出典: Maria Bakardjieva and Andrew Feenberg, "Involving the Virtual Subject " in Ethics and Information Technology、vol. 2. PP.233-240, 2000.
以下に紹介する論文では、オンライン上のリサーチ倫理 (research ethics online)に関する論議における問題点が吟味されている。著者であるバカルジエヴァ(カナダのカルガリー大学コミュニケーションと文化学部の助教授)とフィーンバーグ(サンディエゴ州立大学の哲学教授)は、次のように主張する。すなわち、オンライン上の共同体をリサーチする際の倫理的問題の中心にあるのは、私的領域(privacy)と公共性という二分法ではない。そして、問題となるのは、そのような共同体において個人が作り出した情報の他者による使用、つまり情報の「譲渡(alienation)」である、と指摘する。 両著者は、リサーチ倫理を考える際の「非譲渡原理(non-alienation principle)」がオンライン上での新しい社会的規約の基盤とされるべきだと提案する。 最後に両著者は、この非譲渡原理を考慮に入れつつオンラインリサーチの方法論を検討し、現状のオンラインリサーチに適合する新しい倫理的な基準と管理上の基準が必要であると結論する。
なお、両著者はサイバースペース、オンライン共同体、ヴァーチャル共同体という言葉を頻繁に使用する。厳密に言うならばこれらの語はそれぞれ異なった意味を持つので区別されるべきだが、紹介論文中においてはほぼオンライン上のものを指し、互換的に使用されていると思われるので、便宜上すべて「オンライン共同体」と訳した。以下、両著者の論議の体裁を守りつつ、論文の要約という形で紹介する。
インターネット上における人間を対象とするリサーチにおいて、フランケルとシアングは、倫理的および法的側面について多大な問題を引き起こすインターネットの三つの特徴を指摘している(この論文はここで参照可能)。それらは、(1)プライベート・ドメインとパブリック・ドメイン間の曖昧な区別、(2)匿名と偽名でのコミュニケーションの容易さ、および(3)そのようなコミュニケーションが世界規模であること、である。
オンライン共同体の倫理について著者たちが行ったリサーチは、このような問題に直面した。彼らのリサーチプロジェクトは、オンライン共同体の持つ意味と、その共同体内で維持されている倫理的原理をそのメンバー自身が認識しているままに把握することを目的としていた。この計画を進める為には、オンライン上の諸グループの活動に接触する必要があった。オンライン上の共同体に関する著者たちの研究を正当化する試みは、オンライン上の被験者のプライヴァシーについて懸念を抱く匿名の批判者からの激しい抵抗に衝突した。プライヴァシーがオンライン上のリサーチにおいて問題となってきたのは、それほど驚くべきことではない。コンピュータ・ネットワークの利用者が、オンラインで議論を書き込むという形で電子記録をより活発に作り出すにつれて、倫理学者は、個人データの保護という従来のモデルの観点から、この新しい状況を解釈しようと試みて来た。だが、個人データ保護のモデルをオンライン上の社会的相互交渉へ適用すると、結果的に研究者にとって先例の無い問題が生じることになる。
このような問題を解決するため、両著者は、オンラインリサーチ倫理に関する中心的な二分法および逆説を吟味する必要があると言う。著者たちの出発点は、『情報化社会 (The Information Society)』誌の特集号である。というのは、この中で研究者たちは、異なる指針や方法論的方向性を提示しながらこぞって自身のオンラインリサーチ倫理を考察しているからである。これらの研究者達にとって、オンライン上での倫理的なアクセスやデータ使用を決定する最も重要な要素は、そのグループがパブリック・ドメインで活動しているのか、プライベートで制限された空間で活動しているのか、である。論文投稿者たちは、パブリック・ドメイン基盤で活動するグループに対する観察ならば明示的な通知や参加者の同意を得ることなしに行い得ると主張する。けれども、公共性対私的領域という観点から見たオンラインフォーラムの地位は不明瞭である。「技術的にアクセスし得るということは公共性と同一なのか」という問いは、幾度となく繰り返されてきた。多くの研究者達は、「幾つかの空間は、その経験的な本質ゆえに全く公共的であり、コヨーテであろうが誰でもその空間に近づくことができる」と考え、この問いに肯定的に答える。フランケルとシアングは、この立場を「技術的視点 (the technological point of view)」と呼んでいる。
