本稿で紹介する論文は、CAP2000において開かれたシンポジウムでの講演が元になっ
ている。Ethics and Information Technologyはこのシンポジウムでの講演か
ら4人の講演をピックアップし、誌上シンポジウムという形で特集を組んでいる。特
集では4人のパネル講演および、学会後に寄せられた3人の記事をあつかっている。当
ニューズレターにおいては、この講演記事を月一で紹介した後に、各記事の内容を分
析し、今後のコンピュータ倫理学の方向性を吟味していきたいと思う。
第1回はダートマス大学哲学科教授ジェームズ・ムーアの講演を取り上げる。なお、
本記事を読まれるにあたって、ムーア教授の1985年の論文'What is Computer Ethics
' (in Metaphilosophy, Vol. 16 No. 4, 1985. 邦訳:「コンピュータ倫理学
とは何か」『情報倫理学研究資料集II』所収,児玉聡訳, 「情報倫理の構築」プロジェ
クト, 2000, pp.1-12)も参照されることをお勧めする。
出典:Moor, J. H., 'The future of computer ethics: You ain't seen nothin' yet' in Ethics and Information Technology 3: pp. 89-91, 2001.
ムーアによれば、コンピュータ革命は3つの段階に分けられる。導入期、普及期、 そして権力期である。現在、我々は前2段階を通過し、権力期に入りつつある。革命 が進むにつれ、コンピュータの性能およびコンピュータ同士のネットワークの拡大、 およびネットワークの通信速度が指数的に向上している。が、それと同時に、コン ピュータという道具の論理的順応性ゆえに、コンピュータアプリケーションの使用に 関して、指針の空白が増大するだろう。この指針の空白はさまざまな倫理的問題を生 み出している。ここにおいて、コンピュータ倫理学がその空白を埋め、倫理的基準を 決定するのに大いに寄与するだろう。コンピュータ倫理学の仕事は情報化革命の普及 期までで役目を終えるものではなく、これからますます増加するものだと予想される。 ビバコンピュータ倫理学!!
ムーアによれば、コンピュータ倫理学は将来のコンピュータや情報技術の発達に より、ますます重要な学問分野になる。ムーアのこの予想は、彼自身によるこの分野 の分析と事実に基づいた予測から引き出されている。
まず、ムーアは、コンピュータ倫理学の特異な点は、対象となる技術である、と
分析する。コンピュータは他に類を見ないほど普遍性の高い道具である。ムーアはこ
れを「論理的順応性」と呼ぶ。つまり、コンピュータは、それを意図して
デザインし、学習させ、発展させさえすれば、我々がコンピュータに望むことのほぼ
全てを可能にすることができる。しかし、この順応性が問題の元になっている。
コンピュータは今や我々の思いもしなかった分野に使用されている。そしてその結果、
次々に新しい利用法が作り出されていったが、多くの場合、その使用に対する適切な
指針が存在しないような、もしくはこれまで考えられたことがないほどに予想外の使
われ方をされている。すなわち、コンピュータ利用には「指針の空白」が存在し
ているのである。そのような中で我々は、自分たちの行為が倫理的に逸脱しない
ように指針を作り出さねばならない。すなわち、コンピュータ技術の新しい利用法が
ひとつ生み出されれば、我々は従来の技術に適用されていた指針に対してなんらかの
変更を加える必要に迫られるのである。コンピュータによって新生児の行動を監視す
る技術を例に取ろう。この技術は赤ん坊が成長した後でもその行動を監視することに
使用できるかもしれない。さらにはコンピュータチップを体内に埋め込むことによっ
て犯罪者を監視したり、企業においては、重要なプロジェクトに携わる従業員の行動
