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ヒトES細胞研究に関する動向と倫理的問題

清水 万由子

1.はじめに

今年9月、文部科学省は「ヒト ES細胞の樹立及び使 用に関する指針を告示・施行した。ES細胞は生物のあらゆる組識に分化する能力を持 つとされ、将来的には医療などへの応用が期待されている。1998年にヒトES細胞が発 見されて人への応用が現実味を帯びてきた今、どこまで研究が許されるべきかという 倫理的な検討を必要としており、日本を含めた各国でES細胞の研究を規制する動きが 出ている。新聞・雑誌等でもES細胞に関する報道が行われているが、本報告ではそれ らの記事をよりよく理解するため、ES細胞と各国の対応について整理することによっ て問題点を明らかにしてみたいと思う。

2.用語解説

まず、ES細胞に関する生物学用語の簡単な説明を以下に記す。

胚 embryo

生物の受精卵が細胞分裂をはじめ、個体の基本的な構造を作るための細胞分化を終え るまでの状態をさす。ヒトの場合、受精して約14日で分化を始め、約8週間たつと組 織を作るための役割分担(分化の方向づけ)をほぼ終える。これ以後、胚は胎児と呼 ばれ、各部位の細胞はそれぞれの組織に分化していく。

幹細胞 stem cell

身体の組織をつくっている細胞を生み出す母細胞。分裂によって、自分と同じ幹細胞 と、特定の役割を持つように分化して組織を構成する細胞とを生み出す。このような 幹細胞の分裂を繰り返すことで、組織は常に新しい細胞を生み出している。よく知ら れているものでは、骨髄にある造血幹細胞(骨髄幹細胞)、皮膚の幹細胞、神経幹細 胞などがある。造血幹細胞を例にとれば、自分の複製をつくりながら赤血球や白血球 などの血液細胞をつくっている、ということになる。

ES細胞 embryonic stem cell

胚性幹細胞。胚を形成する細胞を生み出す母細胞。動物の初期胚(分裂を始めたばか りの受精卵)の中にある細胞を取り出し、培養して得られる。各々の細胞・組織をつ くる幹細胞をつくる胚を形成させる幹細胞、それがES細胞である。活発な増殖力と人 体組織への分化能力をもち、培養の条件によって単に増殖したり、又は特定の細胞に 分化したりする。胚が子宮に着床する直前に取り出した細胞からつくるので、ES細胞 を子宮に戻しても再び胎児として育つ能力はない。

体細胞クローン somatic cell clone

クローンとは、遺伝的に同じである個体や細胞(の集合)を指す。体細胞クローン は、動物の成体の体細胞(皮膚や筋肉など、生殖細胞以外の細胞)の核を未受精卵に 移植し子宮に戻してつくる。こうしてつくられるクローンの遺伝子は、体細胞を提供 した個体のものとほとんど同じであり、遺伝的なコピーといえる。1996年、イギリス で体細胞クローン羊ドリーが生まれ、哺乳類への体細胞クローン技術の応用が可能と なった。ここではヒトES細胞に関する問題を扱うため、以下では特に指定しない限り 「ES細胞」はヒトES細胞を指すこととする。

3.ES細胞が注目されるわけ

ES細胞は生物のすべての細胞に分化する能力を持つため、うまく培養すれば人体の一 部、あるいはすべてをつくりだすことができるかもしれない、と期待を寄せる人は多 いだろう。ES細胞や、ES細胞を使った研究を利用する具体例として、次のようなもの があげられる。

4.ヒトES細胞研究に関する倫理的問題

新聞紙上などで現在指摘されている、ES細胞研究に関する主な倫理的問題点を次にあ げる。

まず、ES細胞はヒトの胚を壊して取り出したものからつくるという点が問題となる。 胚はそのまま胎内にあればヒトとなる存在であるため、研究のためにヒト胚を壊した り操作を加えるのは許されないという反対意見がある。この問題は、胚は生命と言え るのかという問題から発生しているように思われる。それは、生命であるとしたらい かなる条件でも胚を壊すことは許されないのか、生命でないとしたらどこからが生命 なのかという問いに続くことになろう。