他の論者の主張によれば、研究者は、フォーラムの「知覚されたプライヴァシー(perceived privacy)」をオンライン上のグループ参加者によって経験されるものとしてもっと真剣に捉えるべきである。しかし、これらのフォーラムがプライベートなものとして定義されるならば、被験者は、あらゆる場合において、観察の許可を求められなければならないであろう。加えて、研究の対象がグループである際には、個々のメンバーの感情がひとつひとつ考慮に入れられなければならない、ということになる。極端に言えば、これらの要求は、被験者が常に研究対象となることを通告され、それに同意するかどうかを求められるべきだ、という意味に取れる。また、その要求は、研究対象であるグループのメンバーがひとりでも参加することに不同意を示した場合には、他の得られた同意を無に帰すということになる可能性があることも意味する。このような意見の不一致を考慮に入れるならば、われわれは如何にして、研究対象にしたいと思うオンライン上の団体や共同体の公共性ないしはプライヴァシーを決定すればよいのだろうか? 公共性の極としてウェブサイトおよび掲示板を、プライベートの極として私的なチャットや電話での会話をとった際に、現実世界でのプライヴァシーとオンライン上のプライヴァシーレベルの連続性を認めることで、われわれは、公開メイリングリストやコンピュータ会議に代表されるオンライン共同体をグレイゾーンの中間に置き去りにしてしまうのである。
次に両著者は、すでに見たオンライン上のリサーチに関する諸問題を、リサーチを行う過程で発見した事実と、社会学的な方法論との兼ね合いから考察する。
ヴァーチャル共同体の倫理を吟味するという著者たちのプロジェクトは、このグレイゾーンに位置するオンラインリサーチの典型的な事例である。 方法論的に言えば、グループフォーラムについてのデータを収集する最善の方法は、恐らく収集者の存在や課題をグループのメンバーに明かさないことであろう。 というのも、それらを明かさないことがそのメンバーの言動に影響を与えてしまうことを防ぎ、そうすることによって、彼らの自然に生じる会話を把握することができるからである。しかしながら、倫理的な観点から考えれば、もしこのような類の「自然経過観察(naturalistic observation)」を何も知らない被験者に対して行ったならば、それはスパイ行為とほとんど変わらないものとなるであろうし、また、それはむしろオンライン共同体の「倫理」に関する研究計画という立場にそぐわないものとなるであろう。 以上のような理由から、著者たちは、データを収集し始める前に、研究対象であるグループの同意を求めるということを決定した。 著者たちは、リサーチを行う前になされた会話内容の過去ログを調べる許可を得ることが上記の対立する諸要求へのはっきりとした解決になるであろうと考えていた。 しかし、実際には、リサーチの初期段階から、彼らは以下のような驚愕と困惑に陥ることになった。
著者たちの概念的対象は、「オンライン共同体」であった。これを経験的研究の対象へと書き換えるためには、彼らは実際に活動しているオンライン共同体をひとつ以上選び出さなければならなかった。そして、適切なものを選出するために、彼らは幾つかのオンライン共同体について学び、多様なオンライン共同体の背景となる情報をも集めなければならなかった。結果、研究対象となるような共同体を選ぶことそれ自体がリサーチの過程に属するものとなった。しかし、この予備的な観察や情報収集もリサーチのガイドラインという倫理の下に置かねばならないのだろうか? この問いに対する明確な解答を見つけられないまま、対象とした共同体を覗き見ることは、著者たちに幾分か罪悪感をもたした。
