」 と主張しているが、苦労して調べなければ分からない状態に情報がおかれているのと、 インターネットで容易にアクセス可能な状態におかれていることには大きな違いが存するのである。

2: 従業員の監視

近年、従業員が、会社のコンピュータ機器を不適切に使用したとされて解雇される事 件が生じている。ウィッカートによれば、この事件によって新たなる問題が浮かびあ がる。すなわち、雇用者が従業員を監視するのが道徳的に許されるのはどの程度まで か、という問題である。現在、米国では2/3の企業が従業員を監視している。しかし ながら、職場でのプライバシーは後回しにされる一方で、最近では、より精巧になっ た監視用ソフトウェアが導入されても波風1つ立たない状況である。そして、雇用者 も従業員も監視を当然のものとして受け入れている。

しかし、この事態はもっと注意深く考える必要がある。ウィッカートによれば、コン ピュータのモニタリングが当然と考えられる背景は次のとおりである。従業員は、雇 用者が所有している機器を用いて働いている。それゆえに、その機器において生じて いるすべての活動を雇用者は知る権利がある。ウィッカートはこの推論に疑問を投げ かける。確かに、作業がコンピュータ資源を利用している以上、コンピュータのパ フォーマンスを低下させるような利用は不適切であるかもしれないが、個人的利用が 何の害も与えないのならばそれは許容されるべきである、とウィッカートは論じる。 ウィッカートは、会社のコンピュータの私的利用の全面禁止を「自分のおもちゃで遊 んでいる友人からおもちゃをとりあげることである」と批判している。

モニタリングによる弊害は、コンピュータの私的利用の禁止以上に、個人のプライバ シーの侵害が懸念される。何らかの不正利用の証拠がある場合に従業員のインターネッ ト上での活動を監視するのと、何が起きているかを知るために常に従業員の活動を監 視するのには大きな違いがある、とウィッカートは主張する。そして、後者は明らか なプライバシーの侵害である。具体的には、公のスペースにあるコンピュータのスク リーンにわいせつ画像を置いておくというのは、もちろん禁止されるべきであるが、 同じ画像を、会社から与えられている個人の机にあるコンピュータの中の個人用 のフォルダに置いておくことを禁止するのはプライバシーの侵害であるといえよう。

3: 責任

最近のいわゆる「Love Bug」ウィルスによって責任の問題に関する新たなる 研究が必要になった。ウィルスの頒布者は当然非難されてしかるべきであるが、その 一方でマイクロソフト社もまた責任を追求されるべきである、とウィッカートは述べ る。その根拠として、マイクロソフト社の製品は十分に安全ではなく、さらにそれほ ど大きな労力なしに改善できた、というのが挙げられる。この具体例を別にしても、 ソフトウェアが安全でない場合には製造者がいくらかの責任を負う、というのは一般 的に認められる議論であろう。例えば、航空会社のセキュリティがゆるかった際に生 じたハイジャックに対しては、ハイジャッカーのみならず航空会社もまた非難される べきであろう。これと同様なことがコンピュータソフトの製作者とウィルスとの間に も言うことができる、とウィッカートは主張する。これとは別に、ユーザ側に責任が ある場合も考えられる。例えば、システムの脆弱性を知りつつ利用していた場合に、 そのせいで生じた危害に対してはユーザ自信が責任を負わねばならないであろう。

4: 平等と人間‐コンピュータ間のインターフェース

次いでウィッカートが取り上げるのは、コンピュータ利用の際の平等の問題である。 この問題はとりわけ、人間‐コンピュータ間のインターフェース(HCI)のデザインに 関して持ち上がる。特定のインターフェースは、ある人々には使いやすいが、別の人 々には使用困難か、使用不可能なものであるという点で、バイアスを含んでいる。 しかし、HCIのデザインの公正が義務であると言うのは簡単だが、何が公正と不公正 を構成するかを述べるのは難しい。例えば、他により理解可能な言語が存在するにも かかわらず、ある潜在的なユーザにとって理解不可能な言語をもちいているインターフェースというのは、不公正で、差別を含むものといえるかもしれない。例えば、こ れは白人の若年男性を主だった対象としたインターフェースに起こりうる事態である。 しかし、ここでウィッカートは、特定の身体的障害をもつユーザーが利用できないイ ンターフェースというものを考える。果たしてそれは不公正であるといえるのか。