そして前述のように、ES細胞技術はクローン技術や遺伝子操作技術と併用すること で幅広い応用が可能になる。ところが、ES細胞のもとを取り出すためにヒトクローン 胚をつくることを認めてしまえば、クローン人間の産生につながりかねないと危惧す る意見がある。確かに、ヒトクローン胚の作製はクローン人間産生のステップである し、ES細胞技術の進歩によって医薬品や移植用臓器の「製造工場」としてクローン人 間をつくるという動機が発生するかもしれない。しかし、クローン個体産生の是非は ここではおいておくとしても、研究目的のヒトクローン胚の作製はクローン人間の産 生につながるという理由で禁止されるべきなのだろうか。

また、実際に研究を規制するには、研究によって得られる諸々の利益と倫理的危う さというモラルコストを天秤にかけたうえで判断するというのが各国政府の本音だろ う。それゆえ、利益と倫理の重み付けの違いが、次にあげる各国の対応にあらわれて くる。

以上をまとめると、(1)胚を壊すことは許されるべきか、(2)ヒトクローン胚 の作製はクローン人間の産生につながるから禁止されるべきか、(3)研究から得ら れる利益と倫理にどのような重み付けをするのか、となる。

5.各国のES細胞研究への対応

これまでに述べたことからもわかるように、ES細胞の研究は手放しに許されるべき ではない。今年になって各国でES細胞研究に関する規制の動きが相次いでいる。ここ では日本のものを中心に、イギリスとアメリカの規制の概要も紹介し、クローン技術 に対する規制を併記する。そして3カ国の方針と、4.にあげた(1)から(3)の 問題を照合させ、これらに対する考え方がどのようにあらわれているかについて、コ メントを加えてみたいと思う。

日本の場合

2000年11月:クローン技術規制法成立
http:// www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/honbun.pdf
クローンによるヒト個体の複製を禁止する。ヒトクローン胚や、人と動物の細胞を組 み合わせてつくる胚を人や動物の胎内に移植することを禁止する。それらの胚の取り 扱いは指針で別に定める。2001年11月現在、作製が認められるのは動物の胚に人の細 胞を混合させる「動物性集合胚」のみとする見込みだ。(文部科学省のクローン研究 指針案への、総合科学技術会議の答申)。

2001年9月:ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針告示
http:/ /www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/2001/es/010901.htm
指針は、以下のことを定めている。(筆者による抜粋)

(1)指針はヒト胚が「人の生命の萌芽」であると記し、「ヒト胚 は人権を認めるべき「人」であるとは言えないまでも、胎内で正常に発生を経れば 「人」となりうる存在であると解説している。研究に使用できる胚は不妊治療で使 わなくなった胚のうち、廃棄が決定しているものとされるが、受精卵の親である夫婦 が廃棄する決定を行えば、その胚をES細胞研究に使うことが許されるのだろうか。胚 を廃棄するという決定と胚をES細胞研究に使うという決定は無関係なはずであるのに 、廃棄される胚は使ってもよいが、そうでない胚はよくないとなぜ言えるのか。その 根拠ははっきりしない。ヒト胚を研究に使うこと自体に関する倫理的な根拠が明示さ れておらず、ES細胞は生殖細胞になる可能性もあることを考えると、規定に関する倫 理的な根拠が曖昧なまま研究が行われるのは危険ではないかと思う。
(2)指針では現段階においてクローン人間の産生につながらな いよう配慮されてい るが、慎重を期すためにヒトクローン胚の作製は認めていない。ヒトクローン胚の作 製についてはまだ徹底した議論が行われていないので、現段階で基礎研究に限定し ている間にきちんと検討することが必要だ。
(3)日本としては遺伝子研究で欧米諸国に先を越された二の舞を 避けようと、国内で研究実績をあげようとする方針だ。倫理的検討も行っているが、 研究推進の要請に引きずられている印象を受ける。

イギリスの場合

1990年:ヒト受精・胚研究法成立
ヒト胚を研究に使うことを許可制で認めた。クローンによるヒト個体の複製は禁じ、 生殖目的によるヒトクローン胚の作製や、治療を目的とするマウスなどのES細胞研究 も禁じられた。

2001年1月:ヒト受精・胚研究法改正
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/Bio/200101/23-1. html
クローン技術によってヒト胚を作製し、その胚を医学研究に使うことを認めた。これ によってヒトクローン胚からES細胞を培養することができる。一方、クローンによる ヒト個体の複製は禁止しつづける。研究は受精後14日までの未分化の胚に限定され、 ヒトクローン胚の研究からクローン人間作りにつながらないようにする。