著者たちは、オンライン上のグループのひとつが彼らの求めている基準を満たしていると考え、その共同体のメンバーから同意を得ることにした。研究に対しての公式な承認を得る以前、その共同体に潜伏して会話の内容を読んでいる際に、著者たちは、そのウェブサイト管理者が提起した著者たちのプロジェクトに関する議論を見る機会を得た。この議論は、リサーチ対象となる人々の気持ちや懸念を理解するのに示唆に富むものであった。にもかかわらず、著者たちがこのような感情や懸念を知りえた状況は、そのメンバー達の同意がまだ得られていない状態であったので、倫理的に妥当とは言えないものであった。われわれは、どの時点で自分が巻き込まれている世界について学ぶことを経験するひとりの人間として把握されるのだろうか?そして、どの時点で倫理的責任を有する研究者として、それを始めるのか?その時点より以前に得たその知識が問題となるのであろうか?その知識を同僚や生徒、読者といった人々に広めるのは倫理的なのだろうか?もしそうならば、どのような状況でそうなのだろうか?これらの問いに対する答えが、容易にアクセス可能であるという意味で公共的であるものと、それが合法的な公共の利益に関するという意味で公共的であるものとの間にある微妙な区別に依存していることを、われわれは見て取るであろう。
グループのメンバーによって行われた数日間に及ぶ著者たちのプロジェクトに関するオンラインフォーラムの末、このグループは同意に至った。そのグループは、リストに書き込みをする者が、その書き込みをしている時点で、「前もって」それがどのように使用されるのかを分かるようにするべきだという意見を共有していた。このため、著者たちが過去の記録を使用することは不可能になってしまった。著者たちにとっては、保存されている記録を調べるという方法が「自然な対話 (naturalistic discourse)」と、そのグループの進行中の活動を阻害しないこととを保証するものであった。だが、そのグループのメンバーにとっては、過去に掲示されたものは研究で分析されることを想定したものではないという理由で、問題があるものだった。
この箇所で両著者は、オンライン上の共同体を調査対象にする際に生じる倫理的問題の根底に、私的領域と公共性という二分法があるのではなくて、譲渡があるのだと論じる。ここでの議論は重要であるため、綿密に紹介する。
オンライン上のグループは、明確な定義をすり抜ける実に特異な社会形態のひとつである。多くの点で、オンライン共同体は、ゴフマンが呼ぶところの「アクセス可能な参加 (accessible engagements)」に似ている。それは、傍観者を含む状況で行われる一群の人々相互によるうわべの参加や即席の参加である。ゴフマンの考えでは、そのような状況下で行なわれているコミュニケーションを統一するために、社会的取り決めが生起することになる。適切に指導されたその共同体のメンバー達は、コミュニケーションの障壁が、実際の「身体的閉鎖(physical closure)」の不在に際してすら、「規約的な状況的閉鎖」(conventional situational closure)」を可能にしていることを認めるであろう(紹介者注: コミュニケーションの障壁は見知らぬ人達に自分たちの会話内容を知られないようにするものであろう)。したがって、われわれは、公共の公園やカフェなどで会話に参加する自分たちと一群の人々との間に、コミュニケーションの障壁が存在していることを容易に認め、歓迎することになる。このゴフマンの手法を公共の場でのプライヴァシーに応用して、カバナウ(この論文はここで参照可能)は、自己同一性の諸側面がオンラインという状況下ではより容易に他者によって奪われることに注目する。カバナウは、この「自己の散乱(the dissemination of the self)」による自己制御の喪失が、「会話の保護領域(the conversational preserve)」の侵害から帰結すると主張する。「会話の保護領域」とは、「会話に参加している一群の個人が他者の乱入や盗み聞きから保護されるようにする彼らの権利」を意味する。