を監視することも可能になるかもしれない。同一の技術は様々な仕方で利用が可能で
ある。しかし、その全てが倫理的に許容可能であるとは限らない。我々はこの技術の
利用範囲を倫理的に制限し、指針を作らなければならないのである。
しかし、コンピュータ技術はしばしば、何が起こるか我々がまったく予想できないよ
うな状況を作り出す、という事実を考えた時、「指針の空白」を埋めるのはさらに難
しくなる。それゆえに、我々は指針を作る前に「概念の混乱」をなくさなけ
ればならない。例えば、仮想現実におけるユーザの表象である「アヴァタール」(例
:アイコンや3Dキャラクター)間の相互作用の可能性、というのを考えてみよう。現
実と想定されているアヴァタール間の約束や侮辱行為さらには性交渉は単なる虚構の
ゲーム以上に重要なものとみなされるのか、それともゲームに過ぎないのか。これら
の状況を我々がいかに考えるか、ということは我々がどのような指針を採用するか、
ということに大きな影響を与えるだろう。
ムーアによれば、コンピュータ倫理学の仕事とは、コンピュータ技術の本性と社会的
影響を分析すること、そしてコンピュータ技術の倫理的使用に対する指針の作成およ
び正当化を行うことである。従って、今後コンピュータ倫理学はますます重要なもの
になっていくことになる。コンピュータの新しい利用法は新しい指針の空白を生み出
し、それゆえ倫理的問題も生み出す。一般的に言えば、新しい利用法の数が増えれば
増える程、コンピュータ倫理学上の問題も増加することになるだろう。
この事実は、次の3つの疑似法則によってより明確になる。1つめは「ムアの法
則」である。これはインテルの共同創立者であるゴルドン・ムアが述べたもので、
「マイクロチップの処理能力は、ほぼ18-24月毎に二乗になる」というもので
ある。これは法則というよりは、一部彼自身の達成目標的な内容を含んでいるが、こ
の時間と処理能力の関係は近年では限り無く法則的なものに近付いている。
コンピュータ技術の中にはコンピュータの処理能力以上に急成長しているものがある。
それはバンドの大きさ、すなわち情報通信速度である。ジョージ・ギルダーによれば、
「バンドの大きさはコンピュータの演算能力の少なくとも3倍の速さで増大する」
(ギルダーの法則)。また、ロバート・メトカーフによれば、「ネットワーク
の価値は、ユーザが1人加わるごとに指数的に増大する」(メトカーフの法則)と
言われている。
これらを総合すれば、コンピュータの能力が指数的に増大するにつれ、指針の空白を
伴ったコンピュータの利用法もまた同様に増加し、コンピュータ倫理学上の問題も増
加する、ということが言えるだろう。ムーアにとってはまさに「コンピュータ倫理学
ここにあり!」と言うわけだ。ギルダーは著書『テレコズム』の冒頭で、「コンピュー
タ時代は終わった」と述べ、今後はバンドの大きさに革命の焦点を当てた。これに対
して、ムーアは「コンピュータ革命は終わっていない」と主張する。バンドの大きさ
をもっとも意味あるものにするのはコンピュータの基本的な特性である順応性なので
あって、革命のもっとも興味深い段階はこれからなのである。
ムーアはコンピュータ革命を3つの段階に分類している。それは、「導入期」(int
roduction stage)「普及期」(permeation stage)「権力期」(power stage)である。
導入期において、コンピュータ技術は少数のマニアのための実験的な道具だった。こ
の時のコンピュータはユーザ・フレンドリーでもなく、効率も悪かった。しかし、こ
の時期に様々な実験的デバイスが企画され、修正され、改善されたのも事実である。
先進国においては、第二次世界大戦から1970年代までがそれにあたる。
普及期において、コンピュータは人々の間に広まっていった。コンピュータを持つこ
とがある種のステータスであるという状況から、コンピュータの価格低下を経て、多
くの人がコンピュータを手にするようになった。コンピュータ技術はよりユーザ・フ