(1)ヒト胚を研究に使用することは法で認められた。上院・下 院ともに圧倒的多数で可決されている。メディアが報道している法案に対する反対 意見は、クローン技術の応用に対するものが多く、胚を研究目的で壊するとに対する 反対意見はほとんど紹介されていない。この点については正しい情報が得られておらず コメントを加えることができないので、本報告では保留しておきたい。
(2)ヒトクローン胚の作製は未分化のままの胚を使用すること でクローン人間産生禁止に関する規定強化を図るという。ヒトクローン胚はクローン 人間につながらないようにすれば禁止する必要はないという判断なのであろう。しか しイギリス国内には、宗教界などからクローン人間に道を開くという批判があがった という。
(3)ブレア首相はイギリスのバイオテクノロジーにおける欧州 での指導的立場を目指しており、ヒトクローン胚を用いたES細胞研究がもたらす利益 に対する期待は非常に大きいようだ。

アメリカの場合

2000年8月:クリントン大統領(当時)がヒト胚研究を認めるガイドラインを発表
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/Bio/200008/24-1. html
クリントン前大統領はES細胞を用いた研究について、受精卵を破壊してES細胞をつく る研究については連邦政府予算を用いることが許されないが、すでにつくられたES細 胞を用いた研究については、連邦政府予算による支援が可能との方針を示した。

2001年7月:ヒトクローンの全面禁止法案が下院で可決
http:// cnn.co.jp/2001/US/08/01/house.bans.cloning/index.html
法案は、体細胞クローン技術の人間への応用を全面的に禁止し、クローン人間を誕生 させた者に最高で禁固10年、罰金100万ドルを科す。ヒトES細胞研究に使うヒ トクローン胚をつくることも認められない。ブッシュ大統領は法案の支持を表明して いるが、上院ではまだ意見がまとまっていない。

2001年8月:ブッシュ大統領がES細胞研究への連邦資金支給を一部容認
http://cnn.co.jp/2001/US /08/10/es.cell.bush/
ブッシュ大統領は就任直後から、2000年のクリントン前大統領の方針の継続を一時保 留し、再検討していた。私企業などの資金によって、すでに胚から取り出された細胞 か らの培養が進んでいる、既存のES細胞研究に対して連邦資金を支給する方針を発表し た。新しく胚を壊してES細胞をつくる研究には支給しない。

(1)ES細胞研究への助成に関してブッシュ大統領はクリントン 前大統領が方針を発表した当時、方針への反対を表明し、昨年の選挙戦でも「人間の生 きた受精卵を壊すような研究への予算支出には反対する」とES細胞研究への助成に 反対していた。結局、既存のES細胞の研究に限って助成することとなったが、 生きている胚を壊すべきではないという態度は貫かれていると言ってもよいのではな いだろうか。
(2)下院はクローン人間の産生とヒトクローン胚の作製をともに 禁止する法案を可決したわけだが、法案を提出した議員は「最初の段階から禁止しな ければ、クローン人間づくりは防げない」と述べている。
(3)クリントン前大統領は、法律でヒトの胚を傷つけるような研 究に政府の助成金を支出することが禁じられていたが、「命を助ける可能性のある研究 は避けて通れない」と支出を認めた。ブッシュ大統領はその方針に反対していたが、 結局ES細胞研究推進の必要性を主張する立場に妥協して資金支給を容認せざるをえな かった。とはいえ、他の2国に比べてアメリカでは倫理的問題を重視しようとする姿勢 が読みとれる。

6.最後に

以上のようにES細胞の研究には、まず倫理的な問題を乗り越える必要があるが、各国 とも技術の進歩に倫理的検討が追いつかず、どうしても「泥縄」的な対応になってい るという印象は否めない。バイオビジネスは今後最も注目される存在と言われてお り、研究開発競争は熾烈を極めている。日本でも、研究の進展と並行する形で、それ にひきずられない倫理的な検討がより一層必要ではないだろうか。


参考文献 大朏博善「ES細胞ー万能細胞への夢と禁忌」文春新書,2000年


(しみずまゆこ 京都大学文学部)
この記事終わり