しかし、オンライン上での集会におけるコミュニケーションの境界を統制するための社会的取り決めはまだ何ひとつ確立されていない。では、そこでは如何にして会話の保護領域の境界線が引かれるのだろうか?オンライン上の共同体について、人々が共通に保持している信念のひとつは、共同体とは本質的に他者と会合をしたり会話をしたりするためのフォーラムであるということである。したがって、オンライン上の共同体は、参加したいと望む者を誰であれしばしば歓迎するのである。この風潮は、オンライン上のプライヴァシーの権利という主張と矛盾する。そのような共同体に参加者としてなら誰でも参加し得るのに、研究者として参加するならば特別な許可を求められるということに一体どのような意味があるのだろうか? ニッセンバウムは、この明白な矛盾に対しある洞察を促す「文脈の保全(contextual integrity)」の概念を練り上げた。文脈の保全とは、被験者が関与する無数の状況、取引、人間関係において、彼らが自分自身についてどの程度の量の情報、どのような類の情報を提供したいのか、ということを規定する明示的規範および暗黙の規範への配慮である。特定の諸状況に対する特定の情報の重要性と適切さについて被験者自身が持つ感覚が、文脈保全への規準となる。ニッセンバウムは、常用物の購入といった多くの活動が今や電子的な監視下に置かれているので諸個人は理に適った「公共の場におけるプライヴァシー」の権利を持つと論じる。ニッセンバウムの文脈保全という考え方は、ゴフマンの規約的な状況的閉鎖というよく観察された概念から、妥当な倫理的結論へと進む方法を提示するので役に立つ。にもかかわらず、この概念でさえも、オンライン上の諸集団が持つ矛盾を孕む性質を完全には包摂してはいない。というのも、それらのメンバーは、公共性を含意していると思われるある開かれた状況下で、一般的な公共の利益の問題についてしばしば議論すると同時に、自身の産出したものに対する特別な権利をも主張するからである。
それはどのような類の権利なのだろうか?著者たちによれば、プライヴァシーは実際のところ中心的な問題ではない。むしろ、それは、参加者が参加している共通の活動へと非常に深く自身を没頭させるがゆえに、共同の創作に対し所有者としての利害関心を感じることが問題の中心にあるためであろう。オンライン共同体の(多くの人によって公共性と正しく解釈される)「経験的」開放性と、そのメンバーの主張とを調和させる鍵となるのは、所有権の不確実性の観点から問題を再定式化することである。両著者は、この仮説を、調査を行ったグループの観察結果から証明する。
オンライン上の共同体への参加は、具現化(objectification)と譲渡との複雑だが理解され得る弁証法に関わるので、メンバーと観察者の両者にとっての不安材料となる。具現化とは、自己の意識生活の物質的、象徴的痕跡を作り出すことを示す。われわれは、他の人々によって観察、解釈、利用され得る自分の行為の産物において、われわれ自身を具現化する。この意味の具現化とは、公共的な領域の中での自己実現、声、創造性や被験者への権限付与と似ている。インターネットは、この具現化の様々な新しい形態を作ってきた。他方、譲渡とは、誰かの行為の所産を、その行為者自身に意図された、または予見された目的以外で流用することを意味する。また、それは、それらの産物を生産者が知ることも制御することもできない関係の体系へと引き込むことも指す。インターネットの利用者達は、自身を様々な新しい形態へと具現化するため、思いがけない譲渡の形態へ身を晒すことになる。譲渡は、影響を受ける人々に常に危害を加えるというわけではないが、無礼で、その被害者の権限を無力にする可能性がある。オンラインフォーラムの参加者達は、この危険性を自覚している。
両著者の考えでは、プライヴァシーではなく、譲渡こそが、ほとんどのオンライン共同体リサーチに関する倫理的問題の事実上の核である。実践上、すべての人がオンライン上の共同体に参加することを許可され、またしばしば歓迎される(このことがプライヴァシーの権利を侵害している)一方、参加者は、その共同体のメンバーや訪問者達がその集団的なコミュニケーションによって生み出されたものを利用、「拾集(harvest)」、または売却したりする権限が無いことを当然と見なしているようである。産物の利用、拾集、売却をする為には、彼らは、コミュニケーションの内容が作り出される前に、承認を求めるよう期待されるだろう。そうすれば、自分が作り出したものを管理するという参加者の権利を是認することになる。この「非譲渡原理(non-alienation principle)」がオンライン上での新しい社会的規約の基盤とされねばならない。この原理は一般の人に適用されるように、研究者に対しても適用されるであろう。