レンドリーになり、ユーザの側も洗練された。この段階は1980年から2000年まで続い
た。
コンピュータ革命の最終段階が「権力期」である。この時期になると全ての人がコン
ピュータ技術をもっていて、もはや技術の習得に関する困難はなくなっている。また、
誰もがコンピュータの使い方を知っていて、応用する際には誰に聞けばいいかも知っ
ている。ムーアはこの状況を「成功と葛藤」「闘争と不確実」の時代だと言う。つま
り、いかにして技術によって目的が達成されるか、誰が得をし、誰が損をするのかが
予想できないのである。ムーアは言う。「多くの人が新技術で武装している。しかし、
最終的に誰がコントロールするのか?」
指針の空白がもっとも問題になるのもこの段階である。というのも、多くの新規な利
用法が生み出されるのはこの段階だからである。多くのユーザがコンピュータを操作
可能になり、多くのユーザが技術によって操作されるようになる。サイバースペース
における権力問題を巡って人々が争うにつれ、多くのコンピュータ倫理学の問題があ
かるみになるだろう。
ムーアによれば、コンピュータ倫理学が今後も隆盛となる理由には次の2つがあげ
られる。(1)専門意識の増大と(2)コンピュータ技術の利用法の増加である。今後、コ
ンピュータ技術に対して専門家としての責任を意識するコンピュータ専門家の数は確
実に増加するだろう。コンピュータ使用をあらゆる側面からサポートするのにも専門
家は必要だし、倫理綱領を作成したり、専門家としての能力を審査するにしても必要
である。この点でのコンピュータ倫理学の将来は明るい。
また、今後さらなるコンピュータの利用法の多様化が指針の空白を生み出すだろう。
もちろん、コンピュータ技術以外の技術も指針の空白を生み出す。しかし、コンピュー
タ技術はその論理的順応性と使用の多様性から他の技術よりたくさんの問題を生み出
すだろう。この点でコンピュータ倫理学は「専門的」だと言える。
ムーアは本論を従来の倫理学とコンピュータ倫理学を比較することによって閉じ る。コンピュータ倫理学はしばしば誇大に語られ、しばしば過小に理解される。例え ば、コンピュータ倫理は従来の倫理学とは全く別個な倫理学理論を構築しうる、だと か、コンピュータ倫理は結局従来の倫理学に吸収されてしまう、というものである。 しかし、ムーアは正しい姿はこの中庸である、と述べる。コンピュータ倫理学の 眼目は、新しいコンピュータ技術によって生じた混乱を従来の倫理学の概念や原則で 調整することである。ムーアは次の言葉で本論を締めくくる。「将来の倫理学理 論はわかっている。しかしその理論は、来る将来におけるコンピュータ倫理学の仕事 によって再調整されるだろう。」
本講演で述べられているムーア教授の言う通り、今後、コンピュータ技術によっ
てますますコンピュータの利用法が多様化するのはほぼ確実と思われる。コンピュー
タ倫理学の行う仕事が、利用法の多様化によって生じる概念の混乱を取り除き、指針
の空白を埋めることであるならば、それこそコンピュータ倫理学の仕事は莫大なもの
になるだろう。ゆえに、コンピュータ倫理学の将来は明るい、と言えるのかも知れな
い。
しかし、ムーア教授が指摘している通り、これらの仕事は従来の倫理学原理を再調整
することによってなされる。そのためには、倫理学の基本原理、基本概念に精通した
上で、コンピュータ技術によってもたらされた変容がどのようなものであるか、正確
に把握しなければならない。従って、コンピュータ倫理学者は必然的に古典的な、そ
して現代の倫理学に習熟する必要があるだろう。また、コンピュータの持つ論理的順
応性を考えれば、コンピュータ倫理学者はあらゆる学問・技術の分野の知識を求めら
れることになるだろう。
コンピュータ倫理学には確かに輝かしい未来が待ち構えている。しかし、それは明る
い以上にチャレンジングな、厳しい状況を我々に課していることを忘れてはならない。