ウィッカートの答えは「場合によりけり」というものである。仮に、わずかなコスト でそれが利用可能になるのに、それを行わないのは不正であるといえる。しかし、改良のコストが余りにも高く、そのコストのために逆にソフトが提供不可能になってしまうほどに改良が難しい場合に限り、上記の意味でのバイアスがかかったインターフェースは許容されるだろう。ウィッカートがここで述べる最終的な基準は以下のようなものである。「ウェブ・サイトはすべての潜在的ユーザにとって平等に利用可能でなければならない。ただし、これを実現するコストがサイトの利用自体を不可能にする場合を除く。

5: その他の問題

その他の問題としてウィッカートがあげるのは、(1)サーチ・エンジンやインターネッ ト上の仲介者の問題、(2)地球規模の倫理学の必要性、(3)インターネット規制である。 (1)に関しては、やはり公正さの問題が浮上する。仲介者は情報の位置付けや配置に 関して公正さに配慮しなければならない。(2)に関しては、とりわけ電子商取引が念 頭に置かれる。我々は異なる文化間に共通なものを見出し、共有できる何かを作り出 す必要がある。(3)に関しては古くはわいせつ画像の問題や、最近ではインターネッ トギャンブルの問題があがっている。インターネットが我々の生活の上で中心的な役 割を担うにつれ、その規制に関してもより大きな注意が払われねばならなくなるだろう。

6:将来のコンピュータ倫理学の実践

 

本節ではウィッカートはこれからのコンピュータ倫理学のあるべき姿というものを提 示する。  

ウィッカートはまず、「コンピュータ倫理学はいっそう厳密に、そして理論的基礎を 強固に発展させなければならない」と述べる。というのも、現在のコンピュータ倫理 学は一般的な倫理学や十分に成長した応用倫理学(例えば環境倫理学)に比べて、研究 の数が圧倒的に少なく、論文にしても同じトピックに関するレファレンスが少なく、 それらに対する検証も少ないからである。

第2に、理論家と実践家が密接に連結しなければならない。ウィッカートによれば、 どちらか一方だけでも有用ではあるが、しかしコンピュータ倫理学の目的を果たすに は不十分である。コンピュータ倫理学が世の役に立つ学となり、真剣に受け止められ るためには、実践的な問題を理論的に検証し、その時代の技術の能力内で可能な答え を提示しなければならないだろう。

最後に、各研究分野間の協力が今まで以上に必要になる。ウィッカートは、最低でも コンピュータの技術者及び学者、哲学者、心理学者、社会学者、法学者間の協力が不 可欠である、と言う。このような学際的な協力なくしてはコンピュータ倫理学の進歩 は限られたものになるだろう。

7: コンピュータ倫理学の効用

ウィッカートは最後にコンピュータ倫理学の有用性に言及して論文を締める。ウィッ カートはコンピュータ倫理学の効用として次の3点を挙げる。まず第1に政策決定への 寄与、第2にコンピュータの専門家やユーザの教育、第3に「ソクラテス的な役割」 である。ウィッカートは特に最後のものを強調する。コンピュータ倫理学者は、情報 技術に関して現在何が問題であるのか、そして何が不明瞭であるのかを問いつづけな ければならない。コンピュータ倫理学は世界で起きているあらゆる問題への万能の良 医ではないが、情報技術に関わる専門家やユーザに対して倫理的な問題提起を行なう ことで、十分に価値ある研究となりうるだろう、というのがウィッカートの結論である。

8:紹介者コメント

個々の問題の分析に対する批評はさておくとして、本論文において最も注目すべきは ウィッカートが示したコンピュータ倫理学者の役割、とりわけ「ソクラテス的な役割」 である。この役割の実践は、コンピュータ倫理学者に限らず、応用倫理に関わる者全 てに対して要請されるべきものであろう。コンピュータ倫理学者はこの役割を実践す ることにより、教育者的な役割や政策決定的な役割に大きく寄与できるであろう。 さらに、ソクラテス的役割を十分に果たすことはウィッカートが示したコンピュータ 倫理学のあるべき姿を実践することでもある。すなわち、理論と実践を結び付け、か つ他の研究分野をまとめるコーディネーターとなりうることを可能にするだろう。し かしそれにはまず、コンピュータ倫理学自体の厳密化が必要となるであろう。従って、 コンピュータ倫理学者にとってさしあたり必要なのは、ソクラテス的精神に則りつつ、 より詳細で網羅的な研究論文を書き上げることであろう。


(ささきたく 京都大学大学院文学研究科)
この記事終わり