プライヴァシーと非譲渡との間の相異に関する興味深い例は、著者たちが研究したグループの一人のメンバーによって示された。そのメンバーが著者たちの研究対象になる際に反対していたのは、彼女の人格が具現化された産物との乖離の可能性であった。彼女は、その産物はひとつの目的と文脈で作られたものであるから、彼女の制御が及ばないような別の関連の無い目的で使用されたくないと思っていたのである。彼女は、「あなた方のお好きなように読んで頂いて結構ですが、引用されるのはごめんです」と主張した。 この主張は、プライヴァシーではなく、譲渡がこのメンバーの中心的な関心事であることを表している。
両著者は、非譲渡原理を考慮に入れた際にも残る、インフォームド・コンセントをどのような場合に被験者に求めるのか、という問題をリサーチ方法から検討する。ここでは、極めて簡単に両著者の検討を纏める。
まず、両著者は次のような問題を提示する。すなわち、非譲渡権をもっともな形で期待し時には明示的に要求することは、オンライン上の共同体の研究者達が常にインフォームド・コンセントを求めるように彼らを拘束する厳格な規範として解釈されるべきなのだろうか?このことは、被験者に形式的な譲渡以上に危害を加えることが無いと思われるような、社会的に有益なある種の研究の進展を遅らせるであろう。そして、両著者はヘーリング(先述の「情報化社会誌」の論文投稿者)に従って、様々な種類のリサーチが、研究者と被験者との間にありうる関係の差異を含意し、結果的にリサーチ倫理における差異を含意すると述べ、以下のようにそれを分類する。
非譲渡原理を考慮すると、1と4においては、ある場合を除き、インフォームド・コンセントを被験者から得るのはほとんど不可能だとされる。しかし、両著者は、2と3の方法がオンラインという環境の下で、リサーチに先例のない新しい機会を与えると考える。というのも、電子的メディアであるオンライン上では被験者だけでなく、その研究者もヴァーチャル化され、相互方向のコミュニケーションが両者の間での対話を可能にするからである。つまり、これは、被験者が研究者と積極的な相互関係を持つのを可能にすることで、彼らを研究者の計画の協力者として参加させる新しいあり方を提示する。さらに、両著者によれば、こうした状態は、研究目標および研究方法を被験者の非譲渡権と見事に結合させる状況づけられた倫理学の手法を練り上げる新しい可能性を示す。
しかしながら、両著者は、この方法がまた新たな逆説を生起させると言う。 つまり、研究者は、研究対象であるグループからの提案に対してより公明で、敏感であろうとすればするほど、研究を始める前に明確な研究の問題点と手続きの提示を要求する学術検討委員や倫理検討委員に対して方法論および倫理の点で準備ができていないと思われることである。オンラインリサーチへの倫理的な取り組みは、そのような検討をされる以前に、研究者が研究対象であるグループと予備的に関与し、共に研究計画を立てるということを通して実践的に達成し得るものである。研究を始めるよりも前に、明確な研究計画を持ってなければならないとする現状に対して、両著者は、研究者と被験者の方法論的な創造性へより広い余地を与えるような新しい倫理的および管理上の正典が必要であると結論する。
最後に紹介者による簡単なコメントを付け加える。両著者は、オンラインリサーチに関する倫理的問題の核が私的領域と公共性にあるのではなくて、譲渡権にあると論じた。また、この考察から帰結する被験者に対するインフォームド・コンセントの問題もリサーチ方法を分類することにより解決しようと試みている。つまり、参加型リサーチと合意・理解型リサーチが両著者の論じる非譲渡原理とインフォームド・コンセントの問題を解決する方法として提出される。そして、この二つのリサーチ方法を考慮に入れた際の倫理的および管理上の現時点での問題を指摘する。
両著者の考察は的を射ていると思われる。加えて、両著者が提示する観察者と被観察者との間の倫理的ジレンマは困難なものである。つまり、観察者の立場からは自然経過的な観察が理想とされるが、この方法は被験者からインフォームド・コンセントを得るということを不可能にしてしまう。そこで、両著者は参加型リサーチと合意・理解型リサーチをこの問題の解決策として提示するわけであるが、これらのリサーチ方法がどこまで真実を語りうるのかは研究者の今後の課題として残るのではないだろうか。